- 作者:守谷 早苗
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸や大坂などの町には、多種多様な職業を持った町人達が暮らし、特に行商人の職種も豊富であった。
店頭販売する商家は少なく、江戸経済は行商人によって支えられ、行商人がいないと日々の生活ができなかった。
日本における行商人の身分は、朝鮮とは違って卑しい下層民ではない。
行商人は、あらゆる商品を扱い、路地に入って家々を廻っていた。
季節の野菜はもちろんお総菜を売り歩く行商人もいて、忙しい商家ではご飯と味噌汁だけ作っておかずは買っていた。
朝早くから日暮れまで、行商人が売り口上をかけながら往来し、子供達が笑いはしゃぎながら騒々しく走り回っていた為に、街の中は明るく賑やかであった。
金が入っている財布がたとえ落ちていても、それを盗む者はほんの極僅かであった。
江戸の町は人口(約100万人)が多かった割には犯罪が少なかく、安全を守る役人も少数(計24人)で済んでいた。
町外れに行っても、極悪非道な盗賊や山賊はいなかった。
江戸の町は、何かしら飯の種としての仕事があり、代々続いた職業をなければ働き口を選ぶ自由はあった。
職種を替えて、大坂や京はおろか諸藩の領地に移り住む事も可能であった。
諸大名は、優秀な職人が移り住むと領内が豊かになるので歓迎し、その逆に出て行かれると領内が寂れるとして町人や百姓が逃げださないように工夫を凝らした。
町人や百姓は、大名が約束を破り態度が気に食わないと、約束を守る態度を改めさせる為に一揆や打ち壊しを行った。
身分は、職業によって定められ、固定ではなく流動的であった。
仕事選ぶ自由はあったが、同時に職場での保証はなく、態度が悪く仕事を怠けて手を抜くと止めさせられた。
その代わり、仕事に精を出してしっかり働く者は、如何に商いが苦しくなっても止めさせる事なく死ぬまで面倒を見た。
見込みのある若者は、生まれがどういう身分であれ、娘がいれば婿養子として後を継がせた。娘がいなければ、暖簾分けして独立させた。
自己責任として日本人は、朝早くから夜遅くまでコマネズミのように休みなしで生真面目に働いた為に、心身共に疲れ果てて50歳まで生きられず若死にしていた。
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町人は、定住しない根無し草的消費者として、資産である土地や貯蓄に興味が無く、日々の生活で文化的贅沢を楽しむ為に才覚と技能を磨いて生きていた。
「江戸っ子は、宵越しの銭を持たぬ」
江戸時代は、町人による文化的消費社会であった為に貧富の差は少なかった。
日本文化とは、強欲に金を儲けて貯蓄して資産を増やす為に仕事をして生産するのではなく、家族や世間が文化的精神的に豊かに消費できるようにお互いが働いて社会に提供する、という共同作業の文化であった。
その象徴が、庶民の間で生まれ発展した和食文化であり和菓子文化である。
和食も和菓子も、大陸のような特権階級の専有物ではなく、名も無き下賤の庶民が日々を楽しんだ食文化である。
高値で買い求めた珍味を自分一人がコッソリと楽しんで食べるのではなく、身近にある食材を創意工夫して美味な食べ物にして皆で一緒に美味しく食べる。
庶民は、働いて金をえて家族を養い、余った金を気前よく消費に当てて人生を楽しんだ。
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江戸の町は、男が多く、女性が少なかった。
女性は、離婚する時は結納金や持参金を全額返金して貰い、多くの女性が何度でも再婚した。
男は、結婚相手が見付かって結婚できればよく、相手が見付からなければ結婚できず生涯独身で過ごさねばならなかった。
夫は、妻を離縁しずらい社会であった。
どうしても離婚したい女性は、夫を捨てて駆け込み寺に逃げ込んだ。
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1774年 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らは、『解体新書』を翻訳して出版した。古典的東洋医学や排他的儒教学者は、蘭学を野蛮な学問として批判し、西洋医学を批判した。
中国で、秘密宗教結社による清水教の乱が起きる。
中国は、貧しい農民の反乱と虐げられた宗教関係の反乱で衰退し始めた。
如何なる反乱においても、数千万人が被害を受け、数百万人が虐殺され、数百万人が故郷を捨てて流民となって彷徨い盗賊化した。
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1775年8月 スウェーデン人植物学者カルル・ベーター・ツュンベリー「このように極端な検査(長崎での持ち物検査)が行われるようになった原因は、オランダ人自身にある。……原因にはその上に、数人の愚かな士官が軽率にも日本人に示した無礼な反発、軽蔑、笑いや蔑みといった高慢な態度があげられよう。それによって、日本人はオランダ人に対して憎悪と軽蔑の念を抱くようになり……その検閲はより入念により厳格になってきた」(『江戸参府随行記』)
日本人達は、オランダ人が多くの黒人奴隷を長崎に連れてきて家畜の様に酷使し、密輸などをしているのを目の当たりにして嫌悪した。
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1776年 上田秋成 『雨月物語』
アダム・スミスは、『国富論』を出版した。
スペイン商船は、スペイン領フィリピンから日本本州北東部近海から北東に進路を取り、北太平洋を東に進路を取って北アメリカ大陸に到達し、西部沿岸を南下してニュースペイン(メキシコ)のアカプルコ港に入港した。フィリピンに向かう時は、赤道近くを海流に乗って西に突っ切った。
フランシスコ会系宣教師は、地元インディアンへの布教を兼ねてカリフォルニアの入り江に砦を築き、その地をサンフランシスコと命名した。
スペインは、サンフランシスコ砦を守る為に軍隊を駐留させて植民地とした。
宣教師は、砦周囲のインディアンに布教を行い、改宗者インディアンにスペイン語とヨーロッパ的文化生活を教えた。
スペイン守備隊は少数であった為に、改宗者インディアンを利用し、民族宗教を守り伝統的狩猟生活を続ける未開人インディアンを支配させた。
白人キリスト教徒が少数で劣勢にあっても、改宗者地元民や利益による交易相手の地元民に強力な武器を与えてキリスト教の聖戦士として利用すれば、原始的武器しか持たない反キリスト教の地元民と互角に戦う事が出来た。
白人が植民地を開く為に入植した地では、ペストや天然痘などヨーロッパ特有の疫病が蔓延して、免疫のない地元民が多く感染して死亡した。
その逆に、白人入植者は地元の風土病に感染して死亡した。
白人征服者は、風土病は地元の悪魔の仕業と決め付け、不浄の大地をキリスト教で浄化するべく原住民を女子供に関係なく大虐殺し、未開の民族宗教を撲滅した。
何時の時代でも、キリスト教宣教師は植民地拡大の尖兵であった。
オランダは、プロテスタント国家として、旧宗主国スペインとカトリック教会を非難する悪情報を徳川幕府に報告していた。
徳川幕府は、オランダから世界情勢を聞きながら、日本をキリスト教国の植民地にしない為に、キリスト教を禁止し、宣教師の上陸を警戒し、国内のキリシタンを取り締まった。
7月4日 アメリカの独立宣言。
フランスは1778年に、スペインは79年に、オランダは、80年に、イギリスに宣戦布告した。
イギリスは、強力な軍隊を派遣して有利に戦っていたが、国際的に孤立して勝利を掴む事が出来なかった。
1781年 アメリカ反乱軍は、フランス海軍の支援を得て、イギリス軍主力をヨークタウンで破った。
1783年 パリ条約。アメリカ合衆国は、独立を果たした。
アメリカ軍の死傷者は、25万人中5万人。
イギリス・ドイツ連合軍の死傷者は、10万7,000人中4万5,000人。
イギリスは、2億5,000ポンドを注ぎ込んだ。
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1777年 尾張騒動。第10代将軍・徳川家治の毒味役が急死した事から、尾張藩による将軍暗殺の謀殺が発覚した。
尾張藩は、藩にかけられた将軍毒殺して将軍になろうとしたという嫌疑を晴らすべく、疑わしい藩士を捕らえ酷い拷問を加え毒殺の首謀者を獄門打ち首の刑にした。
幕府は、御三家筆頭の尾張藩の力を削ぎ、諸藩支配を強化する為に将軍家の子供を諸大名の養子に送り込んで次期藩主とした。
尾張藩の幕府への怨みは、幕末になって表面化して、御三家筆頭でありながら王政復古に真っ先に恭順を示した。
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1780年 『都名所図会』「四条河原夕涼之体 6月7日より始まり同18日に終る。東西の青楼(せいろう)よりは川辺に床を設け、燈(ともしび)は星の如く、河原には床机をつらねて流光に宴を催し……貴賎群れをなして川辺に遊宴するも、御祓川(みそぎかわ)の例にして、小蝿なす神を退散し、牛頭天皇の蘇民将来に教え給ふ夏はらへの遺法なるべし」
旧暦6月7日、祇園会の山鉾巡行「前の祭り」。
旧暦6月18日、神輿入りで祇園会が終わる。
7月2日 ゴードンの暴動。ジョージ・ゴードン卿は、カトリック教会への憎悪とイギリス国教会の堅持から、プロテスタント5万人を集めてカトリック教徒の経営するジン醸造所を襲撃した。
群衆は暴徒と化し、ジンを飲み、暴れ回った。
2日後 国王ジョージ3世は、激怒して武力鎮圧を命じ、285人(〜900人)を射殺し、21人を逮捕して処刑した。
暴動は鎮圧されたが、カトリックとプロテスタントの反目は続き、イギリスは宗教問題で不穏な空気に支配され、各地で大小幾つもの事件が起きていた。
ヨーロッパ世界は、反目と対立から来る暴力に伴う流血と死で安定し秩序が生まれようとしていた。
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1782年 幕府は、浅草に天文台を設置した。
サムライ達は、漢訳書籍で西洋天文学を学び、日本独自の暦を作成した。
中国は、宣教師に暦の編纂を命じて、自分は何もしなかった。
宣教師は、西洋の科学を漢訳した書籍とした。
朝鮮は、中国の暦を無条件に取り入れて、独自の暦を作らなかった。
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スイスで、最期の魔女が生きたまま焼き殺された。
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1783年 アイスランドのラキ山が大噴火して、火山灰は成層圏まで達して北半球の気温を低下させた。
噴煙はヨーロッパを広く覆い、農作物に甚大な被害をもたらして飢饉が発生した。
何年にもわたって小麦価格を押し上げ、中流階級以下の家計を圧迫した。
特に、パリなどの都市で生活する貧困層の生活を更に困窮へと追い遣った。
餓えた民衆の不満が、フランス革命へと爆発した。
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1783年 浅間山の天明の大噴火。犠牲者、1,100人以上。
天明の大飢饉(83年〜1786年)。90万人以上の餓死者や病死者を出した。
大凶作で11万石の被害がでて、多数の領民が餓死し、あるいは逃亡したが、米沢藩の人口減少を4,695人に食い止めた。
上杉鷹山は、破綻した藩の財政を立て直すべく、率先垂範して土を耕し、お手植えでハゼやコウゾなど商品作物を育てた。
家臣の中にも鷹山に倣って、質素倹約をし、農作業に励むサムライが現れた。
同時に。汗水垂らして働く事を軽蔑する朱子学を信奉する家臣は、サムライとしてのプライドから農作業や商売する事を嫌悪して邪魔をした。
鷹山の改革は挫折した。
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