🏯37)─2・A─下級武士の懐事情は想像以上に厳しく日々倹約と内職の暮らしであった。~No.71 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 武士は、日本のみに存在し、中国や朝鮮には存在しなかった。
 日本の武士は、ヨーロッパの騎士とは違う。
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 武士は、「貧すれば鈍する」事は少なく、「武士は食わねど高楊枝」の痩せ我慢で武士の体面を保っていた。
 武士は内職をする為に、百姓や商人に頭を下げて仕事を分けてもらい、品物を納めて金を貰っていた。
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 2023年1月3日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「下級武士の「懐事情」は想像以上に厳しかった! 倹約続きの生活で人気だった意外な「内職」とは?
 武士全体の9割以上を占めていたという四十九石以下の下級武士たち。限られた収入の中、分相応の生活を営み、愉しんでいたという。週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』では、江戸三百藩の暮らしと仕事を解説。ここでは下級武士たちの懐事情をさぐる。
 週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』から(イラスト/さとうただし)
 © AERA dot. 提供
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 武士は給与の点からみれば、俸禄を所領つまり知行地で与えられた知行取と、現物(切米・蔵米と称される)で支給された切(蔵)米取に分けられる。知行取の場合は約40%の年貢率を所領に掛けて年貢米を徴収するとともに、領民である農民を労働力として使えるメリットもあった。
 しかし、上級幕臣である旗本でも知行取は4割ほどに過ぎない。残りは俸禄を現物で支給される切米取である。下級幕臣御家人に至っては大半が切米取だった。現米取も名称のとおり、現物の米で俸禄が支給された御家人だ。「八丁堀の旦那」の異称でも知られる江戸町奉行所の同心は御家人だが、その俸禄は三十俵二人扶持である。切米三十俵のほか、扶養手当にあたる扶持米が別に二人扶持支給された。
 幕府の場合、切米一俵は三斗五升入りで三十俵なら十石五斗。この俸禄米を年三回に分けて支給された。二月と五月に4分の1ずつ、十月に2分の1という割合である。扶持米は一日分が米五合とされ、1年360日分として年に一石八斗(一人扶持)となる計算だった。これを分割して、毎月月末に支給されることになっていた。
 切米や扶持米が支給される日、幕臣たちは幕府の年貢米が収納された隅田川沿いの浅草御蔵まで受け取りに出かけた。ただし、実際のところは札差と呼ばれる商人に切米や扶持米の受け取りや換金業務を代行させ、現金だけを受け取っている。
 扶持米は換金せず、そのまま飯米に回すことも多かったが、切米も扶持米も玄米で支給されたため、このままでは食べられなかった。そこで搗米屋に依頼して精米したが、御家人のなかには屋敷内に踏み臼を設置し、自分で白米についた者もいた。精米代を節約できるメリットがあったが、生活環境の厳しさが窺えるエピソードに他ならない。
 生活費を浮かせるため、食材などを共同購入することも珍しくなかった。酒は罇で買って升単位で分配している。燃料の炭などもまとめ買いした上で分配した。
 調味料の味噌や醤油などは自家製で、まさに手前味噌だった。屋敷内で野菜を作って自家用とすることも普通である。
 普段の食事も質素であり、朝食のおかずは味噌汁と香の物。お昼は野菜などを醤油で炒めた煮染物。夜は魚に野菜が付くだけだった(山本政恒『幕末下級武士の記録』)。
 下級武士の懐事情の厳しさを物語る食生活だが、それゆえ内職に勤しむのはごく普通の光景であった。傘張りなどは定番だが、幕府から与えられた土地を共同して活用する手法も広くみられた。
 御家人は所属する組単位で、おのおのが住む土地を与えられた。これは組屋敷と呼ばれ、おおむね数千坪単位で下賜された。これを組の人数で分けたが、この広大な土地が共同利用されたのである。
 東京の初夏の風物詩として台東区入谷の朝顔市は、将軍の警護役を勤めた御徒が内職として栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりだった。組屋敷を朝顔の栽培地として共同利用することで、大量に出荷して安価に販売することが可能となったのである。
 新宿区大久保周辺に集住していた鉄砲百人組同心が組屋敷で共同して栽培したツツジは、江戸のガーデニングブームのなかで名産品にまでなる。江戸の観光名所を挿し絵入りで紹介した「江戸名所図会」でも紹介されたほどだった。
 組屋敷では朝顔ツツジの栽培のほか、鈴虫やこおろぎ、金魚などの飼育も盛んであった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地を活用すれば難しいことではない。ここまでのレベルになると、内職というよりサイドビジネスと言った方が正確だろう。
 こうしたサイドビジネス御家人の生活を支えるとともに、江戸の庭園・ペット文化も支えていたのである。
 ◎監修・文/安藤優一郎
 あんどう・ゆういちろう/1965年千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。近著に『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)、『越前福井藩松平春嶽』(平凡社新書)、『お殿様の定年後』(日経プレミアシリーズ)他、著書多数。JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」等で江戸をテーマとする講師も務める。
 ※週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』から
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 トライイット
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 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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