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2024-02-09
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2018-12-24
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2020-11-20
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2024-10-20
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2025年6月25日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「「米不足」に足をすくわれた田沼政権、引き金となった「天明の大飢饉」を悪化させた最大の要因
■ 米の価値は「相対的」に低下
大河ドラマ『べらぼう』が描くのは18世紀の後半、老中・田沼意次が幕政を主導したいわゆる田沼時代である。この田沼時代に終焉をもたらしたのは、天明3〜7年(1783〜87)に起きた「米不足問題」であった。
【写真】田沼意次の墓所がある東京駒込の勝林寺
「天明の米不足問題」を理解する前提として、まず次のような社会情勢を押さえておこう。江戸時代に入り長かった戦乱が終わると、各大名らが非正規兵として大量に雇っていた足軽・雑兵は解雇され、農村や都市部に戻って生産人口に加わることになった。戦いで命を落とす者もいなくなったので、全国的に人口は増えていった。また、平和が続く中、各地では新田開発が進み、農業技術の改良とも相まって米の生産量も増えていった。
しかし18世紀に入る頃には、全国的に人口増加が頭打ちになったことで、慢性的に米がダブついて、米価が下がるようになった。また、商業経済が活発化したことによって、米の価値は「相対的」にも低下することになった。
ところが、幕藩体制は基本的には米経済を前提に成り立っている。大名や武士たちは、知行地から年貢として納められるなり、俸禄として支給されるなりした米を、必要に応じて換金しながら暮らしていたので、米では充分にモノを買えなくなってきたのだ。
結果として、幕府も諸藩も慢性的な財政悪化に悩まされ、さまざまな増収策を案出しなければならなくなっていた。田沼意次が重商主義的政策を進めようとしたのも、米以外の歳入を強化する必要があったからだ。
こうしたさなかの天明3年(1783)、東北地方を中心に襲った冷害に浅間山の大噴火などが重なって米が大凶作となり、史上最大級の飢饉が到来することとなった。その被害たるや甚大で、東北地方を中心に多くの農村が壊滅的打撃を受け、餓死者・病死者は推定13万人にも達するという凄惨な地獄絵図が現出したのである。
この時期、稲の品種改良と新田開発が進んだ東北地方では、江戸に多くの米を供給するようになっていた。ために、東北地方の凶作は江戸の経済をも直撃することとなった。
ただし、この天明の大飢饉という事件をひもといてゆくと、天候不順や火山の噴火といった自然災害だけが原因ではなかった事実が浮かび上がってくる。最大の問題は、東北諸藩の失政にあったのだ。
まず第一の要因として、前年の天明2年が全国的に不作傾向だったことへの、東北諸藩の対応があった。天明3年に入ると江戸など大都市圏で米価がジリジリ上がりはじめ、財政難に悩んでいた東北諸藩の多くは、これを見て領内にあった米の在庫を洗いざらい集め、高値で売り抜けるべく江戸へ回送した。そこへ冷害が襲ったことにより、領内の米が一気に払底したのである。
第二に、特産品専売政策がある。もともと農村では米と並行して、麦・稗・粟といった雑穀類を栽培していた。年貢として納めたり現金収入を得たりするための米に対して、自家用にするためでもあったが、冷害に備えた「救荒作物」としての意味合いもあった。
ところが18世紀後半になると、諸藩は財政再建のために特産品の栽培を奨励し、専売品として藩で買い上げる政策を進めるようになる。藩によっては奨励というより、ほとんど強制的に農民に大豆などを栽培させ、洗いざらい買い上げたりしていた。地域によっては、この政策によって雑穀類の作付面積が激減して救荒作物の用を為さなくなり、焼き畑の無節操な拡大によって、猪など害獣の大発生を招いたりしていたのだ。
■ 「天明の大飢饉」は天災が原因ではない?
天明の飢饉をもたらした要因の第三として、米の品種の問題がある。伝統的に農村では、早稲・中稲・晩稲(おくて)などさまざまな品種を作付けすることで、天候不順などへのリスクヘッジとする慣行があった。ところが、米が都市圏で消費される「商品」としての性格を強めた結果、味がよく収量の大きい(=商品価値の高い)晩稲品種に作付けが偏りがちとなっていたのだ。
以上のように、第二(救荒作物の減少)、第三(米品種の偏り)といった現象が進んでいたところに、第一(藩による米の回送)が重なり、そこへ冷害が襲ったために、農村社会がひとたまりもなく飢饉が起きたのである。
つまり、凶作そのものは冷害や火山噴火に起因する天災ではあったが、飢饉はむしろ人災の要素が強かったことになる。実際、東北地方でも飢饉の実情は藩によって異なっており、上杉鷹山が改革を進めていた米沢藩や松平定信の白河藩では、凶作には見舞われたものの餓死者もほとんど出さずにすんでいる。天明の大飢饉は、人災どころか失政に起因する「政災」とすらいえるのだ。
さて、このころ江戸では、もともとの物価高に加えて米価が高騰したため、田沼政治に対する不満がふくらんでいった。一方、成り上がり者の意次を快く思っていなかった譜代大名たち(老中・若年寄を出す家)は、松平定信を旗頭とする「反田沼派」として結集し、追い落としの機会を窺っていた。
天明4年(1784)、意次の息子の意知が江戸城中で刺殺される事件が起き、これをきっかけに人心は意次から離れはじめた。同6年8月には将軍家治が死去し、後ろ盾を失った意次は老中職を辞した。
とはいえ、この時点では意次が登用した「田沼閥」の者たちが、未だ幕府内の要職に多くとどまっており、意次の権勢が崩壊したわけではない。そんな彼に最終的な止めを刺したのが、「米不足」だったのである。
すなわち、天明6年(1786)が全国的に再び凶作となったことから、同年末には米価が高騰しはじめた。先年の大飢饉で痛い目にあっていた東北諸藩は、今回は歳入がなくなるのを承知で江戸への米回送をやめ、領内に留め置く方針をとった。にもかかわらず、一部の商人が米の買い占め・売り惜しみをしたために、江戸では米価が急騰し、翌天明7年の5月には江戸市中でも大規模な打ち壊しが起きるに至った。
打ち壊しとは、庶民が蜂起して商家や代官所などを襲う行為であるが、家財などの破壊が主で、略奪を伴うことはほとんどない。つまり、庶民による社会的制裁なのである。松平定信らの反田沼派は、こうした事件の原因は意次の失政にあるとして糾弾し、意次は領地のほとんどを没収されて完全に政治生命を絶たれることになった。
以上のように見てくると、米不足や飢饉は決して単なる自然災害でなく、社会経済現象であることがはっきりする。天明年間の場合だと、それは田沼意次から松平定信へという政権交代をもたらした。
すでに白河藩主として、天明3年(1783)の飢饉を乗り切る「実績」をあげていた松平定信が、重商主義的な田沼政治を否定して寛政の改革を始めるのは必然の流れであった。また、諸大名(とくに譜代大名たち)がそうした政策転換に期待したのも、当然といえよう。
あらためて現今の「令和の米不足」を見るならば、それが単なる天候不順の所産ではなく、多く失政に起因することは、すでに多くの国民が知るところとなっている。にもかかわらず、失言で更迭された大臣はいるが、いまだ何びとも、またいかなる組織も、責任を追及されてはいないのである。
西股 総生
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