関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ユダヤ人は、恩知らずである。
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東条英機、松岡洋右、樋口季一郎らは、親ユダヤ派満州シンジケートであった。
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東條英機は、「東條上等兵」「最も優秀な大尉参謀」「せいぜい大佐止まり」など、戦争指導者の器ではなかったというイメージが強い。街のゴミ箱視察のような姑息な人気取りに勤(いそ)しみ、大局から戦略を構想する力を欠いていた、「敵機は精神で墜とすのである」といった非合理的な精神主義に走った、と批判されてきた。(ウィキペディア)
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2023年8月14日 YAHOO!JAPANニュース KYODO 共同通信「A級戦犯、崇拝阻止で散骨 決定過程、米軍公文書で初判明
東条英機元首相
第2次大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑になった東条英機元首相らA級戦犯を巡り、米軍が秘密裏に太平洋で散骨した理由を記録した公文書が14日までに見つかった。「英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきだ」と、軍国主義の復活につながりかねない戦犯の神聖視の阻止を明記。ナチス・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の死刑囚を川に散骨した措置を「先例」とした。散骨の理由や決定過程が公文書で裏付けられるのは初めて。
米国立公文書館所蔵の米軍公文書を共同通信が入手した。文書は日本が占領下の1948年、マッカーサー元帥率いる米極東軍が作成。東京裁判が同年4月に結審した後の時期に当たる。
東京・丸の内の米極東軍補給部で戦没者部門に所属したマイケル・リビスト少佐は7月21日、戦犯の遺体の扱いを検討した報告書「参謀研究」を参謀長宛てに提出した。日本で超国家主義の復活を阻止し、戦犯を崇拝対象にしないため火葬して遺骨をひそかに処分するよう求めた。
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2017年9月26日 産経新聞「正論 杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか 新潟県立大学教授・袴田茂樹
9月初め、露ハバロフスクに近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問した。スターリン時代にユダヤ移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙(へんぴ)な「幽閉地」で、移住したユダヤ人も殆(ほとん)ど逃げ、人口の2%以下だ。
教会内展示室には、1940年に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝の写真もあった。
パターン化された歴史認識
教会の案内人に、では杉原以外にも、38年にソ連・満州国境で、ナチスの弾圧を逃れソ連を通過した数千人のユダヤ難民を救った日本人がいるのをご存じかと尋ねたら、全く知らないと言う。
樋口季一郎中将(1888〜1970年)のオトポール事件のことで、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」にも載っている。わが国でも、樋口を知っている人は少ない。露でも日本でも政治により戦前の歴史には蓋がされて、国民にリアルな現実認識がないからだ。このような状況下で、今日また深刻化した戦争や平和の問題が論じられている。
近年、冷戦期に二大陣営の枠組みに抑えられていた民族、宗教、国家などの諸問題が、国際政治の表舞台に躍り出て、混乱と激動の時代となり、世界の平和と安定の問題が喫緊の課題となっている。
われわれ日本人がリアルな現実認識を欠き、パターン化した歴史認識のままで、複雑な戦争や平和問題を論じ安保政策を策定するのは危険である。一人の日本人による満州でのユダヤ難民救済事件を例に、歴史認識のパターン化について少し考えてみたい。
樋口は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大卒の超エリートだ。戦前の陸大は東京帝大より難関とされた。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長(た)けた陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州のハルビン特務機関長であった。同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だった。
捨て身でユダヤ難民を助けた
38年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとの必死の依頼だ。
当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。
案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。
樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。
リアルな理解が国際政治の基礎
樋口がユダヤ人にここまで協力したのは、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任していたとき、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼らに助けられたから、さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いていたから、といわれる。
戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。
しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。
私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。
私は、リアルな歴史認識こそが国際政治や安保政策の基礎だと思っているので、自身も長年知らなかった事実を紹介した。(新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)
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ウィキペディア
上海ゲットー(英語:Shanghai Ghetto)は、第二次世界大戦中に日本軍勢力下にあった上海の北東部虹口のおよそ一平方マイルの地区にあった、無国籍となったユダヤ人が居住していた地区を指す。「ゲットー」はあくまで通称であり、当時のドイツ在外公館関係者や戦後のドイツ補償当局は、ナチス・ドイツ占領下や東欧にあった「ゲットー」とは呼べず、適切ではないとしている。
ナチス・ドイツ支配下にあったヨーロッパ地域からのがれた20,000人のユダヤ人難民が上海に到達し、100,000人の中国人とともにこの地域で生活していた。彼らは1943年2月18日に日本軍が発した布告によりこの地区は「無国籍難民限定地区」とされ、居住および活動を制限された無国籍ユダヤ人は以降1945年8月の終戦までここに留まっていた。
現地のユダヤ人家族とアメリカ系ユダヤ人の慈善団体は彼らを保護し、食事と衣服を与えた。しかし日独と英米が開戦すると、ドイツの圧力で日本の当局は次第にいろいろな制限を強めていき、生活環境は劣悪になっていったが、ゲットーが封鎖されることは無かった。
日英米開戦以降
日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行って英米間と開戦して以後、英国民が多かったバグダッド系ユダヤ人グループは抑留され米国慈善基金は中止された。大きな資金源であったイギリスやアメリカとの関係が途切れた事から、雇用の悪化とインフレが起こり、再び難民に厳しい時代が訪れた。
上海に訪れたアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会の連絡係ラウラ・マーゴリスは日本の当局の許可を得て資金集めの取組みを続け、状況を安定させるように試みた。これを受け、1937年以前に訪れたロシア系ユダヤ人へも支援を行えるようになり、新しい制限も免除された。
設置
1942年11月15日にはゲットーの制限案が承認された。
1943年2月18日、日本軍の上海地区陸海軍司令官は「無国籍難民指定区域」を宣言し、1937年1月1日以降に18000人の無国籍難民に対し、可能範囲と営利事業の可能な範囲を一平方マイルに制限することを命令し、5月15日までにその区域に移住するように命令した。大半はドイツ・オーストリアから逃れてきたユダヤ人であったが、バルト三国から逃れてきた非ユダヤ人も含まれていた。
それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏されたうえ、食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になった。パスを入手したものは区域外に出入りして商売を行うこともできたが、その取得は困難であった。ただしこれらの制限は無国籍の居住者に限られたものであり、従来からの住人である中国人などは自由に出入りできた]。在外ドイツ人がゲットー内の友人を訪ねることもあったが、彼らもほとんど自由に出入りできたという。
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2017年8月10日 日経BizGate「 「無能」ではなかった? 大戦時の東条首相 日本陸軍の研究(上)
なぜ日本が無謀な戦争を行ったかの問いに対しては、今もさまざまな研究が続けられている。特に大陸進出・対米戦争を主導し、戦前における最大の政治勢力であった「日本陸軍」の分析は、現代の企業経営などにも通じるヒントがいくつもありそうだ。当時の陸軍トップだった東条英機首相(陸軍大将、1884~1948)に関する最新分析の成果を、戸部良一帝京大教授の「自壊の病理」(日本経済新聞出版社、税抜き2000円)から探った。
「プロの軍人」として優秀さを発揮
戦史研究の第一人者である戸部良一・帝京大教授
東条首相は太平洋戦争(1941~45)開戦時の首相・陸相・内相を務め、開戦後には軍需相、後には陸軍参謀総長も兼任した。このため戦後はA級戦犯として極東軍事裁判で裁かれ、現在も日本敗戦の悲劇を招いた張本人、無能な独裁者と語られることが圧倒的に多い。しかし今日では無能どころか優秀な実務型指導者だという評価が出てきている。独裁的でもなかった。ただ戸部教授は「逆にリーダーシップと戦略ビジョンが欠けていたことが重大な欠陥だった」と分析する。
東条が極めて優秀な軍務官僚であったことはよく知られている。会議では3つの手帳を使ってメモを作成し、的確な示唆や質問を投げかけ「カミソリ東条」の異名を取った。部下からの報告をよく聞き、全ての文書に目を通して翌朝までに決済したという。週に何度かは陸相官邸で執務し、参謀総長を兼任した時は「大本営の事務が早くなった」との逸話が残ったほどだった。無用の来訪客と夜の宴会は極力避け、毎日夜の12時近くまで仕事を続けた。日曜日の午前中も首相官邸で書類整理するなどしていた。もし対米戦争という非常事態でなければ「東条は十分に政治指導が可能であったかもしれない」(戸部教授)。
実務処理だけでなく、軍事面でも首相時代の東条は「客観的・的確で、現役プロ軍人としての識見がよく反映されていた」と戸部教授は評価する。戦場の指揮官としては関東軍参謀長時代、対中戦争初期に通称「東条兵団」を率いてチャハル作戦を戦った。太平洋戦争では現実的・合理的な判断を見せた。米本土への上陸などの完全勝利は不可能と見定めており、目標を米国の戦争継続の意志をくじくことにおいた。
英国の歴史家A・テイラー氏は第2次世界大戦の指導者を描いた著作の中でヒトラー総統(独)、ムッソリーニ総統(伊)、チャーチル首相(英)、ルーズベルト大統領(米)、スターリン首相(旧ソ連)を取り上げているのに対し、日本については「戦争指導者不明」としたという。これら5人の中には東条のような現役のプロ軍人はいない。しかもチャーチルやルーズベルトらがしばしば作戦計画の立案や実施に口を出したのに対し(そのための失敗もあった)、第2次世界大戦のリーダーの中で最も軍事問題に精通していたはずの東条は統帥権の制約から指示することができなかった。
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2023年8月15日 産経新聞「靖国奉納で韓国が「失望」表明
靖国神社を参拝し、取材に応じる自民党・高市早苗経済安保相=15日午前、東京都千代田区(松井英幸撮影)
【ソウル=桜井紀雄】韓国外務省は15日、靖国神社に高市早苗経済安全保障担当相らが参拝したり、岸田文雄首相が玉串料を奉納したりしたことを受け、「深い失望と遺憾を表す」とする報道官論評を発表した。
日本との関係強化を目指す韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は、閣僚の参拝などを批判しつつも、形式的な対応にとどまっている。
論評は靖国神社について「侵略戦争を美化し、戦争犯罪者を合祀(ごうし)している」と指摘。日本の政治指導者に対して「歴史を直視し、歴史を巡る謙虚な省察と真の反省を行動で示すよう」求めた。
「父に思いはせる日」「もっと同世代も」 靖国神社には大勢の参拝者
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8月15日17:16 産経新聞「中国、首相の玉串料奉納に「誤った態度」 日本に「厳正な立場」表明
78回目の「終戦の日」を迎え、靖国神社には多くの参拝者が訪れた=15日午前、東京都千代田区(松井英幸撮影)
【北京=三塚聖平】中国外務省の汪文斌(おう・ぶんひん)報道官は15日の記者会見で、日本の岸田文雄首相が終戦の日の15日に靖国神社に私費で玉串料を奉納したことなどに対し、「歴史問題への誤った態度だ」と反発した。日本に申し入れを行い、「厳正な立場」を表明したことを明らかにした。
汪氏は「侵略の歴史を正視して深く反省することは、戦後の日本がアジアの隣国と正常な関係を回復する必要な前提条件だ」と日本側に求めた。
中国側は、日本が米国と安全保障上の協力を進めていることを批判している。中国のニュースサイト「中国新聞網」は15日、終戦の日を迎えた日本について伝える記事で「軍国主義が残した害毒がまだ日本国内に蔓延している」と主張。その上で「米国に歩調を合わせて、日本は絶え間なく軍事拡張に動いている」と指摘した。
岸田首相、靖国神社に玉串料奉納 参拝はせず
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8月15日 MicrosoftStartニュース 新華社通信「中国外交部、靖国神社に対する日本の消極的動向を非難
中国外交部、靖国神社に対する日本の消極的動向を非難
© 新華社
記者会見に臨む中国外交部の汪文斌報道官。(資料写真、北京=新華社配信)
【新華社北京8月15日】中国外交部の汪文斌(おう・ぶんひん)報道官は15日の定例記者会見で、同日に日本の岸田文雄首相が私人として靖国神社に玉串料を奉納し、閣僚の高市早苗氏が同神社を参拝したことについてコメントを求められ、次のように述べた。
78年前のきょう、つまり1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を宣言した。中国人民は世界人民と共に日本の軍国主義侵略者とファシズムを打ち負かした。これは正義が悪に、光明が闇に、進歩が反動に打ち勝った偉大な勝利であり、中華民族と人類の正義の事業の歴史に永遠に刻み込まれる。
靖国神社は日本の軍国主義が発動した侵略戦争の精神的道具と象徴であり、第二次世界大戦のA級戦犯を合祀(ごうし)している。日本の政界要人の靖国神社に対する消極的な動向は、日本の歴史問題に対する誤った態度を改めて反映している。中国は既に日本に厳粛な申し入れを行い、厳正な立場を表明した。
侵略の歴史を確実に正視し、深く反省することは、戦後日本がアジアの隣国と正常な関係を回復、発展させるために必要な前提条件である。中国は日本に対し、歴史の教訓を真剣に汲み取り、平和的発展の道を堅持し、実際の行動で軍国主義を徹底的に切り離し、アジアの隣国と国際社会の信用をさらに失わないよう促す。
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8月15日18:00 YAHOO!JAPANニュース「まず若者を連れ去った〜45万の命を奪った日本空襲〜 #戦争の記憶
宮本聖二立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長
空襲の焼け跡にて
戦後78年。
各社の記事やこれまでアーカイブされてきたコンテンツで、日本人と戦争を特に空襲と若者、メディアに焦点を当てて見つめてみます。
戦争の末期は、日本本土そのものが戦場となり激しい空襲が都市を街を焼け野原にしました。
78年後の今も、激しい火焔や焼け落ちるふるさと、失った家族や友だちの記憶、あるいは自ら負った火傷に苦しむ人がいます。
空襲は、まず多くの勤労動員の若者が働く軍需工場が標的になり、その後は無差別爆撃となり、45万人を超える犠牲者が出ました。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズム、ボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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現代日本人で昭和天皇や東条英機・松岡洋右らを、嫌う者・批判する者・否定する者は大多数で、好意を持つ者・弁護する者・肯定する者はほんの僅かな少数である。
その証拠が、昭和天皇に対する天皇の戦争責任・天皇の戦争犯罪とA級戦犯合祀の靖国神社問題である。
A級戦犯達は、靖国神社の祭神として祀られている。
中国、韓国・北朝鮮、アメリカ、ロシアなど軍国日本と戦った旧連合国諸国は靖国神社を否定し公式参拝に反対し、狂信的な反日的外国人は靖国神社に対して宗教テロを繰り返している。
そして、自国の歴史を隅から隅まで熟知しているはずの超難関校出の有能・優秀なグローバル派エセ保守や反宗教無神論・反天皇反民族反日本のリベラル左派も猛反対している。
昭和53(1978)年 靖国神社が死刑及び獄中死(平沼騏一郎は、病気仮釈放後の死去)の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。また、広田弘毅など非軍人を合祀したことでも例外的な措置であった。死亡の理由は「法務死」となっている。(ウィキペディア)
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世界の常識は反ユダヤ主義で、アメリカやイギリスなど諸外国はユダヤ人難民を助ける為に引き入れる事を拒絶していた。
連合国・中立国・枢軸国、バチカン・キリスト教会、国際赤十字は、ユダヤ人虐殺の情報を得ていたが誰もホロコースト反対の声をあげなかった。
ポーランド・ユダヤ人難民が生き延びる道は、地球の反対側にあった日本ルート(ヒロヒト・ルート)だけであった。
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A級戦犯達は、戦争犯罪として悪い事をしたが、人道貢献として善い事もしていた。
A級戦犯達が行った戦争犯罪とは、国家の方針を決定・決断する政治家や高級軍人として戦争を始めた事であって、人を虐殺・惨殺したという非人道行為ではなかった。
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関東軍参謀長の東条英機中将は、親ユダヤ派ではなかったが反ユダヤ派でもなかった、目の前に逃げてきたヨーロッパ・ユダヤ人難民を追い返す事なく満州・日本を通過する事を黙認し、ドイツ外務省の抗議に対し、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。
首相兼陸相の東条英機大将は、対米英蘭戦争を決断し、国内に滞留していたヨーロッパ・ユダヤ人難民達を上海租界に設置した上海ゲットーに強制収容する事を承認した。
戦時中。アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)は、上海ゲットーのユダヤ人に生活費を送金していた。
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ナチス・ドイツ、ゲシュタポや日本人の反ユダヤ派・親ドイツ派らは、上海ゲットーのヨーロッパ・ユダヤ人難民達をホロコーストで虐殺しようと暗躍していたが、失敗した。
ヨーロッパ・ユダヤ人難民達は、日本人一般市民を虐殺した非人道的絨毯爆撃に巻き込まれる事はなかった。
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日本租界内の上海ゲットー。
2019-03-24
💖26)─1─上海ホロコースト未遂事件。日本陸軍と松岡洋右はゲシュタポのユダヤ人虐殺を阻止した。1942年〜No.107・
2021-03-29
💖26)─2─日本軍占領下の上海ゲットー・上海ユダヤ難民資料は世界記憶遺産申請に値する。〜No.108No.109No.110
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2022年3月1日 産経新聞「4万のユダヤ人救った日本 岡部伸
岡部 伸
第五方面軍司令官として北海道防衛の策を練る樋口季一郎(孫の隆一氏提供)
「(先の)大戦中に日本が4万人以上のユダヤ人を救った」。イスラエル・ヘブライ大学の日本近代史研究者、メロン・メッツィーニ名誉教授は『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)でこう主張し、「多くのユダヤ人を助けてくれた日本に対してユダヤ人が恩義に感じている」と述べている。
日本はナチス・ドイツ、イタリアと三国枢軸同盟を組んでいたが、ドイツによるユダヤ人を根絶せよとの再三の要求を拒絶し、1931年から45年まで日本が統治していた地域に逃れてきたユダヤ人を保護した。
満州国ハルビン特務機関長だった樋口季一郎中将の英断で旧ソ連と旧満州国境オトポールで立ち往生していたユダヤ人を救った。リトアニアのカウナスでは杉原千畝領事代理がユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した。メッツィーニ氏は満州、上海を拠点とした東アジアで、「約2万人が助け出された」と記す。
戦時下で日本が統治した東南アジア、オセアニアにも2万人のユダヤ人が住んでいた。度重なるナチスの干渉にもかかわらず、大半の人が生き延び、東アジアと合わせると、「4万人のユダヤ人が日本に救われた」と強調する。
日本人として最初にユダヤ人を救ったのは樋口中将だ。37年12月、満州・ハルビンで開催を許可した極東ユダヤ人大会で、ユダヤ人の平等を保障し、パレスチナでのユダヤ人国家建設も認めた。
メッツィーニ氏は「これらのことが終戦に至るまでの間、満州および中国北部におけるユダヤ人の独立性を保障した」と評す。
また、「この大会のおかげで、立ち往生していた数千人のユダヤ人が満州国への入国許可をもらえた」とし、オトポールで慎重な姿勢を取っていた外務省と違い、「ドイツの反ユダヤ主義に盲従しない」ことを旨とし、是々非々の判断で現実的な解決を求めた日本陸軍の功績を評価した。
樋口中将の「困っている人を助けるのは当然」という「日本精神」による「個人的な判断」から決断したユダヤ人難民の救済は、近衛文麿首相ら五相会議が制定した「ユダヤ人対策要綱」につながった。
極東ユダヤ人大会の翌38年12月のことだ。要綱は国策としてユダヤ人差別をしないことを決めた。メッツィーニ氏は「この決定こそが、何千人ものユダヤ人の命を救う上で極めて有益だった」と賛辞を贈る。
実際、39年に第二次世界大戦が勃発したが、ベルリン、プラハ、ウィーンの日本領事館は日本への通過ビザを発給し続け、「多くのユダヤ人がナチス迫害から救われた」のである。
米英加豪をはじめ、パレスチナにまで反ユダヤ主義が広がり、世界がユダヤ人に扉を閉ざす中で、日本だけが難民を受け入れたことは銘記したい。そもそも日本は19年の第一次大戦後のパリ講和会議で世界で最初に人種差別撤廃を提案した「人権先進国」でもある。
メッツィーニ氏は「迫害されたユダヤ人に対する日本政府および、多くの日本人の態度は、公平で人道的であった。当時この事実は極めて重要であった。それが今日でも、ユダヤの人々が簡単に忘れることができぬことなのだ」と語る。
「日本精神」で4万人を救った日本をユダヤ人が感謝してくれていることを誇りに思う。(論説委員)
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https://katemato.hatenablog.com>entry>2018/08/04
歴史ファイル 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
2018-08-04
【樋口季一郎と東条英機】 ユダヤ人難民救出 黄金の碑に刻まれた軍人
太平洋戦争
昭和13年(1938年)3月 満州国とソ連の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポールという街に多数のユダヤ人が現れた。
【ユダヤ人難民】ナチスの迫害から逃れ東へ
ヨーロッパにおいて、ユダヤ人はキリストの磔刑に関与していたとされているため、古くからキリスト教徒から多くの迫害を受けてきた。 1933年、ヒトラー内閣成立後、『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』が発せられ、ドイツに住むユダヤ人への迫害が始まった。その後『職業官吏団再建法』が、1935年9月には『ニュルンベルク法』が制定され、迫害はさらに強まった。 ユダヤ人はポーランドを目指したが、受け入れに難色を示したためソ連へ向かった。しかし、ソ連はもユダヤ人難民の受け入れを拒否していたため、ユダヤ人は満州国への入国を希望し、シベリア鉄道に乗り満州とソ連の国境まで来ていた。 ところが満州国も日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否してしまう。
【樋口季一郎】
1888年、廻船問屋であった父・奥濱久八の長男として淡路島に生まれた。 三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校(21期)へ。同時に東京外語学校でロシア語を徹底的に学んだ。陸軍大学校(30期)卒業後、1919年にウラジオストクに赴任。1925年にポーランドに赴任し、その後はハルビン特務機関長として滞在していた。
【ヒグチ・ルート】
極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士は樋口に救済を懇願した。 陸軍士官学校の同期であるユダヤ専門家安江大佐とともに、樋口季一郎は難民救済を決断。 即日、食料と衣類、燃料の援助を始めた。そして満州国への入国の斡旋、入植や移動の手配を行った。 その後、樋口は南満州鉄道総裁・松岡洋右に交渉し、特別列車の要請をした。 列車は上海まで行き、ユダヤ人の間で『ヒグチ・ルート』と呼ばれた。
【東条英機】
日本はドイツと『日独防共協定』を結んでおり、ドイツ外相の抗議書が日本に出され、樋口の独断行動が問題になった。この問題が日独の外交問題に発展しかねない状態になっていた。陸軍の親ドイツ派は樋口を批判し、関東軍参謀長の東條英機中将が樋口を司令部に呼びつけ、ユダヤ人脱出ルート閉鎖をさせようとした。 樋口は東条中将に「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思われますか」と説得。 樋口の話に納得した東條英機は、ユダヤ人救出に対して全責任を請け負い、その後のドイツ外務省の抗議に対し、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。 その後、ユダヤ人難民の数は増え続け、満州から入国したユダヤ人の数は1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増えた。
【戦後】
戦後の極東国際軍事裁判。 ソ連は樋口を戦犯に指名した。この動きを察知した世界ユダヤ人会議は、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、世界的な規模で樋口救出運動が展開された。ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した。
【ゴールデン・ブック】
エルサレムの中心地にユダヤの偉人の功績を永遠に顕彰し刻むゴールデンブックというものがある。 そこにはモーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインの名前が刻まれ、4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と刻まれている。その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。
東条英機の名前はない。 ユダヤ人教育家、ラビ・マーヴィン・トケイヤーはハルビンのユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があった樋口、安江。一方、東條はユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかった。もしユダヤ民族協会との交流があれば、ゴールデンブック入りは勿論の、東京裁判の判決に対し世界中のユダヤ人から助命嘆願書がマッカーサーのもとに寄せられたことだろう。
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2023年2月3日 Zzakzak 月刊フジ「戦前の日本が「ユダヤ人保護」の新情報 公電を英国が傍受・解読 西欧を圧倒する人権意識に誇りを
ケント・ギルバート
素晴らしい報道を目にした。日本が第二次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れてきたユダヤ人の保護を指示していたというのだ。日本外務省が東南アジアの大使に伝えた公電を英国が傍受・解読し、英国立公文書館が最高機密扱いで所蔵していたという。
記事によると、公電は「ユダヤ人を追放することは国是たる八紘一宇の精神に反するばかりか米英の逆宣伝に使われる恐れもある」として、ドイツやイタリアの「排ユダヤ政策」と一線を画す内容だったという。
日本は当時、ドイツと枢軸国同盟を結んでいたが、「日本の人権意識の高さ」をうかがわせる重要な史料だと思う。
これまでも、日本人がユダヤ人を救った例は報告されている。
樋口季一郎陸軍中将は、満州国ハルビン特務機関長だった1938年、迫害を逃れ、ソ連・満州国境で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理は40年、ドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民に日本通過ビザ(命のビザ)を発給した。
今回の公電に従って、東南アジアで保護されたユダヤ人がどれほどいるのか、深い実態が分かれば興味深い。近現代史専門家による今後の研究を期待したいところだ。
戦前の日本が「ユダヤ人保護」の新情報 公電を英国が傍受・解読 西欧を圧倒する人権意識に誇りを
素晴らしい報道を目にした。日本が第二次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れてきたユダヤ人の保護を指示していたというのだ。日本外務省が東南アジアの大使に伝えた公電を英国が傍受・解読し、英国立公文書館が最高機密扱いで所蔵していたという。
記事によると、公電は「ユダヤ人を追放することは国是たる八紘一宇の精神に反するばかりか米英の逆宣伝に使われる恐れもある」として、ドイツやイタリアの「排ユダヤ政策」と一線を画す内容だったという。
日本は当時、ドイツと枢軸国同盟を結んでいたが、「日本の人権意識の高さ」をうかがわせる重要な史料だと思う。
これまでも、日本人がユダヤ人を救った例は報告されている。
樋口季一郎陸軍中将は、満州国ハルビン特務機関長だった1938年、迫害を逃れ、ソ連・満州国境で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理は40年、ドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民に日本通過ビザ(命のビザ)を発給した。
今回の公電に従って、東南アジアで保護されたユダヤ人がどれほどいるのか、深い実態が分かれば興味深い。近現代史専門家による今後の研究を期待したいところだ。
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https://www.kogensha.jp>news_app>detail
愛の知恵袋 154 「もう一人のシンドラー」(中)
(APTF『真の家庭』275号[2021年9月]より)
松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)
オトポール事件の勃発
ユダヤ人迫害を非難し、「彼らに安住の地を与えよ!」と言った樋口季一郎の演説は、内外に波紋を起こした。ドイツ政府は不快感を表明し、関東軍内部でも「日独関係を悪化させるような論調は許されない」という批判が出てきた。しかし、その矢先、もっと大きな事態が勃発した。
1938年3月、満州里と国境を接するソ連領オトポール駅に、ユダヤの難民がたどり着き、吹雪の中で立ち往生しているという知らせが入って来た。
ヨーロッパにおけるナチスのユダヤ人狩りを逃れて、シベリヤ鉄道で上海を目指してきた難民たちであった。しかし、満州国は彼らの入国・通過を拒否していたのである。
カウフマン博士が樋口の部屋に飛び込んできて、窮状を訴えた。「難民たちの食料は尽き、飢餓と寒さで死者が出ています!」と必死で助けを求めたのである。オトポールは3月でも夜は零下20度になる極寒の地である。
▲背広姿の樋口(ウィキペディアより)
樋口の苦悩と決断
樋口は苦悶した。当時の陸軍は人種差別はしないという方針であったが、同盟国のドイツの怒りを買うことをやって外交問題を起こせば、処罰を覚悟しなければならない。
その時、樋口の脳裏に、かつてグルジアを旅行中に出会ったユダヤ老人の言葉がよぎった。「あなた達日本人がきっと助けてくれる。あなた方がきっとメシヤなのだ!」
しばしの沈黙の後、樋口は意を決した。「よし、俺がやろう。軍を追放されてもいい。正しいことをするのだ。恐れることはない」、そう自分に言い聞かせて、決然としてカウフマン博士に言った。「博士、難民の件は承知した。博士は難民の受け入れの準備にかかってください!」博士は、樋口の前で声を上げて泣いたという。
一刻も猶予はない。樋口は直ちにユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給を手配した。
九死に一生を得たユダヤ難民
その2日後、ハルピン駅ではユダヤ協会の幹部たちが救護班を率いて列車の到着を今か今かと待っていた。列車が轟音と共に滑り込む。どよめきがホームに広がり、担架をもった救護班が車内に飛び込んでいく。病人が次々に運び出され、ホームはやせこけて目が落ち窪んだ難民達でいっぱいになった。
抱擁し合い泣き崩れる彼ら一人一人に、カウフマン博士は涙でぬれた顔を拭おうともせず、いたわりの声をかけてまわった。残念ながらすでに凍死者や病人が出ていたが、樋口の判断がもう一日でも遅ければ、もっと悲惨な結果を迎えていたと言われている。
樋口は入国や出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への脱出の便宜を図ったが、満州鉄道総裁の松岡洋右にも直談判して、特別列車を仕立てて上海への移動を助けた。
ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社の記録によれば、ドイツから満州里経由で満州に入国した人数は、1938年に245人、39年には551人、40年には3574人、41年の数字は不明となっている。
こうして多くのユダヤ人が「ヒグチ・ルート」を通って上海に脱出し、そこからアメリカなどに避難して生き延びたのである。その人数は諸説があり、2万人という説もあるが、少なくとも5千人以上はいたものと推察されている。
この時命を救われた人やその子孫には、米国やイスラエルで大使や科学者になった人もあり、諸分野で世界に貢献した人達も少なくないという。
非難の矢おもてに立たされた樋口と東条の英断
日本とドイツはこの前年に日独防共協定を締結し同盟国になっていたため、この事件は大きな外交問題となり、ドイツ政府からは抗議文書が届いた。また、関東軍司令部でも樋口の行動に批判が起こり、「即刻、彼を罷免すべきだ」という声が高まった。
樋口は関東軍司令官の植田謙吉大将に自らの所信を述べた手紙を送り、そのうえで司令部に出頭して当時関東軍の総参謀長だった東条英機中将と面会し、「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」と発言したという。
樋口の信念に理解を示した東条は彼を不問にし、ドイツからの再三にわたる抗議に対しては、「当然なる人道上の配慮によって行ったものである」と一蹴した。
さて、樋口季一郎を語るとき、実は、彼には我々日本人が忘れてはならないもう一つの大きな功績がある。終戦時、ソ連軍の北海道占領の意図を見抜き、これに反撃して日本を分断国家になることから救ったことである。
(次回につづく)
(参考資料:「向学新聞」国際留学生協会・2008年12月号/フリー百科事典ウィキペディア)
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https://ameblo.jp>kds3350>entry-12417023519
ユダヤ人の命のビザ発給は日本陸軍(東条英機)の功績です。
アスペルガーおやじ
プロフィールピグの部屋
お住まいの地域:
神奈川県
ユダヤ人の命のビザ発給は日本陸軍(東条英機)の功績です。
2018-11-05 22:52:38
テーマ:ブログ
6千人の命のビザを発行した杉原 千畝氏のほかに陸軍中将だった樋口紀一郎氏、安江仙弘大佐もナチスドイツの迫害を逃れてきた2万人ものユダヤ人難民が中ソ国境で足止めされるのを救出したことで有名です。ユダヤ人だけじゃなくシベリア経由の難民です。
ドイツ外務省は日本政府に対して強硬な抗議を行った。その時東条は
「これは当然の人道上の配慮によっておこなったものだ」と答えた。
当時満州にたいして最大の権限をもってたのが東条英機で
ユダヤ人難民の受け入れは彼の許可があって初めてできた。
東条英機は「A級戦犯」として処刑されたけど東条に救われた数万人のユダヤ人にしてみれば東条は「A級偉人」であった。
樋口紀一郎中将が自伝で語ってますが、ユダヤ人問題に関心持ったきっかけは。
「かつて私が秦彦三郎中将とともに南ロシア、コーカサスを旅行してチフリス(トビリシ)に至った時、ある玩具店の老主人が
私たちが日本人なのを知るや襟を正して話しかけてきた。
グルジアのユダヤ人だった。
「私は日本天皇こそ我々が待望するメシアだと思うのです。
なぜなら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇は国内において階級的に何らの偏見も持たない人と聞いてるからです。」
戦前の日本人にこういう話をしてくるコーカサスのユダヤ人がいたのですね。ユダヤ人の中に「日のいずる彼方よりユダヤ人を救うメシアがやってくる。」という言い伝えがあったからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E...
1938年3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない
満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めされていた。彼等にはビザがなかった。
そのままシベリアに留まったらどうなったか?ソ連がナチスに引き渡したら死を意味する。
ソ連なら彼らをラーゲリで強制労働させるだろう。
樋口は見かねて、
直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、
膠着状態にあった出国、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った。
杉原千畝さんが発行してくれたビザのお蔭で6千人のポーランドのユダヤ人が逃げてきましたがビザの有効期限が10日だったり、30日あるいは90日くらいだった。そんなに短期間では安全な場所に逃げられない。
そこで松岡洋右外相がすべてのビザを9か月間に延長してくれた。それでユダヤ人たちは安全に移動できた。
戦争中日本が支配した地域、フィリピン、中国、満州、それらはユダヤ人が最も安全に生きれる地域だったのです。ハルピンにはシベリアから逃れてきたユダヤ人が1万人も居ました。
↓樋口紀一郎陸軍中将
6千人の命のビザを発行した杉原...
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https://plaza.rakuten.co.jp>momojp66>diary
A級戦犯の東条英機とユダヤ人 | そんなテルアビブ イスラ
2009年02月02日XML
A級戦犯の東条英機とユダヤ人 (2)
カテゴリ:テロ・戦争・IDF
誇り高き男、東条英機の行ったこと
こんなことを言うと、
やっぱり私は右寄りの戦争派と思う人はもう一度歴史を見直して欲しい。
東条英機は、いや昭和天皇はナチ・ドイツに逆らってもユダヤ人を助けた。
その当時、また当時の表現を使うと、白人に占領されていたアジアの国に ユートピアを作るためにアジアの国を占領していたのでございます。
私は当時の日本と第二次世界大戦後の日本が受けた連合国軍からの勝手な裁判や勝手な押し付けとユダヤ人のホロコーストから現在のイスラエルにいたるまで共通する部分をたくさん感じている。
この話はまた次回にします。
【empire of the sun 太陽の帝国】というBLOGより引用。
『東条英機をゴールデンブックに』
SAPIO10/25日号(2006年)の「天皇を救ったA級偉人」小林よしのり氏のマンガより。
1938年(昭和13年)3月
ところはソ連・満州国境のオトポール駅。
シベリア横断鉄道にはヨーロッパよりナチス・ドイツの迫害から逃れて来たユダヤ人で満載であった。しかしシベリア鉄道はここまで。このままシベリアの寒さにさらされれば幼児を含むユダヤ人は凍死するのみである!
この窮状を見かねた関東軍の樋口季一郎少将はユダヤ人難民輸送列車を手配する。満鉄総裁は無賃輸送することを指示後から後から押し寄せるユダヤ人のために満鉄のこの無賃輸送は続けられたそうである
そしてその満州鉄道の総裁とは;;松岡洋右
これに対しナチス・ドイツからは抗議が来て、樋口は関東軍参謀の事情聴取を受けた。だがその参謀長は樋口の意見に同意してナチスの抗議をはねつけ、その後も同じルートでダヤ人は続々と避難してきた。
その参謀長は;;東条英機
しかもこの事件にかんがみ、同年12月には5大臣による重要国策会議で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が策定されユダヤ人を排斥しないことが正式に日本の国策となったのである。これを五相会議に提案したのが
(私のコメント;河豚計画(ふぐけいかく)を読んでもらうとわかる)
これもまたいわゆるA級戦犯の板垣征四郎であった。
いわゆるA級戦犯たちの尽力によって成立した”ユダヤ人を差別せず”という日本の国策に従った。そして外相であった松岡は直ちに在日ユダヤ人代表と会談し「三国同盟は私が結んだ。しかしだからと言ってヒトラーごときの口車に乗ってユダヤ人を排斥することはしない。これは私だけの信念ではない。帝国の方針であるから、安心しなさい」と言った。
そして満州を通過したユダヤ難民たちは上海に向かった。当時・入国ビザなしで入れたのは上海の共同租界のみであった。それで上海は3万人のユダヤ人であふれかえったという。彼らを終戦まで世話をしたのが海軍のユダヤ専門家、犬塚惟重(これしげ)大佐だった。
後にユダヤ人協会はこれに感謝を表わそうとして犬塚に「ゴールデン・ブックに記載したい」 と申し入れたが
犬塚は
「私がやったことは私個人の考えではなく、天皇陛下の万民へのご慈愛に従って働いているだけである。私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の名を書くように・・・」 と断ったそうである。
だがドイツ政府は日本政府の寛大なユダヤ対策に不快感を露(あらわ)にし1942年(昭和17年)、犬塚大佐が上海から転出した後・10万人のユダヤ人を虐殺し・ワルシャワの虐殺者と言われるヨゼフ・アルベルト・マイジンガー大佐を上海に派遣し、 「ユダヤ人を引き渡すよう!」 迫った。廃船に乗せて沈めようという魂胆であった。
しかしこの提案を上海の日本の領事や軍人は断固拒否し、戦局の悪化で食料事情などは劣悪であったが何とか終戦までユダヤ人たちを守り通した。
**YouTube 画像をクリックしてください。**
また、【愛国心を育てる名言】というBLOGを書いている方は
週間新潮4月13日号、「『東條英機』はユダヤ人から『英雄』と称えられていた」という見出しで、以下のような記事が掲載されてます。
A級戦犯の代表といえば東條英機。彼が合祀されている靖国神社への小泉首相の参拝を、 「戦後ヒトラーやナチスを崇拝したドイツの指導者はいない」 と非難したのは、中国の李肇星外相だが、その東條はなんと、ユダヤ人から「英雄」と称えられていたのである。
(「週間新潮」2006年4月13日号より引用)
(私のコメント;南京大虐殺の人数をねつ造しているのは中国政府です)
エルサレムの中心地に「ゴールデンブック(黄金の本)」なるものが展示されているそうです。ユダヤ民族に貢献した人、ユダヤ人に救いの手を差し伸べた人達を顕彰するために。
この「ゴールデンブック」には二人の日本帝国陸軍軍人、樋口季一郎中将と安江仙弘大佐の名が刻まれています。特務機関の幹部として、ハルビンのユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があった樋口、安江。一方、東條はユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかった。
それゆえ東條は「ゴールデンブック」入りができませんでした。しかし、もしユダヤ民族協会との交流があれば、「ゴールデンブック」入りは勿論のこと、東京裁判の判決に対し世界中のユダヤ人から助命嘆願書がマッカーサーのもとに寄せられたことだろう。ラビ・トケイヤー氏はそう記しています。
これからはベングリオン空港出国時のセキュリティーに
「日本赤軍は24名の一般イスラエル人を殺しました、しかし私たちは昭和天皇の下、国策で30,000人以上のユダヤ人をナチから守りビザを渡しました。あなたの国、イスラエル建国を助けた国民です」 と宣言しよう。
そうしたら、もっと簡単なチェックで終わらせてくれるのだろうか???
それは冗談としても、イスラエル国防軍も、ハマスも大日本帝国軍人から本来の武士道を学んでほしい。
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東条英機のゴールデンブック入りに賛成の方クリックお願いします。
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丹波新聞
”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上) 2018.10.29
ニュース丹波篠山市歴史謎
多くのユダヤ人難民の命を救った陸軍中将・樋口季一郎
第2次世界大戦中の1940年(昭和15)、多くのユダヤ人難民を救う「命のビザ」を発行した杉原千畝。「東洋のシンドラー」とも呼ばれた杉原の行動からさかのぼること2年前の1938年(昭和13)以降、旧満州国ハルビン市で、数千人以上のユダヤ人難民の命を救った日本の軍人がいた。兵庫県の淡路島出身で、私立尋常中学鳳鳴義塾(現・同県立篠山鳳鳴高校)から軍門へと進んだ陸軍中将・樋口季一郎だ。日本ではあまり知られていないが、ユダヤ人国家のイスラエルでは今も恩人として感謝されている。そんな「もう一人の杉原千畝」というべき存在であり、後に「玉砕」という悲劇に向き合った軍人の生涯を追った。
東条英機に「弱い者いじめ正しいか」
ナチス・ドイツの弾圧を逃れてドイツを脱出したユダヤ人難民が、シベリア鉄道で満州国との国境に近いソ連領オトポール駅に着いたのは、1938年3月8日のことだった。
当時、日本はドイツと防共協定を結んでおり、日本の傀儡(かいらい)政権であった満州国は、日本の目を気にして入国を拒否。氷点下20度を下回る気候で凍死者も出始めるなか、関東軍司令部付・ハルビン特務機関長であった樋口は、独自の判断で難民救済に動く。
満州国外交部に働きかけて特別ビザの発行にこぎつけ、南満州鉄道(満鉄)総裁に訴えてハルビンまでの救援列車を手配した。ハルビンでは地元のユダヤ人有力者らと協力して食事や衣服も用意。また東亜旅行社(現・JTB)に委託し、出国のあっせんや、満州国内への入植、上海などへの移動にも力を貸したという。
この一件で後日、ドイツから日本へ抗議書が届き、軍司令部に呼ばれて出頭した樋口は、参謀長だった東条英機に、「ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることを正しいと思われますか」と言ったというエピソードが残る。結局、樋口の行為は不問に付されたが、救出劇が歴史の表に出る事もなかった。
樋口が開いたオトポールからのルートは、「ヒグチ・ルート」とも呼ばれ、満州国境を通過した難民の数は、数千人から2万人にのぼるという。JNF(ユダヤ国民基金)のホームページには「2万人」とあり、1つの定説になっているようだ。
JNFがイスラエルに所有する寄付者名簿「ゴールデンブック」には、当時の極東ユダヤ人協会長で、樋口に難民救済を求めた医師のアブラハム・カウフマン、現場で実務に奔走した大連特務機関長の安江仙弘、そして樋口季一郎の3人の名前が特別に記載されている。
孫「目の前の人救いたい」
樋口が開いたルートで命を救われた人の息子と握手を交わす孫の隆一さん(左)=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブで(樋口隆一さん提供)
樋口の孫で、明治学院大学名誉教授の樋口隆一さん(72)は、今年6月、日本イスラエル親善協会の招きで初めてイスラエルを訪問。イスラエル建国70周年を記念して行われたイスラエル日本学会で講演も行った。
隆一さんは昨年、偶然、祖父の原稿束の下にあった、1938年1月11日付「ハルビン新聞」の切り抜きを見つけた。前年12月に行われた極東ユダヤ人コミュニティ大会の開催を許可し、演説も行った樋口へのインタビューを掲載したもので、「ユダヤ人問題解決の鍵はユダヤ人国家の建設しかない」と述べている。
隆一さんは「樋口がどういう考えを持っていて、当時のユダヤ人がなぜ感激したのかが分かる」と話しており、樋口がユダヤ人を深く理解していたことがうかがえる。
イスラエル訪問で、祖父の名が書かれたゴールデンブックも閲覧。ユダヤ国民基金から証書も贈られた。また、日本大使館の協力のもと、ハルビンで生き残ったユダヤ難民の子孫とも対面し、感謝を伝えられた。
「思ってもいなかったような歓迎を受けて驚いた」と隆一さん。「祖父はウラジオストック駐在時代にユダヤ人の家に下宿したことがあり、ドイツ視察旅行でユダヤ人迫害も見聞きしていた。ユダヤ人の辛い運命に個人的な理解と共感があり、とにかく目の前にいる人たちを救いたいという思いで行動したのではないか」と話す。
(下)
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