🏯31)─1─江戸時代は、御上(御公儀)の恐怖支配による暗黒時代ではなかった。武士の貧困。自由のない武士。~No.58No.59 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本を支配しているのは、弱者の理論である。
 2018年4月号 新潮45「ニッポン全史 古市憲寿 
 第4回 暴力の独占
 天下統一を果たした豊臣秀吉が『喧嘩停止令』を発し、『刀狩り』を実施した、その意味。
 ……
 戦国時代に使われ始め、そして戦国時代を終わらせたのは鉄砲である。
 ……
 しかし火縄銃を用いる事で、城を攻め落とすことが簡単になった。しかも鉄砲が普及した世界では、戦争は数のゲームになる。火縄銃を1挺や2挺持っているだけでは、火縄銃を5,000挺持っている軍には到底勝てない。だから列島中の大名たちは苦心して鉄砲を集めた。鉄砲装備の遅れが戦争の勝敗を決めるようになったのである。
 最も有名なのが1575年に起こった長篠の戦いだろう。……織田・徳川連合軍と、武田軍の命運を分けたのが鉄砲であることを強調している。
 考えてみれば、古代に天皇一族が列島を統一した時も、当時の最新テクノロジーである鉄が果たした役割は大きかった。強い武器や、生産性の高い農具になる鉄を独占できたことが、彼らのパワーの源だったのだ。
 戦国武将たちの『天下』をかけたリーグ戦が行われ、列島は再び統一へと向かっていく。
 修羅の時代を生き抜く知恵
 現在でも国家の本質は、暴力の独占である。日本国は、領土内での殺人を禁止し、武器の所持を認めていない。しかしそのルールには例外がある。公務員が職務として行う死刑執行や、銃の携行だ。国家だけが合法的に殺人や武器の独占を許可されているわけである。
 国家が暴力団を目の敵にするのは、両者が本質的に似たもの同士だからだ。もし暴力団に人を殺す権利や、武器を携行する権利を認めたら、それ自体が一つの国家のようになってしまう。日本列島を支配する唯一の主体であることを宣言する日本国として、ミニ国家の乱立を認めるわけにはいかない。
 国家のトップがおかしくならない限り、安全な仕組みと言えるだろう。全国民が銃を持っていて、いくらでも他人を殺せる世界には、ちょっと住みたいとはおもわない。
 『むしゃくしゃして路上で無差別殺人』『飲食店店員の接客態度が悪いと暴行致死』『若い男が優先席に座っていて腹が立って殺人未遂』なんてことが日々起こってたら、社会は安定しようがないだろう。
 しかし戦国時代は、その状態に近かった。15世紀には鉄製農具が普及したが、それは百姓たちにとっては武器にもなり得た。食糧の枯渇した百姓たちは、生き残るために団結し、時には大名に対して武装蜂起したのだ。
 また、村ごとに村掟というルールが定められ、村人同士の刑罰として処刑や追放刑が実施されていた。村と村の間でも、水源の使用などを巡ってたびたび武力衝突が起こっている。時には80代の高齢者や女性までも戦闘に参加することがあったという。
 現代であれば警察に通報したり、裁判に訴えることを、ほとんど当事者同士の武力によって解決しようとしていたわけで、それはもう危険で不安定な時代だった。
 もちろん、総力戦となれば村が共倒れしてしまうことを想像するくらいの分別は、当時の人にだってあった。紛争解決のためには、周辺の村の介入による調停がしばしば行われ、落としどころが探られた。 中々に興味深いので、1560年代に近江国甲賀郡(現在の滋賀県)で起こった用水紛争の顛末を紹介しておこう。死者を出すに至ったこの武力衝突は、近隣の村の長老たちによって裁定が下された。曰く『先例に従え』という決定に加え、片側の村には以下のような罰則が科せられた。

 ・名主たちは、それぞれの家の二階門か内門を破棄して、火を放つこと。
 ・名主たちは、頭を丸めて、墨衣をまとった坊主姿になり、相手方の村へ赴き、神社の鳥居の前で謝罪をすること。
 ・百姓たちの家を30軒、燃やしてしまうこと。

 二階門や内門というのは、村の指導者である名主にとって、権力の象徴だった。それが燃やされた上で、頭を丸め謝罪させられるというのは、相当な屈辱だっただろう。ちなみに家を燃やすということは、追放刑と並んで、当時人気の刑罰だった。
 このような裁定に村が素直に従わない時もあった。その場合は、近隣の村々が、その村との『中違い』(絶交)を宣言して、圧力をかけようとしたという。今でいう北朝鮮への対応のように、あの手この手で人々は平和を模索したのである。
 独裁者でもいないよりマシ
 絶対的な権力者のいない時代というのは、社会が不安定な状態に陥りやすい。人類史を振り返っても、独裁状態よりも、無政府状態のほうが大量殺戮の発生しやすいことがわかっている。
 確かにアドルフ・ヒトラーサダム・フセインといった独裁者は、数え切れない罪なき人々を殺している。しかしながら、一般的な傾向でいえば、残虐な独裁者が支配する国や時代以上に、ロシアの動乱時代や中国の国共内戦メキシコ革命のような、絶対的権力が不在の時に人類はより多く死んでいる。
 戦国時代を終わらせたのは、権力者による暴力の独占であった。『天下統一』を達成した豊臣秀吉は喧嘩停止令を発し、村同士の武力抗争を禁じた上で、1588年に刀狩令によって農民の刀の保有を禁止した。
 興味深いのは、農民は自ら刀を差し出していること。役人が村に押しかけてるのではなく、農民たちの責任において武器を集めさせたのだ。だから実際のところ、刀狩令で完全な武装解除が実現できたわけではない。没収は刀や脇差に集中していて、多くの村では江戸時代になっても鉄砲を保有していた。しかもその総数は、大名が持つ銃の数を上回っていたという。
 しかし農民たちは、鉄砲を害獣駆除には使っても、武装蜂起に用いることはなかった。江戸時代には全国で一揆が何度も起こっているが、本当ならば銃を使用しても良かったはずだ。それにもかかわらず銃が一般化しなかったのは、戦国時代に戻りたくない農民たちの自己規制が働いたのだと考えられている。
 確かに、一般人が殺傷能力のある道具を所持していることと、それが直ちに武器として使用されるかは別問題だ。たとえば現代の日本でも公式に登録されているだけで、約145万本の日本刀、約30万挺の散弾銃があるという。これが全て武器として使用されたら、すぐにでも日本は修羅の国になるだろう。しかし現実としてそうなっていないのは、物理的な武装解除よりも、人々が武器を使いたくないという『心の武装解除』が進んだからだ。
 さて、異常気象から始まった戦国の世には、凶作の村を捨て、兵士として生き抜いた逞しき人々が多数存在した。しかし1590年、関東の戦国大名である北条氏が滅び、列島から戦場は消えてしまう。同年には浪人停止令が出され、村落から傭兵を追放することになった。
 戦場でしか生きられない兵士たちはどこへ向かったのか。一つの行き先は巨大公共事業の作業員。当時、大坂築城にはじまる城と城下町の建設ラッシュ、干拓治水事業といった巨大事業が相次いで実施されていた。
 そしてもう一つが朝鮮出兵である。豊臣秀吉は列島の『天下統一』を成し遂げた後、休戦期間挟みながら1592年から1598年の間に朝鮮出兵を試みている。秀吉軍の数は実に16万人であった。
 出兵の動機には謎が多いが、歴史学者藤木久志は、国内の戦場にあふれていたエネルギーに対する新たなはけ口を朝鮮半島に求めたと考える。実際、列島内での武装解除と、半島への侵略戦争は並行して進んだ。
 秀吉の死よって朝鮮出兵が終わると、少なくない兵士たちが東南アジアへ傭兵として流れた。記録によれば1599年、スペインのマニラ総督は、朝鮮出兵に従事した日本兵約10万人が、新たに稼ぎ場としてフィリピンを狙っているのではないかと危惧している。事実、当時のフィリピンには、森林の伐採や土木工事などの肉体労働に従事する元日本兵士が数多くいたという。マニラ総督は、そんな彼らの暴力的なエネルギーに警戒感を募らせていたのだ。
 一方で、日本出身の傭兵たちは、東南アジアにおける植民地の奪い合い、内乱の制圧、貿易船の自衛のため、安価な労働力として活用された。1615年にはマニラ総督がオランダ軍を攻撃するために、500人の日本出身の傭兵を雇い入れたが、暴れるばかりで統制がとれずに、途中で追放してしまったという記録が残っている。
 『日本人は控えめで内向的』というのが、いかに一面的な印象論かということがわかる。逆にいえば、当時の『日本』が、現代日本とは非常にかけ離れた空間であったということでもる。戦国の世は文字通り、暴力に満ちた修羅の時代だったのだ。
 江戸時代の人口急増
 江戸幕府も、秀吉の平和政策を受け継ぎ、民衆の武装解除に務めた。江戸幕府がスタートしてからも、農民はしばしば近隣の村と武力衝突を続けていた。幕府はそのような村々の戦いを処罰し続け、裁判による平和裏の解決を定着させよう腐心したのだ。
 しかし江戸幕府自体が、すぐに平時モードに切り替えられたわけではない。江戸時代初期にが、幕府の暴力支配モードは続き、百姓一揆に対して村人を皆殺しにするような事件も起こっている。
 {注 磯田道史『徳川がつくった先進国日本』文春文庫、2017年。水戸藩の領土内の生瀬郷で、年貢について不満を持った農民たちが、代官を殺害する事件を起こし、水戸藩に報復された。藩側の公式記録は残されていないが、旧生瀬村の旧家に伝わる古文書によると、村民は皆殺しにされ、犠牲者の数は350人に及んだという。}
 さらに1637年に起こった島原の乱(島原・天草の一揆)では、12万人の討伐軍が多数の住民を殺戮した。一揆を沈静化できたのはいいものの、島原・天草の地は荒れ果てて、税収は激減した。当たり前である。ここで幕府は気付いたのだ。領民を殺しすぎると、年貢を徴集できなくなり、藩の武士を食わせることができなくなる、と。この島原の乱を契機に、江戸幕府は武力による血なまぐさい『武断統治』から距離を置くようになった。
 こうして『太平の世』だる江戸時代が訪れたわけである。江戸時代の始まった1600年頃の人口は1,500万人前後だったと推測されているのだが、これが1721年には3,128万人にまで増加している。わずか100年の間に人口が倍以上になった計算だ。
 平和になったのはいいとして、なぜ列島の人口はここまで増えたのか。列島内で戦争が少なくなったということでいえば、古代にも平和な時代はあったはずだ。
 しかも17世紀の気候は、それほど良かったとも言えない。16世紀後半から17世紀初頭は、小氷河期の狭間であり厳しい気候も緩和されたのだが、17世紀半ばには太陽活動が低下し、世界的に異常気象が観察されている。
 列島でも相次いで天候不良による飢饉が発生した。特に1640年から1643年にかけて起こった寛永の飢饉では、少なくとも5万人から10万人程度が餓死したと見られている。江戸時代にはその後も何度も大飢饉が起きているが、江戸幕府が倒され、再び戦国時代が始まることはなかった。
 人口増加の理由は、婚姻率の増加、農業生産性の向上に求めることができる。
 『昔の人は結婚が早くて子どもをたくさん産んだ』というイメージがあるかも知れないが、実は16世紀までの農村では生涯結婚できない人がたくさんいた。結婚とは、もっぱら家を継ぐ長男のものであり、直系長子でない場合は、結婚して世帯を持つ自由が与えられていないことが多かったのだ。今でいう奴隷同然の人も多く存在した。
 しかし新田開発が進んだことで、長男以外でも結婚して独立した世帯を持つことが可能になった。すまわち、これまで結婚の自由がなかった『農民』も、配偶者を得て『農家』を営むことができるようになったのだ。こうして誰もが生涯に一度は結婚できる社会が実現したわけである。
 『農家』が増えることは、施政者にとっても都合が良かった。江戸時代に普及したジャポニカ米による水田耕作は手間がかかる。複雑な地形の中で、水を水平に維持し続ける必要があるからだ。そのような水田を複数管理するには一つの大集団よりも、コンパクトな家族がたくさんあったほうがいい。
 こうしてようやく、自分の田んぼの管理さえしていれば、何とか生きていける環境が整った。列島に住む人々が定住を始めてから実に約1万6000年近く、稲作が始まってからでも約2000年が経過してのことである。
 自由という意味では、中世のほうがはるかに制約のない時代だっただろう。農民は自由に武器を持ち、自由に戦争をしていた。そして何より下層階級出身者が『天下統一』を成し遂げているくらいだ。しかし、その自由は、常に危険との隣り合わせだった。自由と安定は相性が悪い。約500年にわたる自由で危険な中世は終わりを告げた。
 江戸と明治は断絶か連続か
 前号で、時代区分は『古代』『中世』『近代』の三つで考えるのがシンプルでいいと書いた。しかし日本史では通常、江戸時代は『近世』と呼ばれる。『中世』と『近代』の間という意味だが、日本独自の概念だ。
 しかし『近世』も英語では『early modern』と表現され、それを再翻訳すると『初期近代』や『前期近代』といった意味になる。
 実は、江戸時代を『初期近代』ではなく『近世』と表記するかどうかには、ちょっとした派閥争いが関係している。
 まず、江戸時代はとんでもない暗黒期だったが、明治維新で日本は一気に文明化したと考える人々がいる。彼らは江戸と明治を同じ『近代』という区分で考えたくないから、『近世』という言葉を使用したがる。
 一方で、江戸と明治に大きな断絶はないと考えれば、共に『近代』という時代区分を用いるべきとなる。先に宣言しておくと、この連載での立場は後者に近い。
 もちろん江戸と明治の相違点は大きい。
 たとえば江戸時代に『国家』といえば、今でいう『藩』のことだ。約280の『国家』が地域社会を支配し、その『連邦国家』を束ねる主体として『公儀』や『天下』と呼ばれた江戸幕府があった。『国家』(藩)は、『天下』(江戸幕府)の言うことを全て聞いたわけではない。幕府は金銀銅の硬貨しか認可しなかったが、藩は紙幣を発行していたという具合だ。飢饉対策にしても基本的には各藩任せだった。中央集権国家を志向した古代日本や、明治日本とは性格を異にする。
 しかも幕府や藩は年貢こそきちんと徴集するくせに、福祉を提供しようという発想はなかった。財政を好転させることには熱心だったが、『国民』の幸福なんてほとんど眼中にない。年貢というのは単なる『地代』であり、いわば幕府という大家さんに、借り手の農民が家賃を払っているようなものだった。
 また今の日本国とは国境の範囲も違えば、概念も違う。蝦夷地(北海道)では松前藩が活躍していたが、アイヌは交易相手に過ぎなかった。社会学者の加藤秀俊の言葉を借りれば、松前藩は『北海道南端の海岸部になんとなく寄生した利権集団のようなもの』。また、琉球王国薩摩藩支配下にあったが、こちらも『日本の領土』というわけではない。厳密な国境線というものは存在しなかったのだ。
 このように支配体制だけを見れば、江戸と明治には大きな断絶がありそうに思える。しかし人々の生活に注目した場合、また別の『初期近代』の姿が見えてくる。
 江戸は暗黒時代だったのか?
 江戸時代には『士農工商』という身分制度が敷かれ、庶民には職業選択の自由も、移動の自由もなかった。そんな風に学校で習った人も多いのではないだろうか。
 しかし今の教科書から『士農工商』の文字は姿を消している。江戸時代に身分制がなかったわけではない。ある教科書では『江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人など、さまざまな身分の人々によって構成されていました』と記されている。
 確かに江戸時代には、武士、百姓や町人(商人・職人)という階級が存在した。しかし江戸時代後期になると『金上侍』という言葉が登場するように、武士の身分をお金で売る藩まで登場した。また困窮して身分を売った武士もいたし、先祖代々の武家を廃業して越後屋を創業して成功した人物もいる。
 移動の自由も制限されていた。幕府や藩にとって領民の年貢が基本的財源だったため、人々の移動に敏感だったのだ。しかしその仕組みは、現在のパスポート体制に似ている。現代日本人は、アメリカや中国に完全なる無許可で行くことはできないが、パスポートを持ち、しかるべき手続きを踏めば、比較的簡単に国境を越えられる。
 同じように江戸時代の人々も、かなり自由に列島内を行き来した。特に江戸中期以降は庶民の旅ブームが起こり、世界的に見ても早いマスツーリズム時代が到来していたのだ。旅先として人気だったのは伊勢神宮。『伊勢講』という旅費の積み立て組織には1777年で440万人が参加していた。農閑期を利用した団体旅行は、まるで昭和の『農協ツアー』のようだ。
 特に60年周期の『おかげ参り』にはとんでもない数の参拝者が伊勢神宮に押し寄せていた。1705年には4月から5月にかけての2ヶ月で何と約365万人が参拝したという記録が残っている。
 暴力まみれの時代から、ようやく旅行に浮かれられるくらい列島は平和になった。しかしどんな支配体制も長続きしない」
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 徳川家康は、暴力を武士・サムライだけが独占する為に、豊臣秀吉にならって庶民に対して心・精神と物理の両面で武装解除を強要した。
 御上(御公儀)は、公権力で日本を息苦しいほど憂鬱に支配した。
 全ての元凶は、狸親父こと徳川家康であった。
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 武士の株を買って武士になった庶民(百姓・町人)達。
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 武士の貧困状態を表す言葉が、「武士は食わねど高楊枝」である。
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 武士は、大名・藩の許可なく領外に出ると脱藩者=犯罪者とされ、見付け次第上意討ちか連れ戻されて切腹を命じられた。
 武士になる事は、上意の理由に関係なく「死」を覚悟する事であった。
 武士道とは、「死ぬ事と見付けたり」である。
 一瞬の気の緩み油断が、「死」につながる。
 言い訳や弁明は一切通用せず、女々しいとされ、見苦しいとされ、武士にあるまじき振る舞いとして軽蔑された。
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 庶民は、嫌われたら「村八分」で除け者にされたが、命は取られる事はなかった。
 庶民には、名誉も体面も面子もないがゆえに、名誉や体面や面子を守る為に切腹する必要はない。
 庶民は、戦わず、抵抗せず、従わず、何もかも投げ捨てて、身一つ、命大事に逃げ出した。
 庶民にとって戦うとは、逃げ切れなくなり、命を守る為にやむをえずである。
 つまり、「窮鼠猫を噛む」が庶民の生き方である。
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 武士を支配したのは、忠義・忠誠であった。
 庶民を支配したのは、公儀・御上ではなく空気・空気圧・同調圧力つまり世間・世間体であった。
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 武士にとって大事だったのは、主君・殿様であった。
 庶民にとって大事だったのは、お天道様・ご先祖様・氏神様であった。
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 武士社会は、嫉妬ややっかみが渦巻くどす黒い閉ざされた空間で、陰険・陰湿な嫌がらせや苛めが酷かった。
 武士の世界は、最も酷いブラックであった。
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 武士が出世し役職手当を得る為には、役職の数が限られていたので、同僚や部下はおろか上司さえも蹴落とす必要があった。
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 武士も庶民も、日本にのみに存在し、中華(中国・朝鮮)にはいなかった。
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 「江戸時代がわかるお役立てサイト
 江戸時代Campus
 {金で武士になった庶民(百姓・町人)}
 江戸時代は農民でもお金を払えば武士になれたって本当?
 ある程度の年齢の方は、江戸時代の人々は士農工商という四つの身分に分けられていたと学校で教わった記憶があると思います。
 しかし、現代ではそれらは学説的に否定されており、学校の教科書からも「士農工商」の項目は削除されています。
 とはいえ、江戸時代の職業が世襲制であったことには変わりなく、よほどのことがなければ武士の子は一生武士、農民の子は一生農民であったわけです。
 ましてや、農民が武士になるなどということはありえないと一般には思われています。
 しかし、驚くべきことに、世襲制であるはずの武士の身分を農民がお金で買うことができたのです。
 武士になるための料金表が存在しました
 特に江戸後期になると、お金を出して武士の身分を得る人が多かったようです。それだけ武士という身分に憧れる人が多かったのでしょう。
 これらのお金で武士の身分を買った人々は「金上侍」と呼ばれました。
 驚くべきことに、藩によっては武士になるための料金を表にしていたところもあるようです。
 武士になるための料金表があるなんて信じがたいことですが、事実です。
 例えば独眼竜伊達政宗で有名な仙台藩などは次のような料金体系になっていました。
 「百姓に帯刀を許す」のに必要な料金は50両。
 「百姓に苗字を許す」のに必要な料金は100両。
 「百姓が武士の戸籍に入るのを許す」のに必要な料金は250両。
 つまり、現代の貨幣価値になおして、およそ2500万円程度のお金を積めば、百姓から晴れて武士になることができたということです。
 しかし、よほどの豪農でもなければ、おいそれと百姓が出せる金額ではありません。
 やはり、武士になるにはそれなりに敷居は高かったと言えるでしょう。
料金があまりに高く希望者が少なかったためか、後にこれらの料金は半額にされたようです。
 半額になったとはいえ高額であることには変わりなく、武士という身分を得るにはそれだけの価値があると仙台藩では考えられていたのでしょう。
 格安料金で武士になれた盛岡藩
 このように仙台藩で武士の資格を得るには、それなりの金銭的に高いハードルがあったのですが、同じく東北の盛岡藩の場合は仙台藩に比べるとかなり格安でした。
 40両から50両で武士の身分を買うことができたようです。
 現代の貨幣価値に直すと、400万円から500万円程度となりますので、仙台藩の料金と比べるとだいぶ割安感はありますし、現実的な気がします。
 仙台藩が現代でいえば家1件分の料金なのに対して、盛岡藩は高級車1台分といったところでしょうか。
 仙台藩と比べてだいぶ割安だった盛岡藩の料金ですが、それでもあまり希望者はいなかったようで、後にこの料金は3分の1に下げられたようです。
 130万円から170万円程度で武士の身分が買えてしまうというのは、なんとも驚きです。
 どこの藩も財政事情が厳しかったのでしょうか、武士の身分をお金で売っていたという事実にも驚かされますが、それが最後は投げ売り状態だったということに少なからぬ哀れみさえ感じてしまいます。
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 {武士の貧困と内職・副業}
 江戸のお侍さんは意外にも貧乏でした〜内職をするのは当たり前
 江戸のお侍さんといえば身分が高く、それなりの優雅な生活をしていたと思われますが、下級武士たちになるとその生活はかなり質素なものでした。
 多くの下級武士たちは内職をして、生活の足しにしていたのです。
 内職というと貧乏臭いイメージがありますが、江戸のお侍さんにとってはそれは当たり前のことだったのです。
 彼らはどのような内職をしていたのでしょうか?
 最下級武士の年収はなんと37万5千円!?
 よく時代劇などで、下級武士に対して「このドサンピン」などというセリフを吐くシーンがよく見られます。
 実は、この「ドサンピン」という言葉は、当時の最下級武士の1年間の給料が「三両一人扶持」だったことに由来しています。
 つまり「三両」のサンと、「一人扶持」の一、すなわちピンを合わせて「ドサンピン」というわけです。
 1両の貨幣価値を現代に置き換えるのはなかなか難しいのですが、当時の物の値段から換算するとおよそ10万円程度と考えられます。
 そして「一人扶持」というのは、米五俵のことです。
 つまり、当時の最下級武士の給料は1年間でわずか30万円ほどの現金と五俵のお米だったということになります。
 お米の値段を現代の貨幣価値に換算すると、お米一俵は1万5千円ほどです。
 ということは、五俵だと7万5千円ほどということになります。
 現金でいただく三両と合わせて、およそ37万5千円が彼らの年収ということになります。
 月収ではなく、あくまで年収です。現代のサラリーマンの平均年収の10分の1以下です。
 お侍さんたちが行っていた意外な内職の数々
 さすがにこれだけの給料で生活していくのは実質的に不可能で、当時の多くの下級武士たちは「内職」をしていました。当時、百石以下の下級武士たちは内職をすることを許されていたのです。
 彼らの行っていた内職にはさまざまなものがありました。
 金魚や鈴虫、コオロギなどの養殖から、傘張りや提灯、凧などを作る仕事、あるいは朝顔ツツジの栽培などありとあらゆる仕事を行っていました。
 特に傘張りは時代劇などでそのシーンを見かけることが多いので、武士の内職というと傘張りを思い浮かべる人も多いことでしょう。
 このように、彼らはさまざまな仕事を行っていましたが、それらの仕事は地域によって盛んな場所があり、代々木の鈴虫・コオロギ、下青山の傘張りなどが有名です。
 明治以降の名物である「入谷の朝顔市」も、元をたどれば武士たちの朝顔栽培の内職から来ているわけです。
 しかし、彼らには仮にも武士としてのプライドがあるために、内職で作ったものを商人の屋敷まで売りに行くことをしませんでした。
 それらを卸問屋まで持って行って換金するのは、武家地の辻番の番人が副業として行っていました。
 武士たるもの、いかに懐事情が寂しくても商人に頭を下げるわけに行かなかったのでしょう。
 旗本でさえも決して豊かではなかった懐事情
 こうした内職が許されたのは百石以下の下級武士だけだったのですが、実は下級旗本なども決して懐が暖かかったわけではないようです。
 そこで彼らは三味線や踊りなどの腕を磨いて、高級旗本などが催す宴会でそれらを披露して「おひねり」をいただくというようなことをしていたようです。
 高級武士である旗本が、芸人まがいのことをしてお金を稼いでいたというのは驚きです。
 江戸時代では、農民ばかりが貧しい生活をしていたようなイメージがありますが、実は武士たちの生活も決して楽ではなかったのです。
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 {武士に自由はない}
 武士たちは外泊禁止のためお出かけはいつも日帰り
 現代でも未成年であれば、門限や外泊禁止のルールを設けている家庭も多いと思いますが、江戸時代の武士たちは、たとえ大人であっても外泊が禁止されていたのです。
 外泊が禁止なだけではなく、暮れ六つ(午後6時)までに帰宅をしなければならないという門限まであったのです。
 午後6時が門限なんて、現代なら高校生でも怒ることでしょう。
 門限があって外泊ができないということは、当然ながら自由に旅行もできないということになります。
 江戸時代の庶民の間では、旅行がブームになっていました。
 弥次さん喜多さんでおなじみの東海道中膝栗毛には、お伊勢参りに向かう旅の楽しさが思う存分書かれています。
 武士にはそういった楽しみが許されなかったわけですから、意外にも武士というのは大変な職業だったのかも知れません。
 武士たちの行動範囲は非常に限られていた
 武士に門限があったり外泊が禁止された理由として、24時間体制で非常時に備えなければならないという役目があったからです。
 戦国時代ならいざ知らず、天下泰平の江戸時代にそこまでの臨戦態勢を取る必要があったのかどうかは疑問ですが、武士というのは建前上はそういった気持ちで日頃から生活をしなければならなかたわけです。
 大名などは、上屋敷中屋敷下屋敷といったようにいくつかの住まいを構えているものも少なくありませんしたが、たとえ側室が住んでいる下屋敷であっても外泊ができなかったといいますから、かなり厳しいルールといえるでしょう。
 そのため、ちょっと遠出をする用事があるときなどには、夜明けとともに出発をしなければ、日帰りで帰ってくるのは困難になってしまいます。
 日帰りといっても現代のように車や電車があるわけではありませんので、行動範囲は限られます。
 「たまには家族サービスのために1泊旅行に出かける」などという息抜き的なことも武士たちは出来なかったわけです。
 そういった意味では、武士というのはかなり不自由な生活を強いられていたということが分かるかと思います。
 武士が旅に出ることが許された例外とは?
 武士が堂々と旅にでることができるのは、主君の参勤交代のときや、京都の二条城へ行ったり自分の藩に用事で出かけるなどの「御用道中」のときだけでした。
 また、例外として親戚に祝い事や不幸があったときに限り、旅にでることが許されたようです。
 しかし、そういった理由があれば簡単に旅にでることができたのかというとそうでもなく、面倒な手続きをして初めて許可されたのです。
 まず、自分が所属する支配頭に対して、旅にでる理由やお供の人数、所要日数などを申し出て、道中奉行に許可の切手を発行してもらわなければなりませんでした。
 さらに、関所を通過する必要がある旅の場合には、関所手形も必要でした。
 祝い事が理由の旅であればともかく、不幸があった時などはとても旅を楽しむような心境にはなれなかったことでしょう。
 また、禄高のある武士の場合、一人で気楽に旅をするというわけにもいかず、必ずお供を連れて行くことになりましたので、それなりに出費もかさんだに違いありません。
 江戸時代においては、武士という特権階級に憧れる人は少なくなかったと思いますが、意外にも一般庶民の方が自由気ままでストレスがなくて、いきいきと生活ができたのかも知れません。」
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 ウィキペディア
 郷士は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)とも。

 概要
人々の立場が流動的であった戦国時代が終わり、徳川幕府下で新しい階級制度(武士・百姓・町人)が形成される中、武士と農家の中間層に分類される層(地侍土豪など)が在郷(城下でなく農村地帯に居住すること)する武士として扱われたもの。武士身分と同じく藩・幕府に士分として登録され、苗字帯刀の特権も与えられている。しばしば混同されるが、苗字帯刀を許されている層には郷士以外の階級(豪商・豪農・学者など)も含まれているため、「名字帯刀=郷士」という認識は誤りではないが正確でもない。
 郷士は「(武士階級である以上、その特権として)苗字帯刀を許されている」のに対し、郷士以外は「(武士階級ではないが、特に働きがあったため)苗字帯刀を許されている」のである。名字帯刀が基本的に武士の特権であること、それが与えられることは名誉に違いはないが、武士身分と一緒になっている訳ではない。論者の中には名字帯刀に加えて知行を持つ事を郷士の条件として、「地頭帯刀」という用語を用いる場合もある[2]。

 分類
 農民・商人から下層・中層の武士階級までは、士分株の売買などを通じて、かなりの階級の流動性が保たれていた。したがって郷士においても、時代が下るにつれて古参郷士とは別に、新興郷士とも言うべき人々が次々と現れた。また、古参郷士でも背景となる戦国時代以前の立場については様々であり、一様ではない。
 戦国時代に士分(この場合は存続している戦国大名の家臣団名簿に登録されている事を指す)であった人々の内、藩士としての地位を与えられながら理由あって在郷領主としても行動した者。
 兵農分離以前からの半農半兵(兵士の自給自足・農民の自主自衛)の伝統から、士分の中には自前の農地(多くの場合、一般より大規模な農地を有していた)を直接管理して家計の支えにしている層がいた。彼らの内、規模の大きい者は豪族と呼ばれ、より規模の小さい者は土豪地侍と呼ばれた。彼らは江戸時代に「在郷藩士」として各藩の士分階級に 取り込まれ、従来通り平時の農地管理と非常時の軍役を両立し続けた。
乱世の中で所属していた大名家が滅亡して士分を失った者達は再仕官を拒絶したり、逆に叶わなかったりして帰農したものも多かった。その中には旗本や家老などの重臣クラスが土着した例もあり、新しくその土地を領有した藩の支配者が旧領主を支持する勢力への懐柔としてそうした人々を藩士に取り立てる場合があった。その場合、多くは一般藩士ではなく城下城内での勤務や栄達を禁じられた「在郷藩士」として扱われ、今まで通りに農地管理を主な生業にした。土佐藩では山内氏が旧領主である長宗我部氏の家臣団を藩士として登用しつつ、こうした冷遇を行った事で知られている(上士・下士)。
 江戸時代初期までは農民階級・商人階級に属していたが、何かしらの理由で上記と同じ身分を与えられた者。
 大名家に対しての献金や新田開発の褒美として郷士に取り立てられた者。1に近い地位を持ちながら、郷士身分の範疇から漏れていた者が後から取り立てられたという側面が強い。
 売却されていた士分株の内、「郷士株」を購入して身分を買い上げたもの。純粋に太平の世で身を立てて、その栄達として立身した者が多い。著名な郷士である坂本龍馬も祖先である豪商の坂本直益が土佐藩より郷士株を購入、曽祖父の代から郷士身分を得ている。
元は一般藩士であったが城下で家禄のみによって生計を維持できず、城下郊外または農村で農業を営む為に郷士身分へ下ったもの。
 特別の所以があるもの。

 特徴
郷士研究の第一人者である木村礎は、郷士とは以下の特徴を併せ持っている場合が多いとした。
 存続している藩(或いは知行地を持つ旗本・御家人)の家臣として正式に承認されている
城内で勤務する一般藩士とは明確に区別され、基本的に在郷している
所持地の全部または一部の領有を「知行」として認められ、その管理維持を生活の中心とする(地頭)
 軍役については場合により異なる
 従って事情により在郷任務を与えられているというだけで立場は一般藩士である者(薩摩藩の「中宿」や柳川藩の「在宅」)、陪臣にして在郷している者、上記で言及した名字帯刀は許されているが士分株は購入・譲渡していない者などは、郷士とは異なる存在に分類される。
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 キリスト教の原罪史観やマルクス主義共産主義)の階級闘争史観では、江戸時代を説明できない。
 特に、マルクス主義共産主義)の階級闘争史観は、日本の歴史において害毒・有害である。
 中華儒教の天命史観も、日本の歴史において無意味・無価値であった。
 何故なら、キリスト教の原罪史観もマルクス主義共産主義)の階級闘争史観も中華儒教の天命史観も、排他的不寛容な絶対的価値による攻撃的積極的ポジティブ歴史観であるからである。
 つまり、強者の論理による歴史観である。
 日本でなぜ通用しないかといえば、日本民族日本人は弱者の防衛的消極的ネガティブ理論で生きてきたからである。
 つまり、弱者の理論である。
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 マルクス主義共産主義)が支配する国や地域は、人民の天国・労働者の楽園ではなく、監視が厳しく、自由がなく、いつ何時不当に逮捕され、無実にもかかわず拷問を受け、惨殺・虐殺されるかわからない生き地獄であった。
 マルクス主義共産主義)は、人民の正義・人民の大義で迫害と弾圧による死と暴力の暗黒時代しかもたらさない。
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 日本民族は、単一民族という単一性の強さ故に安定した平和な国をつくり、諍いの少ない恨みっこなしの平穏で穏和な社会をつくった。
 敢えて口に出さなくても、くだくだと説明しなくても、周りの状況と相手の顔や眼を見れば大抵の事が分かった。
 日本民族日本人の強みはそこにあった。
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 江戸時代の日本社会は、権力者である幕府・御公儀・御上、領主・大名に関係なく、相手に対する配慮・思い遣り・忖度という空気・空気圧・同調圧力で支配されていた。
 江戸時代の庶民(百姓・町人)は、権力者である幕府・御公儀・御上、領主・大名を当てにせず依存せず、自己犠牲・自己規制・自己責任・自助努力・自力救済の原則で生きていた。
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 江戸時代の日本人と2000年代の現代を生きる日本人とは、別人の日本人である。
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 日本社会は、中華世界(中国・朝鮮)に比べて血生臭さが少ない。
 それは、日本の庶民(百姓・町人)が中華世界(中国・朝鮮)の小人とは違うからである。
 そして、日本の武士・サムライが中国の士大夫・読書人や朝鮮の両班と違うからである。
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 庶民の民度が高さが、日本民族中華民族漢民族朝鮮民族)との違いはそこにある。
 日本のような武士・サムライや庶民(百姓・町人)は、中華世界(中国・朝鮮)には存在しなかった。
 それは、日本天皇が中華皇帝(中国皇帝)や朝鮮国王とは違うという事である。
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 日本にとって友好的であったのは、百済・古新羅高句麗渤海などの諸国のみであった。
 百済・古新羅高句麗渤海は、親日派知日派であった。
 統一新羅・高麗・李氏朝鮮は、反日派敵日派で、日本を何度も侵略し、日本人を虐殺し、日本人を強制連行して中国人に奴隷として売っていた。
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 中国も反日派敵日派であって親日派知日派ではない。
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 戦国時代に、白人キリスト教徒は日本人を奴隷として売買して金儲けをしていた。
 日本人奴隷交易に手を貸したのが、中世キリスト教会であった。
 それ故に、キリシタンは弾圧された。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは日本を崩壊させるべく、共産主義系日本人テロリストは天皇制度を廃絶させる為に、昭和天皇や皇族を殺すべくつけ狙っていた。
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 明治期の薩長史観・官軍史観と同様に戦後の東京裁判史観(キリスト教史観・共産主義史観)そして1980年代頃の日本人極悪非道の重犯罪者史観=自虐史観を、再考する時である。


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