🏞100)─4─幕府がペリー提督と結んだ日米和親条約は外交交渉の勝利であった。~No.398No.399 ㊲ 

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 徳川幕府の外交交渉能力は、現代の国際外交でも通用するし、情報収集能力は現代日本より優れていた。
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 2023年5月24日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「なぜ「通商」ではなく「和親」だったのか?決して弱気ではなかった幕府外交
 ペリー提督来航記念碑(函館市) 写真/アフロ
 (町田 明広:歴史学者
■ 日米和親条約の締結とその内容
 嘉永7年(1854、11月27日に安政改元)1月16日、ペリーは前年に続いて、2回目の来航を果たした。その後、オランダ語を介して交渉が重ねられ、3月3日に至って日米和親条約がペリーと日本側全権の林復斎との間で締結された。
 【写真】ペリーロード(下田市
 主な内容としては、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、そして、アメリカへの最恵国待遇であった。開港というと、まるで開国したような印象を受けるが、そうではない。日本中のすべての港で物資の供給などをすることは不可能であり、そのため、この2港を指定したという意味合いである。開港というよりは、寄港を許したとする方がより正確であろう。
 また、アメリカ人の行動の自由が保障された。しかし、行動範囲は厳しく指定されたため、これをもって外国人の国内への侵入を許すことになったわけではない。あくまでも、物資の供給を受けるための一時的な滞在を認めただけであり、恒久的な居住を認めたわけではないのだ。この点は、極めて重要である。
■ 日米和親条約によって開国せず
 日米和親条約において、日本にとっての最大のポイントは、通商を回避して和親に止めたことである。つまり、後世の私たちが開国と位置付けている日米和親条約は、当時の日本人にとって見れば、アメリカとは国交を樹立したものの、物資の供給(施し)を認めたに過ぎず、鎖国政策を順守したことに他ならないのだ。
 確かに、国家間の正式な条約ではあったものの、これ以前に天保13年(1842)7月に幕府が発令した薪水給与令(外国船が薪水・食料の欠乏を訴える場合、事情を聞いて望みの品を与えて帰帆させる)があり、内容的にはその考え方と何ら矛盾していない。これは、極めて東洋的な撫恤(哀れみ慈しんで、ものを与えたりすること)政策と言えるものであった。
 撫恤政策は、外国船を追い払う鎖国と、貿易を開始し外国人を国内に受け入れる通商の中間のような政略である。もちろん、日米和親条約は国家間の正式な条約であり、一時的であれ滞在を認めた事実があり、また欠乏品の供給時に金銭と交換した事実などから、天保の薪水給与令から通商に大きくシフトしたことは否めないのだ。
 とは言え、日米和親条約はあくまでも鎖国の枠内であり、この段階では開国はしていないのだ。1年半後にその報告を受けた孝明天皇が嘉納、つまり了解している事実からも、鎖国体制の堅持と同時代人は認識していたと言えよう。和親と通商では、それほど大きな違いがあったことを忘れてはならない。
■ 日米和親条約アヘン戦争の関係とは
 幕府はアヘン戦争(1839~42)や南京条約(1842)の締結について、十分な情報を入手していた。戦争には負けたものの、清は南京条約を和親条約と位置付けており、現に正式な通商を認めていないことが、その後分かってきた。アヘン戦争によって、清がイギリスの植民地になったような物言いもされるが、それは決して事実ではない。
 清は東アジア的華夷思想の中にまだ浸っており、イギリスに対して撫恤を施したとしか認識していなかったのだ。このことから、幕府にはアメリカも和親条約で了解するとの読みがあったのかも知れない。
 ところで、清が文字通り、欧米列強による帝国主義的な支配を受け、植民地にされ始めたのは、アロー戦争(1856年、イギリス国旗を掲げた清国船アロー号が清国官憲の取調べを受け、国旗がひき降ろされた事件を契機として、清とイギリス、フランスとの間で戦われた戦争)後の天津・北京条約(1858・1860)によってである。なお、この戦争の余波によって日米修好通商条約の締結に至るのだが、このことはいずれ改めて述べてみたい。
■ 幕府外交は弱腰にあらず
 通商を求めたペリーに対し、日本全権である大学頭(江戸幕府に仕えた儒官の長の役職)の林復斎は、人権を振りかざすペリーを逆手に取った。今回の来意は、漂流民の救助と禁錮や虐待の禁止を求めるためであり、通商は人命にはかかわらないと論破した。そして、和親は受け入れるものの、通商は断固として拒否したのだ。
 この通商拒否に対して、ペリーは熟考の後、通商条約の締結をあきらめ、棚上げにすることを了承している。こうした交渉の経過は、幕府が単なる弱腰外交一辺倒でなかった証拠である。幕府は簡単に、砲艦外交に屈したわけではなかったのだ。
 とは言え、この事実はアメリカが日本との貿易に多くを期待していなかったことの裏返しでもある。フィルモア大統領からの国書にも、貿易については5年ないし10年間は試験的に実施し、利益がないことが分かれば、旧法に復する、つまり貿易を取り止めることもできると明記されていた。
■ ペリーにとっての和親条約
 しかし、ペリーにとって、和親条約では必ずしも使命達成とはいかなかった。ペリーは退役が近づいており、日本を開国させたという名誉をもって退く決意であった。通商条約を結べなかったペリーであるが、アメリカに帰国後、あたかも通商を開始し、日本を開国させたというプロパガンダをメディアに対して行っている。確かに、ペリーは日本を開国に導けなかったが、しかし、彼によって間違いなく、日本の開国は秒読みに入ったと言えよう。
 その後のペリーであるが、アルコール依存症痛風、リウマチを患った。そして、1858年3月4日、ニューヨークで死去した。享年63歳だった。日米和親条約からたった4年、ハリスによる日米修好通商条約が結ばれた年でもあったことは、歴史の皮肉であろうか。
 町田 明広
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