関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
徳川幕府は、北は北方領土から南は沖縄までを護る為に、世界情勢の情報を集め研究し、独りで外交戦を戦っていた。
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江戸幕府は、アメリカ海軍に小笠原諸島と琉球王国を占拠された中で、ハリスとの外交交渉に臨んだ。
イギリスやロシア帝国やスペインは、日本近海の日本領土である島々を自国領にするために虎視眈々と狙っていた。
幕府が外交で失敗すれば、日本近海の全ての島嶼が欧米列強に奪われていた。
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日本が琉球の領有に乗り出さなかったら、アメリカは琉球をフィリピンのように植民地にするかグアムやプエルトリコのように自治領とした。
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幕府は、先のフェートン号事件(1808年8月)と今回の開国要求から英語を話す各国の横暴に危機感を覚え、蕃書調所で英語研究を開始し、知的好奇心からどういう文化や価値観を持ちどんな事を考えて行動するのかを知ろうとした。
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日本は、中国や朝鮮と違い他国を当てにせず、世界中の情報を収集し、自己判断と自己責任で孤独に領土や国益を護るために戦っていた。
他人をあてにしない独立心と、新規で物珍しいモノに興味を抱く好奇心と、完全な真似ではなく独自の新しいモノを想像する発想力と、確かな技能・技術による匠の技で、アジア唯一日本だけが近代化できた。
つまり、汗水流し泥や油に塗れて現場で働く事を生きがいとしていたからである。
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サムライは、現代日本人の様な高度な語学能力や国際知識は無かったが、欧米列強に臆することなく外交交渉を行っていた。
サムライと現代日本人は、別の日本人で或る。
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朝鮮は、現場で働く事を嫌い、自立心のない惨めな属国として、絶えず大国に寄生して生きようとしたさもしさゆえに、近代化が出来なかった。
朝鮮の悲劇は、日本のせいではなく自業自得であり、その事を認めない浅はかさにある。
反日で自分の愚かさ誤魔化している限り、韓国・朝鮮は永久に自立することが出来ない哀れな国で有り民族である。
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水戸藩。徳川斉昭は藩校を設置して、建学の理念として『弘道館記』を記した。
「徳川家康が尊皇攘夷を行う事で、中世に乱れた秩序が回復され、太平の世が築かれた」
吉田松陰は、水戸を訪れ会沢正志斎から尊皇攘夷を教えられ強く共鳴し、その精神を高杉晋作や久坂玄瑞らに説いた。
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岩瀬忠震(いわせ ただなり)は、旗本・設楽貞丈の三男で、岩瀬忠正の養子となって岩瀬家の家督を継いだ。母は、林述斎(大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎がいた。
老中首座・阿部正弘に、その才能を見出され、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。
エリート外交官とし、列強との困難な交渉を行い、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と称されるほどの秀才であった。
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1855(安政2)年 F・A・リュードルフ「日本では所有権を犯す犯罪は、滅多に起こらない。此の理由は、単に所有権を規定している厳しい法にばかりあるのではなく、国民の誇り高い性格の中に主として存在している。こうした性格により、日本人は嘘をついたり、物を盗んだり強奪する事に、嫌悪感をもっている。この点において日本人は、中国人と著しく異なっている」(『グレタ号日本通商記』)
1月 ロシア軍艦ディアナ号は、津波で破損した船体を伊豆の戸田で修理する為に駿河湾に向かったが、戸田に入港寸前で嵐に遭ってさらに難破した。
周辺の漁民は、日本人、ロシア人に関係なく、同じ海の男として、命の危険を顧みず、何ら得・利益にもならずむしろ損を承知で、500名のロシア人水兵を嵐の中で救助した。
日本人は、お目出度いほど、お人好しで、馬鹿であった。
人の為なら馬鹿になりきり、自己犠牲を厭わずお節介を買って出たのが、今は無き、昔の神道的日本人であった。
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2月7日 下田条約。外国奉行岩瀬忠震とロシア全権プチャーチン提督は、日露和親条約を締結した。
北方領土である択捉島、国後島、歯舞諸島、色丹島は、千島列島と切り離され日本の正式領土とされた。
日本側は、帰国する船をなくして途方に暮れるロシア人達の為に、小型ではあるが西洋風帆船を見様見真似で建造して差し出した。
当時の造船技術は、決して西洋に劣っていたわけではなく唯作らなかっただけである。
全樺太は共同管理とされたが、南樺太は日本人居住地として日本の領土である事が確認された。
だが。ロシアは、樺太全てを手に入れるべく、条約を無視して軍隊や囚人を南樺太に送り込んで日本人居住地を圧迫した。
それが、ロシアの正体であった。
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8月3日 仙台地震。
9月18日 京都所司代・脇坂安宅は、アメリカ、イギリス、ロシアなどとの和親条約書の写しを朝廷に提出した。
孝明天皇は、関白・鷹司政通の説明を聞き、条約が薪・水・食料・石炭の供給と遭難者の救助という人道的な内容である事を知り安堵し、異国軍艦の脅威や圧力を受けながらも大事に至らず平和的にまとめ上げた事に対して、「誠にご苦労であった」と述べた。
9月22日 脇坂安宅は、老中・阿部正弘に、上々の首尾であったと報告した。
10月2日 江戸大地震。甚大なる被害が出た。
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1856(安政3)年10月 アロー号戦争(〜60年)。イギリスは、清国官憲によってアロー号が不当に検問され、中国人乗務員達が逮捕された事に抗議して出兵した。
フランスは、フランス人宣教師が殺害された事を理由にして出兵した。
イギリス・フランス連合軍は、清国軍を破る。
幕府は、清国のアヘン戦争やアロー号戦争を教訓として国土を守ろうとしたが、それ以前からロシア帝国をはじめとした西欧列強の世界侵略を知り、研究し対策を練っていた。
当時の日本は、情報収集能力も情勢分析能力もあった。
ただし、外国嫌いの守旧派の力は強く、しばしば蘭学者などの開明派は弾圧されていた。
例えば。賄賂政治家の遠江相良藩主田沼意次は、老中首座となるや、現金収入を目指す重商主義から、蝦夷地開発を行ってロシア帝国との交易を活発化させる事で北方防衛を図ろうとした。だが、年貢重視の重農主義に拘る守旧派によって左遷させられた。
国際情勢の激変は、日本が予想した以上に大きく、安直に考えていた方策では時代遅れとなっていた。
ゆえに。日本が中国の御陰で国を守ったわけではない以上、中国に感謝する必要はない。
幕府は、アヘン戦争を研究して、西洋の軍学や科学など多方面の学問を研究する蕃書調所を設置し、西欧に負けない人材を育成する為に諸藩から多くの秀才を集めて語学教育を行った。
民間においても、アヘン戦争の惨劇が知れ渡るや、洋学を教える塾が多く開設された。
各私塾は、学べば、仕事や趣味に役立つと触れ込んで武士や庶民に語学や数学や絵画などを教えて、受講料を稼いでいた。
新しいモノ好きで好奇心旺盛な庶民は、古典的な古代の徳目のみを教条的に教える死んだ様な儒教に目を向けなくなった。
清国の失敗は、中華思想による自己満足的な面子に拘り、国際情勢を理解せず、世界の変化を堕落と侮蔑した、中国人の偏狭な愚鈍が原因であった。
朝鮮も属国として、宗主国の清国な基本方針に唯々諾々と盲目的に追随し、滅亡していった。
朝鮮が滅亡の原因を、独力で近代化した日本になすり付ける事は、自分で考えて自分で苦労しない能力のない子供が、教えてくれなかったと言い掛かりを付け泣き叫びながら暴れ回るのと似ている。
つまり。中国にしろ朝鮮にしろ、この後の惨状は、自己努力を怠った事が原因で自業自得というしかない。
愚かという以上に、惨めな事である。
後に、福沢諭吉が「脱亜論」を唱えたのは当たり前の事である。
7月 浦上三番崩れ。
7月21日 タウンゼント・ハリスは、中国での活躍を認められ日本領事に任命され、通商を求めるアメリカ大統領の国書を携帯して来日した。
日本側は、ハリスの上陸に困惑したが、日米和親条約第11条を根拠にしている以上は下田駐在の総領事と認めた。
ハリスの目的は、日本との通商を開く事であり、アメリカと通商条約を結ぶ事がイギリスなど西欧列強の侵略から日本を守る最善の方法であると訴えた。
「私の様な平和の使者としてやって来た人間の公正な希望を聞き入れるか、イギリスの武力による不当な圧迫に屈するか、今や問題は如何なる形で貿易を始めるかだ」
開明派は、清国の二の舞にならない為には、国を開いて西洋の文化や最先端技術を吸収し、交易で殖産興業を図り軍資金を稼ぎ富国強兵を行って国を守るべきであると主張した。
攘夷派は、夷狄との交易はもちろん異人の上陸にも反対し、即時打ち払って国を守るべきであると主張した。
攘夷派の主張は、260年間、外国と貿易しなくとも国内で生産した物で何不自由不なく生活できたのだから、国法を廃して交易などする必要はない、と言うものであった。
開明派は少数派で、多数派は攘夷派であった。
攘夷派の強硬意見は、理屈がどうであれ、突き詰めれば所詮は個人的な好き嫌いに過ぎず、貧困化して生計に困るわけでもなく、大極から見れば取るに足らない思い込みに過ぎない以上、公を優先しして開国すべきであると。
ハリスは、交易の為に大坂など10ヶ所の開港を要求した。
岩瀬忠震は、交易は認めるが、京に近い大坂を貿易港とする事に断乎反対し、代替案として江戸に近い横浜を提案した。
ハリスは、日本の国内情報を下調べして大坂が天下の台所である事を知っていた為に、「経済の中心地である大坂からアメリカを締め出す限り自由貿易とはいけない」と強硬に主張して譲らなかった。
岩瀬は、「大坂を開港すれば、攘夷運動の拠点である京都に近いため流血は必至。内乱が起こるくらいなら外国との戦争を選ぶ」と、逆にハリスを脅した。
ハリスは、日本との戦争を避ける為に、日本側に譲歩し、大阪の代わりに横浜を含む長崎、兵庫、新潟、箱館の5港を貿易港とする事にした。
日本は、「正式に外国と交易し、指定地内での居住を許す」という事をもって開国した。
不平等条約とされた、「領事裁判権」は横浜などの居留地内のみで有効でその外までは及ばないとし、「関税自主権」においては国際標準の関税率20%を譲らなかった。
岩瀬は、イギリス、フランス、ロシアなどが日本の主権を脅かすようなに振る舞いをすればアメリカが間に入る、という一筆をハリスに書かせた。
ハリスに書かせた「アメリカ外交覚え書き」によって、英仏露の侵略から日本は守られ、西洋列強の植民地にされる事はなかった。
関税自主権が不平等化したのは、イギリスのパークスが薩英戦争と馬関戦争の責任問題交渉で幕府に関税率5%引き下げを認めさせてからであった。
幕府の外交は、しっかりと国益を守り通した。
日本は外交音痴どころか巧みで、負けてはいなかった。
7月23日 陸奥沖地震。
大風災。西日本における台風による災害で、約10万人が死亡した。
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2018年2月25日 産経WEST「【維新150年 大阪の痕跡を歩く】京を守れ!「なにわのお台場」…黒船来航で一大要塞へ変貌 天保山(中)
大阪湾と淀川の主な台場跡
地下鉄大阪港駅(大阪市港区)を降り、北へと歩いた。天保山(てんぽうざん)客船ターミナルを正面に、左へ向かえば海遊館、右へ進むと天保山公園がすぐそこにある。
公園内には大きな陶板の壁画が数枚、いずれも風光明媚(ふうこうめいび)な観光名所だった頃の天保山を描いている。石段を登れば、明治天皇の行幸(ぎょうこう)を記念して建てられた巨大な石碑。その後ろに2等三角点があり、横に「日本一低い山」の説明板が掲げられていた。
標高4・53メートル。ただし、平成23年3月の東日本大震災で沈下した仙台市の日和(ひより)山(標高3・0メートル)が現在一番低い山という説も有力で、今後、その“称号”はどうなるだろうか。
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安政3(1856)年、幕府は大坂城代に対し、天保山など安治川、木津川両河口に4カ所の砲台=台場の築造を命じた。契機はペリー来航だが、それ以上に幕府、朝廷に衝撃を与えたのが、安政元年のロシアの黒船、ディアナ号事件だ。
江戸の事件ではない。京を守る大坂城のおひざ元、摂海(大阪湾)に外国の軍艦が堂々と進入し、そののど元の天保山沖に碇(いかり)を下ろした。京・大坂の海防論はおおいに沸騰(ふっとう)していった。
天保山は人海戦術で切り削られ、平地に整備されたうえに、築造当初5基の砲台が据えられた。その後、星形陣地の西洋式砲台に改造されるなど修復を繰り返し、明治の記録では、最後は大砲12門を備えていたとされる。なにわの観光スポットは、幕末の緊張の中で、一大要塞(ようさい)へと変貌していったのである。
天保山のほか、幕府は堺や西宮、和田岬、舞子などに次々と台場を築き、大坂湾を囲むディフェンスラインを構築したが、その実力は推して知るべしだろう。そして、いずれも実戦に使われることなく、明治の開国時代を迎えた。一つの例外を除いて−。
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淀川を上ると、両岸に台場跡がある。「楠葉(くずは)台場」(大阪府枚方市)と「梶原台場」(同府高槻市)だ。梶原台場は用水路の中にわずかに名残をとどめるのみだが、平成23年に国史跡となった楠葉台場跡は公園として整備され、すぐ脇を走る京阪電車の窓からも見える。
浅瀬が多い淀川を大型艦船が航行するのは不可能のため、当初は幕府内でも不要論が大勢だったが、文久3(1863)年3月、京都守護職、松平容保(かたもり)=会津藩主=が建白して2つの台場の建設が始まった。
容保自身も外国船が遡上(そじょう)してくるとはハナから思っていない。彼の狙いは、尊皇攘夷(じょうい)の過激派、ひいては、いずれ対決する長州の軍勢を阻止するための関門=関所としての台場であって、何かと「攘夷、攘夷」と騒ぐ朝廷の“黒船恐怖症”を逆手にとっての政治的判断だった。
実際、京への街道が台場を通過するように設計されており、関門としての目的は明白だ。ただ、一触即発の場面があったとはいえ、結果的には長州軍の上洛(じょうらく)を食い止められなかった。
逆に、慶応4(1868=明治元)年1月の、鳥羽・伏見の戦いでは、楠葉台場に敗走した旧幕府軍に対し、対岸の梶原台場を守る友軍の(はずだった)津藩が砲撃。新政府軍に寝返った津藩は、台場から川に近い船番所に砲兵部隊を展開し、旧幕府軍に決定的な一撃を加えたのである。
大阪市中央区の大阪城天守閣。大門の手前の小天守台に古い大砲が据えられている。幕命で美作(みまさか)津山藩が製作し、天保山台場に備え付けられた大砲の一つで、明治になって大阪城に移されたと伝えられる。青銅製の砲身は全長352センチ、重さ2・4トン。明治から大正にかけて、正午の時報として毎日、号砲をとどろかせ、市民からは「お城のドン」「お午(ひる)のドン」と親しまれたという。(今村義明)
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天保山 天保2(1831)年3月〜3年12月、安治川の浚渫(しゅんせつ)工事「大川ざらえ」で生じた土砂を河口に積み上げ、築造された人工の山。当初は標高約20メートルあったとされ、船の航行の目標となったことから「目印(めじるし)山」とも呼ばれた。松や桜、楓(かえで)などが植えられ、山すそに茶店が軒を並べるなど、大坂有数の行楽地としてにぎわった。
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ウィキペディア
1853年建造のロシア軍艦ディアナ号は、フリゲートに分類される帆船である。1854年(安政元年)、日露和親条約締結交渉のためエフィム・プチャーチンの乗艦として箱館・大坂を経て下田を訪れた際、同年11月4日(12月23日)午前9時過頃に発生した安政東海地震による津波で大破し、宮島村(現、富士市)沖で沈没。
プチャーチンは、乗員の帰国のためアレクサンドル・モジャイスキーらの指導で日本の造船工により帆船「ヘダ号」を建造。日本の造船工に洋式造船技術が伝わるきっかけとなった。
2つあったの錨のうち、1つは昭和29年に引き上げられ、沼津市立造船郷土資料博物館に関連資料とともに展示。もう1つは昭和51年に引き上げられ、富士市富士市五貫島の三四軒屋緑道公園でプチャーチン像とともに展示されている。
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