🏞114)─1・B─坂下門外の変。生麦事件。薩英戦争。アメリカの中国人が経営する売春施設に売られた数十名の日本人女性。1862年~No.448No.449No.450 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アメリカは、白人至上主義による、人種差別と貧富の格差の移民社会である。
 そして、自分に都合が良い相手に都合の悪いルールを勝手に作って、相手の迷惑にお構いなしに押しつけていた。
 それが、アメリカ流ダブルスタンダードである。
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 戦国時代。白人キリスト教徒は、神の御名によって、日本人を奴隷として世界中に売っていた。
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 ツルゲーネフ「ロシア語 
 疑いの日にあっても、祖国の運命を思い悩む日において ─ 汝だけが我が杖であり、我が支えである。
 おお偉大にして力強く、真実にして自由なるロシア語よ、もし汝なかりせば、国の内に行われている全てのものを見るに付け、どうして絶望に陥らずにいられようか。
 だが私にはこのような言語が偉大なる国民に与えられないとは信じられないのだ」
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 1860年頃 外国人によって数十名の日本人女性が「拉致」され、中国人の人身売買業者によって、東南アジア経由でアメリカの中国人経営の売春施設に売られていたといわれている。
 中国人労働者がいるところには、必ず、中国人の人身売買業者やアヘン密売業者などの中国系秘密犯罪結社が存在する。
 中国人商人は、金になる事ならば、殺人であろうと、アヘンであろうと、誘拐であろうと、人身売買であろうと、どんなに汚い事でも人に見付からなければ平然と行った。
 古代から、日本は四方を海に囲まれて無防備であった。
 昔から。日本の各地に、突然人が消えるという事件が、「神隠し」や「天狗に攫われた」という名で残されている。
 日本人の中にも、自分の金儲けの為に、他人の女子供を攫い売り捌く人身売買業者がいた。それが、女衒である。
 人種差別国家アメリカは、異教徒非白人を嫌悪し、人ではなく獣と見なして、人権を認めず奴隷として死ぬまで扱き使った。
 商才があり如才のない賢い中国人は、下僕として白人に忠実に仕え、喜んでキリスト教に改宗してキリスト教会の庇護を受け、白人の利益を上げる為に身を粉にして働いた。
 儒教価値観の中国人は、階級意識が強く、自分より下位の者と見るや同胞でも容赦なく牙を剥いた。
 中国人は、犯罪組織として疑似家族的秘密結社を作って凶暴に暴力を振るったが、攻撃対象者は白人以外の有色人種であった。
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 オーストラリアのイギリス人移住者は、地元住民を人間ではなく獣とみなし、カンガルー同様の狩猟対象として殺害していた。
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 1862年 文久遣欧使節団(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)。総勢36名。正使・竹内下野守保徳。副使・松平石見守康英。目付・京極能登守高郎。組頭・柴田貞太郎。その他、福地源一郎、福沢諭吉松木弘安寺島宗則)。後日、通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。
 竹内保徳は、ロシアに赴いて樺太国境画定交渉を行ったが、日本側の北緯50度とロシア側は北緯48で揉めて合意に至らなかった。
 幕府内の攘夷派は、朝廷と幕府が協力して国難に当たるべきであるとして公武合体を主張した。
 孝明天皇も、外国を排除する為に和宮徳川家茂への降嫁を望んだ。
 過激な尊王攘夷派は、外国を完全排除する為に軟弱となった幕府を斃すべきであると息巻いた。
 外国人は、指定居留地の外に出始めるた。
 白人至上主義者の商人や荒くれ者の船員は、人種差別から、非白人で非キリスト教徒の日本人との間にトラブルを起こし始めた。
 領事裁判権は、居住地以外でも適用され、被害を受けた日本人は泣き寝入りをさせられて社会問題となり始めた。
 攘夷派は、世界の支配者面をして我が物顔で暴虐を繰り返す白人への敵意を剥き出しにして、白人への殺傷事件を起こしていた。
 熊本藩主・横井小楠は、「国是七条」という国策に関する意見書を幕府に提出し、古代から伝わる日本式民主主義で日本の国情に合った政を行うように力説した。
 「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」
 この「私」を排した「公」で天下国家を論じ合うという公議政体論が、後の「五箇条の御誓文」となる。
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 2月13日(文久2年1月15日) 坂下門外の変。老中安藤信(陸奥国磐城平藩主)正は、尊皇攘夷派に知られないように極秘に処理したが、江戸城坂下門外で水戸藩脱藩浪士の襲撃に遭い失脚した。
 徳川幕府は、小笠原諸島を日本領として回収するべく威臨丸を派遣し、父島と母島に入植していた外国人に軍事力を見せ付けて強制退去させた。
 帝国主義時代に、信念なき気弱な「話し合い」で領土交渉を行えば小笠原諸島は奪われていた。
 ロシア帝国は、小笠原諸島帰属問題で、幕府側が戦争覚悟で強硬姿勢を貫くか腰砕けで外圧に屈して妥協するかを固唾を呑んで眺めていた。もし。日本が、戦いを避け、有耶無耶に領土問題を先送りすれば、蝦夷・北海道の領有化に動く気配を見せていた。
 アメリカとイギリスは、幕府を利用してロシア帝国の南下を阻止するべく、小笠原諸島を日本領と認めて自国領宣言を撤回した。
 幕府側は、強力な軍事力がなくとも、天皇から預かった領土を寸分でもキリスト教欧米列強に渡すつもりはなかった。
 当時の日本人は、現代の日本人とは、全く違う日本人である。
 当時の日本人が戦いを恐れず命を惜しまぬサムライなら、現代の日本人は平和の為に命を惜しむがゆえにサムライではない。
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 1862年 陝西省で、儒教の漢族とイスラム教徒の回民(回族)との衝突が激しくなり、漢族による回民虐殺事件が各地で起き、回民は激怒して反撃し、ついには内戦に発展した。
 イスラム教徒で、中国語が話せて漢字の名前を持つ者は回民と呼びれ、そうでない者は回回と呼ばれていた。
 人種差別意識の強い漢族は、回民を野蛮な獣と見下し、回民虐殺を「洗回(せんかい)」と呼んで正当化していた。
 5月から2ヶ月間 高杉晋作は、長州藩の代表として上海に滞在した。
 上海のレストランや公園で、中国人がイギリス人など西洋人から犬猫のようにあしらわれていた。
 高杉は、その光景を見て、日本も西洋に敗れると悲惨な目に遭わされると危機感を感じ、日本を西洋に負けない強国にしなければならないという決意を抱いた。
 「支那人、外国人に使役されている。憐れ。我が国もついにこうならねばならないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり」『航海目録』
 8月21日 生麦事件
 イギリス人四名は、騎馬で横浜から東海道を遊工中に、生麦村で攘夷派である薩摩藩島津久光一行の行列にだった。
 上海在留商人リチャードソン、香港在留商人の妻ボロデール、横浜在留の生糸商マーシャル、同じく商会員のクラーク。
 サムライへの礼儀として、大名行列にであったら、馬を道の脇に寄せ、下馬してやり過ごせば良かった。
 大名行列にであったら道脇で土下座して平伏すという事は、日本人でもしない。土下座をするのは、将軍に行列に対してのみである。
 四人のイギリス人は、馬に乗ったまま行列に乗り込んでしまった。多分悪気はなかったが、乗馬に不慣れであったのだろうと思いたいが?
 リチャードソン「放っといてくれ、私は中国に14年間いて、こんな奴らを扱う道を心得ている」
 サムライは、刃傷沙汰を避ける為に馬を行列の外に出そうとした。
 手荒な扱いを受けた事がない馬は、驚いて暴れて行列を見出した。
 白人の横暴に怒りを持っていた攘夷派のサムライは、主君を守る為に斬り付けて、一人を殺し、二人にけがを与えた。
 日本の慣習法として、大名行列の行く手を妨害し混乱させた者は問答無用に切り捨てた。
 日本の国内法は、国際法では犯罪とされた。
 横浜の白人至上主義者達は、サムライの残虐行為に激怒して即時開戦を訴えた。
 イギリス代理公使ニールは、兵力が少ない事を理由にして武力制裁派を説得し、サムライの残虐犯罪に対する制裁は行うと約束した。
 事件の原因は、リチャードソンが日本人を中国人のように威嚇してあしらおうとした事であった。
 ボロデール「自分は何度もリチャードソンに、もっと注意して振る舞うように頼んだが、自分の忠告に一顧も与えず、威嚇の目配せや身振りをも意に介しないで、行列を組んだ人々の間や行列へ馬を乗り入れた」
 E・H・ハウス「リチャードソン氏は長い間住んでいた中国で、中国人との商売では、暴力をふるう点で、かなり悪評高い人物と、いわれていた事を述べておく必要がある。途中で恐らく出会う日本人の性質をよく理解している方の二人ではなく、一行のうちで、このリチャードソンが、ボロデール夫人とともに先に立っていたのは不運だった」(明治8年)   
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 貿易商社ジャーディン・マセソン商社の代理人である武器商人グラバー(ユダヤ人)は、南北戦争で使用された大量の中古の武器を新品の最新兵器と偽って売り込む為に来日した。
 ジャーディン・マセソン商社は、謀略でアヘン戦争を引き起こし、中国への貿易額を拡大して巨万の富を得たアヘン貿易商社であり、ロスチャイルド財閥傘下のロイズ保険や香港上海銀行の代理店を務めていた。
 欧米のアヘン商人は、アヘン市場を東アジア全域に広めるべく、大量のアヘンを日本に持ち込んだ。コルテス以来いつの時代でも、キリスト教徒白人は「愛の信仰」を隠れ蓑とし全世界を独占しようとしていた。  
 イギリス・ロスチャイルドは中古の武器を討幕派に、フランス・ロスチャイルドは旧式な武器を幕府側に売って利益を得ていた。
 西欧列強は、植民地支配を守る為に、殺傷力のある最新兵器を植民地の非白人に売る事をなかった。
 戦争を煽る白人の武器商人も、道義として白人支配を守る為に、莫大な利益になる事はわかっていても最新式兵器を非白人に売る事はなかった。
 重要な事は、有色人種間に不信感と敵意を植え付け、有色人種同士で殺し合いをさせて利益を得る事である。
 間違っても、白人の植民地支配を危機に晒す事があってはならないという事であった。
 ユダヤ人金融資本は、「黄金の国」と言われた日本の豊富な金を略奪する為に、国際的金相場に無知なサムライを騙して銀との交換比率を偽った。
 そして、武器を売って金儲けする国際資本は、南北戦争で余った中古の武器を法外な値で日本に売りつけて暴利を得た。
 白人財閥群は、利益を得る為に日本人の間で対立を煽り、略奪できる金目の物を全て奪い尽くすまで内戦を長期化させようとした。
 世界史の常識として、戦争は国際経済に巨万の富をもたらしていた。   
 欧米列強は、自国の財閥を儲けさせる事が自国の繁栄につながると確信していた。
 その国家戦略から、アジア・アフリカに混乱を引き起こし、戦乱を起こす為に勢力不均衡を創り出していた。
 民族や部族や宗教諸派の諸勢力を利用し、敵意を掻き立て、相手を皆殺しにするまで内戦を長期化させた。それが、国際経済における究極の金儲けであった。
 徳川幕府には、神国・日本をキリスト教国から防衛する為の強力な軍隊を持たず、そして西欧列強に対抗するだけの成熟した外交戦略もなかった。
 キリスト教国には、親切心や善意は存在しなかった。ゆえに、日本は西洋列強の軍事力で植民地とされ、日本人は強制的にキリスト教に改宗される危険があった。
 10月 ブルイン公使は、幕府との間で蒸気戦艦3隻、総額83万7,000ドルの大型商談をまとめ、手付け金として20万ドルを受け取った。
 幕府は、海軍力を強化するべく、4ヶ月後に中間金として43万7,000ドルを支払った。
 だが。建造が始まったのは、一隻のみであった。
 ブルイン公使は、63万ドルを私的に運用して1万9,000ドルを得た。
 12月21日 伊藤博文と山尾庸三は、公武合体論者の幕臣・塙次郎と加藤甲次郎を襲撃した。二人は翌日、死亡した。  
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 幕府は、神君家康公が定めた武家諸法度に基ずく、大名支配の参勤交代と藩主正室の江戸留め置く人質制度を廃止した。
 各大名は、一斉に、奥方達を国許に帰した。
 幕藩体制の瓦解である。
 江戸経済は、武家の消費と頻繁に起きる火事の再建で潤っていたが、武士の消費が激減して経済は一気に冷え込んだ。
 幕府は、参勤交代を復活させようとしたが、暴力的な権力を失った幕府の命令に従う大名はいなかった。
 加賀藩の前田家のみが、正室・溶姫(やすひめ)を江戸に戻した。    
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 キリスト教欧米列強は、神の裔・天皇と国土を守る為に死に物狂いで戦う下級武士や庶民を目の当たりにして、富の誘惑で自国や自国民を売った裏切り勝手な国とは違うとし、日本の植民地化と日本人の奴隷化を断念した。
 植民地の原住民は、大金を与えられて領主・君主を白人に売り渡し、忠実な奴隷となるや従順に搾取を受け入れ、死後は天国に行き永遠の命が得られるとして喜んでキリスト教に改宗した。
 キリスト教会は、隣人愛の信仰ゆえに、原住民に絶対神の下僕となり、白人に刃向かう事なく奴隷になる様に説教していた。
 そして。白人キリスト教徒が、異教徒の原住民を虐待し獣の様に虐殺する事を黙認した。
 西洋の普遍的価値観は、絶望し無気力となって悲嘆に暮れる事なく、淡い希望と儚い夢とささやかな幸福を求めて諦めず、死中に活を求めて踏ん張って耐え頑張る日本人を好戦的な狂人と見なした。
 彼等には、美しい心で神の裔・天皇と神国日本に殉じようとする死や、玉砕、神風特攻、集団自決という尊王靖国神社が理解できなかった。
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 1863年 不平等条約の完成。
 イギリス公使ラザフォード・オールコックは、幕府に恩を売りながら新潟や兵庫の開港と江戸と大阪の開市を5年間延期を認めさせた。その陰で、将来投資として、反幕府派長州から伊藤博文井上馨ら5人をイギリスに留学させた。
 イギリス式自由貿易主義から、関税自主権を奪って低率関税を押し付け、領事裁判権を認めさせた。
 関税は、20%から5%に引き下げられた。
 イギリスは、幕府が定めた国禁を破って、反幕派の長州藩から伊藤博文井上馨ら5名の若者をロンドンに留学させた。
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 1月 リンカーン大統領は、奴隷解放宣言を発表した。表面的には、黒人差別がなくなったが、差別はなくならず、南部を中心にリンチは発生して多くの犠牲者が出ていた。
 自由と平等は、白人にのみ許された特権であり、黒人や有色人種には認められていなかった。
 その人種差別は、ヨーロッパでも常識であった。
 最高裁は、1896年に、差別は憲法の精神に違反するが、人種隔離は合法と認めた。
 アメリカは、今も昔も変わる事がない人種差別社会であるが、中国ほど虐殺が少ないというだけであった。
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 3月 イギリス代理公使ニールは、生麦事件に対する謝罪と賠償金を要求した。
 幕府は、西洋と戦えるだけの軍事力がまだないとして戦争を避ける為に、財政赤字で苦しいなか賠償金10万ポンドと遺族養育費1万ポンドを払った。
 合計11万ポンドは、33万両で、米ドルでは14万ドルである。
 欧米列強は、相手国の国内法よりも自国の国法を優先し、自国法に従わない相手には武力制裁を行い、賠償金と領土の一部を手に入れていた。
 もし。自国民が相手の国内法を破って犯罪を行っても、自国法を盾にして自国民を助けて、相手国に罪を認めさせた。
 自国の国益を拡大する為に、相手国の国益を縮小させる。
 そこにあるのは、キリスト教的人種差別であった。つまり、人間は白人のみで、非白人や獣か家畜という認識である。
 それが、西欧が求めた開国の実態であった。
 4月27日 勝海舟は、訪問してきた長州藩士の桂小五郎対馬藩士の大島友之允に、国際情勢に伴う日本の危機を説明し、朝鮮と清国などとの諸国同盟を説いた。
 「我々アジア人は、西洋人に抵抗できない。皆規模が小さく彼らの遠大な計略に及ばない為だ。今我国から艦艇を出し、アジア各国の王に説いて連合し、海軍を大きくし、貿易を盛んにし、学術を研究すれば西洋の植民地になる事もないだろう。まず隣国朝鮮を説き、次に支那を説くのだ」
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 5月 長州藩、外国船を砲撃する。
 勝海舟は、西洋の侵略に対抗する目的で、攻守同盟を結ぶ為に対韓外交交渉が必要であるとしての「征韓」を称えた。
 松平春嶽は、ロシア帝国の南下に対抗する為の海軍振興策について勝海舟に意見を聞いた。
 勝海舟「ロシアに対抗する為に英仏が懇望する対馬を公領とし、良港を開き、朝鮮と支那の往来を盛んにする。そうすれば海軍も盛んになる端緒となる」
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 7月2日(〜4日) 薩英戦争。
 イギリスは、薩摩藩に対し2万1,000ポンドの賠償と犯人の極刑を要求した。
 サムライは、行列を乱した相手に非があるとして拒否した。
 イギリス海軍は、犯罪を認めない頑迷な薩摩に制裁を加えた。
 薩摩は、サムライの名誉を守るために反撃した。
 薩摩藩の被害、戦死者5名、負傷者20名以上。
 サムライは、戦場で負傷した死者や負傷者を助けた。それがサムライだけではなく民間人でも、女子供でも、見殺しにせず一人残らず救出した。
 イギリス軍の被害、戦死者13名、負傷者50名以上。旗艦ユーリアラス号艦長ジュスリング大佐と副長ウィルモッツは、薩摩の猛攻で戦死した。
 薩摩は、最新兵器のアームストロング砲の前に敗北した。
 大久保利通ら薩摩側は、イギリス側の生麦事件に対する賠償金と犯人処分要求との引き換えに、イギリス海軍が持っている最新鋭軍艦や大砲の大量購入と航海及び操船を教えるイギリス軍人の派遣を申し込んだ。
 イギリス側は、これまでそんな要求をしたアジア人やアフリカ人がいなかったので、不審に思いその真意を聞いた。
 薩摩側は、イギリス人に対して復讐戦を行う為に軍備を増強するのだと答えた。
 イギリス海軍は、敗れてなおも不屈な武士道に面食らうと共に、負けてなお卑屈にならず自説を貫こうとするサムライ日本人を尊敬し、真にモノが話せる相手と信頼した。
 イギリスは、日本の内戦を煽って自滅させ植民地化する事を断念した。
 日本が、アジア・アフリカ地域で植民地化されなかったのは、如何なる犠牲を払っても戦い、負けてもなを戦おうとする意志を見せ付けたからである。
 そして、負ければ素直に負けを認め、勝った相手を見習い、相手から学べる所を全て学び、そして相手よりも強靱になろうとした向学心・向上心にあった。
 「強い相手と戦って、負けて強くなる」。それがサムライ精神である。
 サムライは、弱い相手と戦って勝ち、弱い相手に勝った事を誇る事を最も嫌った。
 イギリスは、薩摩と長州の軍事力を高く評価し、武器や軍資金を出してフランスが支援する幕府を打倒す様に唆した。
 オールコックは、辣腕外交官として、祖国に忠誠を誓い、日本の為ではなくイギリスの国益を優先して行動していた。
 グラバーらユダヤ人武器商人は、日本を内戦で疲弊させる為に来日して、大量の武器を幕府側と倒幕派に売り捌いて暴利を得た。
 イギリスは、清国が内戦で弱体化した例に倣って、日本でも内戦の勃発を画策していた。
 西郷隆盛「西洋人は、野蛮だ。奴らの爪や牙は利用するだけだが、決して座敷に上げてはならない」
 勤王の志士(靖国神社)は、日本をキリスト教欧米列強の植民地にしない為に、天皇を中心とした軍国主義国家を目指した。
 国際世論は、この事実を知った上で、日本の自己防衛的軍国主義政策は「悪」と認め、軍国日本を未来永劫許される事のない侵略戦争を行う戦争犯罪国家として告発している。
 それが、国際連合敵国条項である。
 薩摩藩は、幾ら陸上の砲台要塞を強化しても海上からの攻撃は防ぎきれず、艦隊には艦隊で交戦しなければ郷土は防衛できない事を学んだ。
 薩摩藩士は、この手痛い教訓から様式軍艦による海軍創設に取り組んだ。
 ザ・タイムズ紙は、下院議員の投書と下院議会の遺憾の意表明を掲載した。 投書「非武装の一般人の家をこのように破壊する事は、今後の戦争における先例となれば、人類にとって想像もできない恐ろしい事になるだろう」「(この行為は)イギリスの名声を汚す事になる『恥ずべき犯罪行為』である」
 表明「文明諸国の間で遵守せられている戦争の慣例に違反」

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 2017年9月3日 産経WEST「【維新150年 大阪の痕跡を歩く】
桜田門外の変」の裏で、大坂に散ったもう一つの計画
 四天王寺元三師堂境内に立つ高橋多一郎父子の墓。桜田門外の変は大阪でも悲劇をもたらした=大阪市天王寺区(前川純一郎撮影)
 大阪市天王寺区名刹(めいさつ)、四天王寺。北西側に位置する中之門から本坊に向かって歩くと、すぐ左に元三(がんざん)大師堂と墓域が目に入る。その一画に水戸藩士、高橋多一郎(たいちろう)と子の庄左衛門(しょうざえもん)の墓がある。墓碑に「万延元年三月二十三日没」と刻まれている。寺によれば、人知れず花が手向けられていることが時折あるという。
 四天王寺の1キロほど北に建つ生國魂(いくくにたま)神社。通称「生玉(いくたま)さん」の鳥居前、現在は生玉公園となっている旧境内の脇に、同じく水戸藩士の川崎孫四郎(まごしろう)の顕彰碑がある。神社関係者にも詳しい由縁を知る人は少ないが、子孫と思われる人たちが今も祀(まつ)り続けているという。
 安政7(1860)年3月3日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼(なおすけ)が水戸藩士らに討たれた。桜田門外の変である。これによって幕府の権威が大いに失墜し、維新のさきがけとも言われる事件だが、裏で大老暗殺に呼応して薩摩藩が京、大坂に兵を進めるという壮大な計画があったことはあまり知られていない。
 桜田門外の変の首謀者の一人で、水戸藩側でその計画を立案、遂行しようとしていたのが高橋多一郎。高橋父子と孫四郎らは江戸の大老襲撃グループとは別に大坂に入り、薩摩藩兵3千を待って京に向かおうとしていた。江戸で生き残った者も京、大坂で合流する手はずだった。
 時代はちょうど幕府の専横に反発する尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていたころ。事実、薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら)はこれより前、藩兵を率いて上京し、勅書と武力を背景に幕政改革を迫るという計画を掲げていた。その意を受けて京、江戸で暗躍したのが西郷隆盛大久保利通だった。
 ところが斉彬が急死してしまい、その跡を継いだ藩主の父、久光が藩の実権を握ると、事態は一変する。大久保らのいわゆる薩摩の「精忠組」は脱藩してでも水戸藩と合流しようと、江戸の藩邸でひそかに水戸攘夷派グループと連絡を取り合っていたが、待ったをかけたのが久光だった。
 久光は、いずれ時期をみて一藩挙げて立ち上がるとでも言ったのだろうか。精忠組は説得に従い、突出することなく、抑制した結果、薩摩藩の率兵上京計画は幻に終わったのである。
 不幸だったのは、そんな薩摩藩内の変化が江戸にも大坂にも伝わらなかったこと。京に向かった襲撃グループの残党が各地で次々に捕縛されるなか、高橋父子と孫四郎らも大坂町奉行の捕り手に囲まれ、孫四郎は生國魂神社境内で自刃。高橋父子も四天王寺内の寺侍宅に駆け込み、自ら果てた。大老襲撃から20日後、庄左衛門19歳の時で、元号は万延に変わっていた。
 司馬遼太郎は言う。「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。(中略)この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない」(短編集『幕末』より「桜田門外の変」、文春文庫)
 江戸城開城は、高橋父子らの死から8年の後(のち)のことだった。(今村義明)
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 桜田門外の変 安政7年3月3日朝、雪の降る江戸城桜田門近くで、水戸浪士17人と薩摩藩士1人が、登城中の彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を殺害した事件。浪士側は3人が死亡、4人が自刃したほか、ほとんどが捕縛され、斬首となった。彦根側は直弼のほか8人が死亡したが、生存者も後に藩命により斬首、切腹などの処分を受けた。」
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