💖23)─4─日本陸軍の「ヒグチ・ルート」で生き延びたユダヤ人難民の子孫が語る。〜No.97 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦前の日本人は、人を殺す戦争犯罪として悪い事をしたが、人を助ける人道貢献や平和貢献として善い事もしていた。
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 ポーランドユダヤ人難民を助けたのは、軍国日本・日本陸軍である。
 昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達である。
 靖国神社の志である。
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 陸軍は対ソで親ポーランド派で、海軍は反米でソ連派で、外務省などの中枢官公庁は親ナチス・ドイツ派・親中国派・親ソ派であった。
 親ユダヤ派は昭和天皇と陸軍で、反ユダヤ派は外務省などの中枢官公庁、右翼と左派であった。
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 2023年7月18日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「満州ユダヤ人を救った陸軍中将(前編):「ヒグチ・ルート」で生き延びた子孫が語る自由への逃走
 岡部 伸
 日本人外交官・杉浦千畝が、ナチス・ドイツの迫害を受けたユダヤ人に「命のビザ」を発給する2年前、樋口季一郎陸軍中将が旧満州中国東北部)で、2万人ものユダヤ難民を救済していた。前編では、生き延びた子孫の証言で明らかになった「ヒグチ・ルート」と呼ばれる救済策に迫る。
 もう一人の「東洋のシンドラー」に熱い視線
 「ヒグチ・ルート」で逃れたユダヤ難民の息子ダニエル・フリードマンさん(右)と握手する、元日本陸軍中将の故樋口季一郎氏の孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブ(時事)
 第二次世界大戦直前、旧満州で、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、もう一人の「東洋のシンドラー」とされる樋口季一郎陸軍中将(1888-1970)の顕彰活動が本格化している。樋口中将の出身地である兵庫県淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(淡路市)に2022年10月、銅像が建立され、神奈川県鎌倉市円覚寺塔頭・龍隠庵にも元平塚市長の吉野稜威雄氏ら有志が顕彰碑を建て、23年5月21日、除幕式が行われた。第5方面軍司令官としてポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道占領と日本の分断を阻止した北海道にも銅像建立計画が進められており、信念を貫き、ユダヤ人を救った樋口中将の功績に熱い視線が注がれている。
 「ヒグチ・サバイバル」からあふれた感謝の思い
 「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーへの前向き姿勢がユダヤ人救出を可能にした」
 2018年6月15日、イスラエルのテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部で、「ヒグチ・ルート」にて満州から生き延びたカール・フリードマン氏の息子、ダニエル・フリードマン氏は孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏と面会し、樋口中将の人道主義へ感謝の思いを伝えた。
 「ヒグチ・サバイバル」の息子と樋口中将の孫が感動の面会を果たせたのは、2004年から約3年間、イスラエル日本大使館に公使として勤務していた水内龍太駐オーストリア日本大使が仲介役を担ったからだった。

水内氏は、樋口中将が陸軍ハルビン特務機関長を務めたハルビンユダヤ人社会のリーダーであり、「極東ユダヤ人協会」の会長を務めた医師のアブラハム・カウフマン博士の息子で、「青年部」リーダーとして活動したテディ・カウフマン氏の知遇を得た。テディ氏は「ヒグチこそユダヤ人の最大の理解者で友人だった」と回想し、ウィーンから満州経由で逃れ、戦後イスラエルに移住したダニエル・フリードマン氏を水内氏に紹介した。水内氏はフリードマン一家と親しくなり、2015年9月に来日したダニエル氏の息子、ミッキー氏と隆一氏を引き合わせた。こうした経験を踏まえて18年の「ユダヤ民族基金」本部でのカール氏と隆一氏との感動の面会が実現したのである。
日本側資料でも登場する「J」字入り旅券のユダヤ
ダニエル氏は家族宛てに手紙を書いていた。それを元にカール氏は水内氏にダニエル氏の自由への逃亡を説明した。それによると、ウィーンのユダヤ人家庭に生まれたカール氏はジャーナリスト兼写真家として生計を立てていたが、1938年3月、オーストリアナチスに併合されると、職を失った。同年10月18日、シベリア鉄道に乗るため、ベルリンに行き、他の5人の若者と知り合い、モスクワ経由で上海を目指し、そこからパレスチナへの移住を試みた。6人の若者は「われら6人」と名乗り、シベリア鉄道でロシアから満州国の国境の町、満州里に同年10月27日、到着した際、「J」字のスタンプ入り旅券のために入国審査で引っかかり、満州国から取り調べを受けた。
 オーストリアを併合したドイツは、同年10月、ユダヤ人のパスポートに「ユダヤ人」を意味する単語の頭文字「J」と強制的にスタンプを始めた。日本はドイツとは査証免除協定を結んでいたため、ドイツ国籍者はビザなしで入国させていたが、無国籍者となった「J」旅券所有のドイツ系ユダヤ人には通過ビザが必要になった。カール氏らが入国審査で捕まったのは、このためだ。またユダヤ人が日本や満州渡航する際にビザ(通過ビザ)の発給を求めてウィーンなどの在外公館に行列をなした。
 6人は取り調べを受けたものの、電報で救援を依頼した「極東ユダヤ人協会」の支援と満州国の配慮で入国を許され、通過ビザを発行して大連、天津など北支方面への避難が認めたられた。通過ビザを得てハルビンに到着。ハルビンには留まらず、上海まで避難することになったが、大病を患ったカール氏は、途中の天津で定住し、病院の看護師と結婚。ダニエル氏が生まれ、戦後、イスラエル建国前後に移住した。ダニエル氏は弁護士となり、妻のミリアムさんが大学で歴史学を専攻し、カール氏が書いた手紙を元に彼のサバイバルの半生を学位論文としてまとめた。
 日本側の外交史料館にも6人の行動を把握した公文書が多数あった。例えば同年10月27日、満州里にシベリア鉄道経由で到着したウィーン出身のユダヤ人6人の件で、満州里の満州国国境警察がハルビンの本部に10月30日付で報告した入国の経緯を在満州里・日本国領事館の松田領事代理が入手し、11月1日付で本省に伝えたものだ。カール氏は、日本側が把握するユダヤ難民の第一号だった。厳密には、「J」字入り旅券を持って満州に入国した最初のユダヤ系ドイツ人だった。
 そのほかにも日本側資料には、カール氏ら6人が、ハルビンから1938年11月14日、山海関(さんかいかん)から北支に出国、天津に到着するまでの動向を逐一、ハルビン特務機関を通じて同年8月から陸軍参謀本部第二(情報)部長に転進した樋口中将に報告し、訓令を受けたとみられる形跡があった。
 そもそも国境管理は、インテリジェンス部門の守備範囲だ。参謀本部第二(情報)部長というインテリジェンスの総責任者だった樋口中将が難民の入国を把握していたのは当然だろう。またカール氏が天津で受け入れを拒否された場合に備えて、同年11月30日には、大連特務機関長としてハルビンに来た安江仙弘大佐と鶴見憲ハルビン総領事が協議し、海運会社の協力で大連から上海に海上輸送するルートも確保している。これが約2年後に杉原千畝の「命のビザ」で救出されたユダヤ難民が日本に到着後、神戸から上海へ輸送する前例となるが、これも中央、つまり樋口中将からの指令によるものとみられる。カール氏らの「逃走」の舞台裏で樋口中将の影がちらつくのだ。
 政策決定の中枢で「ヒグチ・ルート」確立
 1938年10月以降、ナチス併合で追われたドイツ・オーストリアユダヤ人が「J」字入り旅券を持ち、続々とシベリア鉄道経由で満州に到達した。樋口中将は、カール氏らと同様に、流入するユダヤ難民の動向をハルビン特務機関に監視させ、組織的に流入を制限しようとした満州国に通過または短期滞在など留まることを可能にさせたのである。
 さらに避難民が増加する中、近衛内閣は同年12月6日に五相会議を開催した。ユダヤ人の流入を阻止しようとする外務省に対し、樋口中将は国策として「ユダヤ人を差別しない」「ユダヤ人対策要綱」策定に裏方として貢献した。これは、同年1月に東條英機関東軍参謀長名で陸軍が作成した「当面のユダヤ人対策」の延長線上にあり、ナチスユダヤ人迫害政策から明確に距離を置き、ユダヤ人の通過や移住の可能性を制度的に担保した。
 一連のユダヤ難民の救出、上海脱出工作の中心に樋口中将がいたことは間違いないだろう。ユダヤ難民を満州経由で上海に脱出させ、定住するシステムを確立した。世にいう「ヒグチ・ルート」の構築である。ダニエル氏ら満州経由で生存できたユダヤ人たちの子孫は、樋口中将の厚意で生き延びることができたと考えているという。「ヒグチ・ルート」で生き延びた「ヒグチ・サバイバル」である。
 樋口中将は同年3月、ソ連満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民を救ったことが知られているが、現場の指揮官としてではなく、むしろ東京の政策決定の中枢で、ユダヤ人避難民の救済システムを考え、最前線の現場に指示を出して多くの命を守った功績を正当に評価すべきだろう。
 【Profile】
 岡部 伸
 産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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 ポーランドユダヤ人難民をヒトラーナチス・ドイツホロコーストから救ったスギハラ・ルートもヒグチ・ルートを例えるならば、個人宅の敷地(日本の国土)を通り過ぎる為の入国査証(ビザ・旅券)を手にして玄関前に立ったに過ぎない。
 国から逃げてきた無国籍ユダヤ人達を人間として遇するか、放浪者と見なすか、犯罪者として扱うか、入国させるか追放するかは国家主権である軍国日本の自由裁量であった。
 国家主権において、ソ連シベリア鉄道乗車券などの経費を水増ししして通過させて定住を許さず、アメリカやイギリスは国籍と資産も持ってても定住も入国も拒絶していた。
 アメリカやイギリスは、反ユダヤ主義政策から日本を経由して入国するニホン・ルートを潰した。
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 軍旗「旭日旗」と国旗「日の丸=日章旗」は栄光の旗であり、国歌「君が代」は希望の歌であった。
 天皇が、国家と国民に国旗「日の丸=日章旗」と国歌「君が代」を、軍部・軍隊・軍艦・軍人に軍旗「旭日旗」と「菊の紋」を下賜した。
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 スギハラ・ルートやヒグチ・ルートとは、ニホン・ルートの事である。
 ニホン・ルートの主要人物は、昭和天皇東条英機松岡洋右である。
 アメリカやイギリスそしてアメリカ・キリスト教会とアメリカ・ユダヤ人が怖れたのは、昭和天皇松岡洋右である。
 ソ連中国共産党が殺したいほど憎んだのが、昭和天皇樋口季一郎であった。
 現代の日本人が最も嫌うのは、昭和天皇靖国神社に神として祀られた東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達である。
 特に、超エリート層と言われる高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達、エセ保守とリベラル左派はそうだといえる。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 天皇の御威光とは、庶民を「大御宝」と念う天皇の御稜威、大御心である。
 昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達が行った、ヒトラースターリンから逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人難民を助け保護したのも、差別反対・弱者救済・貧困愛護そして儒教的徳以上の神話的道理(本質的価値観)に命を賭ける天皇の御威光であった。
 日本の国際的信頼性や外交・金融・文化的信用度を、保証できるのは数千年の歴史を持つ正統な天皇の御威光のみである。
 天皇の御威光は「穏やかな祀りと祈り」として、日本国や日本民族だけではなく世界の平和と安寧、人類の幸福と繁栄をも対象とした、それが「八紘一宇」であった。
 歴代天皇の中で、それを深く考え実行したのが昭和天皇であった。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
 現代日本人は、歴代天皇の中で昭和天皇が最も嫌いで、昭和天皇天皇の犯罪と天皇の戦争責任を押し付け追求している。
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 7月27日15:00 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「満州ユダヤ人を救った陸軍中将(後編):皇居の刺繍画が伝える「ヒグチ」の功績
 第2次世界大戦直前の旧満州中国東北部)で、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人に手を差し伸べ、約2万人を救ったと言われる樋口季一郎陸軍中将。後編は、シオニズムを支援したことでゴールデン・ブックに名前が刻まれるなど日本人も知らない樋口中将の功績を伝えたい。
 「ヒグチこそ最大の功績者で理解者」
 2018年10月、イスラエルの「ユダヤ国民基金」(JNF)を訪問し、ゴールデン・ブックに祖父である樋口中将の名前が刻まれていることを確認する樋口隆一名誉教授(左:JNFホームページから)とハルビン特務機関長時代の樋口季一郎中将(右:樋口隆一氏提供)
 「ヒグチこそがハルビンにおけるユダヤ人の安定的な生活の確立に尽力した最大の功績者で理解者。日本軍人の中で最も親ユダヤ的だった」
 2004年から約3年間、イスラエル日本大使館に公使として勤務した水内龍太在オーストリア大使は、イスラエル在勤中に陸軍ハルビン特務機関長だった樋口中将と個人的に親交があったテディ・カウフマン氏から、こんな言葉を聞いた。
 ハルビンで、テディ氏の父親、アブラハム・カウフマン博士は、医師であり、ハルビンユダヤ人社会のリーダーで、「極東ユダヤ人協会」の会長だった。
 1937年8月ハルビンに赴任した樋口中将をカウフマン博士が訪ねた。日増しに激化するナチスユダヤ人差別と弾圧を訴えるため、「極東ユダヤ人大会」を開催する許可を得る狙いだった。当時、ハルビン白系ロシア人ユダヤ人が対立し、流血事件も多発していた。36年11月、日独防共協定に調印した日本は、40年に日独伊三国同盟を結ぶ第三帝国に配慮し、ヒトラーが迫害するユダヤ人政策はデリケートな問題となっていた。
 樋口中将は大会の開催を許し、自身も平服で参加。日本の代表として「ユダヤ人を差別しない」と発表し、ドイツの「ユダヤ人迫害」を強く批判した。陸軍内の親独派から「ナチス批判」を問題視する声は小さくなかったが、樋口中将は「困っている者を助けるのが日本精神」として一蹴。大会後、報道陣に「世界が祖国のないユダヤ民族に一国を与えて幸福を考えない限り、この問題は解決しない」とパレスチナユダヤ人国家建設を認める発言をした。パレスチナイスラエルが建設されるのは11年後の48年のことだ。その後、樋口中将は流入するユダヤ難民を救出する英断を下している。
 『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)の著者で日本のユダヤ政策に詳しいイスラエルヘブライ大学名誉教授、メロン・メッツィーニ氏は「この発言が終戦まで、満州および中国北部におけるユダヤ人の独立性を保障した」と説く。「この大会で、立ち往生していたユダヤ人が満州国への入国許可をもらえた」とし、ドイツの反ユダヤ主義に盲従せず、現実的解決を求めた樋口中将主導の日本陸軍の功績を評価した。
シオニズムへの貢献でゴールデン・ブックに
 樋口中将の救済発言を受け、カウフマン博士は世界ユダヤ会議に宛てた報告書で「日本がユダヤ人社会を特別に保護してくれる」と報告している。ユダヤ人国家建設を訴えた樋口中将は、カウフマン博士からの推薦で特別に記憶されるべき人物として「ユダヤ国民基金」(JNF)のゴールデン・ブックに刻まれたという。勇気あるユダヤ人保護ではなく、在ハルビンユダヤ人社会のシオニズムへの貢献が、その理由であった。
 カウフマン博士が1940年1月22日付で「世界ユダヤ人会議幹部」に宛てた書簡では、①ユダヤ人は自由に生活を営み、就業し、独自の民族文化を涵養(かんよう)し、他民族と全く同じ権利を享受②反ユダヤ主義は存在せず、許容されない。反ユダヤ主義のロシア語紙は発禁された③上海のユダヤ人難民は1万8000人④日本はドイツに残された家族の上海移住を許可。上海で労働の意志有する者も同じ⑤日本に新たな難民受け入れの地区提供を要請した――などを伝えている。いずれも樋口中将主導の対策への評価で、日本がユダヤ人社会を保護して、感謝されていたことを示している。
 1939年5月にカウフマン父子は訪日し、樋口中将はじめ陸軍関係者と会談した。父子は新たな避難民地区提供を陳情した。その様子を「世界ユダヤ人会議幹部」に報告しているが、ユダヤ難民を移住させる「河豚(ふぐ)計画」に、ユダヤ人側から提案があったことを示している。
 父子は38年10月以降に「ヒグチ・ルート」と呼ばれる救済策により、でユダヤ難民が逃れたことに謝意を述べた。そして樋口中将も、自らの行動が多くのユダヤ人の運命を動かしたことを実感した。
 家宝となった天皇陛下からの刺繍画
 イスラエルにあるカウフマン家の居間には、皇居をモチーフに描いた日本の刺繍(ししゅう)画(タペストリー)が飾られている。陸軍から外国賓客への記念品として贈られたもようで、1939年に訪日した父子が「天皇陛下からいただいた」と伝えている。
 日本画家、竹内栖鳳(せいほう)の作品で、日中戦争の恩賞で陸軍大臣から下賜(かし)品として贈られたものと同一とみられる。
 45年8月、侵攻したソ連軍に逮捕され、シベリアに抑留されたアブラハム氏が建国とともに移住したイスラエルのテディ氏の元に戻ったのは、戦後16年が経過した1961年だった。満州国崩壊後の混乱の中で、この皇居の刺繍画を最も大切な「家宝」としてイスラエルまで持ち帰ったのは、父子と樋口中将との強い絆の証しと言える。
 戦後、父子は日本軍に協力したとして反日的な英米ユダヤ人から非難された。それでも刺繍画を「家宝」として保管したのは、たとえ同胞から批判されても樋口中将への恩義と敬愛がそれを凌(しの)いだからだろう。
 また、テディ氏の回想録やハルビンユダヤ人向けに発行されていた新聞「Jewish Life」には、満州では五族協和で民族融和政策を取り、白系ロシア人ユダヤ人の対立はあったが、日本人とユダヤ人は共存していたと記されている。45年8月、侵攻したソ連が略奪、暴行を繰り返す中、ユダヤ人にかくまわれて生き延びた日本人もいたという。
 ナチスは1938年10月、ユダヤ人の旅券に単語の頭文字「J」とスタンプを始めたため、無国籍者となった「J」旅券所有のユダヤ人は通過ビザが必要となり、日本や満州への通過ビザを求めて在外公館に押し掛けた。40年7月に「命のビザ」で知られる外交官・杉原千畝の任地・リトアニアカウナス領事館にユダヤ人が殺到したのも、この通過ビザを求めてのことだった。
 そこで樋口中将が裏方として主導し、38年12月、近衛文麿内閣の「五相会議」で、ユダヤ難民政策の基本方針を定めたガイドラインユダヤ人対策要綱」を作成。「ユダヤ人を差別しない」ことが国策となった。
 この要綱は41年12月、対米英開戦で無効となったが、代わって「時局ニ伴フ猶太人対策」が42年3月にでき、国内は元より中国や東南アジアの占領地に居住するユダヤ人を45年8月の終戦まで他の外国人と同等に扱っていた。
 日本の保護政策で生き延びたのは4万人
 日本が統治したバンコクと北部仏印(旧フランス領インドシナハノイの日本大使宛てに外務省が伝えた公電を英国の暗号解読拠点「ブレッチリー・パーク」が傍受、解読、最高機密文書として英訳し、英国立公文書館が「日本のユダヤ人政策」として保管していた。
 ハノイ宛ての公電は「同盟国ドイツがドイツ系ユダヤ人の国籍を剥奪し、ユダヤ人は『無国籍』になったが、日本が同調して特別な行動を取る必要はない。むしろ慎重に対応すべきだ」と排ユダヤ政策を始めたドイツと一線を画す考えを示した。そして「ユダヤ人を追放することは国是たる八紘一宇(はっこういちう)の精神に反するばかりか米英の逆宣伝に使われる恐れもある」とし、人道的な対応を求めている。さらに「ドイツ以外の外国国籍を所有していれば、その外国人と同等に、またドイツ国籍所有者は、ロシア革命で逃れた白系ロシア人と同等に無国籍人として取り扱う」と、ユダヤ人を公正に扱う寛容な保護政策の継続を指示した。
 最終的に満州を含む上海など日本統治下の大陸中国は戦争集結まで多くのユダヤ人の避難場所となった。米国のラビ(ユダヤ教指導者)、マーヴィン・トケイヤー氏によると、世界ユダヤ人会議は、終戦当時、上海、ハルビン、天津、青島、大連、奉天、北京、漢口などでユダヤ人2万5600人の居住を確認している。これに加えて日本が占領したバンコクハノイなど東南アジアに身を置いたユダヤ人を合計すると、前出のヘブライ大学名誉教授・メッツィーニ氏は「約4万人以上が生き延びた」と分析する。さらに「世界で反ユダヤ主義が広がり、欧州のユダヤ人がナチスの手で絶滅されようとしていたとき、日本は難民を保護した。1938年に始めたユダヤ人保護政策が米英開戦後も継続され、終戦まで続いた」と指摘している。
 【Profile】
 岡部 伸 OKABE Noburu
 産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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 2021年6月28日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将
 岡部 伸 【Profile】
 リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。
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 ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に
 第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。
 その功績を顕彰する銅像を建立する募金計画が有志の間で進み、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授を会長理事とする一般社団法人「樋口季一郎中将顕彰会」が設立された。募金活動は日本のみならず、イスラエルや米国のユダヤ人社会にも呼びかけられ、銅像を通じて樋口中将の功績を世界に伝え、国際的な友好の輪を広げようとしている。
 2022年秋の完成を目指す銅像について、隆一氏は「(出身地の)淡路島では伊弉諾(いざなぎ)神宮、北海道では北方領土を遠望できる場所が望ましい」と語る。「顕彰会」には、淡路島と北海道の関係者のほか、戦略論研究で世界的権威の米国の歴史学者エドワード・ルトワック氏や日本のユダヤ人組織のラビ、メンディ・スダケヴィッチ代表ら国内外のユダヤ人計22人が発起人として名を連ね、約3000万円の寄付を募る。
 樋口中将は満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、迫害を逃れ、ソ連を通過してソ連満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニアカウナス杉原千畝領事代理が命のビザを発給し、6000人のユダヤ人を救うのは、この2年後の40年のことである。
 ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能だったが、満州国外交部がドイツと日本に忖度(そんたく)して通過させなかった。樋口は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存するイスラエルの団体「ユダヤ民族基金」では、救出した総数は2万人としている。
 ユダヤ人の境遇に深い理解と憐憫
 なぜユダヤ人難民を救ったのだろうか。オトポールでの救済の直前、1937年12月にハルビンで開かれた「第一回極東ユダヤ人大会」で樋口はユダヤ国家建設に賛成するあいさつを行うなど、ユダヤ人の境遇に理解と憐憫の情を示していたことが大きい。
 『陸軍中将樋口季一郎回想録(以下、回想録)』(芙蓉書房出版)によると、樋口は1919年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。ワルシャワ駐在陸軍武官として25年から赴任したポーランドでは、弾力性ある国際感覚を身に付けたが、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという流浪の民族の悲哀を垣間見た。
 ユダヤ人問題を知ったウラジオストク特務機関員時代の樋口中将(前列右端):樋口隆一氏提供
 一方、有色人種への差別意識が強い中で、樋口をはじめ1921年からワルシャワに駐在した海軍の米内光政、樋口と同じく25年に暗号解読技術習得のため留学した陸軍の百武晴吉らをユダヤ人が下宿させ助けてくれた。この厚遇を忘れなかった樋口は、隆一氏に、「日本人はユダヤ人に非常に世話になった。彼らが困った時に助けるのは当然だ」と話している。
 各国の武官と親交を深めたワルシャワ駐在時代の樋口中将(前列右端):樋口隆一氏提供
 『回想録』によると、コーカサス地方を視察旅行した1928年、ジョージア(旧グルジア)のチフリス(現在の首都トビリシ)で、玩具店ユダヤ人老主人から、ユダヤ人が世界中で迫害される事実を吐露され、「日本の天皇こそユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主。日本人ほど人種的偏見のない民族はない」と訴えられたという。
 この体験がユダヤ難民救済の際、影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。さらに37年にドイツに短期駐在して、ナチス反ユダヤ主義に強い疑念を抱いたこともあった。
 人道主義と共にソ連諜報の目的も?
 またシベリア出兵以来、優秀な情報士官だったことも無縁ではない。杉原千畝研究家である外務省外交史料館の白石仁章氏は、「ソ連から逃れたユダヤ人からソ連国内の機密情報を得る狙いもあったのでは」と推測する。白石氏がユダヤ人に詳しい外国人にオトポールで救出されたユダヤ人の写真を見せたところ、(彼らは)ロシア系ユダヤ人との意見が多かったためだ。
 ソ連でも帝政ロシア時代から、ナチス・ドイツに勝るとも劣らず、反ユダヤ思想が強かった。ハルビンでは、ユダヤ人と白系ロシア人が互いに反目し合い、頻繁に抗争が起こっていた。白石氏はこうした事情を熟知していた杉原は、カウナスでは「狭義にはむしろ『スターリンの脅威から守った』」(『諜報の天才 杉原千畝』)と評価。ポーランド陸軍の情報士官を使った杉原はインテリジェンスの天才だったと主張する。樋口中将も、人道主義ソ連諜報目的からユダヤ人を救済したとすれば、対露情報士官としての面目躍如だろう。
 日独防共協定を結んでいたドイツはユダヤ人救済に抗議したが、上司だった関東軍東条英機参謀長は、「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴した。東条は「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と主張した樋口を不問に付し、日本政府は、軍事同盟を結んだナチスの人種思想に同調しなかった。
 樋口は「ユダヤ民族基金」の「ゴールデンブック」に掲載されたが、杉原のようにホロコースト(大虐殺)の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館「ヤド・ヴァシェム」から『諸国民の中の正義の人』(英雄)には列せられていない。
 米国の戦略論研究家のルトワック氏は、「ヒグチ・ルートで生き延びた2万人の中には、その後、米国やイスラエルの大使や科学者になった人もいる。混乱して予測不能の困難な時代に、欧州ではチャーチル英首相も含め政治家、官僚、軍人がユダヤ人保護の行動を起こせず、ホロコーストで600万人のユダヤ人が犠牲となった。そんな中で樋口中将は、率先して勇気ある大胆な行動を取った。このことは英雄として広く顕彰されるべきだ。人道主義を持った良い日本人軍人もいたのだ」と顕彰活動を支援する。
 「ヒグチ・ルート」で逃れたユダヤ難民の息子ダニエル・フリードマンさん(右)と握手する、元日本陸軍中将の故樋口季一郎氏の孫で明治学院大学の樋口隆一名誉教授=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブ 時事
 スターリンの北海道侵攻の野望を阻止
 また樋口中将は、北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」を担当する札幌の第5方面軍司令官だった1945年8月、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻したソ連軍に対して自衛戦争を指揮した。それはポツダム宣言の受諾を決め、終戦詔書が出された後の18日、大本営の停戦命令を無視して独断で行ったものだ。陸軍随一の対露情報士官としてソ連の野望を見抜いていたからにほかならない。
 昭和19年10月、第5方面軍司令官として樺太兵団を視察した樋口中将(前列真ん中):樋口隆一氏提供
 第5方面軍司令官として北樺太ツンドラ地帯を視察する樋口中将(2番目):樋口隆一氏提供
 ソ連スターリン首相は、日本が降伏文書に署名する前にヤルタで密約した樺太と千島列島、さらに北海道まで占領し、既成事実にするつもりだった。実際、同16日、トルーマン米大統領に留萌―釧路以北の北海道占領を要求。拒否されるが、南樺太の第八十七歩兵軍団に北海道上陸の船舶の準備を指示している。
 しかし、樋口の指示による抗戦で、占守島攻防は同日まで続き、ソ連は千島列島占領が遅れ、北海道侵攻に及ばなかった。北海道占領を断念したスターリンは同28日、北海道上陸予定だった南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島色丹島歯舞諸島を無血占領し、北方四島の不法占拠は現在に至る。樋口の反撃の決断がなければ、ソ連が北海道に侵攻し、日本が分断国家となっていた可能性が高い。
 「戦犯」反対はワルシャワ武官仲間の英参謀総長の圧力?
 野望をくじかれたスターリン首相は、樋口中将を極東国際軍事裁判に「戦犯」として身柄を引き渡すよう申し入れたが、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)のマッカーサー最高司令官は拒否した。
 世界ユダヤ協会が反対したためとされるが、『回想録』では、「終戦後に取り調べを受けた連合国軍の某中佐(キャッスル中佐)から『イギリスが大変あなたをご贔屓(ひいき)にしており、イギリスはソ連の貴殿逮捕要求を拒絶した』と聞いた」と記している。
 樋口隆一氏は「ポーランド武官時代に同僚だった英国のアイアンサイド少将(当時)が第二次大戦時、元帥として英国の陸軍参謀総長まで上りつめており、マッカーサーに圧力をかけたのではないか」と推測する。ワルシャワ駐在時代に演習視察や対ソ情報共有などを通じた交流が奏功した形だ。
 樋口中将の赴任を契機に始まったポーランドとの暗号協力で日本の「暗号力」は格段と向上し、ポーランドと日本の諜報協力は、初期は杉原、第2次大戦末期にはストックホルムの陸軍武官、小野寺信少将にソ連が対日参戦を約束した「ヤルタ密約」を提供するなど深い絆に発展した。樋口がその嚆矢(こうし)となったことを考えれば、樋口には対露インテリジェンスオフィサーとして天賦の才があったのだろう。
 外交官だった杉原千畝と違い、樋口季一郎は軍人ということもあってか、顕彰すべき対象としては扱われてこなかった。しかし、2021年7月9日には、憲政記念館で「樋口季一郎中将顕彰会」設立を記念したシンポジウムも行われるなど、ここにきて樋口中将のグローバルな再評価の動きが加速していることは、日本人として好ましいことではないだろうか。
 バナー写真:樋口季一郎陸軍中将(樋口隆一氏提供)
 岡部 伸OKABE Noburu経歴・執筆一覧を見る
 産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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 2019年8月30日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「杉原千畝の実像に迫る
 「命のビザ」発給中も情報収集-杉原千畝の実像に迫る(1)
 斉藤 勝久 【Profile】
 第二次世界大戦の中、祖国を追われたユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、数千人のユダヤ人を救った日本の外交官、杉原千畝ヒューマニスト、スギハラ・チウネは、独ソが対峙する激動の国際政局下にあって、独ソ両陣営の動向を精緻につかんでいた稀代の情報士官(インテリジェンス・オフィサー)であった史実は意外に知られていない。杉原が本省と懸命の駆け引きをしながら、ビザの発給を続けていたさなかにも、リトアニアの各国公使館などの動向を日本に報告していた。連載で杉原の実像に迫っていきたい。
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 優れたインテリジェンス・オフィサー
 戦前の日本にとって、対ソ戦略の前進基地だったハルビン(現中国の黒龍江省)でロシア語を学んだ杉原は、ロシア語通訳官として外務省に採用された。在ハルビン日本総領事館ソ連に関する情報を集めて分析するインテリジェンス・オフィサーとして頭角を現した。だが、あまりに優れた情報力からモスクワへの赴任をソ連当局から忌避される。1939年(昭和14年)8月、大戦前夜の情勢下、バルト三国の一つ、リトアニアの臨時首都カウナスに領事館を開設するよう命じられて赴任した。ここでも対ソ情報の収集・分析が主な任務だった。
 杉原がカウナスに着任する数日前、一つのニュースが全世界を震撼させる。ヒトラーのドイツとスターリンソ連が突如として「独ソ不可侵条約」を結んだのである。この時、独ソ両国はポーランドを分割して占領する密約を取り交わし、第二次世界大戦が勃発した。ソ連ポーランドの半分を手に入れ、やがてバルト三国の併合に手を伸ばしていく。
 翌40年7月17日、カウナスの日本領事館にはビザの発給を懇願するユダヤ難民が取り囲み始め、杉原は意を決して同26日にはビザ発給に踏み切っている。この時、ソ連当局はリトアニアを併合する意向を固め、各国に領事館の閉鎖を命じていた。杉原は9月初めにカウナスを離れるまで、ビザをめぐり慎重な対応を求める本省とのやり取りを続けながら、およそ6千人にのぼる「命のビザ」を発給し、ユダヤ人を救ったのだった。
 ビザ発給中も「現地情勢報告電」
 この間、杉原は食事や睡眠の時間まで削って一心不乱に「ビザ」の発給を続けたと言われてきた。ところが、ユダヤ難民へのビザの発給を始めて6日目の7月31日にカウナスから日本の松岡洋右外務大臣に宛てて発出された公電第54号には、この定着した杉原像とは異なる姿がうかがえる。
 新たに見つかった杉原電報文(カウナスで難民へのビザ発給から6日目の1940年7月31日に打電された=外務省提供)
 この杉原電を現代の仮名遣いにして、その要旨を紹介してみよう。
 「ドイツ公使館にはソ連邦となったリトアニアから引き揚げるよう求める命令が出ていない。ドイツ人の民間団体幹部は、ソ連邦のバルト3国併合後、現在のドイツとバルト三国との経済協定がどうなるか、独ソ間でまだ決まってないからだとみている。一方で、当地のアルゼンチン領事館は20日に引き揚げた。リトアニア内のアメリカ、イタリア、スウェーデン、スイス人らは当地の公使館の勧告でここ数日中に引き揚げつつあるが、出国手続きは極めて厳重だと不満をもらしている」
 この杉原電に注目するのは、外務省外交史料館の白石仁章(まさあき)氏(56)。同館に30年以上勤務し、杉原研究の第一人者だ。杉原が任地から発出した公電や、報告文書などの史料を渉猟し、『杉原千畝-情報に賭けた外交官』(新潮文庫)などの著者として知られている。
 新たに電報文を見つけた白石仁章氏
 白石氏は今回の電文について、「当時の杉原は大量のビザ発給で精一杯だったと思われたが、本来の業務である情報収集も続けていた。これまでと違った杉原像だ。彼はこの期間、ビザに関しては外務省と公電のやり取りを繰り返しているが、7月31日の電文はビザの発給業務とは別に、現地の引き揚げ状況からうかがわれる最新の欧州情勢を報告している」と説明している。
 「杉原は現地のドイツ公使館やドイツ民間人にも情報網を張り巡らせ、ドイツ公使館だけがソ連から引き揚げを命令されない特別待遇を受けていたことを的確にキャッチしている。ドイツはバルト三国と結びつきが強く、ソ連バルト三国の併合で独ソ関係が一気に悪化するはずという見方も日本国内にあった。しかし、ドイツ公使館だけが閉鎖を命じられず、のんびりしている様子をつかみ、この時点では、なお独ソ不可侵条約の下で独ソ両国の蜜月がまだ続くことを見抜いた杉原は、紛れもなく優れたインテリジェンス・オフィサーだったことがわかる」と白石氏は分析している。
 スターリンソ連に挑む杉原
 杉原がカウナスで「命のビザ」を発給したのは、ナチス・ドイツの迫害を受けたユダヤ人だというのが定説だ。しかし、白石氏によると、杉原がこの時助けたユダヤ人は、帝政ロシア時代から反ユダヤ思想が強いソ連の迫害から逃れようとする者も多かったという。独ソに分割されたポーランドからリトアニアに逃れたユダヤ人の中でも、ソ連占領地域からのユダヤ難民の方が、ドイツ占領地からのユダヤ人より多かったのが、最近のリトアニア国内での研究でも裏付けられている。
 リトアニアは杉原がビザの大量発給を続けていた40年8月3日には、ソ連に併合されてしまう。「当時、杉原の胸中にあったのは、ヒトラーの暴虐に加えて、スターリン率いるソ連の脅威もあったはずだ。杉原はバルト三国の併合を進めるスターリンの過酷な統治を目の当たりにして、日本政府が求める、十分な旅費や受け入れ国の同意など、ビザの発給条件を十分に満たしていないユダヤ難民にもビザを与える決断をしたのだと思う」と白石氏は述べている。
 ナチス占領下のプラハでもビザ発給
 杉原がヒトラー率いるナチス・ドイツと精力的に戦うのは、カウナスの次の任地であるチェコプラハ総領事館に着任した40年9月からだ。チェコスロバキアは38年のミュンヘン会議を機に解体され、ドイツの占領下にあった。
 これまでの杉原研究では、プラハでの活躍についてほとんど注目されることはなかった。杉原自身が作った現地でのビザ発給リストが原因にもなっている。半年のプラハ在任期間に彼が発給したビザは72人で、うちユダヤ人は66人と、前任地に比べて極端に少ない。
 しかし、白石氏はアメリカの国際政治学者、ジョン・ステシンジャ―教授の証言に注目している。オーストリア生まれのユダヤ人で、13歳の時、プラハで杉原から直接ビザを発給された証人だ。一家は、新たに着任した日本の総領事(実際は総領事代理)がユダヤ難民を含め、行き場のない人々に日本の通過ビザを発給しているというので、日本総領事館に行った。何日か待たねばならぬほどの長蛇の列ができていた。順番を待って総領事館に入ると、杉原がドイツ語で話しかけ、ビザを発給してくれたという。一家はこれで日本を経由して上海に逃れ、戦後、アメリカに渡って生き延びることが出来た「スギハラ・サバイバー」である。
 プラハでも杉原の前で、前任地カウナスと同じことが起きていたことがわかる。白石氏はこう推測する。「杉原は日本の外務省からビザ発給条件の厳守を通告され、プラハに関してはこの条件を満たした人だけのリストを作って、本国に報告した。その一方で、ナチスから逃れたい難民たちに、希望に応じてカウナスと同じようにビザを発給していたのではないか。だから、プラハで60人あまりという発給の数字は桁が一つくらいは違うと思っている。杉原はナチスの占領下でも、まさに命をかけた大胆なことをやっていた」
 杉原は20世紀最悪の権力者と言われるヒトラースターリンの二人を相手に、孤軍奮闘だったのである。杉原はその後、41年5月に「ドイツの大軍がソ連国境に集結。来月には独ソ関係が何らかの決着をみるであろう」と時期まで正確に独ソ開戦を知らせる重要公電を日本に送った。
 杉原の全体像を解明する意義
 杉原の実像は、杉原本人が「インテリジェンス・オフィサーは語らず」の鉄則を守り、回想録などは書き残さなかったこともあり、あまり知られていない。
 「史料が語る杉原の姿は、従来の姿を否定するものではない。ヒューマニストであることに加えて、稀代のインテリジェンス・オフィサーの姿が加わってこそ、杉原千畝という人物を激動の現代史のなかでより鮮明に描き出せるのではないか」と白石氏は杉原の全体像を歴史の文脈の中で考えておく意義を強調している。
 (※白石氏の見解は個人的なもので、同氏が属する機関を代表するものではありません)
 ※ニッポンドットコム編集部から「連載初回の記事(2019年8月30日公開)について、新たに見つかったとした電報第54号は、渡辺勝正著『真相・杉原ビザ』(2000年、大正出版刊)で取り上げられているとの指摘を読者から頂戴しました。確認したところ、同書で言及されており、「新発見」とは言い難いことが分かりましたので、一部を修正しました。(同9月6日)」
 白石仁章氏「私はあの杉原電について、当時の独ソ関係やバルト3国併合問題を踏まえて、杉原がドイツ公館館ののんびりとした様子を見て、独ソ関係の蜜月が続くと見抜いたことを解説しました。インテリジェンス・オフィサーとしての杉原像を理解していただくために、ビザ発給のさなかに送られたあの杉原電は重要なもので、光を当ててみました」
 バナー:(左)1936年、36歳の杉原千畝=外交旅券申請書に貼られた直筆サイン入り写真、(右)杉原がリトアニアカウナスで発給したビザのリスト、2139人分。ともに外務省提供
 斉藤 勝久SAITŌ Katsuhisa経歴・執筆一覧を見る
 ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。
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