➰7)─2─大正デモクラシーが近代明治の科学と合理、伝統の宗教・精神を葬った。~No.26No.27 

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 現代日本で、大正デモクラシーを高評価するのは超エリート層と言われる高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達である。
 彼等は、グローバル派のエセ保守とリベラル左派であり、「~でわのかみ」の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
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 2023年7月4日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「日本で「教養主義」が失われた2つの納得する訳 大正・昭和時代の「教養」は何を目指していたか
 堀内 勉
 「そもそも教養って何だろう?」と、突きつめて考えたことはありますか?(写真:metamorworks/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 現在、学校のみならずビジネス社会においても「教養」がブームになっている。その背景には何があるのか。そもそも「教養」とは何か。
 ベストセラー『読書大全』の著者であり、「教養」に関する著述や講演も多い堀内勉氏が、教養について論じるシリーズの第1回目。  
 世にあふれる「教養」という言葉
 今、学校教育のみならず、社会人教育の場においても盛んに「教養」が語られ、この言葉を聞かない日はありません。
 【写真】「月間300冊以上目を通す」知の巨人・佐藤優氏が語る「速読のコツ」
 岸田文雄内閣が「新しい資本主義実現会議」を立ち上げて以降、「資本主義」という言葉が盛んに聞かれるようになったのと同じような状況です。
 「教養」と名のつく本も山のように出版されていて、「教養としての〜」というのが、今や本を売るための1つの枕言葉のようになっています。
 私自身も教養についての講演を頼まれることが多く、特に読書とひも付けて教養の重要性について話す機会が増えています。
 私の近著『読書大全』の中では、リベラルアーツの歴史を解説するところで教養についても触れていますが、そこでは教養そのものについては深く論じていません。教養について語るのであれば、それだけで独立した本になってしまうほど大きな題材だからです。
 ただ、そうは言っても、教養について話しながら、自分自身で「そもそも教養って何だろう?」と思うことがあります。
 私の中では、教養についての一定の思いはあるのですが、それが世間一般で言われている教養とどう違うのか、そもそも世間では教養はどう理解されているのかといったことを突き詰めてはきませんでした。
 しかしながら、世の中でここまで「教養」が語られるようになると、一度この問題はきちんと整理しておいたほうが良いだろうと思うようになりました。そもそも教養とは何かがわからなければ、なぜそれが大切なのかを説得力をもって論じることができないからです。
 考えれば考えるほど教養というのは奥が深く、単なる知識や学歴といった表層的なものではなく、私たちが人生を生きる意味そのものに関わってくる重層的かつ広がりがある問題だということがわかってきます。
 そこで、この東洋経済オンラインの場で、これから教養に関するさまざまなテーマを整理していきたいと思います。
 それではまず、「教養とは何か?」という問題を整理したうえで、次に私が考える「教養」とは何かを論じるところから、この連載を始めたいと思います。
 日本語の「教養」は、中国語の同じ「教養」という言葉から来ています。「教」は「教える」で、「養」は「育てる」ですから、直訳すると「教育」ということになります。
 中国語の「教養」という言葉は基本的には日本語と同じ意味ですが、「教育」により重きが置かれています。
 つまり、高級官僚を登用するための試験制度であった科挙の権威を背景に、四書五経(「論語」「大学」「中庸」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)を学ぶことや漢詩に通じることなど、幅広い学問分野の知識を獲得することを意味していました。
 これに対して、日本語の「教養」は、社会的な素養や品位、人間性の形成など、倫理的な価値観などにより重点が置かれた使われ方をしています。
 たとえば、日本語で「あの人は教養がある」といえば、学問に裏づけられた人柄の奥行きや、洗練された立ち居振る舞いや会話を意味していて、そこには単なる知識以上の人間的な評価が含まれています。
 「教養」は「文化」「芸術」の語源
 西洋の歴史に目を転じると、「教養」に相当するギリシア語は「パイデイア」(paideia)で、「子供(pais)が訓練によって身につけたもの」という意味です。
 これは教育そのものを意味するだけでなく、教育の結果である「教養」「文化」「文明」「伝統」などを含む幅広い概念です。 
 ちなみに、「教養」を英語で表現するのは難しいですが、「カルチャー」(culture)や「カルティベーション」(cultivation)という言葉になり、これは「心を耕すこと」を意味します。
 また、ドイツ語では「ビルドゥング 」(Bildung)と表現され、これは「形成すること」を意味します。
 古代ギリシアの教育は、この「パイデイア」という自由人の教育と、「テクネー」(techne)という職人や奴隷の教育に分かれていました。
 「パイデイア」 は、人間として普遍的な知識を身につけることで精神を深め、人生を豊かにすることを目的とした自由人の教育でした。
 これに対して、ギリシア語のテクネーには、絵画、彫刻などの諸芸術をはじめ、医学、建築など人間の制作活動全般が広く包含されていました。
 このテクネーは、ラテン語の「アルス」(ars)、英語の「アート」(art)に対応します。
 英語の「テクニック」(technique)は実践的・具体的なものですが、「アート」は創造的な表現活動を広く含んだ総称です。
 これを日本語では「芸術」と訳しますので、言語が変わるたびに少しずつニュアンスが変化していると言えます。
 日本で「教養」と言えば、まず欧米流のリベラルアーツ教育や旧制高校での教養教育が思い浮かぶと思います。
 それでは、この2つは「パイデイア」と同じものを意味しているのでしょうか。あるいは別のものを意味しているとすれば、それぞれの関係性はどうなっているのでしょうか。
 英語の「リベラルアーツ」(liberal arts)は、ラテン語の「アルテス・リベラーレス」(artes liberales)に由来します。これは、ギリシア語の「エンキュクリオス・パイデイア」(enkyklios paideia)をラテン語に訳したものです。
 「エンキュクリオス・パイデイア」は、「円環的に配列された科目による人間教育」を意味しますが、これがラテン語になった段階で、「人間を自由にする技芸」を意味するようになりました。
 リベラルアーツというのは、古代ギリシア・ローマに源流を持つ自由七科(septem artes liberales)のことです。
 上述のとおり、古代ギリシアでは、自由人である市民と彼らに仕える奴隷が分けられ、自由人として生きていくためには一定の素養=教養が求められ、それは手工業者や商人のための訓練とは区別されていました。
 これが、古代ローマにおける自由の諸技術と機械的技術の区別に引き継がれ、さらにローマ時代末期の5世紀頃、キリスト教の理念に基づいて、7つの教科としてまとめられました。
 西洋中世における「大学の起源」
 中世において神学・法律・医学を学ぶ専門教育が確立した際に、それらを学ぶ前に履修すべきものとして自由七科を集大成したのがヨーロッパの大学です。
 中世の大学には、上級学部として神学、法学、医学が置かれ、その前段階として論理的思考を教える哲学がありました。
 さらにその前段階にあったのが、主に言語に関わる三学(文法学、修辞学、論理学)と、数学に関わる四科(算術、幾何学天文学、音楽)からなる自由七科でした。
 それが、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識)の基本」として、19世紀後半から20世紀のヨーロッパの大学制度において、現在のリベラルアーツになったのです。
 現代でもこのリベラルアーツ教育の伝統を守っているのが、アメリカの東海岸に多く見られる、アマーストカレッジ、ウィリアムズカレッジ、ウェルスリーカレッジといった教養教育専門のリベラルアーツカレッジです。
 その最大の特徴は、学生が幅広い教養を身につけることを目的とした「全人教育」にあります。
 アメリカ最古の高等教育機関ハーバード大学ですが、同校が当初はリベラルアーツ教育を行う小規模な大学として設立され、その後、大学院を持つ大規模な研究型大学に移行していったのに対して、いくつかのリベラルアーツカレッジは今もその伝統を守り続けています。
 日本では、戦前の旧制高校から1970年代まで続いた大学文化の中に「(大正)教養主義」というものがありました。
 そこでの「教養」というのは、ドイツのフリードリヒ・ヘーゲル的な「ビルドゥング」の影響を強く受けたものでした。
 ヘーゲルは、『精神現象学』の中で、教養というのは、生まれながらの素朴な生から離れて、より高いレベルでの一般的知識を手にすることだとして、次のように語っています。
 「教養のはじまりとはつまり、実体的な生の直接的なありかたを離脱しはじめようとつとめることである。それがはじまるのはつねに、さまざまな一般的な原則と立場にかかわる知識を手にすることによってであるほかはなく、なによりもまずことがら一般にかんして思考されたものへと向上しようとつとめることによってである。」
 ヘーゲルは、こうした精神の自己運動を「ビルドゥング」と呼んでいます。ドイツ語の「ビルドゥング」というのは、個人が自己を理解し、内面的に成長し、豊かな人間性を獲得するためのプロセスを指し、そこには自分で身につけるというイメージがあります。
 人間は、「ビルドゥング=自己の形成」を通して自己実現が可能となり、さらなる人間的成長を遂げるということです。
 さらにヘーゲルは、個人と社会の発展は密接に関連しているとして、個人が「ビルドゥング」を通じて自己を形成し、社会との関係を築くことで、より高度な精神(絶対精神)へと進化すると考えたのです。
 戦後日本で起こった「教養主義論争」
 戦後の日本では、教養の意義を巡って教養主義論争が起きました。
 最大の論点は、教養を積むことが人格形成に意味があるかどうかで、意味があるとするのが「人格主義的教養主義肯定論」です。
 これに対して、教養を積むことと人格形成とは別物だと考えるのが「人格主義的教養主義否定論」です。
 社会学者の竹内洋は、『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書)の中で、教養というのは、読書を通して知識を得て、人格を陶冶し、社会を変革することだとしています。
 そこにあるのは、マルクス主義を学び、『世界』や『中央公論』などの雑誌を通して教養を身につけることが、自分の幸せと社会の進歩につながるという考え方です。
 こうした「教養=ビルドゥング」という理解が大学文化の中に浸透し、日本の教養主義と人格主義の時代を生きた人たちは、カントやヘーゲルなどの啓蒙主義哲学を知識として学ぶだけでなく、その生き方のモデルとしたのです。
 しかしながら、教養主義はこのように多くの学生や教員たちに共有されたにもかかわらず、感受性や主観に重きをおいたロマン主義と同じように、具体的な社会変革の設計図を描くには至りませんでした。
 日本的な教養主義が手本にしたドイツでは、他の国に見られるような身体作法や礼節は重視されず、教養を身につけることは人間的に成長することであるとされ、内面の成熟に重きを置いていたこともその一因です。
 上述の竹内は、1970年代後半以後に教養の輪郭がぼやけて教養主義が衰退した原因は、「新中間大衆社会」という社会構造の変化にあるとしています。
 つまり、ホワイトカラーだけでなくブルーカラー、自営層、農民までを含んだ新中間大衆の文化は、隣人と同じ振る舞いを目指し、すべて高貴なものを引きずり下ろそうとする、フリードリッヒ・ニーチェが言う「畜群」(衆愚)道徳に近いものだったのではないかというのです。
 日本で「教養主義」が失われた理由
 この点について、私なりにその背景を考えてみると、ひとつには、日本社会は太平洋戦争と学生運動における2つの「敗戦」という大きな挫折を経て、全体として哲学や思想的なものに対する信仰が失われていったということがあると思います。
 またその反動として、日本が国家を挙げて経済成長に邁進したことで、大学における教養教育自体が形式化・形骸化してしまい、専門課程への単なる通過点にすぎなくなってしまったということも挙げられると思います。
 つまり、高度成長期以降は、「教養主義」に代わって「資本主義」が日本人の支配的思想になっていったということです。
 この資本主義と教養の問題は、広がりが大きい課題ですので、また次回以降で詳しく検証してみたいと思います。
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 大正デモクラシーを行った中心的メンバーは新進気鋭の若い超難関大学卒業の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達で、彼等が信じたのは近代法理に基づいた民主主義ではなく、マルクス主義共産主義であった。
 彼等の後ろのは、レーニントロツキーらが率いるソ連中国共産党・国際的共産主義勢力が存在していた。
 ロシア人共産主義者達は日露戦争の報復戦を、中国共産党日清戦争の復讐戦を、反日敵日派朝鮮人韓国併合の仇討ち戦を仕掛けていた。その構図は、2020年代の現代でも変わらない。
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 昭和初期の暴走は、マルクス主義の高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達がソ連の暴力的人民革命を日本で再演しようとして始めた。
 敗戦後、彼等が左翼系敗戦利得の文化マルクス主義者として戦後民主主義教育と左派メディア報道を行いリベラル左派を生み出した。
 彼等は、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 日本滅亡の危機は、江戸時代後期から続いていた。
 それ故に、軍国日本の大陸戦は積極的自衛戦争であった。
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 6月2日 YAHOO!JAPANニュース Forbes JAPAN「孫子地政学
 川村雄介の飛耳長目
 秋深まる北京の人民大会堂。盛大なセレモニーを終え、ゆっくりと大階段を下りていくふたり連れの姿があった。女性は淡い色の着物姿で男性はダークスーツである。安倍元総理夫妻であった。
 この日、会堂では日中第三国市場協力の調印式が賑々しく執り行われた。当時、世界中が期待と不安をない交ぜにした視線を送る中国の政策が「一帯一路」であった。日本でも賛否両論が渦巻いていた。経済にはプラスだが、中国の拡大主義には警戒せざるをえない。こうしたなか、安倍政権は両国が第三国で協力し合うという立て付けで、一帯一路を黙認したものと受け取られた。中国からは親米で対中国強硬派と見なされていた安倍氏が、経済文化では日中間協力を進めていく、と宣言したのだ。地球儀俯瞰外交の真骨頂だった。
 いまはやりの言葉が「地政学」である。書籍や論考の表題には、これでもかというほど地政学の三文字が躍っている。独立した学問というよりも、地勢を重視しつつ歴史、政治外交、経済、文化・宗教・イデオロギー、民族問題、軍事等々をゴブランのように織り込んだ、世界情勢の分析手法といえるだろう。多くの場合、19世紀末辺りからの、欧米の考究を指しており、H・J・マッキンダーに代表される英米系とK・ハウスホーファーらの大陸系があるとされる。
 だが、これらのはるか昔から中国には地政学がある。天下が麻のように乱れた春秋時代孫子だ。孫子は国家の大事を軍事ととらえ、5つの基本を踏まえろと教えている。道(正しい内政)、天(環境条件と機会)、地(地勢)、将(指導者の能力)、法(制度と運用)である。これらを真に身につけ応用できる国だけが勝つという。孫子は多くの言語に翻訳されてきたので、近代の地政学にもかなりの影響を与えていると思う。
 地政学上、重要な視座は自国が大国か小国かを認識することである。特に大国に翻弄される小国は、地政学的な知恵と対応が死命を制する。Geopolitik(地政学)という言葉の生みの親であるR・チェーレンが、19世紀後半以降、小国であることを自覚せざるをえなくなったスウェーデン出身であったことも示唆的だ。当時、この国はロシアとドイツの勢力と思惑に挟まれながら、ナショナリズムが勃興していた。
 日本は大国なのか小国なのか。
 日本は大国なのか小国なのか。私見によれば、大国は三つの力をすべて備えている国家である。財力、腕力、影響力だ。現在、これを満たしているのは米国と中国のみである。日本は大国ではない。さりとて小国でもない。冷静に見て準大国だ。
 したがって、準大国にふさわしい地政学を検討すべきことになる。英米地政学では、日本はシーパワー国家群に属する一方で、ハートランドユーラシア大陸中心部、端的にはロシアだが中国を入れてもおかしくない)からの圧力に晒されるリムランドの端に位置付けられよう。不断の脅威を大前提に、強力な味方をもつことが基本になる。まずは日米の経済や防衛に関する強い絆が不可欠な重要性をもつ。
 ただし、準大国としては極端な偏りは避けなければならない。また、親密な相手であっても信じ切ってよいかどうかを冷徹に見極めるべきだ。
 東の「隣国」、米国は最重視すべき友好国だが、この国も国益にかかわると牙をむく。昨今のCFIUS(対米外国投資委員会)の動きには用心する必要がある。米国の国家安全保障上、外国からの投資を監視、管理する政府機関がCFIUSだが、適用除外国もある。米国との間に、安全保障上有効かつ堅固な手続きと協力関係を設けている国々だ。現在、英、加、豪、ニュージーランドの4カ国に限られる。米国と安全保障で組んでいるファイブ・アイズであり、日本は入っていない。現に水面下でCFIUS対応に追われる日本企業は少なくないと聞く。
 他方で、西の隣国、中国が容易ならざる相手であることは語り尽くされている。だからこそ、それを心裡深く抱きながら、できる限り友好的に接していくことがキモとなる。
 米中を上手に使い分けながら、欧亜の主要国と組み、新興国を折々のカードとしてちらつかせていく。大国をあしらいながら準大国と小国を味方につける。これこそ準大国たる日本の生き方だ。この難易度の高い技を使いこなすことができれば、大国に劣らない力を発揮できる。
 孫子曰く「不戦而屈人之兵、善之善者也」──戦わずして敵を屈服させることこそ最善策である。
 川村雄介◎一般社団法人 グローカル政策研究所 代表理事。1953年、神奈川県生まれ。長崎大学経済学部教授、大和総研副理事長を経て、現職。東京大学工学部アドバイザリー・ボードを兼務。
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 7月22日 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ) ONLINE「日本海海戦を勝利に導いた明治のリーダーたちの卓見
 対馬沖の海戦で戦艦「三笠」の艦橋に立つ東郷平八郎連合艦隊司令長官(前列中央)(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTYIMAGES)
 日露戦争の海戦としては、1905年5月の日本海海戦がよく知られている。従来は東郷平八郎連合艦隊司令長官による丁字戦法が功を奏したとされてきたが、むしろ難しかったのは日本海軍がウラジオストクに向かうロシアのバルチック艦隊の航路を予測し、これを捕捉することにあった。
 そもそもバルチック艦隊の目的は、日本海軍との決戦ではなくロシア極東のウラジオストク軍港に寄港し、そこから日本と朝鮮半島を結ぶシーレーンを脅かすことであった。他方、日本海軍では三次にわたって試みるも十分な海上封鎖に至らなかった「旅順港閉塞作戦」の苦い経験から、いったん軍港に逃げ込まれたロシア艦隊を撃滅するのは極めて困難であることが認識されており、バルチック艦隊ウラジオストクに入港する前に叩く必要があった。
 そして強力なバルチック艦隊に対抗するためには、日本海軍も総力を上げて迎撃する必要があり、艦隊を方々に分散して待ち構える余裕はなかったので、必ずその経路を特定しなければならなかった。バルチック艦隊の最後の寄港地である上海からウラジオストクまでのルートは、対馬海峡を通る日本海ルートと、津軽海峡宗谷海峡を通る太平洋ルートが想定されたため、これを一本に絞るために日本側はスパイを駆使して情報を集めたのである。
 日露戦争で活躍した明治政府の肝いり政策
 ただし重要な情報を集めても、それを東京に送れなければ意味はない。それを可能にしたのが、海底ケーブルを活用した情報伝達であった。米国を訪問した岩倉使節団が国際電信の威力に驚き、その後、明治政府がケーブルの敷設に注力したことは本連載の第25回(2023年4月号)でも触れた。
 海底ケーブルは英国が中心になって整備が進められ、欧州からインド、シンガポールを経由して、上海までが電信でつながっていた。そしてデンマークに本拠を置く大北電信会社が、1873年に長崎と上海、長崎とウラジオストクを結ぶ電信を敷設したことにより、日本は世界と電信を通じてつながったのである。さらに国内でも東京~長崎間の電信が架設されることで、東京と世界の各都市も結ばれることになった。
 その後、83年には佐賀の呼子から韓国の釜山にも海底ケーブルが引かれ、朝鮮半島への情報伝達も容易になった。94年の日清戦争では、この通信網が利用されることになる。その後、児玉源太郎・陸軍次官が海底ケーブルの敷設に注力し、九州から台湾、中国大陸間の通信回線が開通し、朝鮮半島との間にも何重もの軍用水底線(コダマ・ケーブル)が敷き詰められたのである。こうして日本は、朝鮮半島、台湾、中国大陸、シベリアとの通信網を築き上げていき、これが日露戦争でも生かされることになる。
 他方、50隻もの艦艇からなるバルチック艦隊は、1904年10月15日にバルト海沿岸のリバウを出港、7カ月もの期間をかけて1.8万海里を回航し、東アジアに到達してきた。日本外務省と海軍は自らの情報員による情報収集に注力し、関係各国にも情報提供を願い出ていた。
 フランスからの情報によって同艦隊がマダガスカルを出港したことを察知した外務省は、アジア各所に艦隊に関する情報収集を命じており、シンガポール、香港、さらに05年5月19日にはフィリピンと台湾の間のバシー海峡付近で同艦隊の所在を確認している。しかしその後、バルチック艦隊の動静に関する情報は入ってこなかったため、日本海軍は位置を特定しかねており、艦隊が既に太平洋から津軽海峡に向かっていると判断した日本海連合艦隊は、バルチック艦隊を捕捉すべく北進する決定を下した。
 しかし同月26日零時過ぎ、上海からバルチック艦隊が入港したとの情報がもたらされたのである。海上自衛隊楠公一氏の研究によると、当時、上海においては外務省の小田切万寿之助総領事が英国人を、さらには三井物産の上海支店長を雇ってロシアに関する情報を収集、日本海軍も宮地民三郎大尉が「三村竹三」という偽名で情報収集活動をしており、日本側がアンテナを張り巡らせているところに、バルチック艦隊が上海入りしたようである。
 謎多き水先案内人値千金の情報とは
 この時、決定的な情報をもたらしたのは、上海呉淞(ウースン)港の水先案内人、「レー」という人物であった。この人物については明らかになっていないが、通常、港湾の水先案内人は、艦艇に乗り込んで船の停泊場所まで誘導する係であり、その際に艦艇の乗組員から情報を得ることができる。
 この「レー」なる人物が日本総領事館と間接的につながっており、彼はバルチック艦隊の航路について「対馬海峡を通過して浦塩(ウラジオ)に至る」との情報と、バルチック艦隊が艦船の燃料を運ぶ給炭艦を上海に残していくことを伝えてきた。これは上海を出港した後、艦隊の燃料補給は不必要ということ、つまり艦隊は上海から最短ルートである対馬海峡を通過するであろうことを示唆していた。
 これが値千金の情報であった。既述したように、上海・長崎・東京間には電信ケーブルが敷設されていたので、この情報は26日の未明に東京まで伝えられ、さらに海軍軍令部は朝鮮半島の鎮海湾に停泊していた旗艦「三笠」にも転送している。ここでも海底ケーブルが活用されたのである。日本海連合艦隊は、推測に基づき北進する予定を急遽取りやめ、対馬海峡を通過するバルチック艦隊を迎撃する方針に転換したのである。
 早速、日本海軍の「信濃丸」が対馬海峡の索敵を開始し、27日午前4時47分に「敵艦隊の煤煙らしきもの見ゆ」とバルチック艦隊発見の報を送るに至った。この情報伝達は、当時最新鋭の無線機「36式無線電信機」によって「三笠」に伝えられている。その1時間後、有名な秋山真之中佐の手による「天気晴朗ナレドモ浪高シ」の出撃命令が下され、日本海連合艦隊バルチック艦隊との決戦に挑み、これを撃滅することに成功したのである。
 日本海海戦における劇的な勝利は、外務省の情報収集力と情報を基にした日本海軍の柔軟な作戦、そして事前に情報インフラを整備した明治のリーダーたちの卓見によるところも大きかったのである。
 小谷 賢
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