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徳川幕府は、徳川家康の開幕から徳川慶喜の大政奉還まで激動する国際情勢と繋がっていた。
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2022年10月26日 MicrosoftNews 朝日新聞社「坂本龍馬の世界観に影響大? 植民地支配の構図を記した地図が公開中
© 朝日新聞社 列強諸国の植民地が表記されている「新製輿地全図」の一部(津山洋学資料館提供)
鎖国時代の坂本龍馬や吉田松陰ら幕末志士の世界観に影響を与えたとされる世界地図が、津山洋学資料館(岡山県津山市西新町)の企画展で展示されている。津山ゆかりの蘭学者、箕作(みつくり)省吾(1821~46)が作製した「新製輿地全図(しんせいよちぜんず)」。当時の最先端の世界地図は、欧米列強の植民地支配の構図を克明に記している。
企画展は「蘭学者が見た世界―箕作省吾と新製輿地全図―」。幕末の蘭学者が世界をどのように認識し、いかに西洋の知識を取り入れて世界への視野を広げていったのかを紹介している。
省吾が新製輿地全図を作製したのは1844年。アヘン戦争の直後で、日本も中国のように列強諸国に侵攻されるかもしれないという危機感があった。
新製輿地全図では列強諸国の植民地をカタカナの記号で表記し、帰属関係を明確にしている。イギリスは(ヱ)、フランスは(フ)、ロシアは(ロ)といった具合だ。木版刷りで、世界各国の領土は手作業で彩色して示してある。
企画展では新製輿地全図の版木や、世界の地理や歴史について記述した書籍のほか、下調べした資料など約30点を展示。幕府の命を受けた天文学者の高橋景保によって試作された世界地図や、日本で最初に刊行されたメルカトル図法の世界地図もある。
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資料館によると、省吾は仙台藩水沢領の家臣の次男として生まれた。江戸に出て、幕末の対ロシア・アメリカの外交にも活躍した津山藩医で蘭学者だった箕作阮甫(げんぽ)に入門。才能が認められ、阮甫の養子になった。
18世紀後半の日本は、蘭学の発展に伴ってヨーロッパ製の世界地図や地理書が輸入されるようになった。それまでの世界地図は楕円(だえん)形のマテオ・リッチ系だったが、地球の両半球を二つの円に描く蘭学系が広まるようになった。
省吾はこれらの地図を参考に、阮甫の協力を得て新製輿地全図を作った。翌年には解説書を兼ねた世界地誌「坤輿(こんよ)図識」を書いた。
最新の世界情勢を伝えることで鎖国が続いた日本人に警鐘を鳴らし、龍馬ら幕末志士をはじめ、桜田門外の変で暗殺された江戸幕府の大老、井伊直弼らに世界への目を開かせたとされている。
省吾は続編の「坤輿図識補」の執筆中に結核で倒れ、数えで26歳で亡くなった。企画展では、坤輿図識や、阮甫が完成させた坤輿図識補も展示されている。
資料館の学芸員、近都(きんつ)兼司さんは「情報が非常に制限されていた鎖国時代に、蘭学者らが苦労しながら研究していった姿を感じてほしい」と話している。
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会期は11月13日まで。月曜休館。入館料は一般300円、65歳以上・高校・大学生200円、小中学生無料。問い合わせは資料館(0868・23・3324)へ。(礒部修作)
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NHKオンデマンド
新・幕末史
ストーリー
激動の世界情勢に直面した幕末日本のヒーローたちは、どのように危機と闘ったのか。海外の文書館で発掘された史料をもとに、ドキュメンタリードラマ形式で、新たな幕末の歴史を伝える。
エピソード
#1 「新・幕末史 第1集 幕府VS列強 全面戦争の危機」
NHKスペシャルの魅力を5分間に凝縮した「Nスペ5min.」。今回は『新・幕末史 グローバル・ヒストリー 第1集 幕府VS列強 全面戦争の危機』のダイジェスト。 この番組の視聴可能期限は2022年10月30日までとなります。ご了承ください。
5分
「新・幕末史 第1集 幕府VS列強 全面戦争の危機」
#2 新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機」
世界の覇権争いに巻き込まれた幕末のヒーローは、未曽有の危機とどう闘ったのか?グローバルな視点と本格ドラマで「新しい幕末史」を描く。歴史の空白を埋める機密文書を発掘。覇権争いをリードした大英帝国が、江戸や京都に侵攻する「全面戦争計画」を進めていたことが明らかに。戦場を一変させた兵器の威力を実験で解明する。列強と激しい駆け引きを繰り広げたのは、“最後の幕臣”小栗忠順。日本の未来を懸けた闘いの結末は?
49分
新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機」
#3 「新・幕末史 第2集 戊辰戦争 狙われた日本」
NHKスペシャルの魅力を5分間に凝縮した「Nスペ5min.」。今回は『新・幕末史 グローバル・ヒストリー 第2集 戊辰戦争 狙われた日本』のダイジェスト。 この番組の視聴可能期限は2022年11月6日までとなります。ご了承ください。
5分
「新・幕末史 第2集 戊辰戦争 狙われた日本」
#4 新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」
新・幕末史、第2集は日本を変えた内戦・戊辰戦争。新政府と旧幕府勢力がぶつかった戦いの裏で、外国勢力による日本植民地化計画が進められていた。プロイセン、後のドイツ帝国は、旧幕府側の会津藩にスパイを送り込み、支援と引き替えに北海道の植民地化を企てる。アメリカやイギリスも行動を開始。ガトリング砲など、大量の新兵器が日本に流れ込んでいく。欧米列強の野望が渦巻く中で行われた戊辰戦争を新たな視点で描く。
49分
新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」
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NHKスペシャル
新・幕末史 第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機
(2022年10月16日の放送内容を基にしています)
これまで、日本史の転換点として語られてきた「幕末」。今、海外で幕末に関する発見が相次いでいます。日本が世界の覇権争いと深く関わっていたことが明らかになってきたのです。地球規模で歴史の大変動が起きていたこの時代。重要な航路が集まる日本には、アメリカ・ロシア・イギリスなど欧米列強が押し寄せました。入り乱れる大国の思惑。グローバルな視点から見えてきた新たな幕末の歴史。日本と世界が織りなす激動の時代を、ドラマを交え描きます。
ヴィクトリア女王のもとで、世界の海を制した大英帝国。軍艦に搭載された主力兵器が「アームストロング砲」です。当時の大砲を、専門家が分析。軍事史を塗り替える画期的な技術が取り入れられていました。「ライフリング」。砲身に刻まれた、らせん状の溝です。
イギリス王立武器庫 軍事史 ニコラス・ホールさん「砲弾の飛距離を劇的に伸ばし、正確に目標を撃破するために、ライフリングが重要だったのです」
その威力を確かめるため、大砲に実弾を込め発射実験を行いました。1秒間を175万コマで記録する特殊なカメラで撮影。弾丸が激しく回転していることが分りました。回転が加わると、重心や軌道が格段に安定します。回るコマが倒れないのと同じ原理です。ライフリングがない大砲と比べて、弾丸の速度は最大で2倍に達していました。回転がブレないことで、空気抵抗が減少。アームストロング砲の飛距離は3kmを超えました。
国を挙げて強力な兵器を量産していたイギリス。秘密の軍事計画を進めていたことが明らかになりました。1864年に立案された「対日戦争計画」です。実はイギリスは、日本との全面戦争を想定していたのです。戦争計画を練り上げたのは、戦闘経験が豊富な陸海軍の指揮官でした。想定された第一の目標は、海上封鎖。下関から大坂まで、海上交通の大動脈だった瀬戸内海を封鎖します。第二の目標が、天皇の御所がある京都の制圧。侵攻ルート上の大坂城を、砲撃で無力化。陸軍の部隊を送り込み、京都を掌握します。第三の目標が、江戸城への攻撃。江戸湾に幕府が築いた砲台を撃破した後、1万2000人の兵士が江戸城を目指し進撃します。注目したのは、建物が木造であること。城郭を焼き、サムライを一掃します。将軍がいる江戸城は、大砲の長距離射撃によって、落城させるシナリオでした。この計画の背景には、ほかの列強の先手を取り、日本を自らの陣営に組み込みたいという思惑がありました。
イギリス国立公文書館 学芸員 ウィル・バトラーさん「あらゆる事態を想定して、戦争計画を準備するのがイギリスのやり方でした。自国の利益を守るため、ライバルが日本で影響を拡大することを、阻止したかったのです」
対日戦のシミュレーションを重ねるイギリス。戦争の口実を与えたのが、開国に反対する攘夷派が起こした事件でした。1863年、長州藩の攘夷派が、外国商船を砲撃。国際問題に発展します。この機会を、イギリスは見逃しませんでした。
さらなる戦線の拡大を求めていました。
国の存亡の危機。幕府はどう動くのか。実は小栗たち幕臣は、この事態を早くから予期していました。幕府の情勢判断を支えたのは、友好国・オランダです。諜報活動によって、列強の動向を調べていました。イギリス軍の戦力を分析する中で、幕府は、日本に対する野心を知るようになったのです。
ライデン大学 日蘭関係史 ヘルマン・ムースハルトさん「幕府は、オランダを介して列強の機密情報を収集していました。国際情勢を分析する研究機関を立ち上げ、不測の事態に備えていたのです」
幕府はオランダの協力を得て、海軍力の増強に乗り出します。切り札となったのは、軍艦「開陽丸」。最新鋭の大砲「クルップ砲」を搭載していました。射程距離は4km。イギリスの大砲をしのぐ性能でした。オランダから指導者を招き、軍事訓練も強化します。富国強兵を推し進め、近代的な海軍を作り上げたのです。
幕府の軍備増強。その情報を、イギリスがつかみます。
秘書官「報告します。幕府がオランダから最新鋭の軍艦を買い取る契約を結びました」
ラッセル「日本は海軍力を急速に強化している」
ラッセル「日本との戦争は、我が国の財政にとって負担が大きすぎる」
ロンドン大学教授 国際関係史アントニー・ベストさん「もし全面戦争となっても、イギリスは日本に勝ったことでしょう。問題は、コストに見合うかどうか。予算を承認するのは国会です。しかし政治家たちは、外国との戦争にお金を使うことを好みません。税金が増えるからです。これがイギリスの判断基準なのです」
結局、イギリスは戦争計画を放棄します。富国強兵に努めた幕府は、危機を免れたのです。
武力衝突を回避した日本。しかしイギリスが、日本を自らの陣営に組み込むことを、諦めたわけではありません。次なる一手は「マネー・ウォーズ」。経済や金融を巡るしれつな攻防です。19世紀、イギリスの植民地の鉱山で続々と「金」が見つかり、ゴールドラッシュが発生します。こちらは、オーストラリアで採掘された史上最大の金塊です(上写真)。当時、世界の金の産出量の3分の1を占めていたというイギリス。ばく大なマネーの力で、日本を屈服させようとするのです。
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新・幕末史 第2集 戊辰戦争 狙われた日本
新政府と奥羽越列藩同盟。二つの政権をめぐり、イギリスに出遅れていた国々が動き始めました。その中で今、ある国に注目が集まっています。プロイセン。ヨーロッパの新興国で、後のドイツ帝国です。19世紀後半、強力な指導者のもと、ヨーロッパの強国に生まれ変わろうとしていました。
プロイセン王国の首相、オットー・フォン・ビスマルク。彼が推し進めたのは、いわゆる鉄血政策。軍備増強です。周辺諸国との戦争に相次いで勝利し、ヨーロッパで領土を拡大していきます。
プロイセンが次に目を向けたのが、東アジアでした。
近年、ビスマルクが戊辰戦争のさなかの日本から受け取った機密文書が見つかりました。戊辰戦争の情勢について、プロイセンの意外な見通しが記されています。
「東北の同盟軍は、新政府軍に対して勝利を収めるだろう」(1868年 駐日プロイセン公使の報告書)
戦場を一変させた兵器・ガトリング砲は、当時日本には少なくとも3門あったといわれ、そのうち2門が列藩同盟の手に渡りました。海外からもたらされた武器によって、戊辰戦争はかつて日本人が経験したことのないような近代戦になっていたのです。こうした武器の流れを引き起こす原因の一つになったプロイセン。ある土地への野望があったことが、最近の研究で分かってきました。それが、北の大地・北海道です。
ドイツ・ベルリンにある国立民族学博物館に、幕末の蝦夷(えぞ)・北海道でプロイセンが集めたコレクションが眠っていました。先住民族・アイヌの衣装です。あのプロイセン公使・ブラントが、みずから2度も蝦夷調査を行い持ち帰ったものです。そこには、ある計画が秘められていました。
ブラントの報告書です(下写真)。
「蝦夷の気候は北ドイツと似ており、米・トウモロコシ・ジャガイモ、あらゆる農作物が成長し、150万人のドイツ移民を受け入れることができるでしょう。蝦夷こそが植民地にふさわしいと申し上げます」
シカゴ大学教授 グローバル経済史 ケネス・ポメランツさん「新興国のプロイセンは、イギリスなどの大国と同等に扱われることを望み、そのためには、東アジアで利権を持つことが必要不可欠だと考えました。プロイセンにとって戊辰戦争は、まさに絶好の機会です。この時代、大国として扱われたいのであれば、植民地を望むのは当然のことであり、プロイセンにとってこの計画は、おかしなものではなかったのです」
ブラントが立てた植民地化計画は、巧妙でした。実はそのために近づいたのが、東北諸藩だったのです。機密文書の中に、細かく色分けされた蝦夷の地図が残されていました。
幕末、幕府の直轄領だった蝦夷の警備を担ったのが、会津や庄内など東北諸藩でした。東北では、プロイセンとつながる外国人が暗躍します。
ハインリッヒ・シュネル。もとは公使・ブラントの通訳でしたが、戊辰戦争を機に東北に潜入。武器取引などを通じて、列藩同盟の信頼を勝ち取るようになります。
長引く戦乱で、会津藩と庄内藩は多額の軍資金を必要とするようになります。プロイセンは、そんな彼らに金を貸しつける代償として、蝦夷の権利を譲り受けようとしたのです。
通信が未発達だった当時、外国公使には大きな権限が与えられていました。ブラントの植民地化計画に対し、プロイセン本国はどう応じたのか。機密資料の撮影が、特別に許可されました。
ドイツ連邦公文書館軍事文書館「ここにビスマルクの決断が記されています」
「ブラントに会津・庄内藩との交渉開始の権限を与える」
しかし、この計画の前に、ある国が大きく立ちはだかります。新政府を後押しするイギリスです。このまま外国商人と東北諸藩の武器取引が続けば、新政府の勝利は見通せません。パークスの部下で、イギリスの対日政策に大きな影響を与えていた外交官、アーネスト・サトウは、新政府に対して、新潟での武器取引をやめさせる策を授けます。
駐日イギリス外交官 アーネスト・サトウ「我が国は、新政府の新潟封鎖を支持します」
新潟港の海上封鎖。外国船の侵入を防ぐため、新政府が軍艦を派遣するというものです。これまで西郷たちは、外国からの反発を恐れ、新潟港の封鎖に慎重でした。しかしイギリスは、海上封鎖は国際法上認められた権利であり、他国の批判を恐れる必要はないと伝えたのです。
1868年9月。新政府は新潟港を封鎖、電撃的な上陸作戦を行います。新潟の守備についていた列藩同盟の主力部隊が壊滅しました。
11月6日、会津藩が降伏。まもなく東北全土が、新政府に下ります。こうして、プロイセンの蝦夷植民地化計画は実現せず、歴史の闇に消えていったのです。
蝦夷をめぐるプロイセンの植民地化計画。日本側に記録は残されておらず、海外の史料によって見えてきた幕末の裏側です。
このあと戊辰戦争は、新たな局面を迎えます。旧幕府艦隊を率いた榎本武揚が、江戸湾から北上を続け、箱館・五稜郭を占領。新政府と対じします。
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明治日本の近代化とは、富国強兵による軍事国家の建設であった。
日本が歴史的教訓とするべきなのは、中国の清帝国ではなくインドのムガル帝国であった。
日本人が、感謝し恩義を感じるべきは、清の中国人ではなくムガルのインド人であった。
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日本は、積極的自衛戦争を目指した軍国主義政策で救われた。
日本を救う唯一の方策が、軍国日本であった。
幕末動乱は、江戸時代後期から始まり日露戦争で終結した。
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琉球とアイヌの悲劇とは、日本を取り巻く弱肉強食の帝国主義による国際情勢に巻き込まれたことである。
だが、現代でも縄文人の子孫として琉球民族とアイヌ民族を名のれるのは日本国・日本民族のお陰である。
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イギリスとロシアの覇権戦争とは、地政学的に、イギリスの海洋東進とロシアの大陸南下であった。
そして、産業革命で近代化したフランス、プロイセン(ドイツ)、オランダ、アメリカの列強諸国は、海洋交通網の中で良港を多く持っている日本を中継拠点として中国市場に進出していった。
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日英同盟とは、イギリスの超リアルで狡猾な世界戦略による必然であった。
日本は、外交戦略としてイギリスと手を組む事で生き残り、もし同盟相手を中国かロシアに選択したら確実に滅亡していた。
それが、地政学であった。
それは、現代でも変わらない事実、現実である。
歴史的事実として、日本が手を組む欧米諸国とはイギリス、アメリカ、フランスの三ヵ国である。
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明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義・共産主義のイデオロギー侵略が原因であった。
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弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
それが、天皇の国家元首としての統治権であった。
欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義=共産主義のイデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
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日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義とキリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられた事である。
アメリカの太平洋侵略を最も警戒したのが、1894(明治27)年にハワイ王国滅亡を目の当たりにした東郷平八郎であった。
ハワイ王国は、アメリカからの侵略から母国を守る為に日本の軍事支援を期待して、明治天皇に天皇家との姻戚関係を申し込んだ。
日本は対ロシア戦に備えて軍備強化を急いでおり、そこに新たに対アメリカ戦を加える余裕はなく、苦渋の選択として天皇家とハワイ王家との結婚は断り、1898(明治31)年にハワイ王国の滅亡を涙を流しながら傍観するしかなかった。
日本海軍内のワシントン海軍軍縮会議に猛反対した艦隊派は、ハワイ王国滅亡を教訓としていた。
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近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
1806年 文化露寇。
1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義・民族主義ではなく、正しい軍国主義・国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ、黒海、バルカン半島への領土拡大、2,。アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
1796年~1815年 ナポレオン戦争。
1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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1689年 ネルチンスク条約。ロシア帝国と清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
明治8(1875)年 樺太・千島交換条約。明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
日本側の戦略的利点は、ロシア海軍をウラジオストクと樺太の日本海内に封じ込め、宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島・朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬と樺太を手に入れ旅順・対馬・ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
日本の戦争は、領土拡大の帝国主義的侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義的自衛戦争であった。
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日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランド・ユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産・世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
バチカン、ローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土・南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土・南樺太に送って防衛任務に当たった。
尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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