🎑112)─1─日本のアニメが日本の価値観を世界に広めている。~No.253No.254 

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 世界に日本を知らしめているのは、エセ保守とリベラル左派が信仰する平和憲法ではなく、低俗なアニメ・漫画やゴジラそして日本民族の伝統的文化・宗教などである。
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 2024年1月17日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「英メディア「スタジオジブリのアニメは、欧米による『日本の見方』を変えてきた」
 スタジオジブリは、欧米の若者たちにも夢を与えてきたPhoto by Matt Popovich on Unsplash
 犯罪率が低く、モノづくりによって成長を遂げた経済大国であり、いまは少子高齢化が止まらない国──世界は日本に対してそんなイメージを抱えているだろう。
 英紙記者がスタジオジブリに乗り込んだ「本当にこれが最後の映画ですか?」
 だが、世界の「日本」に対する印象に大きく関わってきたのは結局、アニメや漫画などの「ファンタジー」なのかもしれない。なかでも80年代、スタジオジブリが欧米の若者に与えた影響について、英メディア「アンハード」が報じた。
 日本は「夢の工場」だった
 インターネットの登場以前、米国のティーンがアニメを見るには「違法な手段」に訴えるしかなかった。海賊版ビデオカセットはファンのあいだで、まるで「見るドラッグ」みたいに流通していたのだ。
 新しいアニメの発見は、小さな啓示みたいだった。未知の国に一歩足を踏み入れたようだった。彼方の国である日本について私が知っていたことといえば、祖父の語る戦争の話と、夕方のニュースで流れる暗い話に限られていた。
 80年代は、日本と欧米の貿易摩擦の時代だ。政治家たちは挑発的な発言をして、文字通り「ジャパンバッシング」に励んでいた。国会議員がホワイトハウスの前で、日本製の家電をハンマーで叩き壊すパフォーマンスをしたこともある。
 それでも、私や友人たちはひるまなかった。米国の文化とはまったく異なるアニメのなかの幻想に、変わらず魅了されていた。そして、当時でさえ私たちには、あるアニメ作家がほかの作家とはどこか違うことがわかっていた。
 その作家の名前は、宮﨑駿だ。
 たまに映画館へ行くぐらいの人だけだけでなく、ハードな映画ファンや批評家も同時に魅了する力をもったクリエーターは稀だろう。宮﨑の最新作『君たちはどう生きるか』は、2023年に日本で公開されると、いくつかの記録をぬりかえた。また北米では、オリジナルアニメ映画として史上はじめて、週末興行収入ランキング1位を達成している。
 海外のファンのなかには、ウェス・アンダーソンギレルモ・デル・トロといった著名人もいる。後者はデヴィッド・クローネンバーグを『となりのトトロ』の上映に連れて行ったほどだ。また2023年、ロンドンのバービカン劇場で初上演された舞台版『となりのトトロ』は賞賛を浴び、再び人気に火がついている。
 宮﨑は国外に訴えかけようとしたことはないし、また国外の状況を変えようとしたこともない。彼自身は、日本国外で自分の作品が人気を得ていることに「困惑している」と語っている。にもかかわらず、彼の作品は国外で何世代にもわたって多くの観客の心をつかんできた。そして、私たちの日本の見方を変えてきた。
 日本は家電から自動車まで、さまざまな「物」を世界に売ることで豊かになった。だが、日本がこれだけ人気を得たのは「物」ではなく、アニメやマンガ、任天堂のような「ファンタジー」を売ることによってだ。
 祖父の世代は日本を脅威と見なしていたが、私たちにとって、日本は「夢の工場」だった。
 学生運動家が携えていたのは「週刊少年マガジン
 現在では、日本は清潔で規律正しい国だと思われている。だが、第二次世界大戦後にアニメが生まれた頃は、まだ戦争の傷跡がいたるところに残っており、暴動も珍しくなかった。
 1960年には、各地でいわゆる「安保」に反対する運動が起こった。「安保」とは日米間で結ばれた安全保障条約のことで、戦争に疲弊していた市民は、この条約によって日本がまた米国のおこなう戦争に巻き込まれることを懸念して──結局その懸念は正しかったのだが──、これに激しく反対した。
 与党は結局、反対する議員を強制的に追放することで条約を強行採決した。これは明白な民主主義の否定であり、これによって各地でデモが起こり、その後の十年で暴動に発展していった。
 宮﨑が新卒のアニメ作家として、当時日本最大のアニメ製作会社だった東映に入社したのはこの頃だ。彼のキャリアは、当時生まれたばかりのとある「アニメ」から、ほんの数ヵ月遅れてスタートしている。
 1963年の元日、日本で最初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』が放送開始された。原作者の手塚治虫は、自信を持って自分の作品を「アニメ」と呼んだ。これには、海外から輸入された「アニメーション」と、自分の作品を区別する意図があった。
 『鉄腕アトム』をみると、いかに当時の安保運動の血がアニメに流れているかがわかる。第一話の最後では、平等を求めて広場に集まったロボットたちが描かれている。
 当時、日本中で労働者が経営者と争っていた。それは東映も同じだ。宮﨑の東映での最初の数年は、低賃金とサービス残業によって代表される。彼はすぐに仲間のアニメーターたちと労働組合を組織して抵抗した。
 そして組合の副委員長だった高畑勲は宮﨑を気に入り、宮﨑を自分が監督していた新しいアニメのスタッフとして誘う。高畑はすでに確立されていた東映の企業体制を捨て、もっと民主的で共同的なアニメ製作を目指した。その結果生まれたアニメ映画は商業的には失敗に終わったが、ふたりは意気投合した。
 70年代を通して、宮﨑と高畑は一緒に子供向けのアニメ番組を製作した。一方で、漫画とアニメは子供向けのものから、それを超えたものへと急速に発展し、世の不正を正すことに情熱を燃やしていたヤングアダルト世代のあいだで人気に火がついていった。
 米国では「コミックス倫理規定」(Comics Code)、英国では「コミックス・キャンペーン・カウンシル」(Comics Campaign Counsil)などの措置が当局によって設けられていた。アニメーションやコミックなどのエンターテインメントに対して、厳しい規制をかけていたのだ。
 一方の日本では、アーティストに裁量が与えられており、漫画というプラットフォームを用いて、体制に対して辛辣な社会・政治批評をおこなうことも許されていた。
 日本の学生運動家たちはベトナム戦争に反対するデモに「週刊少年マガジン」を持って行ったし、日本赤軍が1970年によど号ハイジャック事件を起こしたとき、運動家たちが送った声明文はこう結ばれていた──「最後に確認しよう。我々は明日のジョーである」(原文ママ)。『あしたのジョー』とは、ボクシングを通じて貧困から抜け出そうともがく青年を描いた人気漫画だ。
 宮﨑はいつも政治について直接語るのを避け、象徴表現に訴えてきた。
 「いまは、『芸術』運動の一環としてアニメーションを製作したり、社会問題に注意を向けたり、メッセージを伝えたりすることにはまったく興味がない」
 彼は1985年、日本の読者に向けて書いたエッセイのなかでそう語っている。「子供が楽しめる作品を作りたい」と彼は書いていた。
 だが、彼の作品のなかに静かに湧き上がる鋭い信念こそ、間違いなく作品に力を与えている。彼の作品のなかに絶えず存在する、反権威主義的な傾向を無視することはできない。
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