💖6)─5─国会の記録に残る〝シベリア出兵における日本陸軍の人道貢献〟発言。令和5年10月25日。~No.29 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 シベリア出兵は、失敗・愚行・犯罪だったのか。
   ・   ・   ・    
 32年テーゼ。
   ・   ・   ・    
 2024年1月号 WiLL「アッキーのポーランド訪問記
 ……
 1795年、ポーランドは、ロシア、オートラリア、プロイセンによって3分割された。さらにロシアに対し、独立を夢見て抵抗運動をおこなったポーランド人1万8,672人が家族と共にシベリアへ流刑となった。1918年、第一次世界大戦終結ポーランドは独立したものの、ロシア革命による内戦の惨禍に巻き込まれ、祖国への帰還は困難となった。
 翌年『ポーランド救済委員会』が設立され、大国アメリカ、イギリス、フランスにポーランド人の救出を要請するも無視されましまう。唯一、日本政府(原敬内閣)だけが、救助要請を受け入れた。外務省は直ちに日本赤十字社に打診。同時に、田中義一陸軍大臣加藤友三郎海軍大臣にも協力を要請。『在ウラジオストックポーランド孤児150名を軍用船に至急乗船せしめ、敦賀へ輸送ありたれ』との電文が発せられた。
 1920~21年、ポーランド孤児375人が第一陣として敦賀港(福井県敦賀市)に上陸、東京の福祉団体福田会(ふくでんかい)に引きとられた。ついで1922~23年。ポーランド孤児388人が第二陣として大阪の市立病院看護師寮で療養生活をおくった・・・。1929年、帰国した元孤児らが『極東青年会』を設立し、日本についてポーランド大きく紹介した。
 2023年9月26日、ポーランドワルシャワにてシベリア孤児帰国100年記念式典が開催された。
 同年10月25日、世耕弘成参院自民党幹事長が国会の代表質問でウクライナへの人道支援について質問する中、以下のように発言した。
 『(ポーランド孤児救済の)手をさしのべたのは、唯一日本だけ。それも要請からわずか2週間余りの短期間で支援を決めるという、異例の英断でありました。〝日本陸軍の手で〟760人を超える孤児が助け出されたそうです』
 国会で初めて〝日本陸軍の手で〟ポーランド孤児を救出したことが公言した。……」
    ・   ・   ・   

 日本陸軍の人道貢献を、エセ保守とリベラル左派は認めず否定し、メディアや教育は子供に教えない為に歴史から抹消している。
 日本陸軍の人道貢献行動は、世界の非常識、戦略・戦術の誤判断であった。
   ・   ・   ・   
 戦後民主主義教育の歴史教育を受けている現代日本人と皇国史観の愛国教育を受けていた昔の日本人は、別人のような日本人である。
   ・   ・   ・   
 世界史の窓
 国際連盟
 第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和条約の規定によって1920年に設立された、世界最初の国際平和維持機構。集団安全保障の理念による国際協調の推進、地域紛争の解決などで大きな役割をはたしたが、大国アメリカの不参加、ドイツとソ連の不参加(両国は途中で参加)などのため、充分な機能を発揮することができず、特に世界恐慌後のファシズムの台頭の結果、日本・ドイツ・イタリアが脱退、第二次世界大戦を阻止することはできなかった。しかしその理念は国際連合に引き継がれた。
 国際連盟 League of Nations は、アメリカ大統領ウィルソンが十四カ条の原則で提案し、第一次世界大戦後の講和会議であるパリ講和会議(1919年2月3日~4月11日)で審議された。1919年4月28日に国際連盟規約として採択、6月28日、講和条約であるヴェルサイユ条約の第1編として各国代表が署名した。発効したのは、1920年1月10日であり、それによって世界最初の国際機関として国際連盟が成立した。
日本、常任理事国
 本部はスイスのジュネーヴにおかれ、総会・理事会・事務局と、国際労働機関(ILO)・常設国際司法裁判所の2つの外部機構があった。総会は一国一票であり、決議は全会一致を条件とした。常任理事国は最初、イギリス・フランス・イタリア・日本の4ヶ国。アメリカ、ドイツ、ソ連が参加していないため、イギリスとフランスがリードすることが多かった。原加盟国は戦勝国を中心に42カ国。加盟国は最盛時に59カ国だった。

 日本と国際連盟
 日本はパリ講和会議において、ヴェルサイユ条約を認め、国際連盟に加盟する場合は「二十一カ条の要求」以来の山東省権益の継承を条件とした。ウィルソンは日本の主張を認めることは、自らがかかげた「十四カ条の原則」の民族自決原則に反し、中国の反対を受けることは判っていたが、日本を国際連盟に加盟させることの方を重視して、その要求をのんだ。こうして日本は加盟を果たし、しかも常任理事国という責任ある立場に立つことになった。「・・・(国際)連盟の理事国となったわが国は、そのことに喜ぶあまり、客船を一隻チャーターしてジュネーヴに大代表団を送りこんだのだった。」<明石康国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.209>という。
 1920年から26年、国際連盟事務局次長を務めたのが、『武士道』で有名な、新渡戸稲造だった。また次期の事務局次長も日本から杉村陽太郎が就任している。国際連盟は戦前期日本の重要な外交活動の舞台であったが、1931年の満州事変を期に孤立を深め、33年に脱退することとなる。
 参考 新渡戸稲造国際連盟
 バルト海の北につながるボスニア湾の入り口にオーランド諸島がある。第一次世界大戦までロシアが東岸のフィンランドとともに領有していた。大戦末期にロシアが混乱した時、フィンランドが独立、オーランド諸島の領有も主張した。ところが元々、この諸島は西岸スウェーデンに帰属し、住民もスウェーデン語を話していた。両国のあいだで争いとなり、発足したばかりの国際連盟に解決が委ねられた。
 その難題を解いたのが連盟事務次長新渡戸稲造だった。新渡戸の裁定は①オーランドはフィンランドに帰属、②オーランドに軍事、外交を除く高度の自治権を付与する、③公用語スウェーデン語とする、というもので現在も両国はそれに従っている。国際連合ジュネーヴ事務所(旧国際連盟の建物)の中に、国際紛争を解決した輝ける成功例として1921年6月のこの時の審議の様子を描いた絵が飾られている。
 新渡戸稲造は1927年、帰国する。しかし日本は28年、張作霖爆殺、31年満州事変、32年上海事変で国際的孤立を強め、33年に国際連盟を脱退してしまう。新渡戸は耐え難かったのであろう、32年2月、松山での講演で「近ごろ毎朝起きて新聞を見ると思わず暗い気持ちになる。日本を滅ぼすのは共産党軍閥だ。いずれかといえば、今となっては軍閥と答えねばならない」と発言、軍部を激高させた。入院中の新渡戸の下に軍人会員が押しよせ、新渡戸は謝罪させられた。32年4月から1年間は対日批判を強めるアメリカの世論を鎮めようと講演したり、アメリカ大統領に会ったりして日本の実情を語ったが、反応は日本の軍国主義を弁護する態度は理解できない、などというものだった。33年10月15日、新渡戸はカナダで開かれた会議出席後、客死する。こうして日本有数の国際人が不遇の死を迎えた時期には、すでに32年に五・一五事件で犬養首相が軍人に殺害され、新聞も軍を批判することが全くなくなっていた。<朝日新聞 2020/11/10 多事奏論 編集委員駒野剛署名記事の要約>
   ・   ・   ・   
 日本政府のシベリア出兵を失敗だったと喧伝するメディアと教育には、本当の歴史は見えていない。
 エセ保守とリベラル左派は、軍部が支配した戦前の日本をブラック社会と決めつけ陸軍を悪の象徴として日本の近代史を戦争犯罪一色で染め上げる為に、軍部と陸軍がおこなった平和貢献や人道貢献を歴史の闇に葬り去っている。
   ・   ・   ・   
 ポーランドフィンランドなど東欧や北欧に親日国が多いのは、現代のエセ保守とリベラル左派が傲慢に自慢する平和憲法ではなく、戦前の軍部や陸軍の自己犠牲的活躍があったからである。
   ・   ・   ・   
 日本の軍部と陸軍は、天皇の御稜威・大御心を忖度して「火中の栗を拾う」が如く、世界から見捨てられたポーランド戦争孤児やロシア避難学童を助けていた。
 それが故に、国連と国際司法機関は日本の軍部や陸軍は戦争犯罪者として断罪した。
 世界は、日本の軍部や陸軍がおこなった自己犠牲の平和貢献や人道貢献を認める気はなかった。
   ・   ・   ・