🏞99)─1─大野藩(4万石)の藩政改革。財政赤字を解消して黒字化とした。~No.380No.381No.382 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 幕藩体制とは、領地を持つ封建領主である徳川家と諸大名の連合政権であって、徳川家による世襲制独裁中央政権ではなかった。 
 領地を持つ江戸幕府や諸藩と旗本は、領地で独自の「国家再建」「経済再生」「地方復興」を行っていた。
 江戸時代とは、表面的には江戸・京・大坂の都市の時代に見えたが、実際は地方の時代であった。
 その意味でも、江戸時代は諸改革の実験場であった。
 諸改革のお陰で日本では、治安が崩壊せず、内戦・反乱は起きず、無法地帯化しなかった。
 徳川の平和は、領主の諸改革によって保たれていた。
 それは、人類史・世界史の奇跡であった。
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 2019年12月26日号  週刊文春「たった4万石の大野藩は、どのように莫大な借金を返済しながら黒字にしたのか?
 著者は語る 『わが殿』(畠中恵 著)
 「週刊文春」編集部
しゃばけ」「まんまこと」など数多くの人気時代小説シリーズを書いてきた畠中恵さん が、新刊『わが殿』を上梓した。意外にも、史実に基づく時代小説の執筆は初めてだという。
 「ずいぶん前から編集の方に『史実に基づいた小説を書いてみませんか』と提案をいただいていましたが、これというテーマになかなか出合えなくて。そんなある時、ふと資料を読んでいたら『江戸から明治への移行期に黒字だった藩はほとんどなかった』という旨の記述を目にしました。よい塩田に恵まれていた某藩は、理由がはっきりしていましたが、大野藩はたった4万石の小さな国。盆地ゆえに田畑をろくに切り拓けず、海も飛び地にしかありません。なぜ大野藩が黒字だったのか? 疑問に思い、強く興味を惹かれました」
 舞台は日本海側の越前にあった4万石の大野藩。幕末期、ほとんどの藩が深刻な財政赤字に苦しんでいた。大野藩も例外ではなく、藩主・土井利忠は藩政の立て直しに乗り出す。そこで“借金返済請負人”として登用されたのは、わずか80石というパッとしない家格の内山七郎右衛門だった。ふたりが出会ったのは、殿が15歳、七郎右衛門が19歳のとき。以後、殿は藩校設立、軍隊の西洋化など、次々と改革を断行する。一方で、七郎右衛門は9万両という莫大な借金を返済しながら、たぐいまれなる商才で殿の改革を下支えしていく。
 「土井利忠公は大野市では名君として有名で、資料がしっかり残っていたのは、ありがたかったですね。執筆にあたり、その年表を仕事場の壁に貼って、『殿はこういう人だな』とイメージしながら眺めました。すると、七郎右衛門に藩の借金返済を命じた後に、藩校建設のため、すぐにお金を使い始めてしまったことが分かって。天保の飢饉から逃れて真っ先に殿が着手したのが教育でした。第二次大戦後も然りですが、国をもう一度立て直そうとするときは、やはり教育に懸けるんですね。七郎右衛門が銅山の開掘に成功した直後でもありましたから、『殿様大胆!』と思いました」
 畠中さんは七郎右衛門に「わが殿は、やはり信長公を思い起こさせる」と語らせている。殿と信長の共通点とは?
 「非常に才覚があり、理想に向かって猛進する殿に付いていく周囲の人々は、さぞ大変だったでしょう。そこが信長のイメージと重なりました。ただ、殿は人たらしで、お手紙魔な一面もあって、そこは秀吉似。七郎右衛門に『お前のことはすごく気にかけているよ。子々孫々まで必ず見守るよ』と優しい手紙を書いておきながら、次々と難題をふっかけていくんですよ」
 殿と七郎右衛門の尽力により、大野藩の懐事情は好転していくが、黒船来航により、時代は新たな局面を迎える――。ぜひ財政難に直面する自治体の長にも読んでほしい一冊だ。
「七郎右衛門のように“お金に強い”武士は珍しかったのではないでしょうか。殿と七郎右衛門の努力により、大野藩は、幕末には大国並みの利益を得るようになります。でも、七郎右衛門は、いかに商才があろうとも、最後まで“武士”だったと思うのです」
 大野藩は、七郎右衛門の発案で始めた藩直営の商店・大野屋に藩の支出を払わせている。
 「ふつうなら独立採算制にして、大野屋がどれほど儲かっているかをはっきりさせますよね。あくまで藩のためのお金儲けだったのだという感覚が、最後までありました」
はたけなかめぐみ/高知県生まれ。漫画家を経て、2001年『しゃばけ』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しデビュー。同シリーズで16年、吉川英治文庫賞を受賞。「まんまこと」シリーズ、「若様組」シリーズなど著書多数。」
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 2019年11月27日 「オール讀物」編集部 「激動の時代を乗り越えろ! 「国家再建」「経済再生」「地方復興」を成し遂げた奇跡の主従の物語。
 『わが殿』(畠中 恵・著)
 幕末に国の経営が黒字だった藩はたった二つ!?
 『わが殿 上』(畠中恵 著)
――畠中恵さんはデビュー以来「しゃばけ」「まんまこと」など江戸の町を舞台にした人気シリーズはもちろん、明治期の「若様組」シリーズや現代ものまで幅広い作品を書かれていますが、最新刊『わが殿』は、初めての幕末歴史小説にチャレンジされています。
 畠中 以前に「実在の人物を書いてみませんか」という提案を、編集さんからされたことがあって、そこで色んな新しいことをやっていきたいし、いつか史実に基づいたものも書いてみたいですね、とお答えしたんです。
 なかなか「この人を書けたら!」という方に出会えないまま、別の資料を読んでいたところ、江戸から明治への移行期に黒字だった藩が二つしかなかった? という記述に目が留まりました。気になって調べてみると、一つは塩田を持っていたことが黒字の理由で、もう片方が大野藩でした。たった四万石の小さな国にもかかわらず、いったいどんな人物がいて、どんな藩だったのだろうとすごく興味が湧いてきたのが『わが殿』の執筆のきっかけですね。
――大野藩を最初からよくご存じだったわけではなく、幕末に黒字だった藩、ということで興味を持たれたわけですね。
 畠中 はい、その時に初めて大野の名前を知った、みたいな(笑)。そこからどういう人で、どういう藩だったんだろう、と……そこから資料を調べはじめて、莫大な赤字を抱えた幕末の大野藩の財政を立て直すため藩政改革を断行しようとする藩主・土井利忠と、その殿に登用されて財政改革の実務を担った内山七郎右衛門という名臣に辿り着き、この二人の関係性にもどんどん惹かれていきました。そこで地方紙の新聞連載の依頼をいただいた時に、前からやろうとしていた新しいことを、きちんと調べて書いてみようと、『わが殿』がスタートしたんです。
 借金を返す家臣vs. 金を遣う殿の関係性
――実際の歴史をベースに新聞連載をはじめるにあたっては、ずいぶん沢山の資料を読まれたのでは?
 畠中 以前に江戸の留守居役を主人公にした『ちょちょら』(新潮文庫)を書いていたので、その時も資料から実在のエピソードを拾いましたし、たぶん出来るだろうと思ったんです……が、その苦労をすっかり忘れていただけでした(笑)。武家と町人というだけで、お金のやりとりひとつでも全然ルールが違って、たとえば奉行所に付け届けを送ったりするのは、賄賂でも何でもなく、ちゃんと領収書も出していますし、当時の法律的にはOKなんですよ。資料を読めば読むほど知らなかったことが出てきて、すごく後悔したんです。
 今回はさらに自分がお話を作るわけではなく、史実を基に創作するということがいかに違うのかも身に沁みました。ただ有り難かったのは、土井利忠公は名君として地元では非常に有名な方で、きっちりとした年表が整っていました。それを仕事部屋の後ろ一面に貼り、年代ごとに追って書いておこうと決めたので、『わが殿』の各章のタイトルは利忠公と七郎右衛門の年齢になったわけです。
――江戸の上屋敷で、藩主の利忠と、もう一人の主人公の内山七郎右衛門は初めて出会いますが、15歳と19歳という若さでした。長年に渡る主従関係がそこからはじまったわけですが……。
 畠中 利忠公は名君として大野の神社にも祀られているような方で、片や七郎右衛門も殿に見出され、やがて莫大な借金返済に活躍をした人物です。ふたりが力を合わせて藩を改革していく感動のストーリーになるかと思っていたら、七郎右衛門がちょっとお金を返しはじめると、利忠公はすぐお金を遣ってしまう。「え? ここでもう」というくらい早くから、七郎右衛門の弟の隆佐までが殿に加勢し、稼いだお金を藩校開設や軍備の増強、医師を招いての種痘など、どんどん別の事業に注ぎ込んじゃうんです。
 そんな無茶なお殿様ですが非常に才覚があって、時代がもし幕末でなく、戦国だったら面白いことをしたはずです。そんな印象から「信長」というイメージが浮かんできました。最初に思い描いたくそ真面目なペアではなかったですが、ふたりの関係性はずっとこの小説の読みどころだったと思います。
 弟の隆佐とはもっと仲が悪くて丁々発止のやりとりをしてくれれば、書きやすかったんですけれど、資料にもまったくそれは書かれていない(笑)。まあ、小さな藩でいくら優秀とはいえ、長男、次男に続き末っ子の介輔まで三人も仕官が認められたとなれば、相当、周りからのやっかみもあったはずで、その分、身内の結束は固くなったんじゃないかと納得はしています。
 江戸時代の通貨は変動相場が常識だった
――ふたりの共通&最大の敵は、藩の九万両の借財です。しかも借金の利息は年に一万両。国を動かす金が尽きれば所領は幕府に返上するしかにという危機を、どのように脱出していったのでしょう?
 畠中 結果的には利忠公と七郎右衛門の採った作戦は、いろいろと成功しています。しかし何といっても、最初は幕府から三万両の借金をして廃坑寸前だった面谷(おもだに)銅山に新しい鉱脈を発見したことが大きかった。まさに伸るか反るか大博打で、あれだけお金を注ぎこんで銅が出なかったら、本当に藩ごと返上するしかなくて、殿だけでは済まされずに、銅山役人として責任者の七郎右衛門だってハラキリでしたよね。
――利忠公は稼いだお金をどんどん遣ってしまうわけですが、七郎右衛門もどんどん新しことを試みます。そのひとつが大野藩の特産物を藩札で買い上げ、大坂で直営で販売する「大野屋」を開店したことです。
 畠中 幕末に藩の借金を返した人は、有名な上杉鷹山をはじめ、何人かいるみたいなんですけど、返してもその人がいなくなるとまた借金が重なっていくんですよ。七郎右衛門の偉かったのは、やはり大野屋を作って、さらに全国展開したこと。これをきちんとしたシステムにすれば、七郎右衛門がいなくなっても、ある程度、大野の経済は回っていくようにしていった。それもすごいことですね。
 お金のことでいえば、現代とすごく似ているところもあって、七郎右衛門が大坂に藩直営の「大野屋」を開く時、資料にたびたび出てくるのが銭と金と銀のことなんです。当時の日本では、銭高、金高、銀高とそれぞれの貨幣が変動相場になっていて、どのお金で払うのがいちばん有利かを必死になって計算している。これはドル高や円安、ユーロ高などといった国際的な相場とそっくりで、武士の世の中であっても、お金に強くなければ競争に勝てないのは当たり前ですね。堂島の米会議所でも相場取引がはじまっていたし、『けさくしゃ』(新潮文庫)で江戸の出版事情を書きましたが、江戸の半ばで出版のためのファンドが作られていたり、あの時代の日本にも面白い経済活動がたくさんあったことに気づかされましたね。
 組織の中で一生ついていく誰かを見つけられるか?
――現代の言葉でいえば、「国家再建」「経済再生」「地方復興」といった、さまざまなキーワードが『わが殿』には登場します。読者も何か今の時代を生き抜くヒントをもらえるのではないでしょうか?
 畠中 七郎右衛門の時代は、藩という仕組みの中では生きなければならず、殿さまの言うことは絶対で逃げだすところがなかった、ともいえなくもないんですが、ただ七郎右衛門のように行動できれば、どこの会社でもどこの組織でも生きのびていけるんじゃないか……会社というのは中の人のことは、実際に入るまで全然分からないものだし、そこで出会った人は必ずしも好きなひとばかりではないでしょう。でも、七郎右衛門のように上司の惚れどころを見つけて、一生ついていける人を見つけることができたら、それだけで幸せとはいいませんが、自分もちゃんと出世していけるんだったら羨ましいですよね。
 七郎右衛門は弟の隆左は、若いうちから天才ぶりを周囲に認められ、末弟の介輔にいたっては180センチもある猛者としてやはり若い頃から評価されました。それに対してお金を扱うことに長けていた、七郎右衛門は決して周囲に最初から重んじられていた立場でなかったのにもかかわらず、最終的には家老にまでなって、福井藩松平春嶽公からも一目置かれたそうです。対外的な評価としては小さな藩ですし、あの時期は春嶽公をはじめ、全国で有名な方がたくさん出ているので、大野藩ことはこれまであまり知られていませんでしたけど、ただお金を生み出すシステムを作ったことはすごかった。特に廃藩置県となって、武士の身分が保証されなくなった明治になってからも、七郎右衛門は最後まで土井家を支え続けたそうです。
 これまで日本は明治になってから、西欧を見習った富国強兵制度で一気に発展したというようなイメージがあったんですが、その下地として大野のように面白い藩は昔から日本各地にあったんじゃないか。参勤交代は幕府による藩の弱体化を狙ったものだと言われてきましたけど、各藩が江戸に集められたおかげで情報の交流や技術の交換もできた。明治以降の時代のうねりというのは、江戸時代のことが好きでずっと読んできた私が考えているより、ずっと早くはじまっていたことにも、『わが殿』を書いていて気がつきました。そういう視点でいずれまた歴史ものを書いてみたい気がしています。
 はたけなかめぐみ 高知生まれ、名古屋育ち。名古屋造形芸術短期大学卒業。2001年『しゃばけ』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。16年「しゃばけ」シリーズで吉川英治文庫賞。著書多数。」
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 土井 利忠(どい としただ)は、江戸時代後期の大名。越前国大野藩7代藩主。号は欽斉。官位は従五位下能登守。贈従三位。利房系土井家7代。
 藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな実績を挙げ、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君といわれる。
 出生・相続
 5代藩主・土井利義が隠居して養子・利器に家督を譲った後に利義の長男として江戸藩邸にて誕生。母は岡部長備の娘。幼名は錦橘。
 文政元年(1818年)、8歳で元服して利忠を名乗った直後、利器が病に伏したため急遽、養子となり、利器の没後に家督を相続した。ただし、幼少ということで、19歳まで江戸藩邸で育った。
 藩政改革
 利忠が始めて大野へ入部したのは文政12年(1829年)7月9日であった。幕末はいずれの藩も同じであったが、大野藩も莫大な財政赤字を抱え、減知減給が恒常的に行われていた。利忠は早速翌年に「寅年御国産之御仕法」と後年呼ばれる倹約及び地場産品奨励の命令を出し、現在で言う保護貿易政策をとった。続いて天保3年(1832年)5月に領内の面谷(おもだに)鉱山を藩直営に切り替えた。ただし、これらの政策はすぐには効果が発揮されず、藩財政のみならず藩士一般の窮迫も改善のめどが立たなかった。
 天保13年(1842年)4月27日、利忠は自筆をもって「更始の令」を発布した。その内容は、藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい、家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない。
 というもので、城内書院に集められてこの令の読み上げを聞いた家臣一同は感涙に咽んだという。その後、利忠は国許にいるときも江戸に参勤しているときも、自筆の命令により改革を進めていくこととなる。
 続いて利忠は人材の登用を行い、内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟を抜擢した。兄の良休は勝手方一向奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなる。財政再建で威力を発揮したのは、直営となった面谷鉱山であった。年間10万貫の銅を産出したといわれている。
 藩校明倫館・洋学館
 天保14年(1843年)7月、利忠は学問所創設を命じ、明倫館と名づけられて弘化元年(1844年)4月に開校した。学問は朱子学を柱としたが、他の学派の議論も認め、また医学の修行も取り入れるなど工夫を凝らした。のちには蘭学も取り入れて洋学館を設立し、大坂の適塾塾頭を務めた伊藤慎蔵を招いた講義も行うなど力を入れたため、全国から生徒が集まるようになった。
 軍制改革
 利忠は藩の軍制に高島流砲術を導入し、弘化2年(1845年)3月に大砲1門を鋳造させ、早打ち調練などを盛んにやらせたためこれも評判となり、他藩からの入門希望が多数寄せられるようになった。嘉永6年(1853年)のペリー来航後は、内山隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図った。また、内山隆佐に大砲の鋳造を命じ完成させた。安政元年(1854年)3月に大がかりな洋式訓練を行い、諸藩の評判となった。
 大野屋
 勝手方一向奉行の内山良休は、大野藩の地場産品を藩直営商店を通じて売り出すことを考案し、安政2年(1855年)5月に大坂大野屋を開業した。以降、箱館、岐阜、名古屋、越前各地などに大野屋を開いた。商品取引のほかに金融業もこなしていたという。
 北蝦夷地開拓と大野丸
 安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行った。内山隆佐は利忠以下藩論をまとめて応募し、自ら探検調査団を率いて渡島半島を調査した。蝦夷地開拓は結局大野藩へは下命されなかったが、大野藩は諦めずに今度は北蝦夷地(樺太)開拓の許可を求めた。安政5年(1858年)、幕府は利忠に北蝦夷地西浦の警固と開拓を命じた。大野藩準領ウショロ場所である。これには船が必要ということで、建造したのが藩船大野丸であった。大野丸は長さ23m、幅7m、2本マストの帆船で、この年7月に進水し、敦賀湾を拠点として北方貿易及び警備兵運送に従事した。
 ただし、北蝦夷地開拓は北緯50度まで行ったものの、予想に反して利益が出ず、開拓は行き詰まった。幕府は利忠に対し、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助した。幕府は北蝦夷地の警固をそれほど重視していたのである。しかし、元治元年(1864年)内山隆佐の死と大野丸の遭難沈没が重なって開拓は頓挫し、明治元年(1868年)に大野藩明治新政府樺太を返上し、開拓に終止符を打った。
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 土井 利器(どい としかた)は、越前大野藩の第6代藩主。利房系土井家6代。
天明3年(1783年)6月4日、下総関宿藩主・久世広誉の十一男として江戸西の丸下の藩邸で生まれる。初めは奥原秀五郎を名乗ったが、天明5年(1785年)に久世姓に復姓した。広誉の祖父・久世広明は旗本土井家(土井左門家、土井利直の家系)出身で、土井家の縁者を養子にと考えた上での縁組と思われる。
 寛政5年(1793年)12月、雄之丞と名乗る。文化6年(1809年)8月、越前大野藩主・土井利義の養子となり、土居利器と名乗った。同年12月、従五位下、甲斐守に叙任する。文化7年(1810年)3月10日、利義の隠居により家督を継いだ。
 文化9年(1812年)8月、大坂加番となる。藩財政が苦しく、倹約に務めたが、財政は好転せず、家臣に給料を支払うことさえできない有様だったという。文政元年(1818年)5月17日、大野城二の丸で死去した。享年36。
 自身には男子がなく、先代藩主・利義の長男の利忠を養子として跡を継がせた。
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