🏞83)─5─尊皇攘夷は松平定信の「寛政度異国船取扱指針」から始まった。寛政3年(1791)9月。~No.353No.354 

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 エセ保守とリベラル左派の歴史教育と歴史情報の多くは間違っている。
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 徳川幕府が怖れたのは、キリスト教の宗教侵略、ロシアの軍事侵略そして中世キリスト教会・イエズス宣教師会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易である。
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 戦後の現代日本は、外圧に恐怖し怯え、外国の脅迫・恫喝・強要に従い受動的に変化してきた。
 昔の日本は、新たな外圧を契機として、外国に対抗できるようにイノベーションとリノベーションを繰り返して能動的に変化してきた。
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 2023年7月19日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「鎖国を祖法化させ、「ロシア船打払令」を発令させたロシアの南下政策の重要性
 江戸末期の旗本がさまざまな資料や情報を記録した『視聴草』に描かれた、レザノフの船と部下 画像提供/国立公文書館デジタルアーカイブ
 (町田 明広:歴史学者
鎖国はどのように変化して幕末に至ったのか(1)
■ 初期鎖国令の実態
 【写真】現在の松前城
 寛永16年(1639)7月、3代将軍・徳川家光によって、「寛永鎖国令」が発布され、これ以降はポルトガル船の渡航を厳禁した。そして、万が一再来航した場合には、船は破壊し乗組員は処刑することを命じた。
 承応3年(1654)5月、4代将軍・徳川家綱によって、「承応鎖国令」が発令され、「寛永鎖国令」が修正された。南蛮船を追い返すことを要求しているものの、攻撃されない場合は、こちらからも攻撃しないこと、追跡は不要であることを命じた。
 いずれも、外国船を追い払うことには違いないが、「寛永鎖国令」は無二念打払いを、「承応鎖国令」は襲来打払いを命じていた。
 今回は、「寛永鎖国令」の発令以降、国是(国家の方針)である鎖国がどのような変遷をたどっていったのか、鎖国政策が動揺を始める松平定信(1759~1829)の時代を中心に、詳しく見ていきたい。
■ 松平定信の「寛政度異国船取扱指針」
 老中松平定信による寛政の改革が進行していた寛政3年(1791)9月、幕府は突如として「寛政度異国船取扱指針」(異国漂流船取計方之儀御書付)を布告した。その指針には、外国船の来航・漂着時の扱いが詳細に記載されており、臨機応変な処置を認めながらも、幕府に伺いを立てることを原則としていた。
 内容的には、承応鎖国令と同レベルの内容であり、鎖国を順守していると見なせる。ここでも、不必要な打ち払いは禁止しており、従来の鎖国政策の枠内に踏み止まった。一方で、この時期、日本近海に出没を始めた外国船への憂慮と配慮がうかがえる。この段階に至り、鎖国政策が動揺し始めたことを意味しているのだ。
 具体的には、外国船が漂着した場合、保護してまず船具は取り上げた上で長崎へ送るべきか否か、幕府に伺いを立てること。外国船を発見した場合、速やかに警備態勢を整えた上で、大騒ぎせずに談判・見分の役人を外国船に派遣すること。もし、相手が役人を拒むなら、人も船も打ち砕くこともやむを得ない。その時は相手船に乗り移り、大砲や火矢等の使用も許可するので、素早く斬り捨てるか捕縛すること。
 そして、談判が成立するか見分を拒まない場合は、なるべく穏便に取り計らい、船をつながせた上で乗組員は上陸させ、番人に見張らせて、勝手に船に戻らないようにしておき、幕府に伺いを立てること、といった項目が並べられている。
 漂流船とその他何らかの目的を持った外国船を区別し、臨機の処置も認めており、相手の出方次第では打ち払いも許容した。それにしても、微に入り細に入り、極めて詳細な指針である。それほど、この時期に外国船が頻繁に日本に接近を始めたため、各地から幕府への問い合わせが急増しており、それに依拠した布告であったのだ。
■ 鎖国の祖法化と「文化薪水供与令」
 鎖国の完成以降、外国との接触は限られ、太平の日々が続いたことから、いつのまにか鎖国をしている実感が多くの日本人には乏しくなっていた。その鎖国概念が呼び戻される契機となったのが、ロシアの南下政策であり、それに呼応した老中松平定信による鎖国の祖法化であった。
 これは、「寛政度異国船取扱指針」の布告からちょうど1年後の寛政4年(1792)9月に、ラクスマンが正式なロシア使節として根室に来航したことを契機とする。それに続く、文化元年(1804)9月のレザノフの長崎来航を踏まえ、幕府はあらためて「鎖国」が祖法、つまり先祖代々引き継がれてきた日本古来の国是(国の方針)であることを宣言した。日本独自の海禁政策鎖国」を外交政略として、国際的にも表明した瞬間であったのだ。
 これ以降も、ロシア船の来航が予想され、その際には穏便に帰国させるために、幕府は文化3年(1806)正月に「文化薪水供与令」(おろしや船之儀ニ付御書付)を発令した。ただし、あくまでもその対象は、ロシア船のみであったのだ。これまで、この法令はすべての外国船を対象としているように言われてきたが、それは誤りである。
 内容としては、漂流して食物や薪水が乏しい場合には、相応に与えて帰国させると命令しており、鎖国の枠内とはいえ、撫恤政策を採ることになった。撫恤とは、「あわれみいつくしむ」ことであり、極めて穏便である。明らかに、「承応鎖国令」から一歩緩和されたものとなっており、本来の鎖国政策からだいぶ後退することになったのだ。
 この内容について、今までほとんど言及されていなかったが、撫恤政策という、大きな対外方針の変更として見逃すことはできない。筆者は、特に重要な法令として位置付けている。
■ 「ロシア船打払令」とロシアの南下政策の重要性
 しかしながら、幕府はこの撫恤政策を長く続けることができなかった。文化3年(1806)9月、レザノフの部下のフヴォストフは独断で樺太松前藩番所を、文化4年(1807)には択捉島の日本拠点を襲撃した。いわゆる、文化露寇(フヴォストフ事件)である。
 日露戦争のおよそ100年前、局地戦とはいえ日露間の最初の紛争である。これを踏まえ、日本側もロシアに対抗するために、幕府は同年12月に「ロシア船打払令」を発令した。ロシア船に限定した、「寛永鎖国令」への回帰である。
 内容的には、今後は日本のどの港においても、ロシア船を見つけた場合、厳重に打ち払うことを命じた。ロシアに対する、極めて厳しい内容となっており、これによって、幕府の断固とした対応が見て取れるのだ。
 このように、この間の幕府の対応はロシアに振り回されており、ロシア船のみを特別扱いし、いったんは撫恤的な対応に移行した。しかし、わずか2年足らずで、打ち払うことを指示する無二念打払レベルに一気に戻された。この間のロシアの南下政策に伴った動向の重要性を、私たちは忘れてはならないのだ。
 次回は、イギリスの横暴から「文政無二念打払令」が発令され、その結果、初めて攘夷が実行されたモリソン号事件の真相を追い、その後、アヘン戦争の衝撃から「天保薪水給与令」が発令されて、いよいよペリー来航を迎えるまでの鎖国の変遷を明らかにしたい。
 町田 明広
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 7月26日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「初めての攘夷実行から薪水給与令へ、ペリー来航の衝撃を和らげた契機とは
 伊豆下田港の遊覧船「黒船」 写真/アフロ
 (町田 明広:歴史学者
 ◉鎖国はどのように変化して幕末に至ったのか(1)
鎖国はどのように変化して幕末に至ったのか(2)
 【写真】イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵
■ ロシアが去ってイギリスが進出
 文化4年(1807)12月、幕府からロシア船打払令が発令された以降、日本近海からロシア船は影を潜め、その代わりにイギリス船が日本近海を脅かし始めた。いよいよ、産業革命をいち早く成し遂げて、帝国主義的な国家となって世界に植民地を求め、各地に進出を始めた大英帝国の登場である。
 文化5年(1808)、イギリス軍艦が長崎港内に侵入し、ナポレオン戦争で敵対していたオランダの商館員を一時拉致して、オランダ船の捜索をしたフェートン号事件が起こった。また、文政元年(1818)には、イギリス商船ブラーズ号が日本との交易打診のため、浦賀に来航する事件もあった。
 その後も、事件は続く。文政7年(1824)には、イギリス捕鯨船が薩摩西南諸島の宝島に来航し、食料等を要求したが在番役人に拒否された。すると、イギリス人は小銃を発砲して牛を奪い取り、薩摩藩側も銃撃戦を展開してイギリス人を1名射殺した事件が勃発した。いわゆる、宝島事件である。
 さらに同年には、イギリス捕鯨船の乗組員12人が常陸・大津浜に上陸し、水戸藩に全員捕縛される大津浜事件が起こった。このように、イギリスとの外交問題が連続していたのだ。
■ イギリスの横暴に対する「文政無二念打払令」
 こうしたイギリス船の横暴に対し、幕府はとうとう堪忍袋の緒が切れて、文政8年(1825)2月にイギリス船を含むすべての外国船を対象にした、「文政無二念打払令」を発令した。これは、外国船であれば国籍を問わず、見つけ次第すべてに砲撃して追い返すことを命じたものであった。
 この法令は、ロシア船打払令から大いに前進して、すべての外国船が打ち払いの対象となっており、寛永鎖国令、つまり初期鎖国政策へ完全に戻ったことになる。それほど、イギリス船の傍若無人振りは、目に余るレベルであったのだ。
 とは言え、幕府の意識の中では、イギリスが日本と戦争をするために、わざわざ極東まで艦隊を派遣するとは夢想だにしておらず、そもそも捕鯨船レベルでは打ち払っても紛争に至らないという打算もあった。
 むしろ、民衆に外国船への恐怖心と敵愾心を植え付けることが優先されたと言えよう。その結果、イギリスに止まらない、すべての外国船が打ち払いの対象となったのだ。
■ 初めての攘夷実行・モリソン号事件の実相
 文政無二念打払令から12年後が経過した天保8年(1837)、モリソン号事件が勃発した。この事件を一つの契機として、鎖国政策は再度の動揺を余儀なくされたのだ。モリソン号事件は、実は知られざる大事件であるが、その実相に迫って見よう。
 モリソン号事件とは、浦賀に来航したアメリカの商船モリソン号に対して、イギリス船との誤認もあって、浦賀奉行所が文政無二念打払令に従って、砲撃を加え追い払った事件である。その後、モリソン号は薩摩藩の山川港にも入港したが、ここでも、薩摩藩によって威嚇砲撃されて、退去せざるを得なかったのだ。
 この事件において、最も見逃してはならない点は、日本で初めて攘夷が実行されたことである。それまでの「寛永鎖国令」・「ロシア船打払令」は、打払いを命じた法令として存在していたが、実行されたわけではない。「文政無二念打払令」の段階で、初めて実際の打払いが実行されたのだ。幕府も薩摩藩も、幕末以前、ペリー来航前にすでに攘夷を実行していたことになり、モリソン号事件は、本来、日本史上で重要な事件の一つのはずである。
 ちなみに、モリソン号の来航目的は何だったのだろうか。実は、マカオで保護されていた日本人漂流漁民の送還と通商・布教を日本に要求することであった。そのことが、1年後になって判明し、文政無二念打払令に対する批判が強まったのだ。なお、この事件をきっかけにして、幕府の対外政策を批判した渡辺崋山高野長英が逮捕された、蛮社の獄が起こっている。
■ アヘン戦争の衝撃と「天保薪水給与令」
 このような事態に至りながらも、幕府も無二念打払令から穏便な薪水給与令に転換することはなかった。しかし、アヘン戦争(1840~42)における清の惨敗の情報が舞い込んだのだ。さらに、長崎のオランダ商館長からも、イギリスがアヘン戦争後に日本に艦隊を派遣して通商を求め、拒否すれば戦争も辞さない方針であるとの情報が伝えられた。事態は一気に、風雲急を告げる。
 こうした情報は、一転して幕府に政策を転換しなければ、清の二の舞になりかねない恐怖を抱かせるのに、十分なインパクトを伴った。この事実に驚愕した幕府は、それまでの無二念打払の政策を放棄せざるを得なくなったのだ。天保13年(1842)7月、幕府は天保薪水給与令を発令した。これによって、窮乏している場合に限って、食料・薪水を外国船に提供することが再び可能になり、撫恤政策の復活である。
 文化薪水供与令と比較すると、幕府の仁政によるものと強調されており、万国に対する処置として、文政無二念打払令は大いに問題があることを率直に認めている。確かに、イギリスなど列強の日本への進出を忌み嫌っていた。しかし、長崎からの情報などから、国際社会の中で無二念打払令を実行することは、ルールに反するものと幕府は自覚していたのだ。
 いずれにしても、押し寄せる厳しい国際情勢の中で、列強に抗しがたいことを悟った幕府は、厳しい国際社会に否応なく取り込まれることを意識せざるを得なくなったのだ。こうして見ると、天保薪水給与令は極めて意義深い法令である。この法令によって、幕府は期せずしてペリー来航という、ウエスタンインパクトの衝撃を緩和することが可能となったと言えよう。ペリー来航まで、後わずか10年である。
 町田 明広
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