🏯83)─2─村八分は明治以後の日本でそれ以前の江戸にはなかった。~No.160 

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 現代の日本人と明治の日本人と江戸の日本人は、三者三様で、別人のような日本人である。
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 2024年1月17日6:53 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「明治維新」以前以後の「大きな差」…「村八分」という現象は昔はなかった
 民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その主著のひとつ『忘れられた日本人』には何が書かれているのか。いったい何を問うていたのか。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
 宮本常一の思想とは、『忘れられた日本人』の現代的意義とは――。編集者・若林恵氏と民俗学者・畑中章宏氏が、「忘れられた日本人」と「民主主義」の新たな姿をさがす。
 ここでは、『宮本常一 歴史は庶民がつくる』と『実験の民主主義』の必読副読本として誕生した『『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー』の「反作用 reaction」のパートを特別公開する。
 若林 『忘れられた日本人』という本をつくるにあたっての宮本常一のモチベーションは、いったいどこにあったと畑中さんは見ていらっしゃいますか。
 畑中 これも書誌的な話になってしまいますが、『忘れられた日本人』に収録されている文章の大半は、『民話』という雑誌に連載されていたものです。『民話』は、『夕鶴』で有名な劇作家・木下順二が中心となって運営されていた「民話の会」のいわば機関誌でした。
 『夕鶴』という作品名からもわかる通り、木下は、日本の民話を近代演劇として脚本化し舞台化することに果敢に取り組んだ人でした。つまり、民話を戦後社会のなかにどう位置づけ直すことができるかという問題意識をもち、それを雑誌のかたちで展開したのが『民話』でした。
 『民話』の成り立ちについては、拙著『『日本残酷物語』を読む』で事細かに記載したので、ここでは割愛しますが、大きな流れだけざっくりと説明しておきますと、戦後日本において、例えば民話のようなフォークアートを熱心に掘り起こしたのは実は左派の人たちで、そうした流れのなかから、のちに網野善彦さんにつながっていくような歴史学の一派が発展していくこととなります。『民話』という雑誌も、こうした左翼的な運動のなかから出てきたものと言えます。
 宮本常一がそこに参加した動機としては、『民話』という雑誌の立ち位置は意識しつつも、木下順二などのやり方とはまた違ったアプローチで、自分なりに「民話」を考えたいということがあったのだろうと思います。面白いのは連載時のタイトルで、「忘れられた日本人」ではなく、実は「年よりたち」というものでした。
 若林 それは興味深いですね。
 畑中 いまでは、『忘れられた日本人』という魅力的なタイトルにすっかり覆い隠されてしまっていますが、連載時に「年よりたち」だったのはとても重要なことだと思います。
 「年よりたち」というのは、民俗学の用語でいうと「古老」のことですが、宮本のここでの興味は、まず年寄りたちがその時点において、ある共同体においてどういう役割を果たしてきたかという点にあります。それに加えて、そうした年寄りたちのもっている民話的世界が、現在の生活とどのように地続きになっているのかということが宮本の最大の関心事でした。
 ここで言う「年より」は、必ずしも「年老いた人」を指しているのではなく、むしろ「さまざまな経験を積んだ人」という点に力点があるのだとわたしは思っています。かつての共同体的世界で多くの体験を積み重ねた人たちでありつつ、近代化がもたらした変化も経験している。宮本は、そのふたつの時代のなかでの経験を積んだ人たちを「年よりたち」と呼んだのではないか。そこには、いわゆる明治維新という過渡期の経験を語れる人がどんどんいなくなってしまったことに対する危機感が反映されてもいたと、宮本自身が書いています。
 若林 近代化以前と以後の差分を明らかにしたいということでしょうか。
 畑中 そうですね。例えば、宮本常一は、「村八分」という現象あるいは事態は、近代化以前の近世の時代にはなかったという言い方をしています。
 若林 近代以降に一般化したものだと。
 畑中 「村八分」という仕組みは、近代以降に法律というものが浸透していくことを通じて一般化していったものだと宮本は考えていました。それ以前は村八分というものはなくて、共同体のしきたりを守らない人であっても、ある種の包摂の仕組みがあったと言うんですね。
 若林 「包摂」といえば、畑中さんは『宮本常一』のなかで、宮本常一が子どもの頃に読んだものとして、日本の農村社会の姿を近代文学の建てつけをもって描いた作家・小山勝清の小説風の一編を紹介していました。畑中さんの文章をちょっと引用しますと、こんな内容です。

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 村人たちが少し頭のよくない乞食の女を、罵ったり石を投げたりしていじめていた。大家の息子がそれをみかねてたしなめると、村人たちは乞食の女をいじめなくなった。大家の息子がよいことをしたと思っていると、女が来て、「村人がからかわなくなると同時になにも食べものをくれなくなった、私は途方にくれています」と訴えた。
 いじめたり、からかったりするのは関心をもっているということであり、だから食物も与える。からかわないことは無視すること、度外視することで、虐げていると見えるもののなかに連帯意識がある。この話は宮本の心を強く打った。(畑中章宏『宮本常一』)

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 わたしは、実は『忘れられた日本人』は、ずいぶん昔に適当に読んだきりで、そのときは恥ずかしながら何の印象も残らなかったのですが、今回畑中さんの新書を片手に改めて読み直してみて考えさせられたのは、例えば、一見後進的に見えるこのような「包摂」のあり方をどう捉え直すことができるのか、ということでした。
 それを考える上で重要かなと思ったのは、いま畑中さんが「村八分」について話されたように、伝統社会・民俗社会についてわたしたちが自明のことと想定している事柄が、実は近代化のなかでつくられた、いわばフィクションであることが少なからずあるのではないかということです。そして、『忘れられた日本人』には、一貫してそうしたものへの批判的な視点があると感じました。
 つづく「多くの人が意外と気づかなかった、東日本と西日本の「決定的な違い」」では、宮本常一がなぜ「名倉」(愛知県北設楽郡旧名倉村。現・設楽町)という土地を取り上げたのか、家父長制に基づく統治構造が東日本に色濃いという指摘、村落共同体をどのように捉え直そうとしたのかなどについて掘り下げる。
 若林 恵(黒鳥社コンテンツディレクター)/畑中 章宏(作家)
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 ウィキペディア
 村八分(むらはちぶ)とは、村落(村社会)の中で、掟や慣習を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つこと(共同絶交)である。転じて、地域社会から特定の住民を排斥したり、集団の中で特定のメンバーを排斥(いじめ)したりする行為を指して用いられる。
 概要
 江戸時代における、村落共同体(ムラ)の自治的制裁として著名なものであるが、自治的制裁自体は、罪の軽い順で罰金・絶交・追放という三つがあった。広範には、最も軽い罰金が適用された。一方で、絶交と追放は家そのものをムラの成員として認めない制裁であり、非常に厳しいものであった。追放となると、完全にムラの外に追い出し近隣での居住を認めないものもあったが、多くは道祖神などで区切られた村界の外へ追放し、さびしい一軒屋の生活を送らせるものであった。
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2018-01-22
🏯6)─1─悪意に満ちた徳川暗黒史観。~No.10No.11・ @ 
2022-08-17
🏯58)─1─江戸時代は大開墾で人口が増加した。百姓とは副業を持つ人々であった。~No.109No.110 * 
2022-07-10
🏯59)60)─1─大名にとって百姓は手を出しづらい嫌な相手であった。隠し田。隠れ里。~No.111No.112No.113No.114 * 
2022-08-23
🏯62)63)─1─百姓と村高。村請。ムラ共同体とムラ民主主義はマルクス主義の仇敵。~No.117No.118No.119No.120・ @ 
2023-05-31
🏯64)65)─1─日本民族の歴史には「庶民」が主役の歴史がある。~No.121No.122No.123No.124 
2018-08-14
🏯75)76)─1─日本の庶民は、昔からお上・御公儀の理不尽さには泣き寝入りせず楯突いていた。阿波踊り。~No.143No.144No.145No.146・ @ 
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 精選版 日本国語大辞典村八分」の意味・読み・例文・類語
 むら‐はちぶ【村八分
〘名〙
① 江戸時代以降行なわれた私刑的な慣習で、村のおきてに違反した者に対して、一切の取引・交際を絶つこと。「はちぶ」については、喪事・火事の二つの場合だけは例外とするところからいうとする説や、仲間からはずす、はねのけるなどの語からきたものであるとする説などがある。むらはずし。むらはじき。むらはね。
※俳句の世界(1954)〈山本健吉〉二「この秩序の攪乱者は、村八分の制裁を受けねばならなかったのである」
② 転じて、一般に仲間はずれにすること。
※新西洋事情(1975)〈深田祐介〉植民都市歓迎の背景「田舎者根性のもうひとつの特色は、いわゆる村八分を生みだしたりする、共同体志向ということなんじゃないか、と思うんですが」
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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 改訂新版 世界大百科事典 「村八分」の意味・わかりやすい解説
 村八分 (むらはちぶ)
 日本の村落社会において伝統的に行われてきた制裁の一種で,ムラの決定事項に違反した人物なり家との交際を絶ち,孤独な状態に追いやるもの。より一般的には,村落社会で執行されてきた制裁の総称。〈村八分〉とは,家々の重要な交際の機会10種類のうち,火事と葬式をのぞく8種類の交際を絶つことからいうのだとする俗説が広く流布しているが,根拠はない。ハチブはハブクとかハズスという言葉と関連するものと思われる。ムラがムラの秩序を破った者に対し一定の制裁を加えることは古くから行われてきた。中世の惣村(惣(そう))の掟にも制裁に関する条項がみられ,近世の村法(そんぽう)や明治以降の村規約の中にも多く発見できる。
 制裁の種類としては,罪の軽い順で罰金,絶交,追放という三つがある。もっとも広範に現在なお行われているのは罰金であるが,その歴史は古い。比較的軽い制裁であり,ニワトリを放飼いにした場合,共有山へ規定以外の道具を携帯して入った場合など,個別の行為に対してである。それに対し,絶交と追放は家そのものをムラの成員として認めない制裁であり,非常に厳しいものであった。しかも,絶交の場合,茜頭巾(あかねずきん)をかぶらせたり,縄帯(なわおび)をつけさせるという付加的な制裁を加えることもあった。追放は絶交よりもさらに厳しいもので,完全にムラの外に追い出し,他村へ流れていくようにしたのもあるが,多くは道切りや道祖神で守られた平和で安全なムラの中から村境の外へ追放し,さびしい一軒屋の生活を危険な空間で送らせるものであった。絶交にしても追放にしても,制裁を受けた家は孤独な生活を送らねばならなかったが,不安な生活を長く続けることは事実上困難であり,一方で絶交,追放という制裁に期間が定められるということがほとんどなかったことは,制裁がそれほど長期間でなかったことを示している。制裁された家が改悛してムラの秩序と連帯が回復すれば,制裁の目的は達成されたのであり,謝罪したりわびを入れれば制裁は解除された。
 村八分に代表される村落社会での制裁は,ムラの秩序維持のためのものであり,ムラの秩序を無視したり,壊したりする者の出現を前提としており,ムラの強固な連帯や結合そのものを示すというよりも,村落秩序の動揺が現れたものと理解される。ムラにおける制裁は近世の年貢村請制のもとで有効な役割を果たし,領主にとっても危険な存在ではなかったが,明治以降の一元的な国家法のもとでは認めがたい存在として否定され,ムラでひそかに行われる陰湿な制裁に転化した。そして,第2次大戦後の人権意識のたかまりのなかで,しばしば村八分が社会的問題となり,ムラの封建性として糾弾された。村八分はすでにムラの連帯を保つために存在するのではなく,多数派が少数派を,あるいは全体が自立した個を否定し,押さえ込もうとするために発動するものとなり,その末期的姿を示しているといえよう。
 執筆者:福田 アジオ
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「村八分」の意味・わかりやすい解説
 村八分 むらはちぶ
 村社会の秩序を維持するため,制裁として最も顕著な慣行であった絶交処分のこと。村全体として戸主ないしその家に対して行なったもので,村や組の共同決定事項に違反するとか,共有地の使用慣行や農事作業の共同労働に違反した場合に行われる。「八分」ははじく,はちるの意とも,また村での交際である冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の 10種のうち,火事,葬を除く8種に関する交際を絶つからともいわれ,その家に対して扶助を行わないことを決めたり,村の共有財産の使用や村寄合への出席を停止したりする。八分を受けると,共同生活体としての村での生活は不自由になるため,元どおり交際してもらう挨拶が行われるが,これを「わびを入れる」という。農業経営の近代化に伴い,各戸が一応独立的に生計が立てられるようになってからは,あまり行われなくなった。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 
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 山川 日本史小辞典 改訂新版 「村八分」の解説
 村八分 むらはちぶ
 江戸時代を中心として共同体の秩序維持のために村によって行われた制裁行為。暴行・窃盗などの刑事犯や村落共同体の秩序を乱す者に対して,火事と葬儀以外の日常的交渉を断絶させること,すなわち残りの八分の村内の日常的な交際関係を絶つということにその名の由来があるとされる。さまざまな迫害行為をともなうこともあった。改悛があったときには詫びをいれさせ,謝り酒を出させるなどの手続きで解除された。近代国家成立後は減少したが,遺風として残された場合もある。村ハジキ・村ハブキ・村ハズシ・村ヲ除ク・惣トシテハズスなどの呼称がある。
 出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について
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 2020年4月18日 東洋経済オンライン「「村八分」日本人が意外と知らない本当の意味
 感染症の恐怖からうまれた「言い伝え」とは
 吉川 美津子 : 社会福祉士
 「村八分」から「火事」と「葬儀」が漏れた理由とは?(写真:Cotswolds/PIXTA)
今、私たちはこれまで経験したことのない新型コロナウイルスという魔物に脅かされる日々を送っています。
 しかしこれまで人類は、幾度となくこうした疫病と戦い乗り越えてきました。世の中が騒がしくなると、さまざまな信仰がうまれ、各地で祭祀が営まれていきました。疫病や死に対する恐怖から、各地でしきたりや迷信がうまれ、慣習として今日まで伝承されているものも数多くあります。
 もちろん昔の慣習が現代にそのまま当てはまるわけではありませんが、「なぜそのように言われているのか」という考え方はどこか今に通じるものがあるような気がします。
 「死者に夜通し付き添った人」が謹慎する理由
 通夜といえば、現代では親しい人とのお別れの場として儀式が行われるものですが、もともとは死者の側に近親者が夜通し付き添う行為のことで、夜伽(よとぎ)とも言われていました。
 通夜において死者と共に過ごした人は、一定期間(7日~10日程度)の忌みがかかるとして、外に出ることは許されず、喪家で過ごすこととされていました。
 それを「忌み籠り(いみごもり)」といいますが、死をもたらした原因が何かわからなかった時代では、死者の周囲から感染が広がっていくという事実に対し、「忌み籠り」という言葉を使って一定期間の謹慎を強いていたのかもしれません。
 なお、夜通し故人の側にいる理由として、「寂しくないように」、「死者の魂に寄り添って生き返ることを願う」など諸説ありますが、中でも死臭を察して寄ってくる野獣から守るため、という説は現実味を帯びているのではないでしょうか。
 また「線香やロウソクを絶やしてはいけない」ともいわれますが、これも「故人が成仏できるように」という願いだけではなく、野獣除け、虫除け、死臭を消すため、という目的もあったと言われています。
 通夜や葬儀・告別式の後、「通夜ぶるまい」や「精進落とし」「精進上げ」と称される食事が振るまわれる地域が多いと思います。
 こういった一連の葬送儀礼の中での食事については、喪家は口を出さず、隣近所にまかせるという方式をとっていた地域が多くあるのですが、これも得体の知れない疫病と無関係ではなさそうです。
 家族は故人と生活を共にし、納棺・通夜などを通じて密接な関係にあります。その家のかまどを使い、今でいう「濃厚接触者」である家族が料理をすることは衛生的にNGだったのでしょう。
 通常用いる火とは別の火を使用することを「別火(べっか)」といい、通夜ぶるまいや精進落とし等でふるまわれる料理は、他家で準備されるものでした。また喪家とは別のかまどで炊いた握り飯を持参するところもあったそうです。
 村八分から「火事」と「葬式」が漏れた理由
 村八分とは、村社会の秩序を維持するために行われた処分のことで、共同決定事項に違反したり、共同労働を行わなかったり、あるいは犯罪行為をはたらいて秩序を乱した場合など、その家に対して交際を絶つなど人付き合いが制限されました。
 八分とは冠・婚・建築・病気・水害・旅行・出産・年忌の8種のことで、これらは制裁が加えられる対象となるわけですが、残りの2種である火事と葬儀は別とされていました。
 火事は、村全体へ火が回ってしまったら自分たちの生命や財産が危うくなるから、葬儀は村人への疫病の伝染を防ぐため、やむをえずであっても助け合わなければいけないというものです。
 家族は、臨終から通夜等を通じて故人の側にいるため、感染症が原因であれば「濃厚接触者」である状態です。自分たちで葬儀の準備等を行い家の外に出ることによって、感染が拡大してしまうことも考えられるでしょう。死体の処理ができず放置されてしまったら、さらに事態は悪化してしまいます。
 若い男性は墓穴を掘り、女性は台所でまかない仕事などを分担します。こうして死穢(しえ)を遠ざけようとしていたのでしょう。
 一定期間の忌み籠りが終わることを「忌明け(いみあけ)」といいますが、かつてはこれをヒアケと呼ぶ地域がありました。ヒアケは「火明け」と書きますが、これをもって近隣の人と喪家が同じ火を使って調理することが可能となるそうです。それまでは死穢のある家の火を他人の家の火と混ぜると死穢が伝染し、拡散していくと考えられたのでしょう。
 このように一定期間を過ぎると、死者を不浄視するような物理的条件が取り除かれていきます。戦国時代では、家族の死後数週間は主人の館に出仕できず、その期間が過ぎると衣服を着替えて参上したとか、漁村では四十九日を過ぎると漁が解禁になるというところもあったようです。
 また、四十九日餅といって、四十九日にお供えされるお餅もあります。これは喪家でついた餅で、これを隣近所に分けたり、寺や墓に持っていくことで喪家にかかっていた穢れは解かれるというもの。霊的な恐怖というより、目に見えない疫病から一定期間遠ざけるための方法として、先人たちが生み出した知恵なのかもしれません。
 なぜ塩が「穢れ」を払うのか?
 『古事記』にはイザナギノミコトが海で禊祓い(みそぎはらい)をした神話から、塩は民間信仰のひとつとして「清め」のシーンで多く使用されていました。
 塩そのものに殺菌性や防腐性はありませんが、塩を使うことによる作用により殺菌・防腐の効果が認められることもあります。そのため、昔の人は葬儀を終えた後、疫病を遠ざけたいという意味で塩を身体に振りかけたり、塩を踏んだりしてから家に入っていたのかもしれません。
 他にも米、味噌、大豆、魚、餅、団子などを食べることで「清め」とする地域もあります。また小豆も赤飯や煮豆、粥といったものに形を変え、葬送儀礼のシーンでは広く食されていました。これらを食することで残された人がしっかり力を蓄え、免疫をつけておきたいという願いが込められていたことも伺えます。
 土葬の場合、埋葬するためには穴を掘る作業が必要となりますが、穴掘り役は多大な労力を費やすだけではなく死体に接することから、身体を守るためにさまざまな工夫がなされ、そこからしきたりが生まれました。
 穴を掘る人は、精力をつけるため握り飯や豆腐などを持参したり、届けられたりもしたそうです。酒を持っていくところもあるのですが、これは消毒の意味もあるのかもしれません。また、必ず火を焚きながら掘るというところもあります。
 なお、持参したり届けられた握り飯や酒は、残さず食するか、そのまま置いて帰ります。穴掘りに使用した道具も持ち帰らずに、そのまま墓地に一週間程度置きっぱなしにするそうですが、これも感染症対策と無関係とは言い切れないような気がします。
 ちなみに現在でも、火葬場に持っていったものや、火葬場で購入したものを持って帰ってはいけないと言われているところもありますが、こういったしきたりの名残ではないでしょうか。
 【参考文献】
 『民俗小事典 死と葬送』 編:新谷尚紀・関沢まゆみ(吉川弘文館
 『知れば恐ろしい日本人の風習』 著:千葉公慈(河出書房)
 吉川 美津子 社会福祉士
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 2024年1月17日6:53 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「多くの人が意外と気づかなかった、東日本と西日本の「決定的な違い」
 東日本に色濃く見られる特徴とは?
 若林 恵
 黒鳥社コンテンツディレクター 
 畑中 章宏
 作家 /民俗学者
 民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その主著のひとつ『忘れられた日本人』には何が書かれているのか。いったい何を問うていたのか。
 宮本常一の思想とは、『忘れられた日本人』の現代的意義とは――。編集者・若林恵氏と民俗学者・畑中章宏氏が、「忘れられた日本人」と「民主主義」の新たな姿をさがす。
 ここでは、『宮本常一 歴史は庶民がつくる』と『実験の民主主義』の必読副読本として誕生した『『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー』の「反作用 reaction」のパートを特別公開する。
 前回はこちら:「明治維新」以前以後の「大きな差」…「村八分」という現象は昔はなかった
 若林 近代の反作用のなかでつくられたイメージについていうと、一番具体的な指摘は、「名倉談義」の松沢喜一翁の談話の最後に出てくる、「結婚」をめぐる話ではないでしょうか。
 {親におしつけられた嫁というものが七十年まえにありましたろうか。この村にはありません。よい仲をさかれたというのはあります。知らん娘を嫁にもらうようになったのは明治の終頃からでありましょう。その頃になると遠い村と嫁のやりとりをするようになります。おのずと、家の格式とか財産とかをやかましく言うようになりました。それから結婚式がはでになって来たので……。それはどこもおなじことではありませんかのう。(宮本常一『忘れられた日本人』。以下、本書のみ著者名を省略)}
 また、このことと関連して、なぜ「名倉」(愛知県北設楽郡旧名倉村。現・設楽町)という土地を取り上げたのかという点について、宮本常一はこうも書いています。
 {日本の村には大きい地主が土地の大半を持ち、小作人の多い部落と、所有地が比較的平均している部落と二つのタイプがある。後者の場合仮に一時地主が発生しても、それが育たない場合がある。地主と小作の分化している村は面白がって皆調査するが、後者のような平凡な村はふりむく人がすくない。そこで私はそういう村に目をとめて見ようとしているのであるが、村(部落)の数からすると、あるいはこの方が多いのではないかとさえ思う。(同前)}
 畑中 なるほど。前の引用は、まさに、農村が近代化していくにつれて、逆に婚姻の習俗のなかで、それまではなかった家柄や格式といったものに重きが置かれるようになったという指摘ですよね。
 明治維新を経て日本が近代化していく過程で、崩壊したはずの武家社会の慣習が庶民の生活のなかで規範化され、それが明治に制定された「家」制度を補完していくことになったのは、よく指摘されることだと思います。そして、その過程で、農村共同体を「家父長制」をもって理解することが広まっていき、それがあたかも事実であるかのようにして戦後まで引き継がれてしまった。そのことへのアンチテーゼとして、宮本は名倉のような場所を調査対象として選んだということですね。
 補足しておきますと、いわゆる家父長制に基づく統治構造について宮本は、それが東日本に色濃く見られる特徴だとしています。ですから、『忘れられた日本人』は結果的に舞台となった土地が西日本に偏っています。岩波文庫版の解説で網野善彦さんは、こう解説しています。
 {戦後、寄生地主制や家父長制が「封建的」として批判されたことが、農村のイメージをそれ一色にぬりつぶす傾向のあった点に対し、西日本に生れた宮本氏は強く批判的であり、それを東日本の特徴とみていた。この書にもそうした誤りを正そうとする意図がこめられていたことは明らかで、それは十分成功したといってよい。ただ逆に現在からみると、ここで語られた村のあり方が著しく西日本に片寄る結果になっている点も、見逃してはならぬであろう。(網野善彦「解説」・『忘れられた日本人』岩波文庫)}
 若林 網野さんがおっしゃる通り、「地主と小作人によって階層化された家父長制にもとづく血縁共同体」としての「村」のイメージを覆そうという意図は、わたしもかなり強く感じました。そのような「村」はあったとしても、むしろ特殊な例にすぎないと、先の「名倉談義」でも宮本は明確に述べていますし、「文字をもつ伝承者(二)」でも、ほとんど怒りすら感じとれる語調でこう書いています。
 {学者たちは階層分化をやかましくいう。それも事実であろう。しかし一方では平均運動もおこっている。全国をあるいてみての感想では地域的には階層分化と同じくらいの比重をしめていると思われるが、この方は問題にしようとする人がいない。実はこの事実の中にあたらしい芽があるのではないのだろうか。古い地主の生活をみることも大切であるとともに、そういう財産平均化の姿もみたいと思って、北神谷付近の部落のようすについてきいた。(『忘れられた日本人』)}
 ここでいう「階層分化」は、地主と小作人の間にあるヒエラルキーのことですが、わたしの印象ですと、宮本常一は、ヒエラルキーが生まれそうになってもなぜか平均運動が起きて、強い縦の権力構造が生まれない「村」のありように強い興味があって、それがなぜそうなるのか、それが起きる条件はいったい何なのかを、さまざまな角度から考えてみたというのが『忘れられた日本人』なのではないかと感じます。日本にかつてあった村落共同体を、いわば「デモクラティックな空間」として捉え直すといいますか。
 ただ、網野さんが、なぜ「西日本に片寄る」ことを、それとなく批判したのか、その理由がわたしにはよくわかりませんでした。体制に対するオルタナティブなモデルを西日本に見ることができる、と語ることの何が問題なんでしょう。「そういう本なんだから、それでいいじゃんか」と思ってしまったんですが。
 畑中 『忘れられた日本人』という本は、ただの調査報告の羅列ではなく、宮本が初めて一般向けの書籍としてまとめた本なので、非常に戦略的で、かなり明確な意図をもって編まれています。そのことによって、学術性という観点から見れば偏りの多い本になっているとも言えますが、同時に、それが、この本の「古びなさ」につながっているのだとも思います。
 【イベント情報】
・1/26 【MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店】 畑中章宏×若林恵×福嶋聡『『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー』刊行記念トークイベント
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・2/20【ジュンク堂書店池袋本店】宇野重規×畑中章宏×若林恵『『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー』刊行記念トークイベント
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