♨2)─1─日本の庶民は自由に移動・旅をする民であった。~No.2 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 乱世の戦国時代から平和な江戸の大開墾時代にかけて、人々の身分・階層の大変革が起き、日本の総人口が増加した。
 江戸初期の1600年は約1,200万人だったのが、江戸後期の1868年には3,000万人になっていた。
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 江戸時代初期。諸大名は合戦で領地を広げられなくなった為に石高を上げる為に新田開発が行い、領内はおろか江戸・大坂・京都などに移住者を募り、身分・出自に関係なく、たとえ賤民(非人・穢多{えた}・乞食)であっても受け入れ田畑を与えて百姓とした。
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 2023年12月2日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本人がじつは知らない、庶民は「移動が多かった」という「意外すぎる事実」
 「宮本常一民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が発売たちまち4刷となり、幅広い読者を獲得している。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
 ここでは、宮本が日本人の「移動」からみた列島文化について紹介する。
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 「移動」からみた列島文化
 日本人は、稲作に携わってきた人口が統計的にも多数を占めたことから、移動が少なかったようにみられがちである。
 しかし、宮本が記録した庶民は、移動する人びとが目立つ。それは、宮本の故郷である周防大島が、国内外を移動してきた人びとが多い島だったからである。そうした移動者の一端は、『忘れられた日本人』のなかにも描き出されている。
 1950年(昭和25)、学術調査団の一員として対馬を訪れた宮本は、島の南端、豆酘の浅藻(現・長崎県対馬市厳原町)に、周防大島久賀の出身で、この村の開拓者である老人が生き残っていることを聞き、その人、梶田富五郎を訪ねた(「梶田富五郎翁」『忘れられた日本人』)。
 三歳の時両親に死なれた富五郎は、叔母の知り合いの家に引き取られ、七歳のとき「メシモライ」になった。「メシモライ」は親を亡くした子どもを漁船に乗せ、漁を手伝わせながら漁師に育てる慣行で、相互扶助による救済制度だった。
 対馬の海は魚で埋まっているという噂を聞いた久賀の漁師は、富五郎を乗せて博多や壱岐をまわって1876年(明治9)に対馬に着いた。
 沖で転覆した豆酘の船を救助したことにより浅藻へ住むことが許され、土地を開いて納屋を建てた。潮の満ち引きを利用し、海底の石を沖に運び港を開いた。
 当時、周防大島からハワイへの出稼ぎがさかんだった。ハワイでは日当50銭、久賀では13銭だったが、富五郎はここで漁師として一生暮らすと決める。漁場は豊かで、獲った魚は厳原の問屋に売り、米、味噌、煙草などを仕入れた。親兄弟を呼び寄せた人もいたため村は発展し、1897年ごろには100戸になった。
 現在の日本では、国外からの移民・難民の受け入れが大きな課題になっている。こうした問題を考えるときに、私たちのうちの多くの人びとも、各地を移動してきたことに思いをめぐらせる必要があると思う。
 畑中 章宏(作家)
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 日本遺産ストーリー
 日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅
 ~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~
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 日本初の「旅の大ブーム」の火付け役は、十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛」であり、
 歌川広重の描いた「東海道五十三次」の浮世絵であった。
 「滑稽さ」「怖いもの見たさ」そして美味しい「名物」に引き寄せられるのは人の世の常。
 日本の「ガイドブックの原典」とも言われる「浮世絵」「滑稽本」に惹かれ、
 自由な移動が制限される江戸時代でも人々は物見遊山の旅へいそいそと出かけて行った。
 かつて多くの人々を旅路へと誘った弥次さん喜多さんの「旅の楽しさ」は今も駿州で体感できる。
 富士山を仰ぎ見ながら江戸時代の「ガイドブック(道中記)」を片手に
 「東海道五十三次」の「真ん中」、駿州を巡る旅に出かけよう。
 目次
■「旅の大ブーム」の火付け役
■華の都パリの画家たちも浮世絵から日本への旅を夢見た
滑稽本駿府静岡市)出身のお調子者が主役
■今も昔も「旅の楽しみ」「庶民の楽しみ」は続く
■「旅の大ブーム」の火付け役
 日本初の「旅の大ブーム」は今からおよそ200年前の江戸時代の後期に起こった。「入り鉄砲に出女」の言葉で象徴されるように、武士や庶民の区別なく人々の自由な移動は制限されていた時代。神社仏閣を巡る信仰の旅や治療のための旅ならば許されていたことにかこつけ、人々は、やれ参詣だ、やれ湯治だと物見遊山の旅へ出かけるようになった。安穏な暮らしの中で、庶民は見知らぬ土地に思いを馳せ、噂で語られる珍しい食べ物や出来事に憧れた。これはいつの時代も国内外を問わず、同じである。
 この日本初の「旅ブーム」の火付け役こそ、駿河国府中(現在の静岡市)出身の十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛」であり、歌川広重の描いた「東海道五十三次」の浮世絵であった。東海道の真ん中、富士山が最も美しく見える駿州(沼津以西大井川以東)には、今も江戸時代と同じ景色、名所が残り、かつてと同じワクワクする旅の体験や風景が旅人を待ち構えている。
 左:東海道中膝栗毛藤枝市郷土博物館所蔵)/右:東海道 十八 五十三次 興津 清見かせき 清見寺(静岡市東海道広重美術館蔵)
■華の都パリの画家たちも浮世絵から日本への旅を夢見た
 浮世絵は江戸時代を中心に流行した日本絵画の一つだが、時代の風俗を描き、美人画、役者絵、芝居絵、名所絵、春画とまさに大衆娯楽、大衆メディアであった。江戸時代の後期に葛飾北斎は「冨嶽三十六景」を描き、東海道の道々から富士山が美しく見える景色、名所絵を残しているが、それがきっかけとなり、歌川広重が「東海道五十三次」を描いた。それまでには無かった大判サイズで木版が作られ、「まのあたりにそこに行たらむここち」(保永堂版の序文)と思わせるものであった。まさに「ガイドブックの原典」である。遠く海を渡った「東海道五十三次」を目にしたモネやゴッホ等19世紀の華の都パリで活躍する印象派アール・ヌーヴォーの芸術家たちも見知らぬ日本に思いを馳せた。かつての面影を残す由比宿の本陣跡は由比本陣公園となった。その中には情報拠点・東海道由比宿交流館と浮世絵師・歌川広重の名を冠した日本で最初の美術館があり、数多くの広重の浮世絵を楽しむことができ、浮世絵づくりの体験もできる。そこには広重が景勝三保松原を描いた「冨士三十六景」も所蔵され、現在の景色と見比べて楽しむことができる。
左:東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺(静岡市東海道広重美術館蔵)/右:由比本陣公園
滑稽本駿府静岡市)出身のお調子者が主役
 享和2年(1802年)から文化11年(1814年)に初刷りされた十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛」は、文章もさることながら挿絵が面白く、作者が自分の足と目で確かめたリアル感が読者の旅情を誘った。絵と文字、それはまさに江戸時代のマンガであるが、今やマンガは日本を代表するポップカルチャーとなっている。マンガのような「東海道中膝栗毛」を「ガイドブック」として旅に出ようと思い立った江戸庶民達が「旅の大ブーム」を作ったのだ。
 物語は駿河国府中(静岡市葵区)出身の弥次郎兵衛(弥次さん)と江尻(静岡市清水区)出身の居候、喜多八(喜多さん)が、つまらぬ身の上に飽きて財産をふろしき包み一つにまとめ、江戸から厄落としの旅に出た道中、宿場毎に風景や人情話、その地の食べものなどがコミカルに描かれ、繰り広げられる。その中で、東海道でも美しい富士山が見える駿州と呼ばれる「東海道五十三次」の「真ん中」が今回の舞台。ここは作者十返舎一九と「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次さん喜多さんの故郷の町々である。
 《駿州に入った弥次さん喜多さん、此所からは富士の山が正面に見えると喜ぶ。》由比宿と興津宿の間の薩埵峠からの富士山の眺望は東海第一と称され、弥次さん喜多さんの時代でもすでに有名だった。《ところが残念!弥次さん喜多さんの薩埵峠越えは激しく雨が降る中で富士山は全く見えなかった。》広重はこの場所を「由井」として描き、薩埵峠を登ると今も同じ美しい富士山を見ることができる。江尻宿から少し足を延ばすと三保松原がありここでも多くの芸術家を魅了した美しい富士山を眺めることができる。
 そして旅の楽しみは各地の名物。《丸子宿に辿り着いた弥次さん喜多さんは名物のとろろ汁を注文する。ところが、段取りの悪い女房にとろろ汁屋のてい主が怒り夫婦喧嘩が始まる。とろろ汁がとびかい、夫婦もすべりこける。あっちへすべり、こっちへころげてお騒ぎ。》どたばた喜劇の原点と言われる場面である。《弥次さん喜多さんは可笑しさをこらえて立ち去るが、名物のとろろ汁は食べられず終いとなった。》しかし、これで江戸でも丸子宿の名物はとろろ汁と一躍評判が立ったらしい。広重も丸子宿の浮世絵に「名ぶつとろろ汁」と描き込んでいる。江戸時代と変わらぬ茅葺き屋根の丸子宿では弥次さん喜多さんは食べられなかったとろろ汁が旅人の舌を楽しませてくれる。
 丸子宿の先には宇津ノ谷峠がある。この峠は平安時代伊勢物語で暗く細い山道として描かれ、江戸時代には「蔦の細道」と称されるようになっていた。昼でも薄暗く怖いイメージは歌舞伎の題材にもされ、江戸庶民の興味の的でもあった。「怖いものみたさ」も人の世の常。江戸の人々も興味津々であったが、ハイキングコースとして整備された現代でも人気のコースであり、宇津ノ谷の怪談は今も語り継がれる。宇津ノ谷トンネルは、明治、大正、昭和、平成の4つの時代のトンネルが並ぶ珍しいスポットだが、中でも明治トンネルは、だれもいないはずのトンネルに人の声や笑い声が聞こえるという噂があり知られるようになっている。《弥次さん喜多さんもこわごわ宇津ノ谷峠を越えるのだが、蔦の細道を心細く行く中、雨はだんだん強くなり、もう少しで旅の安全を願うために作られたという名物十団子を売る茶屋、というところで思わず坂道を滑り転げ腰を打つ始末。やっとの思いでたどり着いたのが、岡部宿の旅籠であった。》現在、岡部宿大旅籠柏屋は、歴史資料館として旅人を出迎え、東海道の旅の面白さを伝えており、当時の旅衣装で弥次さん喜多さん気分を体験することもできる。《藤枝宿の先、瀬戸に入った弥次さん喜多さん、ここの名物「染飯」を食べ休んでいたところ、田舎おやじにまんまと一杯食わされ、御馳走してもらうつもりの宴会の支払いをさせられるという顛末となった。》千貫堤・瀬戸染飯伝承館ではその時の宴会料理が展示され「染飯」は今も食べることができる。
 左上:薩埵峠/中央上:丸子宿丁子屋/右上:丸子宿名物とろろ汁 左下:明治宇津ノ谷隧道(明治トンネル)/中央下:岡部宿大旅籠柏屋/右下:岡部宿大旅籠柏屋の弥次さん喜多さん
■今も昔も「旅の楽しみ」「庶民の楽しみ」は続く
 東海道の真ん中、駿州は、富士山静岡空港も近く、清水港もあり、東海道新幹線東名高速道路が通り、空、海、陸全ての交通を使える交通の要所といえる地域となった。
 しかし、弥次さん喜多さんのような昔ながらの喜怒哀楽を楽しみたい現代の旅人が「旅の楽しみ」を発見できる場所でもある。江戸時代は旅人が川留めや峠越えで何日も要した地域だが、今の駿州には、「旅の楽しみ」を一度に味わえるコンパクトな回遊性も用意されている。江戸時代の「ガイドブック(道中記)」に登場する美味しい名物を味わい、「浮世絵」に描かれた絶景に心奪われ、宿場毎の人情話に時を忘れる面白い、江戸庶民と同じ気分のワクワクする旅が今もなお体験できる、まさに「旅の原点」を感じることができる場所なのである。
 左上:三保松原/右上:冨士三十六景 駿河三保之松原(静岡市東海道広重美術館蔵)  左下:蔦の細道(宇津ノ谷峠)/右下:東海道五拾三次之内 岡部 宇津之山(藤枝市郷土博物館所蔵)
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 【日本人が知らない神社の秘密3】お伊勢参りは日本人の旅行の原点
 Posted by: TABIZINE編集部
 掲載日: Sep 3rd, 2021.
 全国にある神社の数は8万社以上で、コンビニの数より多いといわれています。そんな 身近な存在でありながら、意外と神社については知らないことが多いのではないでしょうか?そこで、『日本人が知らない神社の秘密』(火田博文・著/彩図社)から、お参りがもっと楽しくなる神社にまつわるお話を抜粋して紹介します。今回は、お伊勢参りが日本人の旅行の原点だという説について。
 1 パワースポット巡りは江戸時代からあった?
 2 ご当地グルメや旅のお土産も
 パワースポット巡りは江戸時代からあった?
 御朱印
 「寺社ガール」なる女子は、いまや珍しいものではなくなった。神社やお寺を巡り、パワースポットを体感し、ご朱印を集め、その土地のグルメや温泉を楽しむ……そんな旅のスタイルは、実は江戸時代から続いているものだ。原型になったのは伊勢神宮への参拝旅行、いわゆる「お伊勢参り」だ。
 伊勢神宮には、御師と呼ばれるいわば広報のような人々がいた。彼らは日本全国を渡り歩き、神宮のご利益と歴史とを説いて回っていた。人々は「神社の中の神社」に興味を抱くようになっていたのだ。そんな中、徳川幕府によって戦国時代に終止符が打たれ、街道を藩ごとに閉ざしていた関所が撤廃される。いわば国境がいっせいに自由に往来できるようになったのだ。加えて幕府は、経済活動の促進のため、街道の道路インフラを整備する。時代が安定してくると庶民の生活にも余裕が出てきて「お伊勢参り」の一大ブームが到来するのだ。特に、20年ごとの式年遷宮の翌年「お陰年」に参拝することが人気となり、数百万人もの人々が伊勢神宮に押し寄せた年もあったという。
 ご当地グルメや旅のお土産も
 三重県伊勢市赤福
 赤福餅 (C) YingHui Liu / Shutterstock.com
 お伊勢参りの隆盛から派生して、熊野三山の神社を巡る旅も流行した。そして伊勢や熊野のあとは、京や大坂を見物し、各地の名物に舌鼓を打った。各所で郷里の人々にたくさんのお土産を買って、帰っていったのだ。
 日本人の旅の原点ともいわれるお伊勢参り。江戸の人々と同じように、一生に一度は訪ねてみたいものだ。
【出典】
 『日本人が知らない神社の秘密』(火田博文・著/彩図社
 [All photos by Shutterstock.com]
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