⚔64)─1─江戸時代の老親介護「担い手は男性メイン」だった納得の理由。武士の介護休暇。~No.264No.265No.266 

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 2024年10月30日16:32 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「江戸時代の老親介護「担い手は男性メイン」だった納得の理由
 現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。
 医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか? 
 日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。
 書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々――。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。
 『武士の介護休暇』より、江戸時代の庶民の介護の実態について、一部抜粋、再構成してお届けします。
■庶民層の介護の実態
 これまで武士の介護についてご紹介しましたが、庶民の介護事情も気になるところです。ここでいう庶民とは、江戸時代に武士の支配を受けていた農民や町人など非武士階級全般を指します。当時の庶民層における「家」は、2~4世帯程度の家族が基本単位で、親が老いて要介護となった場合、配偶者、子供あるいは孫に面倒をみてもらうのが一般的です。
 江戸時代の初め頃までは、中世から続く傍系親族(兄弟の家族など)や隷属者(下人など)を含む大家族が形成されることも多かったようですが、江戸時代になって農業生産力が安定してくると、傍系親族が独立できるようになり、隷属者も小作農などを通して家族を持ち自立しました。そのため高齢者介護についても、同居する夫または妻、子供・孫世代による対応が多かったといえます。
 では具体的に、江戸時代における庶民の介護現場はどのようなものだったかを、幕府の『官刻孝義録』からピックアップしてみます。ただし『孝義録』に掲載されているのは表彰の対象であり、当時の為政者が良しとした親孝行者による理想的な介護事例です。そこに記載されている介護が一般的とは必ずしもいえませんが、それでも当時の様子は垣間見えるでしょう。
 幕府が1789年(寛政元年)に編纂を始めた『官刻孝義録』は巻1~巻50までの全50冊からなり、飛騨国以外のすべての国の事例を網羅しています(なぜ飛騨国が無いのかは不明)。登録されている善行者の総数は約8,600名に上り、そのうち約1割の者については、表彰されるまでの行為が書かれた「伝文」が付与されています。最も古い事例は1602年(慶長7年)ですが、1680年(延宝8年)頃から毎年、表彰事例が掲載されるようになります。
 『官刻孝義録』で表彰対象となるのは、孝行、忠義、忠孝、貞節、兄弟睦、家内睦、一族睦、風俗宜、潔白、奇特、農業出精の11種類です。このうち「孝行」の中に親に対する子の介護行為、「忠義」の中に奉公人の主人に対する介護行為が含まれています。「伝文」が付与されたものについては、表彰に至るまでの行為が細かく記されており、実際の介護の様子がある程度分かります。ただ伝文は長いものが多く、全文掲載は難しいため、内容のまとめをご紹介します。
■父を支えた二人の娘
 ・大和国(現在の奈良県)高市郡観音寺村に住んでいた「小ゆり」「くに」の姉妹
 観音寺村に住んでいた百姓・佐兵衛には4人の娘がいました。佐兵衛は長年目を病んで、片目が見えなくなり、もう一方の目はおぼろげに見える状態。中風も重ねて発症し、農作業も不自由になりました。
 4人姉妹のうち、長女の「小ゆり」は婿を取ったのですが、後に婿は家を出てしまいます。二女、三女は結婚して家を出て、末っ子の「くに」と「小ゆり」とで父・佐兵衛の暮らしを支えていました。また母も持病があり、「小ゆり」と「くに」は二人で両親の世話を続けました。
 やがて佐兵衛は盲目となり、家の中での行動も思うようにいかなくなりましたが、「小ゆり」と「くに」は佐兵衛が廁(かわや〔トイレ〕)に行く際には移動の介助を行いました。必要があれば、いついかなるときでも助けないことはなかったといいます。
 そのうち佐兵衛は体が弱り、家の中にこもりがちになります。気分が良い日は家族が使う草履を作りましたが、二人は「父の作ったものだからもったいない」と、母にだけ履かせました。その後も「小ゆり」と「くに」は父母のケアを丁寧に続け、やがて佐兵衛は79歳で亡くなります。
 生前、父が田んぼのあぜ(土のしきり)を触ったときにできた手形に目印の竹を立てた二人は、それを形見として大事にしたそうです。二人は領主から「孝行者」として表彰され、銀をもらいました。
 両親のケアをした姉妹の介護事例です。父は眼病と中風を患い、自力で廁にも行けなくなったため、「小ゆり」と「くに」は排せつの支援を行っています。父の手の跡を形見として大切にした様子から二人の父に対する深い愛情が読み取れます。
■母の介護と仕事を両立した七郎右衛門
 ・越後国(現・新潟県)三島郡成澤村に住んでいた「七郎右衛門」
 七郎右衛門は百姓で、保有する田畑は14石。もともと家が貧しかったのですが、母に仕えて親孝行を尽くした人です。母の体調が悪く、医者に診察してもらったところ、中風の症状が判明します。力を尽くして療養すれば、せめて2、3年ほど命は持つと思い、七郎右衛門は走り回って医療を求めました。
 夏は暑さで体を壊さないよう、うちわであおぎ、気血のめぐりに良いだろうと湯浴みもさせ、冬には温かくなるよう母の寝床に藁(わら)を入れたそうです。農事が忙しいときでも、日に3~4度母のもとへ行き、寝床に敷く藁と薬の状況を確かめてから田畑に向かいました。
 七郎右衛門は「郷横目」という役人としての顔も持っていましたが、そちらの仕事もおろそかにせず、母の世話と仕事とを両立。その孝行ぶりが領主に聞こえ、褒美として銭をもらいました。
 百姓としての農事、郷横目としての職務と、中風になった母の介護の両方にそつなく取り組んだ事例です。現在でも介護と仕事の両立は大変で、高齢化が進む中で社会問題として認識されつつありますが、当時も同様の状況が生じていたといえます。仕事をしつつも、親孝行を決して疎かにしなかったことで表彰されたわけです。
認知症介護の実態
 ・備後国(現在の広島県東部)三上郡永末村に住んでいた「さこ」
 「さこ」は三上郡永末村の百姓・孫七の妻で、14年前に結婚して夫・義父母と同居を始めました。結婚当初の義父母は元気だったものの、14年の間に老衰。義父は目が不自由となって耳も遠くなります。さらに先ごろ中風を患い、話す内容が分かりにくくなり、歩行も難しく、廁に通うことすらも困難になりました。「さこ」は時間を測って義父の用をさせて、どんなに急ぎの仕事があるときでも、義父の助けを最優先で行いました。
 一方で義母は10年前から心と行動に異常がみられるようになり、「さこ」を怒り、ののしり、近くに来るなと追いやるようになりましたが、「さこ」は物やわらかにいいなだめて、篤く介抱し続けました。あまりに義母の状態がひどいので、親族が「夫婦でしばらく別の家に移り住んだらどうか」といったところ、「さこ」は「誰が二人の面倒をみるのか」と反対しましたが、話し合いにより結局は別居することに。
 しかし別居後も「さこ」は朝夕の食べ物を届けます。義母は「夫婦で食べて余った物を持ってきているんだろう!」などといいましたが、「さこ」は介抱を続けました。
 その後2年が経過し、義父が完全に盲目となったため、義母一人では心もとないとして、「さこ」と夫は元の家に戻ります。義母の物狂わしさはますますひどくなり、義父は自力で食事もとれなくなっていました。「さこ」は手ずから箸を取って義父に食事をとらせ、背負って寺社へのお参りなども行います。
 その後、「さこ」の夫が先に亡くなり、夫の死から1カ月後に義父も74歳で亡くなります。その後、義母は不幸が続いたせいで悲しみ、自然と慈しみの心も生じて、「さこ」と仲睦まじく暮らしました。安永6年(1777年)、領主が「さこ」を孝行者として認め、褒美として米を与えました。
 「さこ」の義父は盲目、中風になり、義母は原文でいうところの「物のけのやうになやミ、老いほれて物くるハしくなり、さこを怒りのゝしり」などの症状が出ていることから、精神面の病あるいは認知症に該当しそうです。認知症は記憶障害や見当識障害(時間や場所が分からなくなる)といった中核症状だけでなく、暴言や妄想などを含む行動・心理症状(BPSD)が現れるケースも多いので、それが義母から「さこ」に向けられた可能性が考えられます。
 最後の箇所で、義母は息子、夫が亡くなる不幸が続いたため悲しみ、自然と慈しみの心も生じたとありますが、一方で認知症がさらに進行して末期状態となり、極度の意欲低下や寝たきりに近い状態になったのでは、とも推測できます。「さこ」は義父母が要介護状態となりながら懸命に世話していたわけで、現代風にいうと「多重介護」に直面していたといえます。
 なお「さこ」や先ほどの「小ゆり」、「くに」の場合は女性・娘が介護の担い手ですが、先に取り上げた武士の介護事例のように、江戸期の介護の担い手は比較的男性・息子が多かったようです。
■老親の介護は誰が担ったか? 
 『仙台孝義録』を対象とした研究では、要介護となった老親の介護を親族の誰が担ったのかについて割合が算出されています。老親の介護で表彰されている事例は373件あり、そのうち介護者として最多だったのは「男性(実子・養子・継子)」で、全体の52.5%(196件)、次に多かったのが「女性(娘・養女・嫁)」の24.1%(90件)、以下「息子(娘)夫婦」の17.7%(66件)、「子供」の3.5%(13件)と続きます。「息子夫婦+孫夫婦」や「息子夫婦+孫」など1~2件のみ見られるケースも全体の2.2%(8件)ほど見られました。
 老親介護の担い手として「男性(実子・養子・継子)」が半数以上に上り、「女性(娘・養女・嫁)」の割合を大きく上回っています。特に家が貧しくて息子が未婚の場合、息子が看る場合も多かったようで、「男性(実子・養子・継子)」の介護事例のうち13件は、親の介護のために40過ぎまで独身を強いられたり、孝行のためにあえて妻帯しなかったケースでした。
 ちなみに内閣府『令和3年版高齢社会白書』によると、現代人が同居の高齢者を介護する場合、息子や養子など男性の割合は35%、娘や息子の配偶者など女性の割合は65%です。『仙台孝義録』の調査結果と現代では、介護の担い手となる性別の割合が大きく違っています。現代では、親に対する愛情の大きい子供が自発的に老親介護を担う事例も多いようですが、当時は家規範・男性優位の価値観が特に強く持たれていた時代です。
 「孝行」の担い手となることも含め、何事も矢面に立って責任を持つのが男子とされており、老親介護においても同様だったとも考えられます。
 﨑井 将之
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 2024年10月28日16:00 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ
江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた
 﨑井 将之
 (写真:Fast&Slow/PIXTA
 現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。
 医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか?
 日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。
 書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々——。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。
 『武士の介護休暇』より、幕末期の武士が介護記録を書き残した日記について、一部抜粋、再構成してお届けします。
 江戸時代の武士と介護
 江戸時代の武士はどのように老親の介護を行っていたのでしょうか。
 当時は現代のような介護保険体制が整っていたわけではなく、公的な介護保険サービスも存在しません。介護をする場合、基本的に家族など近くにいる人が担う必要がありました。武士の中には、日々の介護を詳しく記録している人がいて、その内容から当時の介護の様子が見えてきます。
 ここでいう「武士」とは浪人や自称などではなく、幕府や藩に仕えていた旗本・御家人藩士を指します。こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべて自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました。
 ただ「介護」となるとなかなか大変な面もあったようです。武士の介護に関する史料・既存研究をひも解きながら、その実像についてご紹介しましょう。
 日記に残された「武士の介護」
 武士の介護を見る上で、史料がしっかりと残り、既存研究も行われている事例として、幕末期における沼津藩(現在の静岡県沼津市周辺)藩士の金沢八郎に対する介護が挙げられます。
 金沢八郎の妻の名前は不明で、息子にあたる人物として金沢久三郎、黒沢弥兵衛、徳田貢、水野重教などの名が残っています。名字が違うことからも分かる通り、弥兵衛、貢、重教は他家に養子に行っており、金沢八郎の介護に関する記録は、息子の一人である水野重教が日記に残しています。
 この日記は『水野伊織日記』(伊織は重教の別名)として世に知られていて、1862年文久2年)から1892年(明治25年)にかけての日々が記録され、幕末維新における沼津藩の動きを知る上で貴重な史料です。その一方、父である金沢八郎が病気で倒れ、介護をし、亡くなるまでの様子について事細かに記されてもいます。そこから当時の武士の介護を読み解けるわけです。
 史料は日記形式であり毎日を逐一取り上げると大変なので、いくつかのエピソードを拾ってご紹介しましょう。
 1866年(慶応2年)に起こった異変
 まずは日本史上で「薩長同盟が結ばれた年」として知られる1866年(慶応2年)4月23日の出来事に焦点を当てます。この日、水野重教の実父である金沢八郎の身に異変が起こります。このとき八郎は江戸に出府していて、「八幡」に参詣してから家に帰っていつものように酒を飲み、酔っぱらって寝床に入ったのですが、次の日の朝になると、
 「言語御渋り諸状不宜旨也」
 (言葉をスムーズに話せなくなり、体調全般が良くない)
 という体調が優れない状態となり、医師に見せて血の検査などをしたところ、
 「是中風再發之徴候也」
 (これは中風〔ちゅうぶ〕再発の兆候である)
 と診断されます。八郎はそれまでも中風を患っていたようなのですが、飲酒がきっかけで再発したわけです。中風とは脳卒中による半身麻痺などの後遺症のことで、現代でも言葉がうまくしゃべれない、体にしびれが出るといった症状はその前兆として知られています。
 八郎はその後少しずつ回復しますが、同年の秋頃からまた体調が悪くなったようです。その後八郎は藩から暇(いとま)をもらい、国元で療養生活を送りましたが、年が明けて1867年(慶応3年)の正月4日頃から難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。7日には医師より、
 「年来中風御病之上、御老体旧臘より咽喉御悩、彼是ニて御疲労強所へ之吃逆ニて、種々之薬剤奏功無之上は、何分此度ハ心許なき」
 (年来の中風の病の上、御老体は昨年12月から咽喉の悩みもありました。かれこれの病により疲労が強くなっているところにしゃっくりがひどくなり、各種の薬の効果もないので、なにぶんにも今回ばかりは〔命が持つか〕気がかりです)
 と宣告されます。終末期に難治性のしゃっくりが見られることは現代でも多く、八郎に死期が近づいている兆候ともいえます。金沢家の跡継ぎである久三郎は藩命で江戸表に滞在中であり、すぐに国元から飛脚で手紙が送られています。
 介護休暇を願い出た武士
 医師から打つ手なしといわれた八郎に対し、久三郎が江戸にいたため、重教は自ら看取りケアを行おうと決意します。宣告を受けた翌日の8日の日記には、
 「御容体弥不宜ニ付、自分今日看病引相願候処、即願済之事」
 (〔実父の〕ご容体が良くないので、私は本日藩に看病引のお願いをしたところ、すぐに承諾となった)
 とあります。父の介護をしたいので「看病引」、つまり介護のための休みが欲しいと願い出て、認められたわけです。翌9日には「後嗣えの御遺訓并自分・弥兵衛へ同断」とあり、医師から命が危ういといわれた八郎は、その2日後には息子の重教、弥兵衛に対する遺訓を作っています。この辺りの潔さは武士らしいともいえるかもしれません。
その後の重教の日記は、介護の内容が中心となります。八郎は容体が悪化するにつれてしゃっくりもひどくなったようで、重教は事細かに「吃逆發」「止」の記述を繰り返し、また八郎が人と会うときは「自分御背を御さすり罷在候事」(お背中をおさすり致しておりました)などのケアも行っていました。
 排せつに関する記述が登場
 また1月12日には、「殿様より実父君御不快御尋としてかすていら一折御頂戴被成候」とあり、介護生活の最中、殿様からカステラをもらったりしています。しゃっくりがひどかった八郎が食べられたかどうかは分かりませんが、殿様が家来の容体を心配することもあったようです。
 1月13日からは、「朝五時前小水御通」や「暁九時両便御快通」など排せつに関する記述が登場し、この時期から重教は排せつの介助(トイレまでの移動介助)も行っていたと考えられます。その後、1月19日には勘定奉行をはじめ、藩士がぞくぞくと見舞いに駆けつけ、八郎は「今世之御暇乞」(今生のお別れ)をしたり、心得・教戒などを伝えたりします。
 この頃になると八郎は寝床から離れられなくなり、1月22日の日記には「依之今日御両便共ニ御床上ニて自分・弥兵衛・久三郎御世話申上」とあり、重教、弥兵衛、そしてこの頃江戸から戻っていた金沢家の跡取りである久三郎の三人兄弟で、大小便の世話をするようになります。26日頃からは、自力で寝返りもできなくなりました。
 そして2月3日の日記には、「先日以来御薬ハ不被召上旨被仰聞、御決死之事ニ候得は……」とあり、先日来、八郎は薬を飲もうとせず、死を決したとの記述があります。その上でこの3日に、辞世の詩も作成。5日に八郎は亡くなりました。
 現代でいうところの「介護休業」も
 以上少し長くなりましたが、実際の日記には、いつどんな症状が出たのか、何を食べたのか、大小便はいつしたのか、どんな薬を投与したのか(麝香〔じゃこう〕、モルヒネ、ヒスミット、ラウタなどの薬名も日記中に記載あり)などが、詳細に記述されています。近世期の武士は文章のうまい人が多く、筆まめな人が詳細な介護記録をつけると、現代のプロの介護士が作成するような具体性があります。
『武士の介護休暇: 日本は老いと介護にどう向きあってきたか』(河出新書)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。参考資料、出典などに関しては、本書をご確認ください
 なお、重教の兄嫁は舅(しゅうと)の八郎と不仲だったようで、ケアには非協力的だったようです。八郎の容体が悪化した際、兄達は江戸にいたため、結果として沼津にいた重教がケアを担い、兄達が江戸から戻った後も八郎の介護・看取りケアの中心役となっています。
 なおケアを行う際、重教や兄弟が手ずから介護をしていたとは思いますが、家で働いている人(下男・下女と呼ばれた人)も多かったと思われ、そうした人たちにあれこれと指図する場合も多分にあったと考えられます。
 またこの八郎のケースで一つ注目したいのは、重教が介護をするにあたって、藩に対して「看病引」を願い出ている点です。これは「親の介護をしたいから休ませてください」という、現代でいうところの介護休業のお願いです。沼津藩はこの申し出に対し、すぐに許可を出しています。
 﨑井 将之
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 2024年10月29日15:00 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「江戸時代の武士が利用した「介護休暇」の驚く中身
 老親介護をバックアップした江戸時代の「休暇制度」
 﨑井 将之
 (写真:keikyoto/PIXTA
 現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。
 医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか?
 日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。
 書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々——。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。
 『武士の介護休暇』より、江戸時代の介護休暇制度である「看病断(かんびょうことわり)」について、一部抜粋、再構成してお届けします。
 武士が利用した「看病断」という介護休業制度
 幕府は1742年(寛保2年)に、父母や妻子が病気の際には無条件で、祖父母・叔父伯母の場合はその内容次第により介護休業を認める制度を整備しており、この規定と前後し、多くの藩でも同様の制度が設けられています。こうした制度を幕府は「看病断(かんびょうことわり)」と呼んでいましたが、藩によって名称が異なり、例えば沼津藩では「看病引」と呼んでいました。他にも「看病願」「付添御願」「看病不参」などの名称が各藩の記録で確認されています。
 この看病断の制度は、現代の育児・介護休業法に基づく「介護休暇」「介護休業制度」に該当するといって良いでしょう。ただし商人・職人に対して適用される制度ではなく、あくまで旗本・御家人藩士を対象としたものです。
 看病断制度の適用例を示す史料は各地に残っており、その中から丹波亀山藩(現在の京都府亀岡市付近)のケースをご紹介します。
 江戸の文政期(19世紀初め頃)、丹波亀山藩は幕府から、京都で火事が発生したときの火消の役割を担う「京火消詰」の役目を他の数藩と共に任されていて、担当の藩士が京屋敷に赴任する必要がありました。1820年(文政3年)4月、丹波亀山藩士の「伊丹孫兵衛」がその役目を果たすべく京屋敷に詰めていたのですが、その現場の上役に対して「祖母が病気になり具合が良くないので、看病をするため火消詰の休業をしたい」と願い出ています。
 原文には「以御憐愍看病之御暇被下置候様」などとあり、看病断の一種であると考えられます。ただ上役への届け出書によると、急に現場の上役に願い出たのではなく、事前に孫兵衛の関係者から藩の重役に申し出があって、すでに協議はされていたようです。申し出が認められ、孫兵衛が祖母の看病をしたところ、すぐに快方に向かったようで、5日後に現場に戻ったとのこと。つまりケアを理由とする休みの取得日数は5日だけでした。
 こうした看病断に該当する制度とその運用の記録は、幕府をはじめ、広く実施されていたようで、既存研究によると幕府のほか、弘前、八戸、盛岡、秋田、仙台、米沢、勝山、新発田、小田原、松代、高崎、拳母(ころも)、沼津、徳島、久留米の諸藩で制度化されていたといいます。
 武士の「近距離介護」
 武士が看病断を取得した事例の一つに、秋田藩(佐竹家)の藩士であった「渋江和光(しぶえ・まさみつ)」が記していた『渋江和光日記』があります。和光は53歳で亡くなりましたが、24歳から49歳までの約25年にわたって日記を書き続けていて、それが現代まで残っているのです。
 藩士といっても渋江家は代々秋田藩の家老職を務める由緒ある家柄であり、自家でも家臣団を抱える藩の最高幹部です。ただ渋江家には直系の宗家と分家があり、家老を輩出しているのは宗家の側で、和光が生まれたのは分家でした。
 渋江和光は1791年(寛政3年)1月14日、渋江家の分流である「渋江光成(みつなり)」の長男として生まれました。そのままいけば和光も分家の当主となったわけですが、宗家の当主が病気になって余命いくばくもなくなり、加えて宗家には跡継ぎとなる男子がいなかったため、和光が13歳のときに急遽宗家の養子に入ります。
 これはかなり急だったようで、養子に入った時の宗家の主は「渋江敦光(あつみつ)」でしたが、この人が亡くなるのは1803年(享和3年)6月20日であり、和光が養子に入ったのは同年6月12日。わずか一週間ほど前です。通常、こうした家の存続だけを目的として、現当主が亡くなる直前に慌てて養子縁組をしても認められないことが多く、渋江宗家についても、慣例に従えば知行召し上げとなっても仕方なかったといえます。
 しかし渋江宗家は藩の特別な計らいにより、和光を当主として家名が存続しました。先祖である「渋江政光(まさみつ)」が大坂冬の陣で戦死しているので「先祖抜群之戦功」であり(この時から約190年前の出来事ですが)、さらに1778年(安永7年)に秋田藩のお城である久保田城が焼失した際、渋江家の屋敷が「仮御殿」になった点を配慮したとの旨が、秋田藩の公式文書として残っています。
 24歳のときに親の介護に直面
 渋江宗家の跡を継いだ和光の知行高は2962石(1811年〔文化8年〕時点)であり、これは秋田藩の中でも最上位層に位置する石高の多さです。ただし跡を継いだときは13歳の若年であったため、実父である「渋江光成」と、親族である「荒川宗十郎」の2名が「加談(補佐役)」を命じられています。なんとか無事に宗家を継いだものの、和光は亡くなるまで、宗家の先祖の多くが就いてきた家老職にはなれなかったようです。
 ともかくも宗家に養子に入って偉くなってしまった和光でしたが、日記を書き始めて間もない24歳のときに、親の介護に直面します。実家に住む実父・光成が、1814年(文化11年)10月6日に、中風を再発して倒れてしまったのです。その日の日記には、以下の記述があります。
 「九ツ時少過根小屋かゝさまより御使者にて、親父様中風御当り直しにて御勝不被成候故、早々参候へと申来候故、……」
 (正午過ぎに根小屋の母から御使者があり、親父様が中風を再発してしまい、体調が宜しくありません、早々に参られたしとのお知らせがありましたので、……)
 文中にある「根小屋」とは和光の実家のある地名であり、久保田城の南側に広がる武家屋敷街の一つである「東根小屋町」を指します。先述の通り、和光は分家である渋江光成の家を継ぐはずでしたが、13歳のときに渋江宗家の養子となりました。そこで和光の代わりとして実家では、和光の妹の夫であり、秋田藩士の宇都宮家から迎え入れた婿養子・「渋江左膳光音(さぜんみつね)」が光成と暮らしています。この人は和光と近しい間柄で、「左膳」と呼ばれて日記にも頻繁に登場しますが、光成が倒れたとの知らせを受けた日、和光はこの左膳と一緒に夜を徹して光成のケアに当たりました。
 そして翌7日、和光は五ツ半時過(午前8時過ぎ)に東根小屋町の実家から宗家に戻っています。一晩ずっと実父の傍にいて、朝になってから帰宅したわけです。宗家は東根小屋町の通りを北に進み、堀・門を通った先の三の丸の一角にあり、およそ500メートルほどの距離です。和光は自宅に戻った後、午前11時頃からひと眠りして午後1時頃に起き、午後2時には再び実家に行って、午後10時過ぎに帰宅したと日記に記しています。
 「看病断」の申請手順
 翌10月8日には、倒れた光成の様子から介護が長期にわたると判断したのか、藩に対して「看病御暇申立」を行っています。ここでいう「看病御暇」とは、先に触れた「看病断」=介護休暇に該当するものです。和光は1807年(文化4年)から1837年(天保8年)まで、途中間が空くものの、延べ23年にわたって家老に次ぐ役職である「御相手番」を務めました。実父が倒れたときはこの職に就いていた時期に重なります。そのため看病御暇を取る旨は、職場の同僚である「同役衆」に対しても回文(回覧板のようなもの)の形で通知しています。
 「看病御暇」の申請が受理された和光は、この日以降、連日実家通いをして父の看病を続けていきます。和光の介護形態は、現代でいう別居介護に該当し、さらにいえば、自宅から「スープの冷めない距離」に住んでいる親の介護をする、「近距離介護」に当てはまります。
 遠く離れた実家に住む親を、航空機や新幹線で定期的に通って介護することは「遠距離介護」と呼ばれ、大学や就職を機に地方から大都市圏に出てきた人が直面しやすいケア形態です。一方で「近距離介護」は、親とは別居しているものの、お互いが近くに住んでいる場合の老親介護です。「実家がマンション・狭小住宅で同居するには手狭なので、子供は実家を出て近場に居を構える」などの状況が起こりやすい都市部で良く見られます。
 渋江和光の場合は婿養子に入ったことで実父と別居しているわけですが、親が住む実家と自宅との距離が近いため、毎日行ったり来たりしてケアを続けたわけです。
 毎日記録した介護の内容
 ただ和光は父の介護のため、具体的に何をどうしたかまでは日記に残していません。『水野伊織日記』に見られた「暁九時両便御快通」のような内容は見られないのです。しかし看病のために何時に実家に行き、何時に自宅に戻ったのかを毎日記録し続けています。何日かピックアップしてご紹介しましょう。
 十月九日 「四ツ半時帰宅申候」「日暮より又々根小屋へ参申候て、夜四ツ半時頃帰宅申候」
 十月十四日 「九ツ時帰宅申候而、七ツ半時頃より又々罷越申候」
 十月二十日 「九ツ時帰宅申候」「七ツ半時過より又々根小屋へ罷越申候」
 十一月六日 「九ツ時帰宅申候」「日暮より又々根小屋へ罷越申候」
 シンプルな文面なので訳は省略しましたが、おおむねの傾向として、夜中ずっと実父の傍にいて、翌日の「昼九ツ(正午頃)」前後に宗家の自宅に戻っています。そして自宅で一休みした後、「昼七ツ半(午後五時頃)」前後にまた実家に出向く生活を繰り返しています。やや早めに自宅に戻る日もありますが、基本的にこのパターンを厳格なまでに維持し続けました。例えば11月3日には次のような記述があります。
 「七ツ時より小場小伝治殿被参候、我等ハ小伝治殿被居候内申断、七ツ半時過根小屋へ罷越申候」
 (午後4時に小場小伝治〔おば・こてんじ〕殿がいらっしゃった。私たちは小伝治殿がいらっしゃるうちに断りを申し上げて、午後5時過ぎに根小屋に行きました)
来客中であってもいつもの「ケアに行く時間」が来ると、退出して実家に向かっているのです。ここからは毎日どのようにケア・見守りを行うかのスケジュールを事前に取り決めていて、それを守ろうとしていたのでは、といった想像もできます。もしそうなら、実家の「左膳」ともケア方針について相談・取り決めをしていたのかもしれません。
 こうした近距離介護生活を1カ月半以上続けたところ、父・光成の状態が次第に改善していったようで、11月22日に次のような記載があります。
 「此間根小屋ニ而も格別御快気ニ趣候故、……看病御暇御礼并返上之義問合候処、……」
 (このところ根小屋の実父も格別快方に向かいましたので、……看病御暇の御礼およびその返上について問い合わせましたところ、……)
 ケアを必要としていた実父・光成の体調が良くなったため、看病御暇を返上する意思が読み取れます。その後27日に、正式に看病御暇を返上して出勤する旨を伝える回文を「お相手番」の同役衆に送っています。
 看病御暇を返上した後は、出来る日はやっているようですが、基本的には泊まりがけでの介護は行わないようになります。しかし実家に向かえないときに行っていることがありました。例えば12月6日には以下の記述があります。
 「根小屋ヘ御容子御尋使者指遣候」
 (根小屋にご様子を尋ねるための使者を遣わしました)
 この記述の前日である5日はかなり忙しかったようで、日記の中身は仕事関連の内容で埋め尽くされています。こうした実家に行けなかった日の翌日には、父の様子を尋ねる使者を送っています。看病御暇を取得中は毎日欠かさず実家に通い続け、休みを返上した後でも、使者を送って状態の確認を行っているわけです。ただこの使者を送る行為も、わざわざ尋ねなくても良い状態まで回復したのか、12月の下旬頃になると見られなくなってきます。
 介護の中心役は男性だった
 この和光の約1カ月半に及ぶケアの記録からは、当時の武士が持つ親への孝心の篤さが改めて感じられます。『水野伊織日記』の水野重教もそうでしたが、渋江和光も実家を出て養子に入っています。他家の人間になっているのに、実父が要介護状態になったことを知るや否や、わき目もふらずに実家通いをしてそのケアに当たっています。
しかも和光にいたっては藩の重鎮であり、家老に準ずる「御相手番」の職に就いていました。現代人が持つ素朴なイメージとしては、それほど身分の高い人であれば、ずっと家にいる妻や使用人などに介護を任せきりにして、自身は介護については何もしない……などの状況が起こりそうにも思えます。実際、和光の実家には、和光の妹や「根小屋かかさま」などの女性も父・光成と一緒に住んでいました。
 しかし和光は父の介護を任せきりにせず、「看病御暇」を藩にわざわざ申し出て、実家通いをして実父のケアに当たっています(もっとも渋江家は由緒ある武家なので使用人も多いでしょうから、そうした人たちにあれこれ指示・命令することも多かったとは思われますが)。
 この「息子が率先して父の介護に取り組む」「女性ではなく男性が介護の中心役になる」などの特徴は、水野重教、渋江和光に共通している事象といえるでしょう。なお、和光の実父・光成の介護には、妹の婿養子である左膳もまた、「看病御暇」を取得してケアに当たっています(和光が「看病御暇」を返上してから2日後である11月29日の記録に、「左膳」も同様に返上して出勤したとの記載があります)。
 父が倒れた翌々日に介護休暇を取得
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 もちろん介護には光成の妻や娘も協力していたとは思いますし、介護現場で使用人があれこれ指示される状況もあったとは思います。しかし和光と左膳は、父(和光にとっては実父、左膳にとっては義父)のケアを最優先事項として位置づけ、父が倒れた翌々日に藩から介護休暇をとって、体調が安定するまでしっかりと介護に向き合っていたわけです。
 なお快方に向かった父・光成は、年が明けた1815年(文化12年)1月に剃髪(ていはつ)して名前を「逸斎(いっさい)」と改め、隠居生活を送りました。外に出歩いたりしているので、病後も元気だったようです。それから約3年後の1818年(文政元年)8月12日に脳卒中の再発により倒れ、翌13日に亡くなっています。
 倒れたときはすでに重体で、和光は12日に看病御暇を藩に申し出ました。しかし介護する必要はなかったわけです。光成の最期は苦しむこともなかったようで、ピンピンコロリの大往生を迎えたといえます。亡くなる直前の3年の間に、和光は結婚して子供も生まれていました。和光の子、つまり光成にとっては孫の顔を見られたので、幸せを感じられたのではないでしょうか。
 﨑井 将之
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