💖24)─3─杉原命のビザ奇跡物語のウソ。ポーランド・ユダヤ人難民は敦賀に上陸した。敦賀空襲。〜No.101 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 戦争は、善人も悪人も、兵士も民間人も、男も女も、大人も子供も、敵とみなした人間すべてを容赦なく殺し、生きたまま焼き殺す。
 ユダヤ人難民を助けた日本人は、こうして殺された。
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 日本政府・外務省・軍部・特高警察は、昭和天皇と日本国の名誉を守る為に、杉原千畝が訓令を無視して発行した通過ビザを正式なビザと認め、「命のビザ=杉原ビザ」を持ったポーランドユダヤ人難民全員の上陸・滞在・通過・出国を認めた。
 軍国日本は、ユダヤ人難民を拒否しなかった。
 外務省は、ポーランドユダヤ人難民の引き受け国家を探した。
 アメリカやイギリスは、国内の反ユダヤ派の反発を受け、ユダヤ人難民を押しつけてくる日本国の動きに激怒し、日本ルートを遮断するべく動いた。
 A級戦犯である松岡洋右外相と東条英機陸相は、同盟国ナチス・ドイツが不快に思う事を承知で黙認した。
 それは、親ユダヤ派の昭和天皇の希望でもあった。
 親ドイツ派、反ユダヤ派、右翼・右派などの人種差別主義者は、ナチス・ドイツが弾圧しているユダヤ人の日本上陸に猛反対し、全員日本から追放してナチス・ドイツに引き渡す事を求めた。
 軍部・陸軍・特務機関、軍国主義者、民族主義者は、親ユダヤ派として積極的にユダヤ人難民を保護した。
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 昔の日本人と現代の日本人とは別人の日本人である。
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 ウィキペディア
 敦賀空襲(つるがくうしゅう)は、福井県敦賀市及び東浦村、東郷村(全て当時)で1945年(昭和20年)に起きた空襲のことである。敦賀市史では、日本海側初の空襲である7月12日の空襲を特に「敦賀大空襲」と表記し大きく割いている。単に「敦賀空襲」といった場合、この7月12日に起きた空襲を指す。
何れも1945年の出来事である。
 詳細
 敦賀は空襲を受けた都市の中では最小規模だったが、軍需工場の存在や港湾拠点という理由で3回空襲を受けている。特に第一空襲が日本海側の港町にも関わらず、大編隊で襲撃する等きわめて激しかった。

 敦賀市が受けた空襲は以下の通り。
 7月12日-B29 約100機よる波状攻撃。兵士1名戦死、市民ら109名死亡。この日の空襲を特に敦賀大空襲と呼ぶ。
 7月30日-P476機による空襲。死者15名。
 8月8日-B29単機空襲。東洋紡績敦賀工場に直撃弾。死者33名。
 記録では3回空襲を受けたことにはなっているが、6月25日にも空襲を受けたとする資料、『敦賀空襲・戦災誌』が存在する。

 余波
 空襲や機雷敷設により、港湾能力が低下、航路が著しく阻害された。特に終戦前の1945年8月3日に1隻、終戦後の僅か2日後の8月17日は、2隻の船が敦賀湾において触雷・沈没している。死者等は不明。
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 命のビザ、遙かなる旅路 | Sonar Members Club No45 | Since ...
 2017 JAN 4 5:05:07 am by 野村 和寿
 北出明著『命のビザ、遙かなる旅路 ~杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書044)読了。
 命のビザ、遙かなる旅路
 杉浦千畝を陰で支えた日本人たち 交通新聞社新書
 リトアニアの首都カラナスの杉原千畝総領事の、ユダヤ人難民への日本通過ビザ発給は、つとに有名だが、本書は、ビザ発給を受けたユダヤ人たちが、シベリヤ鉄道の終点ウラジオストクから、国際航路で就航していた日本郵船の「天草丸」に乗船して敦賀港へ向かったとき、実は、JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューローや、日本郵船の多くの日本人たちが、半年以上に亘り、彼らを献身的にサポートしていた事実が書かれています。
 難民が着いた敦賀市では、戦雲急を告げる中、中学の校長が「ユダヤの民は、今は、ぼろを着ているが、高名な学者や芸術家、銀行家などを多く排出しており、ぼろをきているからといって、けっしてさげすんではいけない」と子ども達に訓示。
 ユダヤ人たちに、無償で銭湯を提供したり、宿を提供したり、また、難民たちにりんごを配る少年がいたなどのエピソードを発掘しています。難民たちは、敦賀から列車で、横浜や、神戸に向かい、アメリカを目指しました。著者は長く国際観光振興会に奉職後、たった一人で、ユダヤ人難民の生き残りを探し、家族達を探し当て、アメリカ中を旅をします。
 リトアニアカウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用
 この事実を当時のユダヤ難民たちの生き残りや家族へのインタビューを通して明らかにしていく迫真のドキュメンタリーです。多くの名もない日本人たちが、敦賀で、神戸で、ユダヤの難民を助けたという事実は重く、運命の糸でつながっていることを感じてしまいます。こんなことを70年経って発掘した本が出るとは本当に、すごいことだと思いました。
 ▇本書から見つけた興味深いことがら▇
 1,本書には「ヴェルディヴ事件」のことが若干触れられていました。1942年7月19日早朝ヴィシー政府下のフランス警察は、自主的にパリ在住のユダヤ人1万3000人を検挙。うち4115人の子、2016人の女性、1129人の男性をエッフェル塔近くの「ヴェルディヴ」と呼ばれる自転車競技場に閉じ込め、最終的にはアウシュビッツに送り込まれ、生存者はわずか25人だった。この事件が公にされたのは1995年シラク大統領の時で、そのときはじめてフランス政府は謝罪したということでした。
 2,1937年満州国ハルピンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会を開き、ユダヤ人の立場に同情したのが、関東軍指揮下のハルピン特務機関長樋口季一郎中将だったこと。満州国の経済圏の確立を企図したことがうかがえるとはいえ、関東軍ナチスを非難し、ユダヤ人に同情。 1938年3月満州と国境にあるソ連側のオトポール駅にナチスに追われたユダヤ難民が大挙して流れ込んだ。寒さと餓えに苦しむ彼らを救ったのが、で、ユダヤ難民をハルピンに逃れることが出来た。というエピソードにも触れています。
 3,ユダヤ人たちを、ウラジオストクから敦賀まで運んだ船、天草丸は数奇な運命の船でした。ドイツで竣工し、帝政ロシアに売却され、日露戦争で、日本海軍に拿捕、そして最後は、米海軍に撃沈されます。つまり、ドイツ→ロシア→日本→アメリカ と結びつきます。しかも時代は異なるものの、ユダヤ人を迫害していたドイツと、ロシアで活躍していた船が、日本でユダヤ人を助けることになるのでした。
 ▇天草丸の歴史
 ウラジオストク敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸
 ドイツ北部バルト海に面する港湾都市ロストックのネフタン造船所で1901年浸水し、帝政ロシア東清鉄道に売却、され、貨客船アムールと命名される。1905年日本海軍が、拿捕、天草丸と改名される。
 1906年に大阪商船に払い下げ、1929年北日本汽船に売却、その後日本海汽船に引き継がれ、敦賀~ウラジオストク間に就航。1932年、ジュネーブ国際連盟会議に出席する全権代表の松岡洋右:後の外務大臣が乗船していることである。
 1943年合併から大阪商船に移籍、1944年台湾近海で、米海軍潜水艦バングとレッド・フィッシュの両潜水艦の水上雷撃により沈没
 4,杉浦千畝の発給したビザの有効期間はわずか10日間でした。これではとても日本からアメリカへの乗船までの期間が確保できません。窮状を聞きつけたユダヤ研究家小辻節三は、松岡が南満鉄総裁時代の部下だったことから、窮状を当時の外相松岡洋右に直訴。松岡は「ドイツ・イタリアと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺せとまでは約束していない」として、小辻に秘策を伝授。それは、元官僚らしく、ビザの延長権限は地方公共団体の警察にあることを話し、これが認められれば、外務省はぐうの根も出ないとアドバイス。そこで、小辻は神戸の警察幹部に、1回のビザ延長15日間を認め、事実上何度も申請することで、無期限までビザ延長が可能になったのです。
 小辻節三については、下記のHPで詳細がありました。
 ユダヤ人ビザに奔走した小辻節三についてのHP
 敦賀市によるユダヤ難民関係のHP
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 産経WEST 
 2017.9.13 07:58
 「助けなければ、私はいなかった」 ユダヤ人難民の長男 「命のビザ」たどり敦賀を訪問
 「人道の港敦賀ムゼウム」の資料を見るデイビッド・マンスキーさん=敦賀市
 第二次世界大戦中に外交官の杉原千畝氏が発給した「命のビザ」で敦賀に上陸したユダヤ人難民の長男、デイビッド・マンスキーさん(64)=米国在住=が福井県敦賀市を訪れ、難民に関する資料を展示している「人道の港敦賀ムゼウム」を見学した。
 デイビッドさんの父で2年前に亡くなったサウルさんは、母や兄のサムエルさんらとともに1941年に敦賀に上陸した。デイビッドさんは妻のシーラさん(64)とともに、ポーランドからシベリア鉄道を経由してロシア・ウラジオストクから敦賀にたどり着いた父らの経路をたどる旅をしている。
 ムゼウムでは、サムエルさんが寄贈したビザのレプリカなどの資料を見て回った。同市役所も訪れて渕上隆信市長とも面談。デイビッドさんは「家族が自由を勝ち取った場所に来て感動している。敦賀の人たちの助けがなければ今の私はいなかった」と話した。
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 JTB
 6,000名ものユダヤ人を救った「命のビザ」とJTBとの意外な関係
 投稿日:2020年3月18日
 第二次世界大戦下のリトアニアで、ユダヤ人を救うため「命のビザ」を書き続けた、「日本のシンドラー杉原千畝」については、書籍・映画にてご存知の事と思います。実は、杉原が発行した「命のビザ」を持ってヨーロッパから日本へと続く、6,000名ものユダヤ人を救う命のリレーに、JTBも関わっていました。
 2020年は杉原千畝生誕120周年・杉原ビザ発行80周年という記念すべき年であり、リトアニア政府も「杉原年」と国会で正式に宣言し、「Visa for Life Chiune Sugihara」として、両国間での多くの文化交流活動が行われ、10月には杉原ウィークも開催されます。このプロジェクトには、JTB Europeも少なからず関りを持ち、リトアニアへのグループツアーなども用意しております。今回のブログでは、命をつないだJTBの役割と、リトアニアの魅力を紹介します。
 ユダヤ人の足取り
 ナチス・ドイツポーランドに侵攻し、迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、リトアニアに辿り着きます。当初ビザは、日本領事館だけでなく、オランダなど他の領事館でも発給されていました。しかし、1940年6月、ソ連ラトビアエストニアに続き、リトアニアを占領。7月には併合が決まり、各国の大使館や領事館は次々に閉鎖され、唯一残された日本領事館の閉鎖も8月末と通告されます。追い詰められたユダヤ人が生き延びるには、日本の通過ビザを手に入れ、シベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡って第三国へ脱出するしか道は残されていなかったのでした。
 リトアニアの首都カウナスで、杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人は、シベリア鉄道でロシアを横断して、ウラジオストクへ。ここから船で敦賀に上陸し、その後横浜や神戸へ移動、最終的にはアメリカなど他国へと渡って行ったのです。この長く厳しい避難の旅の一部を、アメリカのユダヤ人協会から依頼されたのがジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)でした。
当時、日本はドイツと友好関係にあったことから、この依頼を受けるべきか、ジャパン・ツーリスト・ビューロー本社内で議論の末に、人道的見地から引き受けるべきと決断。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員を置き、「天草丸」に添乗員を配置。受け入れ体制を整えました。
 敦賀の人々は到着したユダヤ人たちを、花を手に笑顔で出迎え、銭湯を無料で開放したり、リンゴを無償で配布するなど、言葉も文化も違う異国での暮らしを心身ともに支えました。
 画像出典:JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出 | 素敵な日本人へ~命をつないだ JTBの役割~ | JTBグループ 交流創造事業 発信サイト colors | JTBグループの地域活性化・交流創造事業
 参考サイト:ユダヤ人難民|人道の港 敦賀ムゼウム
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 和楽
 「命のビザ」を繋いだのは大迫辰雄敦賀の住民だった。杉原千畝が救出したユダヤ人のその後
 2020年06月13日
 目次
 中継地は日本
 2000トン級の船で幾度も往復
 敦賀では銭湯の無料開放も
 第二次世界大戦下のヨーロッパで、ユダヤ人に「命のビザ」を発給した外交官・杉原千畝
 彼のビザを手にしたユダヤ人は、その後アメリカやカナダ、オランダ領キュラソーインドネシア、オーストラリア、アルゼンチン等に移動した。だが最終目的地は各人で違っても、中継地は全く同じだった。ユダヤ人たちは福井県敦賀市に上陸しているのだ。
 日本は島国だから、どこかで必ず船に乗らなければならない。その手引きを実行したのは、大迫辰雄という人物である。
 中継地は日本
 杉原千畝が日本領事館領事代理として赴任したリトアニアは、ドイツとソビエト連邦というふたつの軍事大国に挟まれていた。
 1939年9月に始まった第二次世界大戦は、ドイツのポーランド侵攻から始まった戦争だ。アドルフ・ヒトラーは、第一次世界大戦以降分断されていた西プロイセンと東プロイセンの再接続を目指した。いわゆる「回廊問題」だが、ヒトラーにとってはポーランド側の先制攻撃をでっち上げてでも成すべき政治課題でもあった。
 無論、ドイツが占領した地域のユダヤ系住民は最低限の荷物を持って他国に避難するしかない。そうでなければ、ゲットー(強制移住区)か強制収容所で死を待つのみである。
 ヨーロッパの歴史上、ユダヤ人は常に被差別側だった。それがフランス革命以後の国民国家の時代に入ると、その独特な風習や財界への影響力がますます異端視されるようになる。1929年の世界恐慌の波を真正面から受けてしまったドイツ国民は、動揺の最中にその救いをナチスの主張に求めた。「すべての諸悪の根源はユダヤ人にある」という内容のそれだ。
 ナチスによるユダヤ人迫害は、1936年のベルリンオリンピック閉幕後から本格化する。
 ボーランドからリトアニアに逃れたユダヤ難民が注目したのは、カリブ海地域のオランダ領だった。このあたりは英、仏、蘭の領土がモザイクのように連なっているが、幸いにもドイツの魔の手からは遠い位置にある。だからオランダ亡命政府の領事館に列をなした。外交官のヤン・ズヴァルテンディクはユダヤ難民に対し、2200枚を超えるオランダ領植民地入境ビザを発給した。
 が、長距離旅客機のない時代にリトアニアからカリブ海までどうやって行くのか? もっとも、本当にカリブ海のオランダ領に行く必要はない。これはヨーロッパを逃れるための口実だ。
 だがいずれにせよ、この時点での選択肢はただひとつ。シベリア鉄道に乗ってロシアを横断し、遥か極東のウラジオストクへ向かう。そこから船に乗って日本を経由し、神戸のユダヤ人コミュニティーの力を借りつつ各国に分散する……という流れだ。
 そのような背景を知った杉原千畝は、本国の指示に逆らう形でユダヤ難民に日本通過ビザを発給し続けた。
 2000トン級の船で幾度も往復
 この「杉原ビザ」を持った人々は、逃避行の半ばで大迫辰雄という日本人に出会っている。
 大迫はジャパン・ツーリスト・ビューローという旅行関連法人の職員である。現在のJTBだ。
 ユダヤ難民に対する国際的支援は、決して皆無だったわけではない。アメリカのユダヤ人協会が各旅行会社に呼びかけ、それがジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク支店にも波及した。ウラジオストクに退去したユダヤ難民のために、輸送船を手配する。到着地は福井県敦賀港。
 大迫はその船に20数回も搭乗し、難民たちの名簿整理や身の回りの世話、さらに路銀の援助まで行っていた。片道2泊3日の日本海を毎週往復する旅である。しかも大迫の搭乗した輸送船天草丸はたったの2000トン級。筆者は日本と中国を往復する国際フェリー新鑑真号に乗ったことがあるが、この船の総トン数は1万4500トンだ。それでも外洋に出た時は大きく揺れた。
 実際に大迫の乗った船内では嘔吐する者が相次ぎ、大迫自身も体調不良に見舞われたそうだ。しかも彼がこの職に従事していたのは、1940年9月から翌年6月まで。波立つ極寒の日本海を、小さな船で毎週のように往復していたのだ。超人的な体力と言わざるを得ない。
 これだけの功績を成し遂げたにもかかわらず、後年の大迫はそれを周囲に明かすことはあまりなかったそうだ。彼の部下も「大迫さんは謙虚な人」と発言しているが、それ故に彼の名と功績は歴史の渦に埋もれかけていた。このあたりの性格は、通過ビザを発給した杉原千畝にも当てはまる。
 敦賀では銭湯の無料開放も
 敦賀港の地元住民は、大挙してやって来たユダヤ難民を優しく迎え入れた。
 「外国から難民が来る」という理由で反対運動が起こったり、デモが発生したり……ということは一切なかった。それどころか難民たちに対する金銭や食料の寄付が相次ぎ、銭湯の無料開放まで行われた。旅館に宿泊させてもらった難民もいる。もともと敦賀は明治時代からウラジオストクとの定期便があり、外国人旅行者の往来が盛んだった。航空機が発達するまで東洋と西洋をつなぐ移動手段はシベリア鉄道しかなかったという事情も相成り、敦賀港はその東端の拠点として機能した。そのため、住民も国際的な肌感覚を持ち合わせていた。
 さて、着の身着のままの状態で敦賀にたどり着いたユダヤ難民の中に、当時8歳のレオ・メラメドという少年がいた。
 レオの一家も、リトアニアで杉原ビザを受け取っていた。一家は最終的にアメリカへ逃れることになり、レオ自身は移住先のシカゴで財を成した。いや、「財を成した」という言葉では足りない。レオは金融先物取引市場の祖として、世界経済に多大な影響を与える存在になった。
 レオが敦賀への再訪を果たしたのは、2014年。この時、彼がマスコミの前で語ったのは敦賀と神戸での思い出だった。天草丸に乗った杉原サバイバーは、皆一様に「敦賀港が天国に見えた」と語っている。日本人からの親切を、彼らは生涯忘れない。レオはサバイバーの総意を、公人として代弁したのだ。
 それは、世界大戦の惨禍の中で華開いた奇跡でもあった。
 澤田真一
 ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。
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 ウィキペディア
 人道の港 敦賀ムゼウム(じんどうのみなと つるがムゼウム)(Port of Humanity Tsuruga Museum)は、敦賀港の歴史をまとめた資料館。
 特に、第二次世界大戦中に杉原千畝の命のビザに救われた多くのユダヤ人難民が敦賀にたどり着いた史実を紹介している。
 主な展示
 敦賀港は古くから、大陸への航路が開かれていたが、明治から昭和初期には特に欧亜国際連絡列車の出発地として、ウラジオストクへの航路が開かれ栄えた。その歴史を展示する。
 特に第二次世界大戦ナチスにより迫害されたユダヤ人の命を救うため、カウナスの日本領事館の副領事であった杉原千畝が外務省本省の意向を無視して発給し続けたビザ「命のビザ」を持ったユダヤ人らが上陸したのは敦賀港であった。
シベリア鉄道ウラジオストクから船の長旅を経て、最終目的地に向かうまでの束の間の平穏を、敦賀市民とのかかわりを展示やビデオ、また実際に救われたユダヤ人やその子孫のインタビューなどで振り返る。
 ムゼウムはポーランド語で資料館を意味する[2]。杉原によって救われたユダヤ人の大半がポーランドからであり、多くのポーランド孤児を救ったことが命名の理由。
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 TRiP EDiTOR 
 6千人のユダヤ人が上陸した過去も。鉄道と港の町「敦賀」の意外な歴史
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 御田けいこ
 2018/02/07
 敦賀のホスピタリティー
 杉原が発給したビザを持ち、日本行きの船に乗船できた難民たちがたどり着いたのが敦賀だった。敦賀の人たちは多くの避難民たちを支援した。銭湯の旭湯は無料でお風呂を開放し、人々は空腹の難民に食事を提供するなど、手厚い援助の手を差しのべたのだ。
国際港として開け、さまざまな国の人々の往来があったおかげで、敦賀の人々は外国人を受け入れる土壌が出来上がっていた。難民への支援は敦賀だからこそ成せたホスピタリティーではないだろうか。
 敦賀港のある金ヶ崎緑地に立つのが「人道の港 敦賀ムゼウム」だ。ここはポーランド孤児や杉原千畝の発給した「命のビザ」を持って敦賀に上陸したユダヤ難民たちに関わる資料や写真、杉原の肉声を通し、人を思いやる気持ちについて深く考えさせられる場所である。
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