♨3)─1─旅文化は平和な徳川時代に日本に定着し、庶民の移動が多かった。~No.5No.6No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人は、全国を旅をして詩歌を詠んだ歌人公家・在原業平歌人僧侶・西行俳人芭蕉が好きである。
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 日本民族の旅は、中国人や朝鮮人とは違うし、西洋キリスト教徒や中東イスラム教徒とも違う。
 昔の日本の旅文化は、現代の旅行や観光とも違う。
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 2024年1月8日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「私たちがじつは知らない「日本人の姿」…庶民は「移動が多かった」という「意外な事実」
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が5刷と話題となっている。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 「移動」からみた列島文化
 日本人は、稲作に携わってきた人口が統計的にも多数を占めたことから、移動が少なかったようにみられがちである。
 しかし、宮本が記録した庶民は、移動する人びとが目立つ。それは、宮本の故郷である周防大島が、国内外を移動してきた人びとが多い島だったからである。そうした移動者の一端は、『忘れられた日本人』のなかにも描き出されている。
 1950年(昭和25)、学術調査団の一員として対馬を訪れた宮本は、島の南端、豆酘の浅藻(現・長崎県対馬市厳原町)に、周防大島久賀の出身で、この村の開拓者である老人が生き残っていることを聞き、その人、梶田富五郎を訪ねた(「梶田富五郎翁」『忘れられた日本人』)。
 三歳の時両親に死なれた富五郎は、叔母の知り合いの家に引き取られ、七歳のとき「メシモライ」になった。「メシモライ」は親を亡くした子どもを漁船に乗せ、漁を手伝わせながら漁師に育てる慣行で、相互扶助による救済制度だった。
 対馬の海は魚で埋まっているという噂を聞いた久賀の漁師は、富五郎を乗せて博多や壱岐をまわって1876年(明治9)に対馬に着いた。
 沖で転覆した豆酘の船を救助したことにより浅藻へ住むことが許され、土地を開いて納屋を建てた。潮の満ち引きを利用し、海底の石を沖に運び港を開いた。
 当時、周防大島からハワイへの出稼ぎがさかんだった。ハワイでは日当50銭、久賀では13銭だったが、富五郎はここで漁師として一生暮らすと決める。漁場は豊かで、獲った魚は厳原の問屋に売り、米、味噌、煙草などを仕入れた。親兄弟を呼び寄せた人もいたため村は発展し、1897年ごろには100戸になった。
 現在の日本では、国外からの移民・難民の受け入れが大きな課題になっている。こうした問題を考えるときに、私たちのうちの多くの人びとも、各地を移動してきたことに思いをめぐらせる必要があると思う。
 畑中 章宏(作家)
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2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92 
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 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代、
 幕府や諸大名は、武士や庶民の自由な移動を制限していたが、神社仏閣巡りは例外として認めていた。
 文政13(1830)年には5ヶ月足らずで、伊勢神宮に427万人の参宮者があったとの記録が残っています。
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 政治権力は、天皇家伊勢神宮と宗教を持った庶民との心の絆を遮断できなかった。
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 長崎には、江戸の庶民や諸藩の武士が西洋の医学などの蘭学を学びに遊学していた。
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 江戸文化は庶民の物見遊山による旅文化から生まれた。
 旅人は、地域の特産品・名産品・名品を旅先の土産物として買って帰って行った。
 日本の近代化とモノつくりは、自由な旅文化で成功した。
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 YAHOO!JAPANニュース
 江戸時代 庶民 旅行 なぜ?
 江戸時代、庶民の旅の目的は伊勢神宮へのお陰参りである。 伊勢にお参りしたら病気が治った、伊勢でお祓いをしてもらったりお札が降ったのが契機で思わぬ幸運に恵まれた、など、口から口へと伝わり、われもわれもと旅へ出た。 集団での旅も多く、今でいうツアーを組んでの伊勢参りだった。
 江戸時代に旅行ブームが起こった理由は何ですか?
 江戸時代は政情が安定し、参勤交代によって街道や宿泊施設、乗り物等が整備され、貨幣の流通も進んだことにより、旅が安全、便利にできるようになります。 庶民も平和な時代のもとで、経済的な力を付けてきました。 民衆の旅は享保年間(1716-36)頃から盛んとなり、文化・文政期(1804-30)には旅ブームが起こります。
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 NHKスペシャ
 日本人 はるかな旅
 放送年度:2001年度
 日本列島に根づき、森を中心に豊かな文化を築き上げた縄文人。DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した。マンモスなど大型動物を狩猟して生きていた北方の人々が、日本人のルーツの一つだと分かってきたのである。第1集では氷河期の終わりごろ、陸続きの日本列島に南下したマンモスハンターたちが、環境激変の危機を乗り越え、シベリアで育んだ知恵を武器に生き抜いていく様子を描く。
 音楽:吉田潔 語り:森田美由紀 
 放送年度
 2001年度
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 江戸時代がわかる役立つサイト
 江戸時代Campus
 トップページ > 江戸時代の主役である侍たちのちょっと面白い生き様 > 江戸の武士たちは外泊禁止のため旅行に行けなかった?
 武士たちは外泊禁止のためお出かけはいつも日帰り
 現代でも未成年であれば、門限や外泊禁止のルールを設けている家庭も多いと思いますが、江戸時代の武士たちは、たとえ大人であっても外泊が禁止されていたのです。
 外泊が禁止なだけではなく、暮れ六つ(午後6時)までに帰宅をしなければならないという門限まであったのです。
 午後6時が門限なんて、現代なら高校生でも怒ることでしょう。
 門限があって外泊ができないということは、当然ながら自由に旅行もできないということになります。
 江戸時代の庶民の間では、旅行がブームになっていました。
 弥次さん喜多さんでおなじみの東海道中膝栗毛には、お伊勢参りに向かう旅の楽しさが思う存分書かれています。
 武士にはそういった楽しみが許されなかったわけですから、意外にも武士というのは大変な職業だったのかも知れません。
 武士たちの行動範囲は非常に限られていた
 武士に門限があったり外泊が禁止された理由として、24時間体制で非常時に備えなければならないという役目があったからです。
 戦国時代ならいざ知らず、天下泰平の江戸時代にそこまでの臨戦態勢を取る必要があったのかどうかは疑問ですが、武士というのは建前上はそういった気持ちで日頃から生活をしなければならなかたわけです。
 大名などは、上屋敷中屋敷下屋敷といったようにいくつかの住まいを構えているものも少なくありませんしたが、たとえ側室が住んでいる下屋敷であっても外泊ができなかったといいますから、かなり厳しいルールといえるでしょう。
 そのため、ちょっと遠出をする用事があるときなどには、夜明けとともに出発をしなければ、日帰りで帰ってくるのは困難になってしまいます。
 日帰りといっても現代のように車や電車があるわけではありませんので、行動範囲は限られます。
 「たまには家族サービスのために1泊旅行に出かける」などという息抜き的なことも武士たちは出来なかったわけです。
 そういった意味では、武士というのはかなり不自由な生活を強いられていたということが分かるかと思います。
 武士が旅に出ることが許された例外とは?
 武士が堂々と旅にでることができるのは、主君の参勤交代のときや、京都の二条城へ行ったり自分の藩に用事で出かけるなどの「御用道中」のときだけでした。
 また、例外として親戚に祝い事や不幸があったときに限り、旅にでることが許されたようです。
 しかし、そういった理由があれば簡単に旅にでることができたのかというとそうでもなく、面倒な手続きをして初めて許可されたのです。
 まず、自分が所属する支配頭に対して、旅にでる理由やお供の人数、所要日数などを申し出て、道中奉行に許可の切手を発行してもらわなければなりませんでした。
 さらに、関所を通過する必要がある旅の場合には、関所手形も必要でした。
 祝い事が理由の旅であればともかく、不幸があった時などはとても旅を楽しむような心境にはなれなかったことでしょう。
 また、禄高のある武士の場合、一人で気楽に旅をするというわけにもいかず、必ずお供を連れて行くことになりましたので、それなりに出費もかさんだに違いありません。
 江戸時代においては、武士という特権階級に憧れる人は少なくなかったと思いますが、意外にも一般庶民の方が自由気ままでストレスがなくて、いきいきと生活ができたのかも知れません。
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 日本交通公社
 旅行文化変遷史(Ⅰ) ~変わり続ける旅のスタイル<戦前編>
 古書ギャラリー
 江戸時代にはじまった庶民の旅は、明治以降、昭和初期にかけて、鉄道と出版メディアの発達、旅行団体の組織化などを背景に、旅行の大衆化と近代化が進みました。戦後は、高度経済成長、高速交通網の整備進展、モータリゼーションの発達などにより国民の生活に根づき、旅行に求めるものやそのスタイルはより多様化し今日にいたっています。
 本企画展では、<戦前編><戦後編>の2回に分け、旅行が次第に大衆化していくとともに、旅行スタイルが時代の変化のなかでどのように移り変わっていったのか、そのあゆみを紹介します。
 コロナ禍にあるこの機会に、観光需要の創出・喚起につながった当時の出来事などをたどりながら、日本の旅行文化史を振り返ってみませんか。
 <戦前編概要>
 庶民の旅のはじまりは、江戸時代の伊勢参宮(お伊勢参り)にみることができます。明治に入ると、関所が廃止され、庶民は自由に国内を旅行できるようになり、鉄道の発達とともに鉄道旅行が普及していきます。「回遊列車」といった鉄道旅行の商品も登場するようになり、近代的な観光旅行が生まれてきました。
 人々の旅行への関心が高まりを受けて、明治30年代には紀行文集が数多く刊行され旅行熱をさらに高めます。大正期から昭和初期には爆発的な山水ブームが、そしてヨーロッパの影響を受けスキー、登山、海水浴などのレクリエーションが生まれていきました。明治後期以降の旅行団体の組織化や旅行雑誌などの登場は、旅行文化の大衆化を促していきました。
 昭和の時代に入ると、山水の旅から趣味の旅へ、さらに日本新八景及び国立公園の誕生による新しい風景地の旅へと旅行のテーマも広がっていきますが、戦時色が濃くなりつつあった1930年代後半には、国策旅行が奨励され、享楽的な旅行が抑制されました。
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 旅の歴史シリーズ   
 日本史に見る旅行ブーム(江戸時代の旅)
 広重の東海道53次・江戸日本橋
 「かわいい子には旅させろ」「旅の恥は、かき捨て」「旅は道連れ、世は情け」・・・旅に関する諺が多くある。昔から人々が旅を体験して得た知恵を諺にしたものである。日本史を見ると旅の歴史は古い。(「古代の旅」参照)平安時代の熊野参りは旅行ブームとしての始まりであったと言える。しかし、この頃の旅はどちらかと言えば公家や貴族を中心とした旅で、庶民の旅ではなかった。庶民が旅をはじめたのは江戸時代に入ってからである。
 庶民の旅行をバックアップした徳川幕府
 その一・・・東海道53次(宿駅制)
 一般庶民が楽しんだ旅は、ずーっと後の江戸時代に入ってからである。本格的に旅行がブームになったのは、徳川家康が、慶長6年(1601)に東海道に宿場を設置した後である。東海道53次全ての宿場が出来上がったのは1624年である。街道には沢山の人が行き交い、観光地も出来、城下町、門前町もあった。東海道53次の宿駅の発達が人々を旅行に向かわせた大整備事業であったといえる。
 その二・・・お伊勢参り
 信仰の旅は昔からあった。しかし幕府は好き勝手に全国を旅することを禁じた。しかしお伊勢参りだけは許可した。御師の布教活動を許可した。御師は全国を回って布教活動をするとともに、お伊勢参りを薦めた。御師は旅行斡旋と旅館業の働きをした。このことが、庶民の中に、お伊勢参りが流行り出し、旅行ブームの火付けとなった。
 そこで、宿駅制が設置されて400年を記念して庶民の旅行の歴史を調べてみた。江戸時代の旅を調べていくとそこには、今日の旅行のルーツが見えてきた。今日の旅行と対比してその中身を覗いた。
 旅の交通手段
 江戸時代の交通手段は駕籠や馬はあったが、駕籠は武士は別として庶民は年寄りや女子供に限られていた。従って草鞋を履いて「徒歩」が唯一の交通手段であった。「お江戸七つ発ち」の言葉は、夜明け早々に江戸日本橋を出発して、明るいうちに次の品川宿まで歩いたのである。昔は江戸と京は15日間掛けて歩いた。男性で一日あたり平均約40km位歩いたとされ、足弱の女性にしても25㎞は歩いた。歩く旅は疲れるが、周りの景色が連続的に変化するのを味わい楽しむことができる良さがある。足丈夫が旅をより楽しくしたのであろう。
 旅館業・・・旅籠屋の語源
 「ハタゴ」は馬を飼うカゴ(籠)のことで、馬に乗って旅し、その馬の食料を籠に入れて携帯したことから始まった。後に馬の飼料だけを扱う旅店が出来、それを旅籠と呼ぶようになった。その後、人の宿泊を扱う旅店も含めて「旅籠屋」と呼ぶようになった。
 江戸の初期は、旅館業を業として認められておらず、宿泊料金は「木賃」制度(泊まったときに使う薪の代金の意味)としてあった。
 旅館が一泊二食付きの料金を設定しだしたのは明治になってからである。江戸初期には旅館経営という本業はなく、農業の片手間にアルバイトとして旅館業をしていた。その頃の料理は身近で採れた季節の山菜料理などが中心であった。旅籠屋の発達によって木賃は貧困者の休泊所となった。
 旅の携帯品
 旅の携帯品:矢立のいろいろ
 扇、湯手拭、弁当箱、薬、針・・・これらの挙げたものは、「あーっそうか」と今でも納得できる。「蝋燭立て」や「燧石(ひうちいし)」は電気のない時代であるからこれも納得できる。面白い携帯品は「旅枕」「矢立」である。旅枕は旅をするとき持参するのが普通であった。木で作った折りたたみ式のものもあった。「矢立」は墨を入れる壷と筆をセットで携帯用にしたもので、昔、弓を入れる道具と似た形をしていたためこの名が付いた。もちろん筆記用具セットとして、旅の記録に用いられたものである。
 大名行列と携帯品
 江戸時代の定期的な大掛かりな旅行団体は、参勤交代の大名行列である。大名が宿泊するところに「本陣」が用意され、予備として「脇本陣」もあった。大名が宿泊するという理由だけでそこの主人は苗字帯刀が許された。素泊まりが原則で、大名の行列の中に、調度料理関係一切を持ち歩き、大膳守というコック役もいた。本陣でめったなものは食べなかった。大名の入る風呂桶まで持って歩いた。携帯品として布団、お椀は当然であった。
 東海道の文化
 東海道には大名の6割が通った。大名行列は江戸の文化を地方に運び、地方の諸藩の文化が道中にもたらされた。従って東海道沿いの文化はその地域の固有なものではなく、西の文化が運び込まれたものが多い。静岡のお茶も宇治からもたらされたものである。お茶を飲んで休憩する風習は西から伝わった文化である。
 旅の目的
 庶民の旅の目的は、はじめは寺社参拝が目的のいわゆる信仰・巡礼の旅であった。「東海道中膝栗毛」がヒットした頃から旅行の目的も変化して、物見遊山の行楽の旅が流行り出した。
 旅行ガイドブック・・・付録付き
 江戸時代に旅行ガイドブックに相当するものはあった。「東海道分間絵図」などがそうである。お経の本のように折りたたみ式で長く開けばパノラマになった。景色が中心で特産品も記されてあった。ガイドブックの付録には旅の携帯品が付いてるものがあった。「万年紙」と呼ばれるもので和紙に漆を塗ったもので、墨が中に染み込まないように施してあり、書いたり消したり出来る旅行メモ帳である。また、時計のない時代なので、付録に日時計がついてるものもあった。本に垂直に立ててその影で時刻を知るものである。
 旅の風景写真・・・浮世絵
 江戸時代の浮世絵は今日の絵葉書や旅行パンフレットの働きをした。人々は「広重の浮世絵」を見て旅情をかき立て旅に出た。広重の東海道53次の浮世絵は、物理的に忠実に描いたものではない。現実の景色の中で、感動した対象物を誇張して表現されている。まさしく感動を表現したものである。広重は絵に旅情を盛り込む様々な工夫をした。人々にまだ見ぬ土地への憧れを抱かせた。広重もまた庶民の旅行ブームを煽った一人である。
 広重の「東海道53次・原宿」 旅姿の浮世絵
 総合旅行業者・・・御師
 平安時代の後期、貴族や武士のために伊勢神宮に祈祷を捧げる人を御師と呼ばれた。江戸時代に入ると参拝にくる人を相手に今日の旅行業者に似たサービスをするようになった。全国に手代を使って伊勢をPRし、伊勢にいたるまでの宿泊旅館も世話をした。伊勢では旅館業も営んでいた。
 旅の楽しみの演出・・・風呂・ショウ・料理
 御師は伊勢到着後、籠や馬に乗せて神宮の門前を案内した。旅館では、玄関に入るとすぐ浴場があり、そこで身を清めさせ、夕食前に、神楽を見せた。料理は豪華で、本膳、二の膳、三の膳まで出た。伊勢海老やアワビの舟盛が用意された。普段、一汁一菜の生活をしている人にとって豪華料理付きの最高のもてなしであった。今日の旅と変わらぬ姿である。人々は地方に帰ると旅の話題として話され、人が人を呼びお伊勢参りは旅行ブームに火をつけた。
 飯盛女
 旅人は宿場女のいる処に宿泊を好んだことから、宿場女が増えてきた。中でも元々給仕をすることを仕事としていた飯盛り女が遊女にとって代わるようなことをし始め、宿場の風俗を乱した。服装がきらびやかになり、客に取り入り、色で風俗を乱した。
 旅の費用
 旅行をするには費用がかかる。資料によれば、福島から伊勢まで、普通の農民の収入の3年分必要であったとされている。そこで皆でお金を出し合って代表を伊勢に送り込む「伊勢講」が流行り出した。「講」はもともと、「信仰を同じくする人の集まり」を指すものであったが一人では不可能な参拝の旅を可能にするものとして全国に広がった。
 旅の心得
 江戸時代に入っても旅は命がけであったことには変わりない。芭蕉は「奥の細道」で「・・・もし生きて帰らばと定めなき頼の末をかけ・・・」として出発している。家族と水盃を交わして別れを惜しんだ。それ故、旅の心得を書いたものが多く残っている。「道連れを作ってはいけない」「旅の途中、困っている人と出会っても関わってはいけない」「追いはぎ注意」「水飲むな」「遊女に注意」・・・自分の身の安全を第一に書かれてある。
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 こだわりアカデミー
 文化・人類
 日本の庶民観光の始まりは「お参り」。
 「お伊勢参りブーム」に乗って旅行業の基礎もつくられました。
観光はいつ生まれたか
 社会学立教大学観光学部教授
 前田 勇 氏 まえだ いさむ
 前田 勇1935年、東京都生れ。59年、立教大学文学部心理学科卒業後、同大学心理学研究室を経て、66年同大学社会学部産業関係学科講師。67年観光学科設置に伴い移籍後、助教授を経て75年教授。98年観光学部・大学院観光学研究科設置により移籍、現在に至る。社会学博士。立教大学観光研究所所長、日本観光学会評議委員、日本能率協会・サービス向上推進全国大会実行委員長、日本道路公団・関東ハイウェイ懇談会座長等多数の役職を兼務。主な著書に『実践・サービスマネジメント』(89年、日本能率協会)、『観光とサービスの心理学』(95年、学文社)、『現代観光学キーワード事典(編著)』(98年、学文社)など多数。
 2001年4月号掲載
 観光-本来の意味は「良い点を学ぶ」こと
──最近、格安ツアーなどの登場で、気軽に旅行が楽しめるようになってきました。国内旅行もさることながら、特に海外旅行の人気は高く、この前の年末年始を海外で過ごした日本人の数は、過去最高だったそうですね。
 先生は、「観光学」という日本でも珍しい学問を心理学の面から研究されている、世界でも数少ない研究者です。本日は、観光についていろいろお話をお伺いしたいと思います。
 そもそも「観光」とは、どういうものをいうのでしょう?
前田 これについてはさまざまな見解があって、未だ世界的に共通性の高い定義は確立されていません。日本では、「自分の意志でどこかへ行って、戻ってくること」を「観光」と定義付けています。「観光」は「旅」の一つの形でもあります。「旅」とは、一時的に住み慣れた土地を離れることをいい、「生きるための旅」「命令される旅」「自ら好んでする旅」と3つに分類されますが、このうちの「自ら好んでする旅」が観光に当ります。
──「観光」という言葉の語源は何ですか?
前田 この言葉は中国の言葉「観国之光」からつくられたもので、「国の光を観る」、つまり「他の国へ行って、良い点を見て学んでくる」という意味があるんです。幕末、アメリカと条約を結ぶための使節団が乗った船に「観光丸」と名付けたのが、日本で「観光」という言葉が使われた起源です。
──「咸臨丸」という船もありましたね。
前田 そうです。「咸臨丸」と「観光丸」の二隻があったんです。
──「観光」という言葉に、そのような深い意味があるとは知りませんでした。当時の幕府の外交に対する姿勢が見えてきますね。
前田 明治時代になると、それまで外国に対し閉鎖的だったのが一変して、多くの外国人が旅行などで日本にやって来るようになりました。実はこの頃、日本の政府が外国から来る人を、「外国人観光」とか「外人観光客」と呼ぶようになったのです。これを機に、「観光」という言葉が広まりました。
──江戸から明治へ、時代は大きく変りましたが、「観光」という言葉は生き続けたわけですね。
前田 そうですね。当時の日本人にとって、外国人は自分達の知らないいろいろなことを教えてくれる上に、お金を落とし、日本を潤わせてくれる大事な存在でした。政府としては、彼らが帰国したら「日本は良いところだった」と宣伝してもらいたい、そんな思いから良い意味を持つ言葉「観光」を付けたようです。
 庶民の観光は、平安時代の熊野詣(もうで)が始まり
──わが国の観光の歴史はいつ頃から始まったのでしょう?
前田 旅の歴史を遡ってみると、まず「生きるための旅」が最初です。人々は食糧や生活の場を求めて、移動しながら生活していました。その後、大和朝廷の登場で「命令される旅」が出現します。支配する者とされる者という構図ができ、支配者達は「領地に出向く旅」、被支配者達は「都へ税金を納めに行く旅」が始まったわけです。さらに支配者層の中から、自分の自由意志で「自ら好んで行く旅」というものが広まっていったと思われます。
──支配層の人達から始まったんですね。当時、彼らはどういうところに行ったんですか?
前田 お花見や温泉などです。特に温泉は、当時から健康に良いことが分っていたようで、七世紀頃に仲哀(ちゅうあい)天皇の妃・神功(じんぐう)皇后が好んでよく行ったという話も伝えられています。
──庶民の観光が始まったのはいつからですか?
前田 平安時代中期、最初は信仰からくるものでした。いわゆるお参りの旅ですね。一番古くは和歌山県南東部から三重県南部にかかる熊野山への参拝、「熊野詣」です。ここは地形的に険しい山間部で、現在も神の宿る聖地として敬い崇められています。当時は、行き交う参拝者の数がまさに蟻の行列のようだということで、「蟻の熊野詣」といわれるくらい流行したのです。
──奥州平泉の藤原秀衡も、熊野に参拝したという話を聞いたことがあります。それほど広まったわけですね。
前田 そうです。しかし室町時代になると、信仰の中心は伊勢神宮三重県伊勢市)へと移っていきます。同じ御利益があるのなら、険しい山道を行く荒行のような熊野詣よりも、平坦な道を行く伊勢神宮が好まれるようになったようです。
そして、さらに多くの庶民が観光に出掛けるようになったのは、江戸時代に入ってから。国内の争いの時代が終り、庶民が平穏な生活が送れるようになったからです。また、五街道や宿場などのインフラ整備が行なわれ、旅をしやすい環境になったことも後押ししていますね。
 江戸時代には伊勢参りが大流行!!
──江戸時代は各地に関所が設けられ、通行手形がないと通れないというように、旅は容易ではなかったはずですが、お参りは簡単に許可されたんですか?
前田 信仰心は無下にできないということで、お参りについては、基本的に手形発行が認められていました。しかし、行くにしても渡し船に乗る、宿に泊まるなどとお金がいるわけで、まだ誰もが簡単に行けたわけではありません。
そこで考え出されたのが、何人かでグループをつくりお金を積み立ててお参りに行こうというもの。これを「講(こう)」というんですが、御師(おし)という伊勢神宮を布教する人達が考え出し、各地を募集して回ったんです。これが火付け役となり、伊勢参りの大流行につながりました。その様は「蟻の熊野詣」以上だったようです。
──旅行斡旋業の始まりですね。
前田 まさに、旅行代理店の元祖といえます。またこの時、団体割引や宿の予約システムも考え出され、旅行業の基礎がつくられました。
 しかし、それでも旅ができない人達がいました。例えば、商店の小僧とか奉公人、農家の次男などです。彼らは、店主や家長からお参りに行く許可がなかなか下りないんです。ですから時々、内緒でお参りに行く、これを「抜け駆けしてお参りする」という意味から、「抜け参り」と呼びました。頻繁に起こっていたようです。
──手形もないわけでしょうに、関所はどうやって通ったんですか?
前田 関所を避け脇道を行く人もいましたが、見付かった場合でも「お伊勢参りに行きたい、その気持ち一心で来ました」といわれれば役人も無下にできず、大目に見ていたようです。
 この抜け参りは不思議なことに、1650年を第1回目としてほぼ60年周期で3回、爆発的なブームが起こっているんです。この現象を「おかげ参り」、その年のことを「おかげ年」と呼んでいます。
──情報メディアも発達していない中、周期的にそのような現象が起こったのは不思議です。なぜ60年ごとにブームになったのでしょう?
前田 60年というのは、当時の平均寿命年数です。それと何らかの関係があるとは思いますが、なぜ同じ年に一斉に起こったのかは謎です。
──抜け参りをしてまでお参りに行きたいとは、江戸時代の人達は信仰心がそれだけ強かったということですか? 私は江戸時代の旅というと、「弥次さん、喜多さん」で有名な、『東海道中膝栗毛』のイメージがあります。「信仰」というより、「楽しみ」という感じがするんですが…。
前田 実は、その通りなんです。当時の川柳に「伊勢参り、大神宮にもちょっと寄り」というのがありまして、「伊勢参りに行ったけど、そこにはちょっと寄っただけ」という意味です(笑)。『東海道中膝栗毛』も、二人の江戸町人が伊勢参りに行くといいながら、道中は遊んでばかりいます。危険を伴う熊野詣のような旅は純然たる信仰心からでしたが、江戸時代になると、だんだんそれが名目化して、建前になってきた。普段の生活から離れて珍しいものを見たり、食べたり、楽しみたかったようです。
──現代人と変りませんね。 
前田 そうですね。もともと日本人は旅好きです。旅をしたい、楽しみたいという人々の気持ちは、江戸時代から現代に脈々と受け継がれていますね。
 明治時代になると、橋や鉄道などの整備も進み、旅館、ホテルも多く建てられました。また、何といっても移動が自由にできる時代になり、人々は建前なしに、現代のような観光を楽しむようになっていったのです。
 観光学者である前田先生は、国内外さまざまな地へ自ら足を運び
旅を楽しみながら「観光学」を探求されている
観光学者である前田先生は、国内外さまざまな地へ自ら足を運び、旅を楽しみながら「観光学」を探求されている
(上)視察旅行で訪れた「良寛と夕日の丘公園」。後方に佐渡島、隣に良寛記念館がある(「にいがた景勝百選」の第1位に選ばれた場所・新潟県出雲崎町)。左が前田先生
(下左)韓国済洲島で出会った巨大なトルハルバン(石のおじいさんの意味)
(下右)「栗菓子」と「葛飾北斎館」で知られる長野県小布施町の街角
 (上)視察旅行で訪れた「良寛と夕日の丘公園」。後方に佐渡島、隣に良寛記念館があ る(「にいがた景勝百選」の第1位に選ばれた場所・新潟県出雲崎町)。左が前田先生
 (下左)韓国済洲島で出会った巨大なトルハルバン(石のおじいさんの意味)
 (下右)「栗菓子」と「葛飾北斎館」で知られる長野県小布施町の街角
 「一点豪華主義」で旅の思い出が倍増
──現代人の観光は、昔に比べて目的や内容が多様化、複雑化しています。そうした中で、少しでもいい旅、いい観光をするために、何かアドバイスはありますか?
前田 旅に出るということは、非日常を経験するということで、普段は気が付かない新しい発見、勉強ができるものです。ですから、できるだけ普段の生活を切り離して過ごすようにすることが大切だと思います。旅行中でも携帯電話で仕事の指示を出すなんて、もっての外です。
 旅をより印象深いものにするためには、例えば、一点豪華主義を心掛けてみてはいかがでしょう。宿泊も食事も乗り物も見物も、すべてある程度「そこそこ」ではなく、予算を増やさないままで、どこか一つに寄せ込んでやるんです。食事だけは豪華にするとか…、わずかな工夫で思い出が倍増するはずです。
 あと、これは要望ですが、長期休暇を取ろうとすると、どうしてもお盆や正月、ゴールデンウィークというように、ほとんどの国民が一時期に集中してしまう。バラバラに長期休暇を取れるようにしてほしいですね。
──旅行費用も高くなりますし、渋滞も多くなって、ロスが多いですからね。
 先生は、教鞭を執られるほか、数々の公職を務められ、日本の観光業の発展にも貢献されていらっしゃいます。今後のご活動予定は?
前田 立教大学は国内初の観光学科(当初は、社会学部の一学科だったが、98年に改組拡大で独立、観光学部に。同時に大学院も併設)を設置した大学で、これまで数多くの人材を輩出してきました。今後さらに、21世紀の観光業界を担う人材の育成に力を注ぎたいですね。
──いまや観光業はグローバルな産業です。国によっては、観光が経済を支えているところもあります。しかし国際的に見て、日本人の観光や余暇に対する認識は、まだまだいろいろな意味で薄いように思います。先生には、そうした意識の改革も含め、ますます広範なご活動を期待しております。
 本日は、ありがとうございました。
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 KAZE 風の旅行社
 旅行のはじまり
 2016.06.30 by.原 優二
 *風のメルマガ「つむじかぜ」584号より転載
 近代旅行業の祖は、英国人のトーマスクックというのが定説だ。1941年7月5日、ミッドランド・カウンティーズ鉄道の臨時列車を仕立て、往復鉄道運賃と食事代込みで1シリングの日帰り旅行を実施した。その後、1851年ロンドン万博の旅行で大成功を収め、1855年パリ万博で海外旅行へ進出。19世紀の後半、世界的なブームとなった、世界一周旅行にまで事業を拡大し発展させた。
 しかし、先週、江戸時代に伊勢参りで活躍した御師(おんし・おし)をご紹介したが、古くは、平安時代末期に貴族の間で流行した熊野詣の世話をした熊野御師が、祈祷や宿泊の世話や道案内をしていたというから驚きだ。しかも、檀那といって固定の顧客を持っていたというからそのマーケティング手法たるや恐るべしである。その後、鎌倉から室町時代にかけて武士や農民に拡がり、江戸時代に大旅行時代を迎えるわけである。
 江戸時代に人々の大往来を支えたのが、五街道脇往還などの街道整備である。街道には宿場が置かれた。東海道なら53次、中仙道が69次と、かなりの数があった。宿場に関して、「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」の『東海道について』というHPの中で次のように説明されている。
 『宿場には、文字通り旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割がありましたが、最も重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務がありました。そのため宿場は、本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっています』
 なるほど、参勤交代には大名が泊まる本陣や旅籠が必要だ。郵便・飛脚制度は、お手本は中国だが、国を治めるために重要である。早飛脚は、江戸から京までの約500kmを3日で継いだというから日本人の生真面目さが伺われる。
 『江戸の旅文化』(神崎宣武著、岩波新書)によれば、旅籠の宿代は1泊2食付で約200文(5,000円~6,000円)とけっして安いとはいえない。これでは長旅にはつらい。庶民の味方は木賃宿(食事なし自炊)があり薪代として8から15文程度を払うとある。これなら長旅も可能であろう。否、こんな宿まであったのだから、それだけ庶民が旅したということである。
 旅は、やはり人生の大きな楽しみである。形もスピードも変わったが、“旅を楽しむ心”は益々旺盛になっていると感じる。思いのほか、私たちの仕事には、古い歴史があるということを知り大変嬉しくなった。
 ★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。
 原 優二
 この記事を書いた人
 1956年生まれ。東京都職員、長野県丸子町の小学校教員を経て、1990年に東京の海外旅行専門の旅行会社に就職。1991年、風の旅行社設立。代表取締役に就任。2014年より2020年まで、亜細亜大学経営学部ホスピタリティマネージメント学科客員教授を兼任。(一社)日本旅行業協会副会長。著書『風の旅行社物語』では、風の旅行社の歴史から旅への思いまでが熱くつづられています。
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 ひょうご歴史ステーション
 江戸時代の旅と名所
 コラム
 庶民の旅について
 現代の観光旅行は、神社仏閣を巡る、温泉に入る、景色を楽しむ、おみやげを買うなどの要素から成り立っている。こういった旅は江戸時代にはすでに成立していた。はじまりは「伊勢参り」に代表される信仰の旅である。移動に厳しい制限のあった庶民にとって、許されたのが信仰を目的とする旅であった。伊勢参りは周期的に爆発的なブームとなり、(文政13)年には5ヶ月足らずで427万人の参宮者があったと記録されている。
 お伊勢参り
 制限はいったん緩めると拡大する。信仰の旅を契機に旅行は一挙に庶民レベルに広まったのである。次第に「伊勢参り大神宮へもちょっと寄り」などと当時から揶揄されたように、道中の別の楽しみが旅の目的となる。伊勢参りは口実にされていたのである。旅は娯楽化し、人々の興味は物見遊山や温泉入浴へと移る。現在我々が行っている旅行と変わるものは何もない。観光をテーマにした出版物が刊行され人々は案内記とよばれる小型のガイドブックを懐に旅にでかけていったのである。
 楽しい道中
 しかし旅の大衆化は単に娯楽だけで語ることはできない。それは同時に自ら見聞して得た知識を地元に還元する学習の旅でもあった。行き交う旅人は各地へ技術や道具を伝播させ異文化交流の担い手となった。庶民の旅を通じて人と物資と文化の交流が盛んになり、拡大した経済と自由な空気は次第に幕藩体制を崩壊させていくことになる。庶民が参加した旅は時代の変革への一里塚となったのである。
 「仕事はできるが横暴な人」は長い目で見れば生産性悪化は必至。
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 スタッフブログ
 旅行会社の歴史(日本編)
 2017.11.30雑談
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 今回は前回の続編!!
 旅行会社の歴史(日本編)について
 お話していきたいと思います(-ω-)/
 日本の旅行の始まり
 日本の旅行の始まりは、平安時代までさかのぼります。
 京都や奈良から、信仰の場とされていた熊野三山へ詣でる旅が行われていました。
江戸時代には、伊勢神宮の神官がお参りにくる庶民の案内をして、添乗員のように宿や食事の手配までしたという記録が残っています。
 しかし、この時代の日本にはまだ「旅」を商売(事業)として扱う商人は存在しませんでした。
 日本での本格的な旅行業の歴史
 日本での本格的な旅行業の歴史は、1893年に日本を訪れる外国人をもてなすことから始まりました。
 明治政府が欧米列強に同意する政策の一環だったのでしょう。
その後、1905年に現在の滋賀県草津市に住む南新助という男が、当時の国鉄にお世話になっているお礼に、団体による善光寺参りを企画し、草津江ノ島~東京~日光~善光寺草津へのお参りを実施しました。
 南新助はこの経験を機に同年、日本旅行の前身にあたる旅行会社を日本で初めて設立しました。
 続いてJTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューロが1912年に設立され、日本を訪れた外国人の案内役を主に行いました。
 その後、国内の旅行会社は少しずつ増えていきましたが、国民の海外旅行が自由化された1964年においても旅行業者はまだ50社程で、広く市民に浸透するまではもう少し時間がかかったようです。
 旅行が大衆化
 1964年は、東京~新大阪間に東海道新幹線が開通、東京オリンピックも開催され、多くの外国人観光客が日本へやってきました。
 この年に訪れた外国人旅行客の数は、35万人を超えました。
 また日本においても海外渡航が自由化され、海外へ出国した数は12万7千人、このうち観光を目的とした旅行者は2万3千人にまでのぼりました。
 この時代、海外旅行はまだ一部の富裕層のみが許される贅沢なものでしたが、旅行会社の「旅行商品」の開発は、この年以降大きく発展していきます。
 1965年に旅行開発社(現ジャルパック)がジャルパック(現アイル)の販売を開始しました。
 その3年後には、日本交通公社日本通運が共同で「ルック」の販売、翌年には郵船航空サービス(現郵船トラベル)のダイアモンドツアー、71年には日本旅行のマッハといったように、次々と旅行商品が開発されていきました。
 ちょうどその頃、アメリカのボーイング社が約300人乗りの「ジャンボジェット」を就航させ、海外旅行をさらに一般市民の手の届く存在へと近づけました。
 旅行会社はそれまでの斡旋するだけの受け身の姿勢から、旅行商品を大々的に宣伝して販売するといった、市場拡大の時代に突入していくのです。
 また国鉄(現JR)が、1970年の大阪万博国鉄を利用したお客さんが、それ以降も継続して利用するようにと展開した「ディスカージャパン」のキャンペーンは、国内旅行の大衆化をさらに加速させていきました。
 (情報:旅行業務取扱管理者の資格と仕事)
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