🌏55)─1─日本の「近代化」である軍国主義政策と積極的自衛戦争は正しい選択だった。~No.186No.187No.188 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 朝鮮や中国は古代から敵であり、キリスト教原理主義は戦国時代から敵であり、ロシアは江戸時代後期から敵であり、アメリカやドイツは明治中頃から敵であった。
 古代から日本は敵・敵国に包囲されていて、国外に味方・仲間、同盟国・同志国、友好国・親好国はいなかったし、知り合いつぃての友・友人はいても、信頼して頼れる親友はいなかったし命を預けて共に戦ってくれる戦友もいなかった。
 つまり、日本民族単一民族と言われるの理由は、外国に依存せず、支配されず、従属せず、一人孤独に生きてきた孤立した民族だからである。
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 2022年12月17日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「名著から考える「日本人と軍国主義
 1976年の初版版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』が2022年に新装版として復刊された。社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、一部編集をして掲載しています。
● 日本人の社会科学オンチ
 戦後日本人の思考様式の基礎をなしている神話の論理構造は次のようなものであると思われる。すなわち、①戦前は軍国主義であった、②軍国主義は正しくない、③ゆえに、われわれは破局を迎えた。そして、①現在(1976年時点)は軍国主義ではない、②ゆえに、現在は正しい、③したがって、現在軍国主義のような破局を迎えることはありえない。そして、この場合、「軍国主義」の対蹠物として「デモクラシー」がくるのである。
 しかし、いまやこの神話の効力が失われつつある。その理由は、このような看板の塗り替えを行っても、日本人の行動様式、思考様式の基本型は変わっておらず、構造的に同型であるからである。したがって、戦前軍国主義によって破局を迎えたとすれば、現在といえども、その危険性は去っていないのである。
 一般に、戦前は軍国主義であった、といわれる。はたしてそうであろうか。そのまえに、まず「軍国主義とは何か」という問題が起こるが、これについてはまだ学問的に確定された定義はない。しかし、ごく常識的に考えて、軍国主義とは、国家の機能をあげて軍事目的に奉仕せしめようとする主義のことである、と考えれば、戦前の日本は、アメリカやドイツやソ連などに比べて、はるかに軍国主義的ではなかったのである。
 第二次世界大戦は総力戦である、といわれた。いかにもそのとおりであって、ひとたび大戦が生起するや、アメリカにおいては、物理学者や数学者はいうまでもなく、天文学者、心理学者から人類学者まで動員されて戦争目的に奉仕した。その結果、原爆やレーダーが開発されたのであったが、副産物として、後に学際的研究として社会科学に一種の革命を起こすことになる行動科学まで生まれた。このように、国家の機能をあげて軍国目的に奉仕せしめることこそ、真の意味における軍国主義ではないであろうか。
 このようなことは、戦前の日本においては思いも及ばなかった。自然科学の組織化が思うにまかせぬために、レーダーをはじめとする各種新兵器の開発に遅れをとり、このことが日本の大きな敗因の一つとなったことは、いまや周知であるが、所与の目的のための社会科学の組織化となると、日本の戦争指導者の夢想もなしえないことであった。その結果、彼らは、現実の社会現象を科学的に分析してこれを合目的的に制御する能力を全く喪失し、新しい流動的な局面に接すると、右往左往するのみであって、策の出るところを知らなかった。
 社会科学の貧困をもたらした文化的背景として、日本人の思考における非科学性がある。ここに、非科学性とは、社会現象を科学的に思考する論理的能力の欠如をいう。すなわち日本人は、最も有能で一見論理的能力を身につけたようにみえる人びとであっても、その思考様式は、たかだか技術的レヴェルにとどまり、全体的コンテクストにおける波及を考慮しつつ、社会現象を制御の対象として分析する能力を欠如している。
 小室直樹
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 12月29日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「40年以上の前の名著から考える「日本の国防」
 小室直樹 の意見
 1976年の初版版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』が2022年に新装版として復刊された。社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、再編集をして掲載しています。
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 天才・小室直樹が語っていた「国防問題」
 日本経済の国際的構造からして、石油危機は起こるべくして起こったのである。われわれは、かかる危機が生起したことよりも、いままで一度も生起しなかったという偶然の幸運に驚かなければならないのである。
 日本の国防問題も、あらためてこの視座から見直されなければならない。
 国防問題というと、だれしも外国が攻めてくることに対処することだ、と思うだろう。が、これは狭義の国防であって、それが国防の中心であったのは、第二次世界大戦以前のことである。現在(1976年当時)では、事情はすっかり変わってしまっている。
 一九世紀から二〇世紀の前半にかけて、一回の大会(海)戦によって大帝国の興亡は決せられた。ナポレオン帝国は五つの戦勝(アルコーレ、リヴォリ、アウステルリッツ、イエナ、ワグラム)の柱に支えられているといわれたが、ついに、ウォータールーに滅びた。そのとき、イギリスが生き延びえたのも、ひとえにトラファルガーの一勝による。ビスマルクドイツ帝国は、ケーニヒツグレーツとセダンの大勝によって成功したが、第一次大戦敗戦の結果、雲散霧消した。このような状態は、第二次大戦まで続く。今日にいたるまで、一九四一年冬の「モスクワ攻防戦」や四二年から四三年にかけての「スターリングラード戦」が多くの人びとの興味をひきつけてはなさないのは、この決戦のどちらかでドイツ軍が勝っていたら、第二次大戦の帰趨は全く異なったものとなり、今日の世界もまた全く異なったものとなっていたからである。これらのいずれの場合においても、ドイツ軍は、勝利の一歩、否半歩手前までいっていた。
 が、第二次世界大戦によって、このような戦争万能主義は幕を閉じる。一九五六年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したとき、軍事的に圧倒的に優勢な英仏もいかんともしがたかった。この際、エジプトの連戦連敗は、少しもナセルの立場を弱めるものではなかった。セダンの敗報がひとたびパリに伝わるや、あっというまに転覆してしまったナポレオン三世王朝と、なんという違いであろう。
 その後、一九六七年のイスラエル、エジプトの六日戦争におけるイスラエル軍電撃戦の圧勝も、問題を何一つ解決しえず、かえってスエズ運河封鎖などの幾つかの後遺症を残したのみであった。朝鮮戦争ベトナム戦争もこのタイプである。前者は引分けであり、後者はアメリカの大敗のうちに終結するのであるが、アメリカが本気になって勝利を求めるならわけはなかった。核兵器を使用しさえすればよい。アメリカが核兵器を使用しなかった理由は、人道的理由や第三次大戦への発展を恐れるというよりも、そんなことをしても問題は少しも解決しないからであったろう。
 米ソ関係にしてもそうだ。現在はともかく、十数年前までは軍事的にアメリカはソ連に対して圧倒的に優勢であったのだから、狭義のパワー・ポリティクスの原理からいえば、なんでもできたはずである。しかし、そうとばかりもいえなかったではないか。さらにさかのぼって、朝鮮戦争のころは、アメリカ軍部は、ソ連など本気でたたく気ならば、三か月もあれば十分だ、と豪語していたそうである。核兵器とその運搬手段の当時における状況からみて、おそらくこのとおりであったろう。
 が、アメリカはソ連との予防戦争を好まず、満州爆撃を主張したマッカーサーは、トルーマンに罷免されてしまった。要するに、ソ連核兵器で全滅させることは、問題の根本的解決にならないとアメリカが考えたからであろう。
 このようにみてくると、国防問題なども、従来とは違った視点からみられなければならなくなってくる。いままでなら、国防といえば、外国が攻めてきたときどう防ぐか、という問題であった。でも、これからは違う。このような狭義の国防ではなしに、より広義の国防が問題になる。広義の国防とは、日本経済が必要とする資源をいかに確保すべきか、という問題である。これこそ現在のわれわれの死命を制する問題である。
 これに比べれば、直接侵略の問題つまり外国の軍隊が直接日本に攻めてきたときにどうするかという問題は、少なくとも現時点においては、あまり恐ろしい問題であるとは思えない。その理由は、国際政治の力学構造が、日本を軍事的に安泰たらしめているからである。」
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 近代日本が軍国主義で暴走したのは、中世キリスト教会の宗教侵略と日本人奴隷交易、江戸時代後のロシアによる軍事侵略、ロシアの日本侵略を助け手引きする中国と朝鮮の敵対行為、そして中国共産党ソ連・人民義勇部隊などの国際的共産主義勢力によるイデオロギー侵略が原因であった。
 つまり、日本人の共産主義者無政府主義者のテロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていたからである。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族の3民族とは、数万年前の殺し合いのない、争いのない、戦争のない平和な旧石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、競争、争い、殺し合い、戦争を好んだ中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
 つまり、世襲民族、直系子孫である。
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 史上最悪な近現代イデオロギーは、マルキシズムボルシェビキファシズム、ナチズム、レーニン主義毛沢東主義などの全体主義であった。
 対して、ミリタリズムには、正しい面と悪い面の二面性がある。
 明治新政府が採用した富国強兵・殖産興業・近代教育の近代化政策は、侵略してくる敵国に対する積極的自衛戦争え勝利する為の軍国主義政策でった。
 つまり、日本の軍国主義は正しかった。
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 日本民族日本人は、哲学や思想と民族宗教(崇拝宗教・祭祀宗教・神話物語、寛容宗教)を持っていたが、イデオロギーや普遍宗教(信仰宗教・啓示宗教・不寛容宗教・排他宗教)を持っていなかった。
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 日本軍は、戦場で人を殺す戦争犯罪を行ったが、同時に戦場や被災地で人を助けるという人道貢献や平和貢献も行っていた。
 世界の海難事故で、日本ほど難破船や漂流者を助けた民族はいない。
 世界の自然災害で、日本軍ほど被災者を助けた軍隊はない。
 つまり、いい日本人もいれば悪い日本人もいた。
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 軍部・陸軍、憲兵隊・特高は、同盟国のナチス・ドイツからの外圧を無視し、友好国のアメリカやイギリスが嫌がっても、天皇と日本を頼って逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を助けていた。
 朝鮮人を助け、中国人を助け、ロシア人を助けたが、彼らは日本人に恩義を感じず感謝しないどこおか、日本人を好んで猟奇的に虐殺していた。
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 軍国日本のリノベーション、イノベーション選択と集中
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 戦艦大和は、造船大国を目指してきた日本が辿り着いた一点豪華主義によるリノベーションであった。
 ゼロ戦は、一点豪華主義の傑作ではなく、中間の傑作機であって、航空機開発というイノベーション終戦間際の紫電改などの後続機にまで繋がっていた。
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 真珠湾奇襲の成功は、制海権大艦巨砲主義の戦艦から制空権・航空主義の空母へのイノベーションであった。
 欧米海軍の主流派は、依然として大艦巨砲主義の戦艦で終戦まで空母と同時に戦艦をも建造していた。
 日本海軍は、建造を戦艦大和型の二番艦「武蔵」の完成で中止しして以降は空母に切り替えた。
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 日本陸軍は主力兵器を、選択と集中で、戦車・装甲車ではなく航空機と決めた。
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 昭和10年頃 1,000円程度の金があれば東京都内で家が建てられた。
 戦闘機1機、7万円、爆撃機1機、20万円、戦車1台、35万円。
 戦車は高額な特殊鋼を大量に使う為に値段が高かった。
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 陸軍や海軍は独自の極秘計画で原爆開発を行ってたが、アメリカは内部情報提供者(スパイ)から日本の原爆開発を知っていた。
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 日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義共産主義イデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
 明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
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 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられた事である。
 アメリカの太平洋侵略を最も警戒したのが、1894(明治27)年にハワイ王国滅亡を目の当たりにした東郷平八郎であった。
 ハワイ王国は、アメリカからの侵略から母国を守る為に日本の軍事支援を期待して、明治天皇天皇家との姻戚関係を申し込んだ。
 日本は対ロシア戦に備えて軍備強化を急いでおり、そこに新たに対アメリカ戦を加える余裕はなく、苦渋の選択として天皇家とハワイ王家との結婚は断り、1898(明治31)年にハワイ王国の滅亡を涙を流しながら傍観するしかなかった。
 日本海軍内のワシントン海軍軍縮会議に猛反対した艦隊派は、ハワイ王国滅亡を教訓としていた。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
 1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
 1806年 文化露寇。
 1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,。アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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 1689年 ネルチンスク条約ロシア帝国清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
 1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
 1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
 ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
 ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
 ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
 明治8(1875)年 樺太・千島交換条約明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
 日本側の戦略的利点は、ロシア海軍ウラジオストク樺太日本海内に封じ込め、宗谷海峡津軽海峡対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
 ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
 日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬樺太を手に入れ旅順・対馬ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
 1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
 文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
 日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
 イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
 日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
 日本の戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義自衛戦争であった。
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 明治33(1900)年7~8月 江東六十四屯虐殺(黒竜江アムール川の悲劇)。
 8月2日から3日 黒龍江・アイグン事件。ロシア軍兵士約2,000人は清国人移住者約2万5,000人を大虐殺した。
 日本人はロシア軍の蛮行に恐怖し、激怒し、復讐を誓った。
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 日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランドユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
 これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
 日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
 もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
 日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
 A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 昭和8(1933)年頃から、日本人の共産主義者社会主義者から大量の転向が続出し、日本共産党治安維持法による弾圧で壊滅状態に追い込まれ、過激分子は地下に潜って反天皇反民族反日運動を続けた。
 転向を拒否した日本共産党幹部は、逮捕されて収監されるか、中国に亡命しソ連アメリカの支援を受けた。
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 日本人の共産主義者無政府主義者は、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 軍事国家日本は、明治から昭和初期まで戦った大陸戦争は領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく、天皇・国・民族、歴史・文化・伝統・宗教を外敵から守る民族主義自衛戦争で、国内に引き込んで撃破する消極的専守防衛ではなく外地の敵軍基地を粉砕する積極的先制防衛であった。
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