🏞74)─3─『解体新書』に刻まれたキリスト教の影響。日本語由来の和製漢字・日本国語漢字。1774年〜No.301No.302No.303 

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 当時の知識人・教養人は、現代の高学歴出身知的エリートに比べて縦・横・奥行きの時間軸はもちろん周辺の空間軸においても多次元的に桁違いの拡がりを持ついた。
 日本民族日本人や日本を歴史を評価せず軽蔑する現代の高学歴出身知的エリートは、時間軸も空間軸もない芥子粒的な点に過ぎなく、伝統も文化もなにもない。
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 蘭方医杉田玄白前野良沢中川淳庵らは、オランダ語を話せず、ただお互いにオランダ語の単語を幾つか知っているだけで、近くにオランダ語に詳しい語学の専門家もいなかったのに、無謀にも、高度な西洋の医学書・人体解剖書を翻訳した。
 不可能に近いから挑戦したのである。
 それが、世のため人のため、医学のために必要だから翻訳したのである。
 特に、翻訳した前野良沢はそうと言える。
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 2020年1月号 Voice「歴史論争
 『解体新書』扉絵の謎
 渡辺惣樹
 著者は、歴史にわかりきったことなどないと思っている。頭の中にはいつもなにがしかの疑問があり、『確からしい』答えを探している。その1つに『解体新書』扉絵がある。
 喉仏の訳語
 『解体新書』はオランダの解剖医学書『ターヘルアナトミア』を、杉田玄白前野良沢らが翻訳し、1774年に出版したものである。解剖図は秋田藩士小田野直武が描いた。玄白らはこの3年前に、小塚原(こづかはら)で刑死した罪人の遺体を腑分(ふわ)けし、同書の記述が正確であることを確認していた。出版までに3年を要したのは、人体部位を表す用語が日本語の語彙(ごい)に欠けていて、的確な訳語を創作する必要があったからだった。
 玄白も良沢も、訳語の正確性には自信がなかったようだ。訳しきれず音訳だけで済ませたものもあった。彼らから請(こ)われた大槻玄沢が、より的確な意訳で改訂(かいてい)版(『重訂解体新書』)を書き上げたのは1798年のことである。その出版はさらに遅れ、1826年まで待たなくてはならなかった。
 玄沢の修正は要したものの玄白の創造した多くの新語は漢人まで唸(うな)らせた。『特に「ゼニュウ」という蘭語を、中国養生思想の「神気」の「神」および蘭方医学の「経脈」の「経」を組み合わせて、神経と義訳(注:意訳)したのは「義訳のうちでも傑作中の傑作」』であった。辛亥革命後の中国政府は、医学名詞審査会を発足させ、日本で使われている医学用語を検討させた(1916~18年)。その上で、日本の術語を取り入れることを決めた。いかに玄白らが的確な訳語を考えたかがわかる。
 中には意訳ではなく漢方用語をそのまま利用したものもあった。玄白は、喉の一部について、『其正中突起処、謂之結喉』(『解体新書』)と書き、今でいう『喉仏』に『結喉』という漢方の伝統的用語を当(あ)てた。英語では『Adam’s Apple』、蘭語では『adamsappel』である。
 『旧約聖書』(創世記)には神はアダムとイブに、ある木(智慧の樹)の実を食べることを禁じたと書かれている。2人は神の命に反してその実を食べた。聖書には木の実としか書かれていないが、なぜかリンゴとされている。リンゴはアダムの喉とイブの胸に閊(つか)えて膨らんだ。それが喉仏と乳房になった。玄白もさすがに聖書に関わりをもつ『アダムの林檎(りんご)』ではそのまま音訳するわけにはいかなかったのであろう。漢語に当てたのは、『キリスト教禁令に対する配慮』だったらしい。
 アダムとイブの描かれた扉絵
 玄白が幕府に気遣ったとすると解せないことがある。小野田直武の描いた人体イラスト部分の扉絵にアダムとイブが使われていることである。誰もが知っているこの扉絵には右手に林檎を持つ男とそれを見つめる女が対で描かれている。アダムとイブであることは間違いない。原書の『ターヘルアナトミア』にはこの図はない。この絵は、研究者によれば『ワルエルダの解剖書』(1566年)をアレンジしたものらしい。
 当時『ワルエルダの解剖書』は江戸城内の紅葉山文庫にあった。ここに出入りでき、また『解体新書』翻訳・出版関係者との接点があった人物は平賀源内である。源内は秋田藩に招聘(しょうへい)され銅採掘の技術アドバイザーを務めたことがあった。その時に、小田野の画才を見出し、蘭画の手法を伝授した。その後、鉱山吟味役に任じられた小田野は江戸の源内邸に寄寓(きぐう)した。本草学者でもあった源内は1762年頃に杉田玄白と知り合っていたことから、小田野と玄白に接点が出来た。それが、小田野が『解体新書』の図版作成に関わった経緯だった。
 アダムとイブは、キリスト教義の根幹をなす『原罪』を象徴する。考えようによっては、キリスト像よりもキリスト教的である。玄白は、友人の奧医師桂川甫三を通じて本格出版前に大奥に献上したり、時の老中全てに進呈してもいる。反発のないことを確認して出版にこぎつけた。それほどの気遣いをしたのであっれば、なぜ原書にない図を使ったのか。
 彼らに何らかの悪意をもつものに、キリスト教のシンボルを『わざわざ』挿入(そうにゅう)したと告げ口された時、玄白らはいかなつ弁明を用意していたのだろうか。喉にささって抜けない小骨のような疑問である。」
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 ウィキペディア
 『解体新書』(旧字体表記:解體新書)は、日本語で書かれた解剖学書。ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書 "Anatomische Tabellen "(1722年初版。日本語通称は無し)の蘭訳本(オランダ語訳書)である "Ontleedkundige Tafelen "(1734年刊行。日本語での訛称[5]および通称は『ターヘル・アナトミア』)を主な底本として、江戸時代の日本人が西洋医学書を日本語に翻訳した書物である。
 ヨーロッパ諸語からの本格的な翻訳書としては日本初の試みであったともいうが、ほかにも、「日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書」「日本最初の、西洋医学書の翻訳書」「西洋科学書の日本最初の本格的な翻訳書」「日本最初の西洋解剖学訳述書」など、個々の辞事典の解説は対象範囲にかなりの差異がある。
 著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。江戸時代中期にあたる安永3年(1774年)、江戸・日本橋の板元・須原屋市兵衛の下で刊行された。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれている。
 経緯
 『ターヘル・アナトミア』(複製)/国立科学博物館の展示物。
 明和8年(1771年)3月4日、蘭方医杉田玄白前野良沢中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した(この場に桂川甫周がいたとする説もあるが、『蘭学事始』の記述からは考えにくい[要出典])。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと "Ontleedkundige Tafelen " をそれぞれ所持していた。玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案する。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、淳庵も加えて翌日3月5日から良沢邸に集まって翻訳を開始した。
 当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しかった。オランダ語の通詞は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業は暗号解読に近かった(この様子については玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい)。玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表した。安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたため、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行している。
 安永3年(1774年)、4年を経て『解体新書』が刊行された。玄白の友人で奥医師桂川甫三(甫周の父)が『解体新書』を将軍に献上した。
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 幕府や諸大名はおろか裕福な豪商や豪農は、大金を出して、中国の漢書・古典はもちろん西洋の書物を内容が分からないのに手当たり次第に大金を出し、競うようにして購入していた。
 日本は鎖国をしていても、オランダを通じて西洋や世界の、清国を通じてアジアに関心を持ち続けていた。
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 日本の優れたところは語学力で、外国語能力ではなく、日本国語の豊かな語彙である。
 特に、日本語由来の和製漢字・日本国語漢字である。
 現代風に言えば、世界で通用しないジャパニーズ・イングリッシュ(和製英語)である。
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 西洋医学を勉強する時、中国も韓国も漢字を由来とする文字・言語を使用する国は、日本語訳による和製漢字(日本語漢字)を学ばなければならない。
 その中でも、韓国は和製漢字(日本語漢字)を否定し、ハングルの専門用語に置き換えようとしている。
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 江戸時代の高度な教養とは、外国語を日本国語に翻訳・意訳し、外国語専門用語を和製漢字で造語・新語にして子供でも読めて分かるようにした事である。
 つまり、外国語を外国語として頭に入れたのではなく、外国語を日本国語にして身に付けた事である。
 子供に読み聞かせて理解させられない事は、如何に高尚であっても無意味であると。
 子供に分かりやすく教えたのは、現役・仕事から隠居した暇人・老人達であった。
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 教養や学問は、中国や朝鮮では特別な家系・身分・階級が権利として独占し門外不出的に世間に広めないようにしていた。
 江戸時代の日本は、中国や朝鮮とは正反対に世間に広め、知りたいという人間に家系・身分・階級・階層に関係なく知る自由が与えられていた。
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 江戸時代の日本人は、海外に行った事はなかったし、外国語の教育をえていたわけではく、まして公費による公的な義務教育も受けてはいなかった。
 それでも、現代の高学歴出身知的エリートに引けを取らなかったどころか、意欲・気力・体力、想像力・発想力・創造力など多方面で優れていた。
 当時の日本人は、現代の日本人とは違うし、ましてや中国人や朝鮮人とは似通ったところがない。
 日本人が特別・特殊で賢く優れていたという日本人とは、当時の日本人であって現代の日本人ではない。
 その中でも、反天皇反日的日本人達は論外で評価するに値しない日本人である。
 そして、捏造・改竄・歪曲・偏向・曲解されたいかがわしい中国の歴史や朝鮮の歴史を真実と盲信して、日本中心・天皇中心の民族史を正しく理解できない日本人も同様である。
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 現代日本の高学歴出身知的エリートが、当時の知識人・教養人・専門家と同じ事ができるかといえば、多くの面で不可能かもしれない。
 特に、盲目的な日本否定西洋礼賛主義の日本人にはそれが言える。
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