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何故、日本が共産主義に侵食されず、人民革命が起きなかったのか。
何故、日本がキリスト教に染まらず、隣人愛が受け入れられなかった。
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2022年5月7日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル(地域)「捕らえられ獄死した改革者 幻の運河事業、勘十郎堀をたどって
© 朝日新聞社 町史跡に指定された勘十郎堀跡。堀の深さから、地元では「九丈堀」とも言われ、運河の工事で一番の難所だった=茨城県茨城町城之内
茨城県内で38年続く国の一大プロジェクトが「霞ケ浦導水事業」だ。地下トンネルをつくって那珂川の水を霞ケ浦に流し、最後は利根川につなげる。渇水対策や水質浄化が主な目的だ。
「江戸時代にも、二つの水系を運河でつなげようとしていたんです」。県の職員に聞き、その史実をいまに伝える「勘十郎堀跡」を訪ねた。堀跡は茨城町から鉾田市にかけて点在する。
茨城町史跡に指定されている堀跡はビニールハウスが並ぶ農地の一角にある。町道にかかる橋から20メートルほど下に、木々に囲まれた、ほの暗い水場が見えた。
茨城町史などによると、勘十郎堀の工事は江戸中期の1707(宝永4)年、那珂川につながる涸沼(ひぬま)と、北浦に注ぐ巴川をつなげようと水戸藩が着手した。その距離は約10キロ。
東北からの物資輸送は、この区間は陸揚げして馬で運んだ。舟運に変えれば、那珂川河口から江戸までの内陸水路がつながる意味があった。さらに、財政難にあえぐ水戸藩は通行料収入を得ることができる。
計画立案と実行の責任者が松波勘十郎だった。各藩で財政改革に成功した手腕を買われ、登用された。
工事は困難を極めた。
着工から4カ月ほどで掘削工事を終えたが、砂地だったためにすぐに埋まり、修復工事や計画変更が続いた。工事に駆り出された農民は1年間で延べ130万~140万人とも言われ、工事中の事故や農民への賃金未払いが相次いだ。
1708年末、江戸の水戸藩邸に農民が押しかける一揆に発展し、未完のまま計画は中止された。勘十郎は捕らえられ、水戸で獄死した。
「国策に翻弄(ほんろう)された事業だった」と、町の歴史を半世紀以上研究している井坂英嗣さん(74)は言う。
工事資金について、水戸藩は藩独自の紙幣「藩札」を発行して調達しようとした。だが幕府は当時、全藩札の使用を禁じた。井坂さんは、資金難のため難工事が想定される最短ルートにこだわり続けたのでは、と推測する。
農家でもある井坂さんにとって、勘十郎堀には複雑な思いもある。
農業が機械化される前の昭和20年代、農作業に使われる背負いかごは、マユミの木にわらを巻き付けたものだった。子どもの井坂さんでも背負える軽さで、U字形の骨組みは肩や背骨を圧迫せず、痛くない。勘十郎堀の掘削時に広まったと祖父母から聞かされた。
「先祖が苦労して恨んだ一方、農村文化も生んだ。完成していたら、この地域や水戸藩は潤っていたかもしれないとも思う」
堀跡から約6キロ西へと向かった。霞ケ浦導水事業の那珂導水路(約43キロ)のトンネルが通るほぼ真上にたどり着いた。
工事差し止め訴訟(和解済み)などを経て、事業は工期延長を繰り返した。国土交通省によると、昨年度末で工事進捗(しんちょく)率は約69%。2030年度完成予定だ。
幻となった勘十郎堀。完成が見えてきた霞ケ浦導水。勘十郎なら、何を思うのか。想像を膨らませた。(古源盛一)
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勘十郎堀跡 茨城県茨城町城之内。水戸市中心部から車で約25分。県道50号沿いに堀跡への案内表示板がある。堀跡の約100メートル西側の供養塔のそばに駐車場あり。問い合わせは町観光協会(029・240・7124)。」
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日本大百科全書(ニッポニカ)「水戸宝永一揆」の解説
水戸宝永一揆 みとほうえいいっき
江戸中期水戸藩領の百姓一揆。水戸藩は元禄(げんろく)(1688~1704)ごろから財政窮乏に苦しみ改革が試みられるが、1706年(宝永3)財政家松波勘十郎(まつなみかんじゅうろう)に委託してからとくに広範に展開される。翌年7月からの舟運路開削事業はその中心環をなしたが、まもなく幕府が藩札を停止したため賃銭が08年度分は完全に不払いとなり、領民に大打撃を与えた。そのうえ、同年度から大幅引上げとなった年貢の納期が迫ったため、同年11月には農民が郡方(こおりかた)役所に減免や支払いを訴えるに至った。郡代清水仁右衛門(しみずにえもん)が応じないため、袋廻文(ふくろかいぶん)が領内を回り、村々の寄合は高100石に1人の割で代表を選び江戸に派遣することにした。09年正月早々から代表が江戸に到着、10日将軍綱吉(つなよし)の死去を経て、16日に200人ほどが支藩守山(もりやま)藩邸に門訴して拒否される。18日には水戸藩邸に呼び出された代表は、要求をいれるとの約束だけで帰国させられ、運動は挫折(ざせつ)したかにみえた。
しかし22日には後続の代表などでふたたび350人ほどに達し、翌23日登城帰りの藩主に駕籠訴(かごそ)を企てたが道をかえて逃げられる。24日に約1500人に増えた代表で守山藩邸にふたたび門訴、守山藩は今度は訴状を受け取り、水戸藩邸に全員を導き奉行(ぶぎょう)との会談が実現する。藩は減免と支払いの書面を水戸に出すからと帰国を命じたが、農民側は25日の総会で拒否し、松波、清水両名の罷免、改革停止を要求して、28日の将軍葬儀の際に藩主の登城を阻止して訴えるという方針を決定。26日師岡奉行(もろおかぶぎょう)と代表藤右衛門との交渉でも、阻止行動中止を拒否されて藩はついに屈服。27日午前2時、松波父子追放、改革停止を水戸に発令することでかろうじて事態を収拾した。表ざたとなった場合、運河敷にあたる守山藩領の一村を幕府に無断で水戸藩領に交換していたのを暴露されるのを恐れたからである。安房万石(あわまんごく)騒動における庄屋(しょうや)3名の裁判なし処刑という違法行為よりもっと強力なこのような切り札をつくりだしたところにこの闘争における意識性が知られ、入牢(にゅうろう)した一揆指導者に対し、全領から高10石につき2文ずつの徴集を行った点には組織性のほどが示されている。
[林 基]
『林基著『国民の歴史16 享保と寛政』(1971・文英堂)』▽『江川文展著『宝永一揆』(1981・筑波書林)』
[参照項目] | 松波勘十郎
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日本大百科全書(ニッポニカ)「松波勘十郎」の解説
松波勘十郎 まつなみかんじゅうろう
(1638?―1709)
江戸中期の財政家。名は良利。美濃(みの)国加納(かのう)藩領鶉(うずら)村(岐阜市)の奥田家に生まれ、1658年(万治1)松波文右衛門(ぶんえもん)の養子となり、加納宿庄屋(しょうや)となったが、69年(寛文9)同家を去った。理由も行先も不明だが、79年(延宝7)幕府の美濃代官杉田九郎兵衛(くろべえ)に訴えて、少額の小物成(こものなり)しか徴収していなかった地域に検地を入れさせ、千数百石を超える石高(こくだか)を打ち出させている。85、86年(貞享2、3)には、下総(しもうさ)国匝瑳(そうさ)郡の松平十左衛門(じゅうざえもん)、三河国賀茂(かも)郡の鈴木市兵衛(いちべえ)という親戚(しんせき)同士の2旗本家のために次々に検地を行い、その財政立て直しに成功し、それを土台に元禄(げんろく)(1688~1704)初年には上総(かずさ)国大多喜(おおたき)(阿部伊予守(いよのかみ)正春)、下総国高岡(井上筑後守(ちくごのかみ)政敬(まさたか))の2小藩の財政立て直しを委託され、詳細不明ながら、成功したといわれる。
1693年(元禄6)から大和(やまと)国郡山(こおりやま)藩(本多下野(しもつけ)守忠年、11万石)の委託を受け、同年の租率を一挙に5割も引き上げ、その増収分を担保に銀125貫目の追加借入れに成功する一方、藩札発行をも利用して巧みに財政を立て直した。このとき改革案をめぐる競争に敗れて去った同役上島与惣兵衛(うえじまよそべえ)は、有名な俳人鬼貫(おにつら)である。彼の郡山藩財政支配は、元禄10年代にも続くが、このころにはほかに摂津国の旗本松下彦兵衛(ひこべえ)領を引き受け、隣接の高槻(たかつき)藩(永井日向守(ひゅうがのかみ)直達(なおたつ)、3万6000石)にも招かれかけるが故障があって、彼の方策だけが利用される。さらに備後(びんご)国三次(みよし)藩(浅野土佐守長澄、5万石)、陸奥(むつ)国棚倉(たなぐら)藩(内藤紀伊守弌信(かずのぶ)、5万石)など五か領25万石余を同時に管理していたことになる。それは、京都に大事務所を構え、そこから諸領に定期的に出張、指導したからで、出張の中間期については指示書を封印して渡しておき、順次これを開いて処置させるという方式であるから、この時期にはさらに多くの関係領域がみいだされる可能性がある。
このころに典型的なのは、たとえば三次藩でのように、租率を8割にも引き上げ、藩札を発行して、紙、鉄などの専売制を敷き、これら特産物や産米のすべてを大坂に移出することで正貨を獲得し、負債を克服するという方策で、1696年(元禄9)からの幕府の改鋳による物価騰貴が、その成功を助けたのである。
1704年(宝永1)ごろには、出身地の加納藩に迎えられているが、06年からは常陸(ひたち)国水戸(みと)藩(35万石)に招かれる。ここでは、他藩と同様の諸政策のほかに、奥州―水戸間内陸舟運の完全水路化という一藩の枠を大きく超えた事業を計画した。これは、棚倉からの久慈(くじ)川舟運を額田(ぬかた)川の開削によって那珂(なか)川につなぎ、それから涸沼(ひぬま)を横断する舟運路を改良し、海老沢(えびさわ)―紅葉(もみじ)間の陸送部分を運河化し、北浦に出る巴(ともえ)川を浚渫(しゅんせつ)・拡幅することで、奥州の諸産物が江戸まで完全に水上輸送できるようにする大計画で、藩内外の広範な出資協力をも組織した。完成すれば運賃・通過税の膨大な収入が藩財政を救うはずであったが、07年幕府が藩札を停止したため、労賃支払いに支障をきたし、領民の江戸出訴のきっかけとなった(水戸宝永一揆(いっき))。09年正月、領民の闘争に屈した藩によって京都に追放され、財政改革事業は停止した。同年6月江戸に戻って藩に復帰を交渉中捕らえられ、偽(にせ)手紙で呼び出された2人の息子とともに水戸で獄死させられ、闇(やみ)から闇に葬られたが、それでも彼の事跡は江戸の実録文学『水府松並記(すいふまつなみき)』で、また『元正間記(げんしょうかんき)』で伝えられ、浮世草子『今川一睡(いっすい)記』では高師直(こうのもろなお)の勘定方(かんじょうかた)藤浪甚十郎(ふじなみじんじゅうろう)として反映されるのである。
[林 基]
『林基「松波勘十郎捜索」(『茨城県史研究』29~60号所収・1974~88・茨城県)』
[参照項目] | 水戸宝永一揆
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「勘十郎堀」の解説
勘十郎堀 かんじゅうろうぼり
茨城県中部,涸沼 (ひぬま) 南西岸から北浦へ流れる巴川へ通じていた運河。那珂川口-涸沼-北浦-利根川-江戸川-江戸の内陸水路を開くため,水戸藩士松波勘十郎によって,宝永4 (1707) ~5年に造られた。涸沼南西岸から巴川の海老沢河岸を経て,南西方向に巴村紅葉まで約 8kmの堀運河であったが,巴川の水面より高いのであまり利用されなかった。現在堀跡は水田として残っている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典内の勘十郎堀の言及
【茨城[県]】より
…とりわけ利根川系の河川・湖沼の果たす役割が大きかった。宝永年間(1704‐11),独立した河川系統である那珂川を利根川系に運河で連絡しようと涸(ひ)沼(那珂川系)と巴(ともえ)川(利根川系)を結ぶ勘十郎堀(紅葉(もみじ)運河)が水戸藩によって計画されたが,失敗に帰した史実もある。水戸街道(国道6号線),日光街道(国道4号線)は,東北地方と江戸との文化交流のルートではあったが,多くの貨物を運ぶ動脈とはなりえず,1870年代末に利根川系の河川・湖沼に外輪蒸気船が就航すると,水運がさらに重要になった。…
【鹿島灘】より
…日本~北アメリカ太平洋岸間の大圏航路の通過水域にあたり,航行船舶が多いが,江戸時代には東廻海運の難所として知られた。そのため那珂湊―涸(ひ)沼―北浦―利根川を介して江戸に達する内陸水路の利用(一部に陸路並存)が行われ,水戸藩による紅葉(もみじ)運河(勘十郎堀)の開削もなされたが,未完成に終わっている。沿岸は鹿島浦とよばれる砂浜海岸,陸棚は日本海溝に接し,地震源としても有名。…
【松波勘十郎】より
…このほか時期は定かでないが加納藩にも招かれている。06年(宝永3)からは水戸藩にかかわり,他の諸藩で行った諸政策のほかに涸沼(ひぬま)から巴(ともえ)川の間を水路化(勘十郎堀)し,奥州・江戸間の商品流通を促進しながら藩益をあげようとするなど,大がかりな改革を展開したが,09年反対する領民の江戸出訴で京都に追放され,改革は停止された。その後ひそかに江戸に戻ったところを捕らえられ,水戸の赤沼の獄で2人の子とともに獄死した。…
※「勘十郎堀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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大洗町を元気にする会
涸 沼
(7)大貫運河(一)
はじめに
鹿島臨海鉄道「大洗駅」を出て、駅前の道路を右方向へ行き、坂を下りますと信号のある交叉点で4車線の大きな道路にぶつかります。右サイドにコインランドリーがありますし、直進しますと「大貫小学校」がありますが、この交叉点で右折しますと、間もなく右手に掘割が見えてきます。
この掘割は、かつて江戸時代に、涸沼川から鹿島灘の大貫海岸まで掘削された「大貫運河」の一部です。一応大貫海岸まで掘り進みましたが、1ヶ月もしないうちに早くも海砂で埋まってしまいました。復旧工事が行われたようですが、実際には舟が通ったことはないようです。上述の道路の一部は、この運河だった跡を利用して造られたものです。
なんで此処に海に通じる運河が必要だったのか?考えてみれば不思議な思いに捉われます。そこで、以下では、当時としては、超「ビッグプロジェクト」だったに違いないこの大貫運河開削事業について見ていきたいと思います。
運河開削のトータル・プランについて
「大貫運河」の開削は、もう一つの「紅葉運河」開削プロジェクトと一体のものでした。
そもそも論から始めたいと思いますが、鉄道やトラックの無かった江戸時代には、舟運による輸送の方が陸上の人馬による輸送よりも大量輸送ができ、かつ運賃も安かっただろうということは納得できる話です。
(年貢米の輸送についてみますと、馬では2表しか運べませんが、最も小さい川舟でも25俵積み、江戸中期に利根川を航行する高瀬舟は米1000俵を積みました。海の千石船は2500俵を運べました。)
このため、仙台藩など奥州諸藩は、米をはじめとする多量の物資を江戸へ運送する場合、まずは那珂湊まで海船で運びました。その先鹿島灘は難所が多くて難破のリスクが大きく、またそこをなんとか通過できても銚子から利根川に入るのにも危険があり、さらに房総半島を回って江戸湾に入るのは航海技術上一層困難でした。
このため、那珂湊まで海船で来て、ここで川舟に積み替えてから那珂川、涸沼川を経て、涸沼の西岸まで内川航路をゆきました。那珂川も涸沼もその当時は水量が豊富で、大小の船・舟を楽に運べたようです。
しかし、涸沼西岸からは陸路となり、一つは小川(小美玉市)に出て霞ヶ浦から舟を利用するルート、いま一つは城ノ内を経て紅葉(鉾田市)に出て、巴川を下って北浦から舟運を利用するルートでした。
2つのルート共に、「潮来」まで来てから利根川の水路に入り、江戸川、中川、隅田川を経て最後は日本橋の河岸に至るものでした。
という具合であり、この輸送路は大きなN字型になる迂回路でしたが、海上では風波の難があり、ずっと陸上の街道を通る輸送路では宿駅で調達・動員できる人や馬に限りがありましたので、当時としてはこの輸送路が大量の物資を運べる安全な輸送路でした。
水戸藩にとっても、この涸沼川・涸沼経由の江戸回漕路は、藩主が常駐する江戸藩邸への日用物資の供給など自藩の物資の江戸回漕に必要であるというだけでなく、ここを通る他藩の輸送荷物を取締り、「津役」(言うならば「関税」)を徴収できるという大きなメリットがありました。
しかし、二つのルート共にその難点は、涸沼西岸で舟から馬または人足の背に積み替え、そして涸沼西岸と霞ヶ浦または北浦との間およそ2里半(約10km)を人馬による陸上輸送によらなければならないという点にありました。
もし、涸沼西岸と霞ヶ浦または北浦との間を水路にできれば、奥州から江戸まで水路つづきになるので、これほど便利で安全なルートはないということになります。何とかしてこの間に運河を掘ろうと考える人があって当然でしょう。
それが本体とも言うべき「紅葉運河」プロジェクトです。それに加えて、那珂川河口部の形状や岩礁の具合(現在はストレートに鹿島灘に出ていますが、当時は砂嘴が祝町の方から出ていたため、那珂川は那珂湊の側に大きくカーブしていました。)と季節風に伴う風波が相俟って、那珂湊から涸沼川への出入りには大きな難破の危険があったという事情がありました。
そこで、那珂湊を回避して、鹿島灘から直接涸沼川または涸沼に出入りできる運河を掘ったら一層安全なルートになるのではないか、ということから浮かび上がったのが「大貫運河」というわけです。
両運河は不即不離の関係にありましたし、実際に17世紀後半の江戸時代に、大貫運河及び涸沼の西岸の海老沢地区から紅葉地区まで新堀を開削して巴川とつなぎ、巴川を北浦に下る紅葉運河に着工したのです。
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