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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の標準日本国語は、明治に創作された新言語である。
日本民族が生まれたのは、明治に入ってからである。
前近代的弱小国日本が、侵略してくるロシアとの積極的自衛戦争に勝利する為に日本民族と日本国語、民族主義・愛国心を新たに作った。
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日本国語は、国際法に基ずく戦争犯罪の国家と民族の言語という理由から国際的公用語にはなれない。
国際的公用語とは、強者の論理で決まり、戦争勝者・大国の特権であり、小国・弱者の道徳・倫理や正義・大義などは糞の役にも立たない。
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2023年7月24日18:10 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「なぜ日本には「女ことば」があるの?──翻訳してみて初めて気づいた「男ことば」という存在
<「女ことば」では、なぜ「腹が減った」とは言えないのか。「女らしい話し方」は他の言語にもあるが、日本の「女ことば」には日本独自の背景があった...>
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「女ことば」を手がかりに、日頃、私たちが何気なく使っていることばをジェンダーの視点から見つめなおす。ドイツ語翻訳者の平野卿子著『女ことばってなんなのかしら? 「性別の美学」の日本語』(河出新書)より一部抜粋。
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30年ほど前、ドイツの小説を翻訳していたときのこと。男同士の殴り合いの場面を訳しながら、わたしはそれまで味わったことのない高揚感を感じている自分に気がつきました。
「とっとと失せろ、この野郎! 貴様は疫病神だ、もとのドン底生活に戻れ!」
なんなんだ、これは! こんなこと、生まれてから一度もいったことない。なんていい気持ちなんだろう。胸がスカッとする。
これが、「男ことば」の効用に、つまりことばにおける男の特権にわたしが気がついた記念すべき瞬間でした。そんなわたしの口をついて出てきたのは──「カイ、カン!」。
そう、映画『セーラー服と機関銃』で、薬師丸ひろ子が機関銃を連射したときのあのセリフです。パソコンに向かってひとり、「カイ、カン」とつぶやいたときのことを、わたしはいまでも忘れることができません。
罵倒することと機関銃を思うさまぶっ放すことは、どこかつながっている。どちらにも、怒りを発散し、気持ちを解放することによる高揚感があるからです。
思えば、自分がそれまで文字通り吐く息のように「女ことば」をしゃべっていたことを、わたしはこのとき生まれて初めて意識したのでした。同時に、わたしのなかに小さな疑念が生まれました。
日本にはなぜ女ことばがあるの? 女ことばってなんなのかしら?
けれどもその思いは、日々の雑事に埋もれ、やがて薄れていきました。
ふたたび女ことばについて考えるようになったのは、1994年にドイツで発表されるやたちまちミリオンセラーになったウーテ・エーアハルト『誰からも好かれようとする女たち』(原題は『かわいい女は天国へいくが、生意気な女はどこへでもいける』)を翻訳したことがきっかけです。
「いい娘(こ)」でなんかいなくていい、「生意気な女」になって自由に生きようと呼びかけるこの本で、心理学者であるエーアハルトは女性のことば遣いについて、次の一文を皮切りにいくつもの興味深い指摘をしています。
お行儀のよい娘は口にしない一連の言葉がある。すでにここで言葉のうえでの制約がはじまっている。言葉づかいにおいても女性は微妙にへりくだっている。
その微妙さゆえに、これを正確にあぶりだすことはむずかしいが、実はこれは非常に大きな影響力を持っているのだ。
女とことばの問題は日本だけではない──
わたしは大きな衝撃を受けました。1960年代後半にドイツに留学し、フェミニズムの台頭を目の当たりにしたわたしは、ドイツの女性は日本の女性よりずっと自立しているとばかり思っていたからです。
どうやらこれは思っていたよりずっと厄介な問題らしい......わたしはため息をつき、そんな思いを抱えたまま、ふたたび仕事の日常へと戻っていきました。
それから幾星霜(いくせいそう)。ドイツの日本文学研究者であるイルメラ・日地谷゠キルシュネライトの論考『性別の美学』を手にしたわたしは、長年澱(おり)のように心に溜まっていた問い「日本にはなぜ女ことばがあるの?」にひとつの答えを見出しました。
『性別の美学』は、日地谷゠キルシュネライトが日本の女性作家たちと対談した記録『〈女流〉放談──昭和を生きた女性作家たち』に収録されたもので、そのなかで彼女は、かつて日本で暮らしたときに味わった困惑について次のように回想しています。
日本に来て日々驚かされたのは、日本社会においては人々の行動規範や自己理解や世界観が当たり前のように性別の違いによって区別され、美学化されている様子であった。
このような日本人独特の意識・価値観を、日地谷゠キルシュネライトは「性別の美学」と名づけました。
でも......彼女の困惑はこのときが初めてだったのでしょうか。いや、ずっと以前、日本語を学び始めたときにそれはすでに始まっていました......ほかでもない「女ことば」の存在です。
「腹が減った」とは言えず
長い間、なぜ、私は、クラスメートの男子と同じように「腹が減った」とは言えずに、「お腹が空いたわ」と女性用のやわらかい表現を使わなければならないのか、理由がまるで分からなかったのだ。
この論考に触発され、わたしはかつて自分の大きな関心事であり、いまも変わらず使っている女ことばについて、その歴史的背景をも含めてじっくり考えてみたいと思うようになりました。
たしかに西洋には日本のような形での女ことばは存在しません。
ですから、日地谷゠キルシュネライトの気持ちはとてもよくわかります。けれども、エーアハルトのいうように、女性らしい話し方を強いられるのは日本だけの現象ではないのもまた事実なのです。
本書は、「女ことば」を手がかりに、日ごろ何気なく使っていることばをジェンダー格差の視点から見つめなおそうというものです。
さまざまなことばから透けて見える男性優位文化に対する気づきを読者の皆さんと共有することで、わたしたち日本人のなかに深く刷り込まれている「性別の美学」にわずかでも綻びが生じたなら、本書の目的は十二分に達成されたことになります。
平野卿子(ドイツ語翻訳家)
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2021年3月24日 ニューズウィーク日本版「日本語は本当に特殊な言語か?
平野卿子(ドイツ語翻訳家)
<「日本語は特殊な言語である」という言説は果たして正しいのか。言語学的に言えば、ありふれた言語の1つに過ぎない。だが日本語には「音声だけでは十分に機能しない」という特徴がある>
「日本特殊論」は古くから存在する。それは「日本すごい!」という優越感としての特殊論もあれば、「日本はダメだ」という劣等感からの特殊論もある。その中でもメジャーなものの1つが、日本語の特殊論であろう。
「日本語は特殊な言語である」という言説を、わたしたち日本語話者は、誰もが聞いたことがあるはず。しかし、何が特殊なのか?
言語学的に世界を見渡せば、日本語はありふれた言語の1つだといえる。母音や子音の数が平均的であるだけでなく、名詞の単複を区別せず、述語が最後に来る語順(S O V)という特性を持つ言語は、世界言語の中では多数派に属するからだ。
「日本語は特殊な言語である」という言説は、欧米語、特に英語と比較することによるものである。
それでも、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットの4種類の文字を使い分けるのは、やはり特殊であるという指摘もあろう。しかし、もし日本語が他の言語と違う点があるとすれば、文字だけでなく、音声についても指摘しないわけにはいかない。いや、そこにこそ日本語の特殊性がある。
そもそも言葉とは、考えを音声によって伝えることから生まれた。言葉の基本は音声なのである。国立国語研究所のレポート(2010年)によると、現在、世界には6500ほどの言語があるが、そのうち、きちんとした文字体系のある言語は400くらいだという。
日本語も、千数百年前に中国から漢字(漢語)が入ってくるまでは文字はなかった。音声のみだったのである。
日本語には、同音異義語が異常なまでに多い
ところが、いまわたしたちの使っている日本語は、音声だけでは十分に機能しない。文字を見なければ正確にはわからないことが少なくないのである。これは同音異義語が異常なまでに多いことからきている。
明治以降、それまでなかった西洋の概念や事物を翻訳するために大量の和製漢語が造られた。そのとき、漢字の持つ意味だけに目を向けて音を度外視したために、同音異義語が溢れる結果になった。
これは日本語の音の少なさに原因がある。諸説あるが、音の最小単位である音節が英語は3000以上(数万という説も)あるのに対して、日本語は100くらいだという。いかに少ないかおわかりだろう。
たとえば広辞苑(第6版)で「こうしょう」を引くと、「交渉、高尚、公証、好尚、口承、工商」などの異なる言葉がなんと48も出てくる。漢語では「交」と「高」、「渉」と「尚」も、文字が違えば音も違うが、日本語では音が少ないために同じ音になってしまう。
それでもなんとか通じるのは、文脈で見当がつく場合が多いからだ。
だが、それだけではない。わたしたちは、聞きながら無意識に頭の中で漢字に変換しているのである。だから、前後関係が意味を持たない固有名詞などは、音を聞いただけでは落ち着かない。
ある番組で、「センシンカン」という名の建物が登場した。すると司会の林修さんが「センシンカン? どういう字を書くんだろう?」としきりに首をひねっていたが、「洗心館」とわかって大きくうなずいていた。
「しりつ」を「わたくしりつ(私立)」と「いちりつ(市立)」、「かがく」を「かがく(科学)」と「ばけがく(化学)」と言ったりするのは、文脈だけでは区別が難しいことによるものだ。いつの頃からか、テレビ画面に字幕がよく出るようになったのも、これとまったく無関係ではないだろう。
それだけではない。「ジャンプのほうの『とぶ(跳ぶ)』ではなくて、フライのほうの『とぶ(飛ぶ)』ね」というように、英語の助けすら借りることも珍しくない。
「何年も習ったのに英語がちゃんと聞き取れない」などという嘆きは耳にたこができるほど聞くが、そもそもわたしたち日本人は、母語ですら音声だけには頼れないのだ。
もし日本語の特殊性について言うならば、「音声だけでは十分に機能しない言語」である点にまずは触れるべきだろう。
[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』、『落ち込みやすいあなたへ――「うつ」も「燃え尽き症候群」も自分で断ち切れる』(ともにCCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。
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2020年3月26日 ニューズウィーク日本版「欧米の言語はなぜ繰り返しが多く、くどいのか?
平野卿子(ドイツ語翻訳家)
<ドイツ語の本を日本語に翻訳する際、4分の1ほどカットしたいと著者に申し出たことがある。著者に理由を説明すると、「きっと日本人のほうが、頭がいいんですね」と笑った>
翻訳をしていて、いつも気になることがある。文芸作品は別だが、ドイツ語であれ英語であれ、繰り返しの多さだ。これでもかこれでもかというほど、同じことを繰り返す。
以前、『幸せの公式』(講談社)という作品を翻訳した。最新の脳科学の知見をベースに幸せとは何かについて論じた、とても興味深い作品だった。著者はドイツの有名週刊誌『シュピーゲル』の元記者で、文章はとてもうまい。
しかし、とにかく繰り返しが多く、くどいのだ。仕方なく私は、ドイツのエージェントを通じて4分の1ほどカットしたいと申し出た。文章がくどいと言うのも気が引けたので、「厚い本は日本では売りにくい」など、あれこれ理由を並べて説明した。
しかし、返事が来ない。ずいぶん経ってから、婉曲な断りがあった。けれども、どうしてもこの膨大な繰り返しを訳す気にはなれなかったため、思い切って最初の10ページをコピーして削りたい箇所を囲い、「このようにカットしたいと思います」とエージェントにファクスで送った。
すると、その1時間後になんと著者から直接返事が来たのだ。「了解。すっきりして、かえってわかりやすくなったかもしれません」。それまでのいきさつを思うと、びっくりするようなあっけなさだった。
数年後、ベルリンで著者とゆっくり話す機会があったので、そのことを聞いてみた。すると「あなたのファクスを見て、確かにこれでも通じると思いました」と言うので、「実はあなたの本だけではありません。他にも、著者の了解を得てカットしたことがあるんです。私と同じようなことを感じている日本人翻訳者は多いと思いますよ」と私は言った。
表音文字と表意文字を同時に使う日本語
私の昔からの自論はこうだ。アルファベットとカナ(ひらがな・カタカナ)は表音文字であり、漢字は表意文字だ。日本語はこの両方を同時に使う言語である。漢字とカナは脳の別のところで認識されるため、脳はより活性化される。しかも漢字は図像なので、視覚に訴える力がカナよりはるかに強い。だから、日本語を読むときには表音文字だけの欧米語よりずっとしっかり記憶される、と。
実はこれはなかなかいい線をいっていた。最近調べたところ、認知心理学が専門である米タフツ大学のメアリアン・ウルフ教授によると、表音文字を使う英語の場合は使われるのは頭の後ろの左側から耳の上にかけてであり、表意文字の中国語の場合は頭の左側と同時に右側の後ろから耳の上あたりも使われるという。
したがって日本語は、漢字を読むときは中国語に近いルート、カナを読むときは英語に近いルートと、英語と中国語の混合型となる。
先のドイツ人著者はこう話してくれた。つい何度も同じ内容を文章で繰り返してしまうのは、そうしないと読者が忘れてしまうのではないかと思うからだ、と。
「日本の読者はそんなことはないんですか?」と聞かれたので、先の自論を展開したところ、「きっと日本人のほうが、頭がいいんですね」と笑いながらも、日本語についても少し知識のある彼は、「なるほど」とうなずいた(チャンスとばかり、次作をカットする許可もしっかりもらっておいた)。
その他、高文脈(ハイコンテクスト)文化・低文脈(ローコンテクスト)文化の観点からも、なぜ欧米言語では同じ内容の文章が何度も繰り返されるのかについて付言したいことがあるが、それこそくどくなりそうなので、それはまたの機会としたい。
【参考記事】外国語が上手いかどうかは顔で決まる?──大坂なおみとカズオ・イシグロと早見優
[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』(CCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。
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