- 作者:小岸 昭
- 発売日: 2002/10/01
- メディア: ハードカバー
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
サムライは、現代日本の政治家やエリート官僚とは違って外圧に屈する事はなかった。
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靖国神社の祭神・吉田松陰は、現人神・天皇と神国日本を守る為に高杉晋作や久坂玄瑞らに朝鮮征服を説く。
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サムライは、特権的地位に安住し、太平の世に惰眠を貪っていたわけではなかった。
長州藩は、江戸初期の石高は34万石であったが新田開発を行って幕末には100万石に近い石高とし、地場産業育成に力を入れて名産品や特産品を開発して大阪や京都で売って現金収入を得ていた。
全ての大名は、自己責任を伴った地方分権による独自独歩の封建領主として、石高を上げる為の農業振興と同時に生産・流通・販売・金融といった経済発展も怠りなく行っていた。
日本の封建領主とは、借金苦に苦しむ家臣の家禄をさらにに減らす為に質素倹約を旨とし、藩財政を助け藩の収入を増や為に藩士や領民の模範となるべく率先垂範して働くサムライであった。
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吉田松陰(1830〜59年。松陰神社・靖国神社)
地位の低い下級武士出身の吉田松陰は、同じ下級武士の西郷隆盛(反逆者・南州神社)同様に、靖国神社の祭神・高杉晋作や久坂玄瑞(下級武士)らに、天皇中心国家日本を外敵の侵略から守る為には軍事力が必要で、その為に朝鮮征伐を説いた。
戦争犯罪国家日本の軍国主義諸政策は、キリスト教欧米列強の日本を植民地化しようとする巨大な軍事力に対する恐怖心が原因であった。
つまり、アジア・アフリカ諸地域同様に西洋の帝国主義に屈して植民地となっていれば、欧米列強や中国及び朝鮮との絶望的世界戦争を起こさなくて済んだであろう。
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吉田松陰は、15歳の時(1840年頃)にアヘン戦争の顛末と植民地化された清国の惨状を知るや、キリスト教の西洋列強の侵略を防ぎ植民地にならない為にはどうすべきかを真剣に考え始めた。
地位は低かったが山鹿流兵学師範という軍事専門職の家ゆえに、イギリス艦隊の編成や軍艦の武器装備や陸兵数と戦術の軍事情報など手に入るだけの資料を集めて研究した。
侵略してくる列強の艦隊は、何処を攻めて上陸して来るか。その時、島国日本はどう防衛するべきかを、実地で検証する為に全国を歩き回った。
そして、自分を磨く為に佐久間象山(靖国神社)などの勤王の志ある賢人に会って教えを請うた。
国民皆兵の走りとして、神国日本と天皇・皇室を外敵から守には、サムライだけではなく庶民も起ち上がるべきとして、「草莽崛起」(靖国神社の志)を唱えた。
戦略家らしく、清国の敗北は自国の国防力を盲信して敵の軍事力を軽視した為であるとして、清国の様に即攘夷で排外戦争は愚行で国の破滅であるあると訴えた。
むしろ、開国し、西洋の優れた技術や学問を取り入れて殖産興業して国力を養い、軍国主義的政策を取り軍事力を強化してから、攘夷を断行するべきであると教えた。
そして、神国日本を滅ぼさない為に一番大事なのは、死を持って天皇への忠誠心を貫く大和魂であると主張した。
つまり、「和魂洋才」の哲学である。
西洋の文化で排除すべきは、天皇の神性を否定するキリスト教であると。
「一法師(ザビエル)は遣わされ、なほよく人の国を傾く」
同様に、神の裔・皇統を断絶させかねない「放伐」と「禅譲」を公認する儒教をも嫌った。
吉田松陰は、教育者として、サムライはもちろん身分低い庶民に対しても、日本文明の根底に流れる平衡感覚を持った「心」「誠」「志」による総合力を一人ひとりが磨き育てる事を求めた。
民族主義者として、海外からの侵略や邪悪な隠謀に対しては、自己犠牲で、「無私」となって御国と皇室の為に尽くせと教えた。
「備えとは、船や砲との謂いにあらず、この敷島の大和魂」
神の裔・天皇は、神国日本を自己犠牲精神で戦って死んだ勤王の志士の忠魂義魄を神として靖国神社に祀った。
靖国神社は、志・信念を持って国に殉じた者の魂と心のみを神として祀る神聖な聖域であって、屍体・遺骨を境内に葬った墓地ではない。
あるいは、偉大なる聖人の屍体を安置するキリスト教の大寺院とも異なる。
祖先神の神社は、キリスト教の教会・イスラム教のモスク・ユダヤ教のシナゴーグとは類似点の少ない、多神教独自の神聖な神域であった。
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吉田松陰の処刑で、日本は幕末という激動の時代に突入した。
吉田松陰(松陰神社・靖国神社)「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
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徳富蘇峰「彼は多くの企謀を有し、一つの成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり」(『吉田松陰』)
原田伊織「松蔭とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。仲間うちでは知恵のまわるところがあって、リーダーを気取っていた。といっても、思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっち上げた虚像である」
「松蔭の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。れを実行するのが、彼のいう『大和魂』なのである。恐ろしいことは、長州・薩摩の世になったその後の日本が、長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松蔭の主張した通り朝鮮半島から満州を侵略し、カムチャッカから南方に至る広大なエリアに軍事進出して国家を滅ぼしたという、紛れもない事実を私たち日本人が体験したことである」(『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』)
吉田松蔭は、ある意味において孫文に似ているが、若くして処刑され非業の死を遂げ、長生きして醜態を晒さなかっただけに、日本人好みの「潔さ」や「清らかさ」を醸し出してる。
ロシア帝国の侵略という危機に直面した日本の歴史が、吉田松陰に日本を革新する使命を与え、革新を加速して暴走させる為にその命を生け贄として奪った。
吉田松蔭が目指した朝鮮・満州攻略策は、国際情勢を無視したアジア人同士の共食い(カニバリゼーション)ではなく、日本が生き残る為の最善の計略であった。
清国や李氏朝鮮への信義を守って日本を滅ぼす事は、愚策である。
ロシア帝国の侵略から日本を守る事を最優先とするならば、満州や朝鮮を支配下に収める事もやむを得なかった。
吉田松蔭が生きた時代とは、そうした弱肉強食の帝国主義時代であった。
吉田松陰は、時代の変革者として、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らに影響を与えら。
清国や李氏朝鮮には、時代が読める人間がついに現れず、時代に飲み込まれて滅亡した。
日本は、自分で考え、自分で行動を起こした。
清国は、自分では動かず、有能な他国人を金で雇って行おうとした。
李氏朝鮮は、親切心のある誰かが分かりやすく教えてくれ、手取り足取りと懇切丁寧に指導してくれるのを座して待っていた。
日本と李氏朝鮮・清国の違いは、今そこに迫っている安全保障上の脅威を真剣に感じているかどうかであった。
孫文は、日本を手本とし、日本人の協力を得て、中国を時代に合わせて変革しようとした。
それが、辛亥革命であった。
だが。孫文は、長生きした為に最後で敵味方の判断を誤り、中国をソ連に売り渡し、凶悪な共産主義勢力を中国に引き込んだ。
李氏朝鮮には、そうした人物がついに現れなかった。
吉田松陰は、日本人として日本にこだわり抜いて日本を変革しようとした。
考えや行動に短絡で短慮な点もあったが、目指した志において時代の先覚者であった事は紛れもない事実で有る。
そもそも人間とは不完全で、長所もあれば短所もある。
吉田松陰も、所詮は人の子である以上、完全無欠な偉大な教育者ではなかった。
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国家にしろ、人にしろ、相手に追い詰められ、これ以上逃げ場もないという窮地に立たされた時に、本気度の有る人間は屈服も妥協もせず自分と真剣に向き合う。
国家の一員あるいは組織の一員ではなく、一個の主体性を持った個人として、何をしたいのか、何ができるのか、何をするべきなのか、を真剣に考え始める。
そして、誰が本当の味方かを見極めようとする。
吉田松陰は、松下村塾の若き塾生達に、人は関頭に立たされた時に何を為すべきかを、「志」として伝えた。
窮地・困難にぶち当たった時、思考停止の馬鹿になり事なかれ主義的な安易な道に醜態をさらしながら逃げ込む事なく、むしろ飛躍する絶好の好機と捉えてとにかく一歩踏み出せと。
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国家が、国内外の情勢変化で政治や経済、外交や軍事が行き詰まった時、血を流すほどの変革が必要である。
イノベーション(革新)できない者は、国家であれ、組織であれ、個人であれ、生き残れない。
国家は、長年培ってきた独自の歴史、伝統、文化、宗教、風土、そして習慣、慣習、生活様式を共有する国民の集まりである以上、それらを暴力的に破壊し、全く異なる外国の価値観を無理矢理に移植する事は不可能である。
外国の制度が正しく最も素晴らしいとして採択し、此れまでの全てを時代遅れで無価値として排除し、反対を全て押しのけて採用すれば、何が起きるか分からない。
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似鳥昭雄(ニトリ社長)「私はと『お前は社会人として生きていけない』と言われてきた。だけど、短所が有るのが私の長所だったんです。
私は社員にと『短所あるを喜び、長所なきを悲しめ』言う。短所は、直そうとしても直るものじゃない。長所を探すうちに短所なんてカバーできるんです。今、ニトリは3,000店、3兆円という、次の30年目標に向かって動き始めています。
このような人生を送ってきた事で、徹底的に合理主義になった。自分自身が一生懸命働ければ、成功は手にすることは絶対にできないということが骨身に沁みています。
私の子供時代には、自分で使う日用品は、自分の稼いだお金で買うというルールがありました。お金はお袋が管理していたので、自由には使えなかった。いざ物を買うといっても、嗜好品や遊び道具は全部ダメ。一度だけ親を説得してグローブを買った時は、嬉しかったな。
ですが、従兄のカメラがうらやましくてねだった時は、ダメでした。父親から『お前には分不相応だ』とピシャリ。父親はよく『人は身の丈にあったものを買うべきだ』といっていた。」
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勝田政治(国士舘大学教授)「幕末の動乱は処刑半年後の桜田門外の変から始まると言ってもよく、つまり松陰は動乱前に命を終えている人なのです。その松陰が、幕末の志士達の象徴のように思われている理由は、教え子達による神格化が大きい」
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現代の反天皇反日派日本人は、反民族主義を掲げ、儒教価値観を有する中国や韓国とキリスト教諸国の外圧・内政干渉を利用して、尊王の「志」を否定し、勤皇の志士の「心」が眠る靖国神社を滅ぼそうとしている。
故に、国旗「日の丸」に起立して敬意を払わず、国歌「君が代」を歌わない様に子供達に指導する。
彼らは、にこやかに、言葉巧みに、天皇制度を破壊し日本を崩壊しようとする本心を隠している。
議論を持って相手を言いくるめるという話術が巧妙なだけ、心も信念も志もない日本人は、彼らに説得され洗脳されて同調している。それが、国民世論、民意とされている。
彼らの狙いは、日本文明の根幹である天皇・皇室の消去である。
つまり。自己満足的に自分の信念のみを通す為に、日本民族を無視し、日本国家を破壊し、日本文明を地上から消滅させようとしている。
決して、日本を住みやすい、平和な国にしようとしているわけではない。
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江戸後期。国交のないフランス皇帝ナポレオンの評伝やアヘン戦争の顛末やビルマ王家の悲惨な末路も、全国で書籍となって売られていた。
当時の日本は、イギリスに次ぐ出版部数を誇っていた。
それを読んでいたのは、欧米諸国の様なエリート上流階級でもなく、中国・朝鮮のようなインテリ特権階層・両班でもなく、名も無き下級武士や身分低き一般庶民であった。
幕府は、キリスト教国家の残虐な植民地戦争を知っていたし、国際的資本家による利益を独占する為の無慈悲な搾取や簒奪の手口も知っていた。
勤皇派が、欧米列強の侵略、植民地政策を直接的脅威と感じ、無力な幕府を打倒すべきだと決断したのは1861(万延2)年3月の「対馬事件」による。
老中安藤信行は、戦争回避の「話し合い」による弱腰外交ゆえに、翌62年2月に襲撃されて負傷した。坂下門外の変である。
勤皇の志士は、日本がキリスト教国の植民地になり、白人の奴隷にされるという危機感から立ち上がった。日本の自主独立を守る為に、神の裔・天皇を中心とした中央集権国家を建国し、祖国防衛の軍国主義国家に改造しようとしたのである。
当時の日本人は、人種や民族で人を分ける事を知らなかっただけに、国籍で分けていた。
ゆえに、ユダヤ人を、アメリカ人あるいはイギリス人と見ていた。
日本人には、古代より○○系アメリカ人、××系イギリス人などと人をその出身で区別し選別して差別する発想はなかったのである。
民族中心宗教を信仰する身分の低い庶民には、キリスト教やイスラム教の様な「絶対善」と「絶対悪」といった普遍宗教的偏見はなかった。
非日本人を、単に外人さん・異人さんと「人」として興味をそそられる愛すべき面白い相手にすぎなず、世界常識の優生学にもとずく人種差別する相手でも、殺したいほどの憎むべき商売敵でもなかった。
まして、正統派儒教の中国や朝鮮の様な攻撃的中華思想(偏狭的自己中心の排他的民族主義)がない為に、他国人や他民族や他宗教に対する憎悪から来る暴動や虐殺はなかった。
日本の歴史には、外国人や宗教に対する迫害や弾圧は少なかった。
ただし、神の裔・天皇を殺害し、神国日本を破壊しようとした敵意丸出しのキリスト教徒は処刑した。それが、世に悪名高いキリシタン弾圧である。
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日本には、画一化された唯一絶対神の普遍的価値観も、国際基準の世界常識もない。
ゆえに。日本が、リーダーシップを持って世界的な指導者になる事はありえないどころか、絶対に不可能であった。
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貝塚茂樹「尊皇攘夷の本を読んでいて気がついたんですが、日本人がイデオロギーと呼んでいるものは、西洋のイデオロギーじゃないんですね。ムード的な……。個人的なテンペラメント、そういうものをイデオロギーと呼んでいる。向こうでは、ぎっしりと論理的に構成されて、日本みたいに、明日になったらすっかり転向してしまうということはない。日本のイデオロギーは、イデオロギーと呼ぶに値せんですよ。……中国人は変わらんです。一度決めたらそんな容易に変わらんですよ。……日本語では、イデオロギーは成立しえないんですね」
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徳川時代。日本は、キリスト教を禁教として宣教師を追放していた為に、キリスト教諸国に侵略の口実を与える事がなかった。
西欧列強は、自国民の不法行為で日本人に殺害されて世論の支持は得られないと知っていただけに、日本への懲罰戦ができずにいた。
徳川幕府は、欧米列強との戦争を回避する為に、隠忍自重し多少の被害を覚悟して要求されたままの賠償金を支払い平和的解決に腐心していた。
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幕府は、祖法である鎖国政策を放棄して、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五ヵ国と修好通商条約を締結した。
外人居住民に限っての信教の自由を認め、居留地内にキリスト教会を建てる事を許した。1862年に横浜・天主堂が、1863年に長崎・大浦天主堂(フランス寺)が建てられた。
長崎市民は、キリシタン禁制下を長く生きてきただけにキリスト教に関心はなかったが、西洋風の天主堂に興味を持ち好奇心から参観に訪れた。
キリスト教会側は、天主堂に押しかける日本人の多さを見て、異教国日本での布教活動の再開と日本のキリスト教化に確信を持った。
プチジャン「天主堂は完成しました。人々は目を見張っています。塔の金色の十字架は長崎の町と殉教者の丘に向かって輝きわたり、子供も老人もフランス寺に出かけるのを楽しみにしています」
長崎奉行所は、国内法で定めている日本人に対するキリシタン禁制はそのままにし、隠れキリシタンが教会に立ち入って祈る事と、宣教師が居留地を出て隠れキリシタンと接近する事を禁止した。
幕府以前と、キリスト教は不寛容な絶対価値観で日本独自の宗教価値観を破壊し、日本を独善的な絶対神に捧げる為に奪おうとしていると警戒していた。
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幕府は、外国人船員が上陸し売春をして日本人女性の間で梅毒が拡大する事を恐れ、横浜、長崎、神戸に娼婦館(慰安所)と駆梅院を設置した。
イギリス軍医ニュートンは、性病感染予防の為に梅毒検査と治療を巡回指導した。
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1858年8月(安政5年7月) 日露修好通商条約締結。59年8月(安政6年7月)に批准された。
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1859(安政6)年 ロシア帝国の東シベリア総督ムラビヨフ・アムールスキーは、軍艦7隻を率いて品川に来航し、軍事力を見せ付け全樺太(サハリン)はロシア領であると威嚇した。
幕府は、領土を護る為に、不当な外圧に屈する事なく拒否した。
サムライは、如何なる強力な軍事力で脅されようとも一歩も引かず、守るべきモノの為ならば命を犠牲にしても戦争も辞さずの意気込みで外交交渉に当たった。
6月 横浜開港。
9月5日 井伊大老は、混乱の責任を岩瀬忠震に押し付けて左遷し、同時に開国派でも反井伊派と見做せば容赦なく処分した。
イギリスは、日本を低率関税の自由貿易陣営に引き込む為に、清国で辣腕を振るっ老練な外交官ラザフォード・オールコックを駐日総領事(任期1859〜5年)として江戸に送り込んだ。
イギリスは、自国に有利な条約を結ぶ為に、尊王攘夷派による外国人殺傷事件を利用した。
幕府は、外人保護の為に警備を強化しても攘夷派による事件が頻発した為に、イギリスなど機嫌を取る為に譲歩を行った。
国際外交において。相手の機嫌を取る為に、相手に配慮して譲歩する事は、外交の敗北として国益を損ねるもとであった。
イギリスは、外国人が安全に住める土地として横浜に上海並みの租借地を求めようとしたが、アメリカが同調しなかった為に失敗した。
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1860(万延元)年 幕府は、小判流出を食い止めるべく、金銀比価を1:15の国際標準に合わせるべく新通貨を大量に発行したが、貨幣による信用が低下して急激なインフレが起きた。
清国は、ロシア帝国の仲介で北京条約を結んだ。
ロシア帝国は、報酬として清国から強引に沿海州を割譲させウラジオストク(東方を征服せよ)を建設し、さらに南下した。
3月3日 水戸藩士など尊皇攘夷派は、登城しようとした井伊直弼を襲撃して殺害した。桜田門外の変
小栗上野介、勝海舟、福沢諭吉らが参加する遣米使団は、日米修好通商条約を批准する為に渡米した。
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コレラ騒ぎ。世界的に大流行している所で、外国船員よって日本に持ち込まれて瞬く間にに全国に蔓延した。江戸だけで、約3万人が犠牲となった。
ロシア帝国は、アジア侵略の為に日本の対岸にあるウラジオストークに東洋一の軍港を建設した。
ポーハタン号乗船した江戸幕府の使節団は、修好通商条約批准の為にハワイの立ち寄った。
カメハメハ4世は、白人の力が増し始めた事に危機感を抱いてきただけに、祖国を白人から守る為に礼儀正しいサムライ日本との関係を持つ事を希望した。
ハワイ人は、傲慢で不潔な中国人を嫌悪したが、清潔で礼儀正しいサムライ日本人には好感を抱いた。
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秋 清国の攘夷派は、イギリスの横暴に激怒して、一時ハリー・パークスら外交団を人質に取る事件を起こした。
幕府の代表は、ワシントンでアメリカ政府と日米修好通商条約を交換した際、大日本帝国の大君の使者と名乗った。
小栗上野介は、日米修好通商条約締結の批准交換の使節団の随行員としてワシントンに渡り、国外に大量の金が流出している問題を取り上げ、為替レート改善の為に両国の金貨分析を要求した。
アメリカ側は、格下の非白人国から為替問題等で要求される事に面食らった。
使節団は、日本側に不利と判っていても、欧米諸国の悪化させる事を心配して穏便に済ませよとした。
小栗上野介は、相手が如何なる国で両国関係が険悪になろうとも是々非々を貫き、何れが正しいかを明らかにするべく分析実験を強行して、日本の金貨の方が金含有量を証明した。
御身大切として、信念を曲げ、媚びへつらう事は、サムライとしてあるまじき卑しき行為とされた。
命を捨てても、襟を正し、筋を通す、それが誠の武士の生き方であった。
12月 アメリカ公使ハリスの通訳官が、薩摩藩攘夷派浪士に暗殺された。
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1861(文久元)年 第121代孝明天皇。武市半平太(靖国神社)は、勤皇の志士として「天皇親政による統一国家の建国」を掲げて、土佐勤皇党を結成した。中岡慎太郎(靖国神社)ら尊王攘夷派129人が参加した。
坂本龍馬(靖国神社)も、一時は参加したが、脱藩して脱退した。
多くの志士は、志中ばで死亡して靖国神社に祀られた。
南北戦争。62万人が犠牲となる。
北軍と南軍は、それぞれ捕虜仮収容施設を設けて敵軍兵士捕虜を収容したが、戦争の勝利を優先して食料や医薬品を送らず、多くのアメリカ人を敵と言うだけで飢えと病気で死亡させた。
2月 ロシア海軍軍艦による対馬軍事占領事件。
ロシア帝国海軍は、長州藩の目と鼻の先にある対馬を軍事占領し、軍港として使用する独占権を海軍力を持たない幕府に強要した。
対馬海峡を支配する為に、徳川幕府に対して対馬を植民地として割譲する事を要求した。
戦争を回避する為に、タイ方式の平和的解決方法を強要したのである。
国際外交で、軍事力を伴わない平和的話し合いなど存在しないのが常識である。
ロシア帝国の意図は、対馬の租借を認めさせ、将来は自国領に編入する事であった。
ロシア帝国は、世界各地でそうして領土を拡大していた。
もし。対馬租借が成功すれば、次ぎに狙うのは蝦夷・北海道の領有であった。
時代は、植民地化を正義とする帝国主義の時代である。
非軍事的な、粘り強い、誠意ある話し合いが通用しない「力の時代」であった。
ロシア帝国は、強大な軍事力を背景にして、対馬の開港と優先的使用権を求めた。幕府が外圧に屈すれば、次ぎに対馬を軍港要塞租借地として独占使用権を強要し、最後には全対馬をロシア領に割譲させる事であった。
歴史的に。日本は、古代から大陸の軍事的脅威に晒されていた。
親切心から、利益を捨てても日本を助けてくれる国は、地球上には存在しない。
それも、古代から変わらぬ歴史的事実である。
中国や朝鮮が、同情して、日本を助けてくれると思う者は歴史がわからぬ者である。
孝明天皇は攘夷論を主張したが、国内の外国人を皆殺しにする事を望んだわけではなく、神州日本を植民地支配しようとするキリスト教欧米列強の軍事力に屈しての開国を危惧されていたのである。
6月10日 アメリカ公使ハリス(民主党)は、スワード国務長官(共和党)に、病気を理由に辞表を送った。
イギリスは、アメリカに替わって日本での影響力を強めた。
ロバート・ブルインは、ハリスと交替して二代目公使として日本に赴任した。
スワード国務長官は、ブルイン公使に対して、南北戦争中であり、イギリスやフランスを南軍に味方させない為にも欧州諸国と協調するように訓令を与えていた。
ブルイン公使は、訓令に従い、ハリス前公使の日本宥和外交を改めイギリスの対日強硬外交に同調した。
7月11日 岩瀬忠震は、44歳の若さで病死した。
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