🏞104)─1─太平天国の乱・キリスト教の脅威と徳川幕府、吉田松陰、攘夷派そして明治維新。1851年。~No.406No.407 

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 1851~64(元治元)年 太平天国の乱。
 日本の攘夷派は、キリスト教の宗教侵略を恐れ、キリシタンの反乱に恐怖した。 
 日本の攘夷運動は間違ってはいなかったが、現代日本人には理解できない。
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 1840~42年   阿片戦争
 1853(嘉永6)年 ペリー黒船艦隊が浦賀に来航。
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 日本を開国・近代化に動かした原動力は、西洋列強の侵略である阿片戦争ではなくキリシタンの反乱でる太平天国の乱であり、外圧であったアメリカのペリー黒船艦隊ではなく異国の軍事侵略であったロシアの軍艦である。
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 太平天国の乱
 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (2021/10/11 23:58 UTC 版)
 太平天国と日本
 太平天国のことは、清国の商船及び朝鮮から対馬藩を通じて幕末の日本に伝えられた。当初、太平天国キリスト教が土着化して発生した反乱とは見られておらず、明朝の後裔が起こした再興運動だと日本人は思っていたとみられている。つまり満州族支配に反抗する漢民族という図式の民族紛争と捉えていたことになる。これは「滅満興漢」というスローガンが強調されたこと、 辮髪を落としていたことが原因である。清朝では「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」といわれるように、辮髪の有無がその支配を受容したか否かの基準となっていたためである。また農民など低階層が乱の主体であったという認識も希薄であった。この事は1854年前後に太平天国の乱をモデルにしたとみられる中国大陸を舞台とした明朝復興物語が講談・小説の形式で複数出版されている事からも分かる。
 しかし、『満清紀事』・『粤匪大略』といった書物が日本にもたらされると知識人層の太平天国に対し、好意的な評価は一変した。洪秀全が明朝の後裔ではないこと、キリスト教を信仰していることが伝わったためである。特に前者は朱子学的な大義名分論と正統論の点で嫌悪感を与え、後者は島原の乱を想起させ、幕末の世論に影響を与えた。太平天国への嫌悪感は、実際に乱を見聞した人々にも継承されていた。
 1859年にはイギリス領事(後の公使)オールコックから江戸幕府に対して、軍用馬の3千頭をイギリス軍へ売却してくれる様に要請があった。幕府も国内の軍事的需要を理由に当初は躊躇したものの、英仏両軍に1千頭ずつ売却する事に応じて翌年夏までに実施された(この前後の日本の輸出品の中には主力品である生糸や茶の他にイギリス・フランス軍のために用いられたと思われる雑穀や油などの生活必需品の輸出記録が目立っている)。更に太平天国の末期にあたる1862年6月2日(文久2年5月5日)、幕府の御用船千歳丸というイギリスから買い取った船が上海に到着した。
 交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本当の任務だった。江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていた。乗船していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩五代友厚長州藩高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならぶ。
 また、日本国内においては海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議が急速に高まる一因となった。早くも吉田松陰が「(奈良時代の)天平勝宝年間に唐の安史の乱に際して当時の朝廷が大宰府に非常態勢を布いて以来」の危機である事を著書の『清国咸豊乱記』で指摘している。こうした主張は薩摩藩の湯藤龍棟や古河藩の鷹見泉石らも同様の意見を相次いで唱えた。
 ただ辛亥革命前後から、太平天国への評価は再び持ち直した。これは中国本土でも同様であった。革命の立役者孫文太平天国に深く傾倒していたことや、キリスト教信仰が明治維新以後解禁されたことから抵抗感が薄れたためであろう。洪秀全たちは長崎から亡命した大塩平八郎が名を変えたもので、その後太平天国の乱を起こしたのだ、という珍説まで一時流布した。
 太平天国と日本との逸話は、世界恐慌時代にもあった。洪秀全の郷里広州花県に、1930年代(年不確定)に日本軍から洪秀全の子孫だという兵士が二人訪れたという話がかの地に伝えられている。これは日本軍の宣撫工作であったと思われる。
 また、中国の王暁秋や日本の広沢吉平らは、欧米列強が清と同様に開国したばかりの日本でも太平天国の乱と同様の民衆反乱を誘発する事への危惧から、明治維新前後の日本国内の戦乱に対して直接的な軍事介入を行うことなく、結果的には列強が日本を植民地化する機会を逸したとする説を唱えている。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「魏源」の解説
 魏源 ぎげん
 (1794―1856)
 中国、清(しん)代後期の思想家。字(あざな)は黙深。湖南省邵陽(しょうよう)県の人。1845年(道光25)の進士。若くして陶澍(とうじゅ)(1779―1839)、林則徐(りんそくじょ)ら改革派高官の幕友として活躍、アヘン戦争にも参加し、晩年は太平天国の乱軍とも戦った。彼は最初漢学と宋(そう)学を学んだが、のち劉逢禄(りゅうほうろく)に師事して春秋公羊(くよう)学を自己の学問的基盤とした。しかし、彼は劉逢禄の重んずる何休(かきゅう)の学説よりも、微言大義を説く董仲舒(とうちゅうじょ)の所説を重視した。それは、後漢(ごかん)の経学よりも前漢のそれのほうが優れているという西漢今文(きんぶん)学的認識に基因する。この意識は『詩古微(しこび)』『書古微』『公羊古微』『春秋繁露注』などの経学的諸作によって表彰されうる。また、微言大義を重視する経世致用的な学風は、アヘン戦争太平天国の乱など当時の中国の緊迫した社会情勢の影響も相まって、『聖武記』(清朝の歴史)、『海国図志』(海外諸事情の紹介)などの優れた政治論を生んだ。
 とくに、『海国図志』は日本でも翻刻(ほんこく)され、佐久間象山(さくましょうざん)、吉田松陰(よしだしょういん)らの幕末の志士に影響を与えた。事物を客観的、実践的に把握し、それを具体的に政治に応用して、現実を変革すべきであると説く点は、時流を抜く観がある。彼の学問的領域は、先秦(せんしん)諸子、仏教にも及んでいる。文集に『古微堂集』がある。
 [石黒宣俊 2016年3月18日]
 [参照項目] | アヘン戦争 | 董仲舒 | 林則徐
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 精選版 日本国語大辞典「魏源」の解説
 ぎ‐げん【魏源】
 中国、清代末期の学者。字(あざな)は黙深。湖南、邵陽の人。経世実用の学と史学に興味をもち、春秋公羊(くよう)学を根幹にすえ、中国社会の内部的崩壊と、西欧列強の圧迫による民族的危機とを自覚して、多くの書物を著わす。特に、「海国図志」は幕末・明治初期の日本の知識階級に影響を与えた。(一七九四‐一八五六)
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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 日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義共産主義イデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
 明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
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 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事力による軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
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 清国の阿片戦争は、1841~42年であった。
 アメリカのペリー黒船艦隊の浦賀来航は1853年である。
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 吉田松陰の思想と弟子たちによるその実現
  ― 150 周年のいま思想の時代として明治維新を考える ―
 関西学院大学経済学部 原田ゼミ3回生(第 4 期生)
 深見樹・梶田将暉・山下舜介・小林和佳・原田健太
 2018 年 11/10 関西学院大学経済学部 インゼミ大会にて
 はじめに
 序 章 吉田松陰自身の思想
  第 1 節 天皇中心の日本という観念による西欧列強への対決
  第2節 天皇の下での平等という観念をベースにした革命的な倒幕運動の思想
  第3節 軍事・兵器を中心とした、欧米の優れた技術の移入
 第 1 章 木戸・山県・高杉・久坂・富永による西洋列強への対決と倒幕運動
   第1節 西洋列強への対決
  第2節 討幕運動
 第 2章 新政権形成期と維新後での木戸・伊藤・山県の業績とそこでの松陰思想の実現
  第1節 木戸(1877 年没)の業績と松陰思想の実現
 1.木戸の業績
 2.木戸の各業績に見られる松陰思想の実現
   第2節 伊藤(1909 年没)の業績と松陰思想の実現
 1.伊藤の業績
 2.伊藤の各業績に見られる松陰思想の実現
  第3節 山県(1922 年没)の業績と松陰思想の実現
 1.山県の業績
 2.山県の業績に見られる松陰思想の実現
 結 論――松陰思想の何が実現されたのか? その成果と危険性は?
 補 論 幕末・明治維新期の女性たち
  1.幾松
  2.広岡浅子
  3.津田梅子
 まとめ
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、神の宗教的民族神話と人の科学的民族伝説の二つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻す為にムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「」天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 つまり、民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、数万年生きてきた日本民族の歴史的叡智の結晶である。
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 天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者とは、日本民族であり、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
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 日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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