🌏6)─1─ロシアのアジア政策の要は日本海の内海化(ロシア海)であった。ロシア兵による虐殺事件。~No.11No.12No.13  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本にとって、ロシア・中国・朝鮮は平気で嘘をつく為に信用できず、大陸人は猟奇的虐殺を繰り返す危険性がある為に警戒すべ人間であった。
 当時の日本人は、「人を見たら泥棒と思え」を忘れてはいなかった。
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 2022年7月号 歴史街道「幕末から日露戦争へ・・・戦略を左右した『大国ロシア』の幻影
 日本とロシアの国交は、幕末から始まった。衝突の絶えない印象のある両国だが、当時は『同盟論』も出ており、日本人の対ロシア観は決して一様ではなかった。そして日露戦争に至るまでの日本の対露戦略の変遷をたどると、日露関係の知られざる側面が浮かび上がってくる。
 麻田雅文
 【三つの対露戦略】
 幕末から日露戦争までの対露観を俯瞰(ふかん)しつつ、最終的に日本人が日露開戦を選んだ背景をたどるのが、依頼されたテーマだ。結論からいえば、この時代の日本人は、畏怖の裏返しで、ロシアの軍事的能力を過大評価しがちだった。そしてその幻影が、対露戦略に大きく影響する。
 ペリーの黒船来航と同じ嘉永6年(1853)、ロシアのエフィーミー・プチャーチン提督が長崎に来航し、日本との条約締結を申し出た。その結果、安政元年12月21日(1855年2月5日)に、日露和親条約(日魯通好条約)が締結される。
 幕府は、恫喝的なペリーよりも、平和的な交渉に徹したプチャーチンが好まれた。しかし、幕末の志士たちは、ロシアへの警戒を解かない。
 開国から間もなく、維新後にも影響する対露戦略が練られる。それは主に三つに分類できます。
 第一に、ロシアから領土を奪い、日本の国勢を拡大してゆく発想。提案者は吉田松陰である。安政元年(1854)、プチャーチンとペリーの両艦隊への密航に失敗し、松陰は投獄された。牢屋で松陰は、密航を振り返る『幽囚録(ゆうしゅうろく)』を記した。その中に、次の激越な文言がある。

 今急いで軍備をなし、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、蝦夷(北海道)を開墾し、諸藩主に土地を統治させ、隙(すき)に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球(沖縄)も日本の諸藩主と同じように幕府に参勤させるべきである。また朝鮮を従わせ、北は満州から南は台湾・ルソン(現在のフィリピン北部)の諸島まで一手に収め、次第次第に進取の勢を示すべきである(奈良本辰也編『日本の思想[19]──吉田松陰集』筑摩書房)。

 松陰は、北海道をうかがう北方に、ロシア帝国が一大軍事拠点を築いているのでは、と恐れていた。もしロシアがそこに、『十分に兵隊を集め、軍艦を備えれば、その禍(わざわい)が日本に及ぶのは、時間の問題』とも記している。だから攻められる前に攻めよ、という発想だ。
 第二は、ロシアとの友好関係に国益を見出す論だ、幕末には支持者が少なくない。中でも有名なのは橋本左内だ。安政4年(1857)に、親友に宛てた手紙で次のように記している。
 
 日本は、とても一ヵ国では独立できない。もし独立しようとすれば、山丹({さんたん}シベリア)、満州、朝鮮を併合し、アメリカやインドに領土を持たなくては不可能で、いまはとても難しい。というのも、インドはイギリスが、山丹はロシアが領土としつつある。いまの日本では国力も不足だ。とうてい西洋諸国の兵と敵対し、毎年戦争を続けることなどできない。むしろ、同盟国になったほうが良い(佐藤昌介ほか校注『日本思想大系[55]──渡辺崋山高野長英佐久間象山横井小楠橋本左内岩波書店)。
 
 日本はその周囲に領土が無ければ、本土が防衛できないというのは、松陰と同じだ。しかし、海外の領土獲得は無理だから、『信義もあり、かつ隣国で、密接な関係のる』ロシアと同盟しようという。
 松陰も左内も、安政の大獄安政6年(1859)に処刑され、彼らの対露戦略は、同時代に日の目を見なかった。再評価されたのは死後だ。
 松陰の膨張論は、日露戦争後、大陸進出を正当化するのに援用された。一方、左内の同盟論は、同郷の福井出身で日露協会副会頭の加藤寛治海軍大将によって、1930年代に日ソ接近を正当化するのに引用されている。
 これに対し、明治政府に継承された第三の道が、薩摩藩主の島津斉彬が提唱した漸進論である。仮想的のロシアに、北海道の開拓で対抗してゆく考えだ。以下は安政2年(1855)、家臣に語った言葉とされる。

 ロシアは世界に覇(は)を唱えるため、まず蝦夷地に手を出し、次に支那(中国)に足を踏み入れるだろう。これを防ぐのに、兵力を用いるのは下策だ。開墾して日本人を植民し、日本の領土と明らかにすれば、いかに強大なロシアも、みだりに手を出さない。これが上策だ。海産物などが多い蝦夷地は、『日本の宝蔵(ほうぞう)』である。これをロシアに奪われるのは、恥辱なだけではなく、大損だ(市来四郎編『島津斉彬言行録』岩波文庫)。

 維新後には、西郷隆盛黒田清隆、永山武四郎、五代友厚といった元薩摩藩士が、北海道の国防と開発をリードしてゆくが、そこに斉彬の薫陶を見ることもできよう。
 【友好を深めた10年間】
 成立間もない明治政府にとって、対露外交の懸案は、日露和親条約で雑居地(ざっきょち)とされた樺太(サハリン)で、両国民のいさかいが絶えなかったことだ。いつの時代も、国境の未確定は外交問題になる。
 そこで、明治8(1875)年5月7日に、樺太・千島交換条約が調印される。この条約で、樺太は全島がロシア領、千島列島は全て日本領となった。これにより国境が確定し、日露間は凪(なぎ)の時代を迎える。
 領土問題の解決の他に、この時代に両国の関係を促進した要素が三つある。
 一つは、皇室外交の発展だ。すでに明治政府が発足して間もなくから、日露の皇族の相互訪問は盛んだった。こうして生まれた交流が、双方の君主に好印象を生む。特にロシア皇帝は、専制君主として強大な権力を行使するだけに、その好意を得たのは大きい。
 二点目が、ロシア正教の布教活動だ。後に日本の正教会を牽引(けいいん)するニコライ・カサートキンが、箱館のロシア領事館付司祭として来日したのは、文久元年(1861)である。以来、東北地方の元士族を皮切りに、全国で信者を増やした。明治17(1884)には、信徒は1万人を超え、毎年の受洗者も1,000人を超えた。正教徒の増加は、それだけロシア文化へなじむ者が増えた証(あかし)でもある。
 文化といえば、ロシア文学の翻訳が本格化するのもこの頃だ。イワン・ツルゲーネフ作の小説『あいひびき』が発表されたのは、明治21年(1888)である。訳者の二葉亭四迷は、ロシア文学の翻訳を通じて、近代日本語文学に革命をもたらした。19世紀末のロシアでも、日本文化が流行し、『ヤポニズム』と総称された。文化というソフトパワーが持つ力は、現代でも侮(あなど)れない。
 【朝鮮をめぐる両国の思惑】
 ロシアに対する脅威論が再燃するのは、1880年代後半だ。当時、朝鮮半島をめぐる国際情勢は緊迫の度を増していた。日本と清朝(しんちょう)は、朝鮮を自国の勢力圏に置こうと努める。そこに、世界各地で起きていた英露の対立、いわゆる『グレートゲーム』が絡み合う。
 明治18年(1885)3月、ロシアがアフガニスタンに侵攻すると、イギリスは隣り合う自国の植民地、インドへの脅威と感じた。そこでイギリスは、極東からロシア艦隊が南下して、朝鮮海峡を通過するのを遮断しようと、同年4月に、済州海峡に位置する巨文島を占領した。
 この占領中にイギリスは、朝鮮がロシアに港を与える密約を知る。朝鮮は、日清に対抗するため、ロシアの力を利用しようと考えていた。そのためイギリスは、アフガニスタンの問題が解決しても、明治20年(1887)3月まで巨文島を占領し続ける(大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争立風書房)。
 事件発生後、対馬を視察し、対露方針をまとめたのが山県有朋だ。明治21年1月の『軍事意見書』には、有名な一節がある。英露がもしインドの境(さかい)で干戈(かんか)を交えれば、ロシアはシベリア鉄道によって、すぐに大軍を派遣して朝鮮を侵略し、戦略上、重要な地点を占領し、インドとの境界でイギリスと雌雄を決するだろう、と。山県は、シベリア鉄道竣工(しゅんこう)の日が、『即(すなわ)ち露国が朝鮮に向けて侵略を始める日』だと警告した(大山梓編『山県有朋意見書』原書房)。
 実際は、ロシア側の朝鮮への野心は希薄だった。明治21年5月に、ロシア極東を治めるプリアムール総督と、ロシア外務省アジア局長が開いた特別会議で、『朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすであろう』との結論に至っている。さらには、清朝による朝鮮出兵を恐れて、日露両国で清朝へ対抗する構想が練られた(佐々木揚編訳『19世紀末におけるロシアと中国──「クラースヌィ・アルヒーフ」所収史料より』巌南堂書店)。
 しかし日本の政治家たちは、ロシアの朝鮮半島を狙っているとの前提で、外交を組み立てる。
 青木周蔵外相もその一人だ。明治23年(1890)5月の意見書で、朝鮮の海港を狙うロシアに対抗するため、日本は清朝と手を結ぶように記した。そして、東経124度を境に、シベリアを清朝と東西に分割した上で、朝鮮半島満州カムチャツカ半島に至る地域を、日本の領土とするよう提案した(外務省編『日本外交文書』第23巻、巌南堂書店)。
 明治24年(1891)5月、ロシアの皇太子ニコライが、訪日中に斬りつけられる大津事件が起きると、青木は外相辞任を余儀なくされた。日本滞在を切り上げたニコライは、ウラジオストクに向かい、シベリア鉄道の起工式に臨んだ。
 そもそも朝鮮を奪取するため、ロシアは9,000キロを超える鉄道を敷設(ふせつ)したのだろうか。
 答えは否(いな)だ。文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
 そうしたシベリア鉄道の役割を見抜いたのが、『国民新聞』の記者、平田久だ。三国干渉によりロシア脅威論が高まる中で、こう説いた。
 
 シベリア鉄道が完成しても、ロシアは15、6万しか兵力を極東に送れない。そのためロシアは朝鮮や満州、日本への圧迫を加えられない。しかし、この鉄道でシベリアへ植民し、その豊かな資源を開発し終えたら、最も恐るべきアジアの大勢力になる、と(平田久『露西亜帝国』民友社)。
 この予想は、部分的に当たる。日露開戦直前の明治37年(1904)1月、ロシア軍は極東に9万8,000人弱を有した。だがシベリア鉄道は輸送力に乏しく、開戦後の同年4月末になっても、13万3,000人まで増やせただけだ。もっとも、必死の挽回で、終戦までに129万人を超える兵力が極東へ輸送された(横手慎二『日露戦争──20世紀最初の大国間戦争』中公新書)。
 なお、日本国民の間で、ロシアへの敵視が決定的となったのは、通説では明治28年(1895)の三国干渉だとされる。日清戦争で勝利したが、露仏独の威圧で、遼東半島清朝から獲得できなかった。これが国民を憤激させる。
 しかし、陸奧宗光外相に見出されて、外務省に勤めた小松緑は、国際関係ではこうした干渉は特殊ではないと、冷静に見ていた。
 その後、朝鮮半島に関する日露交渉が10年間も続けられたのは、日本が軍備を整えるために『臥薪嘗胆』とされるが、ロシアが『現実的な政策面での折り合いがつけうる国として認識』されていたからでもある(黒沢文貴『江戸・明治期における日本の対露イメージ』下斗米伸夫編著『日ロ関係 歴史と現代』法政大学現代法研究所)。
 結局、日本が外交交渉に見切りをつけ、ロシアと断行したのは、明治37年2月6日である。明治政府が戦争の火蓋を切るのを最後までためらったのは、外交に最後まで期待したのが一点。もう一つは、元老たちが『大国ロシア』に勝つ自信が持てなかったためだ。
 現在も、20世紀初めと同じく、ロシアを安全保障上の脅威とみなす世論が盛り上がっている。しかし、虎視眈々と南下を狙う『大国ロシア』のイメージだけでは、その意図や実力を冷静に評価できない。過小評価も過大評価も避け、等身大のロシアを知ることが、まずは肝要だ。」
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 令和4年8月号 正論「激動する世界と日本の進路 桜井よしこ
 ……
 先日、駐日ウクライナ大使のセレギー・コルスンスキー氏にお会いしました。大使が冒頭、きっぱりおっしゃるんです。
 『我々はどれほどの犠牲者を出そうとも、どれほどがれきの山になり果てようとも、戦いをやめない。戦いをやめて、敗北したらウクライナ民族は滅びる。ウクライナという国はなくなるんです』
 ……
 仮にウクライナが東側の2つの州とクリミア半島を譲ったとします。そうしたら全てそこで終わるだろうとアメリカも考えるでしょう。日本の方も考えるかもしれません。しかし、そこでは絶対に終わりません。必ずロシアはその次にまたでてくる。もっと多くを要求してきます。そしてウクライナを獲り尽くします。
 ……負けるわけにはいかない。必ずどんな犠牲を払っても国を守る、と大使は力説しました。……
 ……
 次ぎに駐日ポーランド大使、パヴェウ・ミレフスキ氏にお会いしました。……
 『なぜこういうことができるんですか』と私は聞きました。大使はい言いました。ポーランドウクライナも、そしてバルト3国もフィンランドスウェーデンもみんなロシアのことを分かっています。どれほど冷酷で、残酷な国であるか。どれほど嘘をつくか、そして人の命をなんとも思わない、町を壊すこともなんとも思わないか。我々はそれをたいけんしてきている。ポーランドは国家として存在しなくなった、消滅させられたことがあるんです、ソ連ナチス・ドイツに攻められて、と。
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 価値観の戦い
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 中国の習近平国家主席とロシアのプーチン大統領は本当に似た者同士です。……
 彼らの共通点はまず第一に嘘をつくことです。嘘の中には歴史を捻じ曲げるというのもあります。国際社会に嘘を広げてこの嘘を真実にしたというのであります。
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 ロシアも嘘を言います。……本当に中国とロシアは嘘をつく、その中でも歴史についての嘘は身勝手です。
 中露は歴史に恨みを抱いている国です。自分たちは他国に侵略された、傷つけられた、奪われたと。中国の場合、その恨みの対象が主に日本であるということを認識しないといけません。
 ……」
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 日本への侵略の種類は3つあり、隣国の軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、共産主義イデオロギー侵略である。
 日本は外敵による侵略から祖国防衛として、天皇中心の皇国史観愛国心天皇制度による攘夷運動で立ち上がり、天皇主義、民族主義軍国主義で一国だけの孤独な戦いを続けた。
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 日露戦争は、江戸時代後期から避けられない宿命的な戦争であった。
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 大日本帝国(軍国日本)が行ってきた大陸での日清戦争日露戦争日韓併合・シベリア出兵は全て国防戦略として行われた積極的自衛戦争であった。
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 ロシア兵によるロシア・アムール虐殺事件。
 ウィキペディア
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
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 ロシアが日本を侵略する時は、元(蒙古)高麗2ヵ国連合軍の元寇と同じように、ロシア(ソ連)・清国(中国)・朝鮮の3ヵ国連合軍を組織した時であった。
 マッカーサーは、朝鮮戦争北朝鮮中国共産党政府2ヵ国連合軍と戦った時に初めて日本が置かれて来た安全保障上の危機的状況を理解した。
 そして、東京裁判満州事変以前の軍国日本が行った大陸戦争を戦争犯罪として訴追する事を断念したのもこの為であった。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
 つまり、ロシアは日本との戦争など望んではいなかった。
 ロシアにとって、華やかな正面玄関はヨーロッパ・バルカン・中東であって、日本・中国・朝鮮などのアジアは地味な裏口の雑木林に過ぎなかった。
 裏口は裏玄関でなかった。
 裏口は表玄関の影響を受けていたが、表玄関は裏口の影響を受けなかった。
 日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬樺太を手に入れ旅順・対馬ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
 つまり、陸と海の面を支配する為に点と線を戦略化する事であて、植民地化ではあっても領土拡大ではなかった。
 大陸国ロシアにとってアメリカとイギリスが支配する北太平洋航路など関心がなく、興味もなかった、それ故に領有にこだわった千島列島を樺太との交換で惜しげもなく手放したのである。
 日本の潜在的敵である清国(中国)、朝鮮は、対日本戦略から、ロシアによる日本海の内海化計画に協力していた。
 それ故に、徳川幕府佐幕派も朝廷・倒幕派もロシアに対する「攘夷決行」の為に大艦隊の急造を真剣に考えていたが、清国と朝鮮をどう処分するかで幕府の同盟論と朝廷の討伐論の2つに意見が割れていた。
 現代の日本人には理解できない。
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 朝鮮がアジアの火薬庫となったのは、明治10年代中頃に朝鮮とロシアとの間に結ばれた密約からであった。
 朝鮮人は、世界情勢が理解できない稚拙な考えで子供ように火薬庫の上で火遊びを始めた。
 当時の朝鮮王国・朝鮮人の能力はその程度で、その低能さによって悲劇的な戦争が誘発され連鎖的に連続して起きていった。
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 ロシアは、朝鮮を領土化若しくは植民地化する事は不利益でありバカげているとの結論に達していた。
 その意味で、「日本は朝鮮を救った」はウソである。
 その意味する所は、日韓併合で日本が不利益を被り、その後遺症が現代まで足枷・手枷・首枷のように日本を苦しめている事を見れば明らかである。
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 日露戦争は避けられた、日本の領土拡大目的の侵略戦争であった、という歴史書は信用しない事であり、そうした内容の歴史小説は読まない事である。
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 現代日本の国際的良識派は、大国ロシアと戦争をすれば甚大な犠牲・夥しい死傷者が出る事は分かっていたのだから、無駄で無益な戦争を避ける為に話し合い外交努力を続け、最後には平和と人命を守る為にロシアの要求を受け入れ譲歩し妥協すべきだったと、子供達に教えている。
 その象徴的な現象が、「ロシアのウクライナ侵略に対してウクライナは国民の命を救う為に降伏し、領土の一部をロシアに譲渡すべきであった」という反戦平和発言であった。
 反対する日本人は2割、賛成する日本人は3割、決められない日本人は5割。
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 現代でも当時の世界地図でも東アジア地図だけでも見れば、ロシア軍による日本侵略の進撃ルートと日本が取るべき積極的防衛戦略は、子供でも分かる。
 それが読めない・見えない・分からないのが、平和はおろか戦争さえ理解できない現代の日本人である。
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 ロシアの日本侵略とは、不凍港を求めた南下政策ではなく、太平洋に出る為でもなく、まして日本占領ではなく、日本海をロシアの内海として支配する事で、その為には北のサハリン(樺太)と南の対馬を日本から強奪する事であった。
 その証拠が、1854年に起きたロシア軍艦対馬不法占拠事件で、ロシア側は軍事的恫喝で対馬の港の借地権を要求した事である。
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 ロシア戦略は、日本を軍事征服るほどの大軍団や大艦隊を極東に配備できない分、対馬に半永久的軍港要塞都市を建設して日本海の入り口を封鎖して日本海航路を支配する事であった。
 例えるなら、対馬対馬海峡朝鮮海峡黒海エーゲ海を結ぶボスポラス海峡ダーダネルス海峡である。
 日本海の内海化として、明治8(1875)年に樺太・千島列島交換条約で樺太全島を手に入れたが、冬には日本海に面した西南部海岸線が流氷に覆われて使用不能になる為に軍港要塞都市は建設できなかったが、樺太を手に入れた事で日本海の北の口であるる間宮海峡宗谷海峡を押さえる事ができ、残るのは南の口である対馬海峡朝鮮海峡であった。
 その為に戦われたのが、日本海海戦であった。
 日本海への出入り口の1つである津軽海峡は塞げず、塞ぐには日本との戦争に勝って函館をロシア領にする必要があった。
 つまり、日本海のロシア内海化には北の樺太間宮海峡宗谷海峡、東の函館の対馬海峡、南の対馬対馬海峡朝鮮海峡を手に入れる事で、その為に日本との戦争は避けられなかった。
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 日本にとって日本海航路とは北前船航路であり、日本に莫大な富をもたらす蝦夷地からの大動脈航路であった。
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 徳川幕府が弱腰話し合い平和外交で、ロシアとの戦争を避ける為に対馬の租借権を認めれば何れは対馬全島がロシア領となったであろうし、それを見ていたイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ドイツ・ベルギーなどの西洋列強諸国そして中国や朝鮮はロシアにならって欲しい本州4島以外の離島を日本から奪っていったであろう。
 その結果、最悪、日本国家は平和を守る為に消滅したかもしれない。
 その意味で、現代日本は日本を守り通した徳川幕府に感謝すべきである。
 故に、大国ロシアの侵略に対して如何なる犠牲者を出しても徴兵制で徹底抗戦して祖国を守っている小国ウクライナの戦争は、正しい戦争・正義の戦争である。
 だが、現代の日本人は江戸時代後期に起きていた歴史的事実が理解できない。
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 世界の常識では、天才的軍略戦術家ナポレオンが率いる常勝軍フランス軍を破ったロシアが本気で非白人非キリスト教国の日本を攻撃すれば楽勝し、日本を占領して、ロシアの領土か植民地とし、日本人を農奴にするであろう、であった。
 つまり、小国日本が武士精神で弱小軍隊・小艦隊を率いて巨大国ロシアの大軍団・大艦隊と戦って勝つとは、常識人であれば誰も考えなかった。
 それ故に、朝鮮は中立を宣言しながら密かにロシアに味方して日本軍の軍事情報をロシア軍に流していた。
 清国(中国)は、ロシアとの間で対日秘密軍事協定を結び、日本軍が敗走すれば日清戦争の屈辱戦として攻撃する手はずを整えていた。
 歴史的事実として、日本にとってロシア・中国・朝鮮は敵であった。
 この歴史的事実が、現代の日本人には理解できない。
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 明治政府は、近代国家として日本国籍を有するアイヌ人を保護する責任があった為に、樺太・千島列島交換条約に伴い樺太居住するアイヌ人(樺太アイヌ人)で日本国籍を希望する者を強制的に日本に移住させた。
 それは、ロシアとの戦争で日本国籍アイヌ人がロシア軍に捕らえられ、人の盾に利用されて日本軍の進軍・攻撃の障害になる危険を未然に防ぐ処置であった。
 祖先からの地に拘った樺太アイヌ人は、ロシア国籍アイヌ人として樺太に留まった。
 日本人になるかロシア人になるかは、樺太アイヌ人の自由意志であった。
 日本側がもし樺太アイヌ人の意思を無視して日本に強制移住させれば、樺太アイヌ人は日本への敵意を抱き、日本とロシアとの戦争時に日本の敵に回ってロシアに味方する危険性があった。
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 結果から見て、日露戦争時、日本は狼に率いられた羊の群れであり、ロシアは羊に率いられた狼の群れであった。
 現代に例えれば、現代の日本は羊に率いられた羊の群れで、羊たちは羊の平和・幸福を守る為に時折現れる味方の狼を異分子として排除している。
 率いる羊とは、左翼・左派・ネットサハ、護憲派人権派らの第9条日本国憲法信仰者である。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
 1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
 1806年 文化露寇。
 1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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 1689年 ネルチンスク条約ロシア帝国清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
 1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
 1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
 ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
 ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
 ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
 明治8(1875)年 樺太・千島交換条約明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
 日本側の戦略的利点は、ロシア海軍ウラジオストク樺太日本海内に封じ込め、宗谷海峡津軽海峡対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
 ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
 日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬樺太を手に入れ旅順・対馬ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
 1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
 ロシアは1861年の農奴解放以来、農村に余剰労働力を抱えていた。
 解放された農民の不満の高まりは、放置しておく事はロシアにとって命取りになる。
 そこで、シベリア鉄道沿線に農民を入植させ開墾を促進するのが最大の目的であった。
 対して、日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
 イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
 日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
 日本の戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義自衛戦争であった。
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