🏞97)─1─琉球王国は独立国ではなかった。徳川幕府は薩摩に琉球防衛の為の派兵を許可した。~No.374 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 もし、日本が、ロシア・清国(中国)・朝鮮そしてイギリス・フランス・アメリカなどと負ける事が分かっている絶望的戦争をする時、両軍の間に位置する琉球人とアイヌ人が日本の味方になるのか敵になるかであった。
 もし、琉球人とアイヌ人が日本の祖国防衛戦争に対して中立を宣言する時、それは日本に対する敵対的中立となる。
 その良い例が、日露戦争時に大韓帝国が行った日本に不利となる局外中立宣言であった。
 当時の世界では、敵か味方かの二つしかなかった。
 勝ち馬に乗りたいと思えば、負ける日本を敵として戦う。
 朝鮮人は敵・反日派・敵日派であって、日本国の味方・友好国・親日派知日派でもなければ、日本人の友人・親友でもなかった。
 日本人にとって朝鮮人は戦友ではなかった、苦楽を共にできないし、生死を共にできないし、命を預けて戦えない、信用も信頼もできず、頼れないし、当てにできない。
 日本民族にとって、琉球人やアイヌ人は朝鮮人と同じ人間・他人なのか。
   ・   ・   ・   
 2020年12月号 正論「『週刊金曜日』への反論
 『琉球王国は独立国』はウソ
 仲村覚
 9月25日発売の『週刊金曜日』に《『琉球先住民族』の国連勧告に反撃、右派が地方議会巻き込み『歴史戦を仕掛ける』》というタイトルで2ページに渡る論文が掲載された。私が推進した『琉球沖縄の人々を先住民族とする国連勧告』の撤回運動を批判した内容である。
 私はオピニオンサイト『View Point』に、2016年4月1日付で、《日本民族再興のチャンス、沖縄の〝歴史戦〟》というタイトルの論文を寄稿した。
 『週刊金曜日』は、その論文の《沖縄の人々を先住民族とする誤解の根源は、日本国民全体に『明治12年の沖縄県設置まで、琉球王国は独立国だった』という誤った認識が浸透し、それを『琉球処分』と称し、『明治政府の強制併合(侵略)により琉球王国は滅びた』という洗脳により180度逆の歴史にすり替えられてしまったことにある。沖縄県の設置は近代国家における日本民族統一の歴史である》というフレーズを引きようしたうえで次のように批判している。
 《仲村氏は琉球王国が独立国ではなく日本の一部だったと主張したいのだが、琉球王国は日本が江戸時代末期の1850年に米国、フランス、オランダとそれぞれ修好条約を結び、欧米諸国から独立した国とみなされていた。もうひとつは『明治12年の沖縄県設置』、つまり1879年の琉球併合(琉球処分)の問題だ。明治新政府はこの年、軍隊を派遣して武力を背景に琉球王国首里城から退去させて東京へ連行。琉球王国の併合を強行し植民地化した。その後、日本は沖縄を同化・皇民化政策を進め、『沖縄戦』では本土決戦を遅らせる『捨て石』として、戦後は米軍の占領・軍政を経て復帰した沖縄に米軍基地の負担を押しつけるなど差別政策をとっている》
 こうした嘘が、国連による沖縄の人々を先住民族とする勧告を肯定している。彼らの批判は詰まるところ、『琉球は条約を主体的に締結した独立国だった』が果たして事実か否かに帰着する。それが事実なら『強制併合された』が成り立ち、『沖縄の人々が先住民族で、日本から差別されてきた』という話が論理的に成り立つ。
 しかし私は本稿で『幕末の琉球は既に日本の一部』であると立証し、批判が成り立たないことを示す。必然的に琉球処分は他府県と同じ『廃藩置県』にほかならず、内政上の施策であったことも示す。琉球は、米仏蘭と修好条約を締結したが、それは、薩摩の富国強兵政策の一つであり、幕藩体制に組み込まれていたことを証明することによって、『週刊金曜日』の『沖縄の人々は先住民族』論を論破するものである。
 見落とせない薩摩の外交戦略
 まずはじめに、『週刊金曜日』の批判だが、封建制度の江戸時代の外交問題を近代国家の常識で批判している。ここが根本的かつ大きな誤りだと指摘する。実は幕藩体制下において、諸藩が独立国であるかのような行動をした事例は少なくない。
 薩英戦争が代表的な例である。薩摩藩は単独でイギリスと戦争し、英側の要求である2万5,000ポンドの賠償金を支払うことで講和までしている。琉球が外国と条約を締結したことをもって独立国というのなら、イギリスと戦争をした薩摩こそ独立国といわなければならない。しかし、江戸時代の薩摩が日本とは異なる独立国とする学説は存在しない。何故なら、幕藩体制において、地方の大名は、徳川幕府への忠誠を誓うが、それぞれが独自の軍隊や徴税権を持つ、半独立国だったからだ。
 江戸時代には諸藩が300あったといわえている。薩摩藩は72万8,000石と全国で四位の石高の大大名だったが、その内の12万4,000石は琉球国の石高だったのだ。琉球国は石高では30位の立派な大名だ。しかし、琉球国は薩摩の領土であり、薩摩藩の中には、薩摩国大隅国などが存在するのと同じように。琉球国も含まれていた。ここで、薩摩支配の琉球の地位を確認しておく。
 1609年、島津家久琉球の義務不履行と非礼を理由にして討伐の軍を送り、尚寧(しょうねい)王を降伏させ、掟15カ条を布告し、これにより琉球の対外貿易を完全に統制した。
 1628年には、琉球への出先機関として在番奉行を設置し間接統治を確立した。一方、明国の冊封使が渡来すると、薩摩藩の役人は首里那覇から姿を消すなど、薩摩と琉球の関係を漏れないようにした。諸外国は、琉球が独立国であると見ていたが、その実態は、薩摩が実効支配していた。
 朝貢先でる明国や清国の出先機関琉球に存在したことはなく、琉球に対して法律や徴税を課したこともない。清の時代に漢民族のように辮髪を強要されることも無かった。朝貢冊封関係とは、名目的儀礼的にすぎなかったのだ。
 さて、そのような位置づけにあった琉球は、地政学的要衝にあるため、幕末において真っ先に西洋列強の開国圧力に襲われた。
 琉球と米仏蘭は条約を締結したが、これで単純に琉球を独立国と見做して独立国と外国との条約締結と同一視するのはあまりにも実態と懸け離れている。その背後にあった薩摩や江戸幕府の対応をあわせて把握することで本当の歴史が見えてくる。薩摩と江戸に最も大きな衝撃を与えたフランス軍艦来琉事件の経緯を辿りながら確認してみたい。
 仏の軍事圧力への対処策
 ペリーが浦賀に姿を現す9年前の1844年4月28日、フランスの軍艦『アルクメーヌ号(艦長デュプラン、乗員230人)』が通信、貿易、布教の許可を求めて那覇に到着した。フランスは、アヘン戦争で清国に勝利し南京条約で様々な利権を得たイギリスと競うようにやってきたのだ。
 当時の琉球は薩摩の支配下にあり、鎖国令に従って全てを頑なに拒否したが、フランス軍は強引にフォルカードという神父と中国人の通訳を上陸させた。フランス側によると、やがて皇帝の名のもとに大艦隊が条約を締結しようと訪れるので、その時に備えるべく『琉球語』を習得させるというもので、フォルカードは護国寺に保護された。
 この前代未聞の大事件は、決して琉球だけの問題だけの問題にとどまらず、即座に江戸に滞在する薩摩藩主、島津斉興に報告された。那覇から鹿児島県の山川港までは飛船、そこから江戸までは早馬で伝えられた。琉球フランス軍艦に関する報告を聞いた斉興は老中、阿部正弘に内申した。フランス軍艦による琉球開港圧力は、幕府にも衝撃を与えたのだった。
 老中、阿部は8月11日、家老、調所笑右衛門に琉球への警備兵派遣を命ずる。薩摩は二階堂右八郎を責任者として総勢75名を琉球に派遣したのだが、これは紛れもなく琉球が独立国ではない証拠で、江戸幕府や薩摩が琉球を守ることに責任を持っていたことを物語るものだ。
 薩摩が琉球を守ることに知恵を絞っていたことがわかる文書も存在する。薩摩藩士、五代秀堯が執筆した『琉球秘策』である。軍事圧力を背景にした琉球へのフランスの開港圧力に薩摩藩としてどう対処すべきか、問答形式で具体的に論じたものだ。
 それは、『琉球ノ処分ハ、絶ト和トノ二策ヲ主トスヘシ』と武力で抵抗することの不可能を説き、琉球における和交の方策を具体的に論じている。重要箇所の口語訳(訳者、高里智佳女史)を紹介する。
 《琉球でいったん戦争が起これば薩摩藩は精兵大群を送って戦うことになるが、海上の戦いでは勝ち目は無く、たとえ首里城を拠点に戦っても多勢に無勢で、中山王かならず降伏し、外は急卒の応援無く最後の勝利を期待することはできない。しかも、大軍を琉球に派遣すれば、薩摩藩の守りが空虚となるだろう。そこにヨーロッパ諸国が連合して押し寄せれば、是よりして日本国中の干戈となるべし。故に琉球の処分は絶と和の二策を主とし、決して『戦』の選択肢を用いてはならない》
 『琉球秘策』では、このように琉球防衛、薩摩防衛、日本全体の防衛を一つの防衛戦略としてリアルにシミュレーションしていた。その結果、交渉によって鎖国を貫き通すことができない場合は開港するべきだと説いている。しかし、単に開港しただけではいけないと戒めてこう続けている。
 《通商が始まれば、西洋人の勢いが強まり、侵略のきっかけを生むことになる。故に、これから、こちらも別段の武器や力をつけるために兵を稽古させ、おれに備え、西洋人の勢いを抑える。武器や力をつけることを第一にすべきこととなる》
 つまり、これまでの江戸幕府鎖国という祖法を見直して、開港し、西洋列強を上回る軍事力をつけるべきだと説いたのである。これこそが富国強兵という思想のルーツであり、それは薩摩の琉球防衛から始まったのだ。
 ちなみに、明治時代に富国強兵策を推進した五代友厚は五代秀堯の次男である。
 島津斉彬の幻の軍艦購入計画
 斉彬は、フランス軍艦が来琉した翌年には幕府の許可がおり江戸から薩摩に戻り、藩主島津斉興に代わり、先頭に立って指揮を取った。その時、斉彬の頭の中にあったのは、鎖国の徹底ではなく琉仏貿易の推進による富国強兵政策の実行である。
 斉彬は、薩摩に到着した直後に琉球に対して、布教以外は全て受け入れるように飛船で指示を出している。また、『運天港(今帰仁村)に商館を建て、薩摩の資金を投入しフランスとの貿易を開始。そうすれば、琉球も利潤が大きくなる』と説得した。
 しかし、琉球側は、いくら薩摩の意向とはいえ、こればかりは受け入れられないと回答。だが、斉彬の琉球開国準備は着々と進められ、1855年11月24日に琉仏修好条約を締結したのだ。ペリーと琉米条約締結の1年後である。
 結局、琉球のフランスとの条約締結は、琉球の主体的に行ったものではなく、島津斉彬の戦略の中で締結されたものだったのだ。
 フランスとの条約の締結を実現したあと、斉彬は、腹心の市来正右衛門に1857年8月17日から23日にかけて途方も無い密命を一つ一つ与えた。
◇英・仏・米の三国に薩摩の留学生を派遣させ(薩摩から6人、琉球から3人)語学、砲術、航海、造船を学ばせ、各国の情報収集も担わせること。
◇先島漂流民保護のため台湾に琉球船の停泊港を設け、貿易を開くこと。
琉球と大島の二港で中山王名義で外国貿易を始めること(外国とは当面オランダ、フランス)。
◇蒸気船2隻(軍艦1隻、商船1隻)と年間五千丁から七千丁の製造能力のある小銃製造機を琉球名義で買い入れることなどである。
 最後の密命は、最も重要なもので、日本中で数十万丁の銃は必要であり、他藩や幕府にも売り、そのお金で、薩摩の国防を完成させることを考えていた。だから、なるべく早く購入するように命じていたのだ。
 市来は、10月10日に那覇に渡り、11月3日に琉球当局にこの密命を伝えた。当初、外国貿易と留学生派遣等は勘弁してほしいと拒絶してきたが、市来が藩主斉彬の『琉球一国の都合でもって、日本の安危(あんき)に及ぶこの計画を断(ことわ)らぬように』という命を伝えたところ、11月中旬には全てを受諾した。
 翌年の2月17日、市来は琉装して、『トカラ島医師伊知良親雲上※』と名乗って、牧志親雲上とともに仏人らを訪問、交渉を開始した。ジラールら仏人は喜び、香港のフランス領事に斡旋。その交渉は7月26日まで続き、8月2日、『トカラ島医師』伊知良親雲上こと市来正右衛門。恩河親方、牧志親雲上らが久米松尾山の仏人ジラールと会見、漢文、仏文の契約書を交した。
 無事、重大な密命を成し遂げた市来は、斉彬に報告(おそらく飛船を派遣したものと考えられる)。
 しかし、その時、既に斉彬は逝去していた。
 ……
 薩摩では反斉彬の一派が息を吹き返し、市来には、斉彬の密命をすべて破棄して、帰国せよとの命令が届いたのだ。
 窮地に陥った市来は腹を切って、仏人に謝罪しようとしたがみんなが止めて、一計を案じた。……
 9月14日、摂政、三司官、交渉官らは松尾山の仏人を訪ね、牧志が中心となって説得。約5時間ほど交渉し、ようやく違約金1万ドルを支払って、契約解除にこぎつけ、契約書を取り返したのだ。
 ……
 このように、フランスとの貿易は鎖国下の薩摩の最も重要な富国強兵政策のひとつであり、琉球当局の役人は斉彬の手足として動いていたのだ。
{※『親雲上』ペーチンと読み、琉球国中級士族の称号}
 『薩摩&琉球』の視点で
 最後に薩摩と琉球の深い関係を示す幕末の出来事を紹介する。1867年、パリ万国博覧会が開催され、日本は初めて参加した。薩摩藩は『日本薩摩琉球国太守政府』を自称して出展した。その目的は幕府とは別の『独立国』であることを国際社会に伝え、ヨーロッパにおける幕府の権威を失墜させ、フランスの幕府への資金援助をとめることにあった。
 その戦略の極めつけが勲章の制作と贈呈であった。その勲章は、赤い五稜星の中央に丸い十を組み合わせた島津家の紋が白地で乗っている。紅白のコントラストが鮮やかで、五陵の間には『薩摩琉球国』の五文字が金色に光る。
 薩摩はこの勲章をナポレオン三世以下フランス高官に贈呈したのだ。これは、日本初の勲章でもある。その薩摩の工作が功を奏したのかは定かではないが、パリ万博開催中の1867年10月、徳川慶喜は体制を奉還し、徳川の時代が終わり、その後、薩摩主導で新政府が樹立される。
 以上、幕末の琉球と米仏蘭との条約締結は、明治維新へとつながる薩摩の富国強兵政策の一つであることを説明してきた。また、それは、突然起きたのではなく、1609年に薩摩が徳川幕府の権力が直接届かない琉球を従属させてから、その特殊な関係は深化成長してきたのだ。
 江戸時代を通じて、薩摩には鎖国は存在せず、海洋国家であり続けた。江戸時代初期は琉球朝貢貿易で、また幕末には琉球名義の西洋との貿易で力を蓄えたのだ。その経済力と情報力で徳川を陵駕した薩摩の志士たちは最後には徳川に代わって、新政権の中枢の座を占めた。そして、琉球の危機で始まった西洋列強による植民地化を回避するため中央集権国家の建設を目指し、最後の廃藩置県として沖縄県を設置したのだ。
 沖縄の歴史は、『琉球VS日本』や『琉球VS薩摩』という視点で語られがちであるが、『薩摩&琉球』という権力複合体が日本で果たした役割を研究することによって、本当の沖縄像が見えてくるのである。
 琉球は江戸時代においても、明治維新においても日本という国家において重要な役割を担ってきたのであり、決して、『週刊金曜日』の論調のように明治時代に突然侵略された先住民族ではないのである。」
   ・   ・   ・   
 日本民族は、古代から中華世界の中国や朝鮮という血も涙もない恐ろしい強敵に囲まれ、武器を持った中国人や朝鮮人がいつ侵略してくるか分からないという恐怖に慄いていた。
 日本民族にとって、中国や朝鮮は地獄であった。
 近代日本の大陸政策とは、積極的自衛行動として、古代から続いていた中国・朝鮮の脅威を軍事力で取り除く事であった。
 その動かぬ証拠が、中国共産党による尖閣諸島・沖縄ヘの攻勢と韓国による竹島不法占拠である。
 日本側にとって、日清戦争日韓併合日中戦争には正当な理由があった。
 が、国際社会はそれを悪辣な戦争犯罪と認定した。
   ・   ・   ・   
 日本には世界に対して、特に西洋キリスト教文明圏諸国に対して復讐権・報復権がある。
   ・   ・   ・   
 幕末・明治における強力な軍隊と強大な艦隊を持つ軍国主義国家建設=軍国化において、日本には正当な理由があり軍事力を強化する当然の権利があった。
 それが分からない者には、地政学はもちろん、戦う戦争学も戦いを避ける平和学も理解できない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は絶望的なまでに歴史力がない。
 「江戸幕府がペリーの黒船艦隊を見て驚き狼狽して対応できなかった」を信じる現代日本人には、歴史力がない。
 それは、左系・左翼・左派・ネットサハも右系・右翼・右派・ネットウハも同様である。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係の高学歴出身知的エリートにそれが言える。
 天皇家をなくし日本国を分断しようとしている反天皇反日的日本人は、さらに回復不能な重症の歴史欠乏者である。
 現代日本人が好きなのは、作家の空想・創作による時代劇であって、残酷な事実・現実の歴史劇ではない。
 現代日本歴史教育にはウソが多く、子供達は反天皇反日本のキリスト教マルクス主義共産主義)で歪曲・捏造・改竄された嘘の歴史で洗脳されている。
 ウソがウソを量産している。
 つまり、現代日本歴史教育とは子供の歴史力を奪い歴史的思考力を無能化し、日本天皇と日本国と日本民族を憎悪させるための洗脳教育である。
   ・   ・   ・   
 西洋列強の日本侵略に対する危機感から始まった積極的自衛行動=軍国主義化である幕末は、田沼意次(1719~1788)の時代から始まっていた。
 それは、アヘン戦争のイギリスでもなく、第二回アヘン戦争のフランスでもなく、ペリーのアメリカでもなく、北から侵略し北方領土で海賊行為を行った犯罪者ロシアであった。
 日本側には、日露戦争やシベリア出兵に正当な理由があった。
 北方領土4島問題は、この時から始まっている。
 寛政4(1792)年。寛政・日露交渉。老中松平定信水戸藩による攘夷運動の始まり。
 攘夷派は、祖国防衛の為に北を目指した。
 文化4年4月23日(1807年5月30日)~5月1日(6月6日) 文化露寇事件。徳川幕府による東北諸藩への派兵命令。
   ・   ・   ・   
 当時の日本人と現代の日本人は、別人のような日本人である。
 現代日本人は、武士・サムライではないし、武士・サムライの子孫でもなく、庶民の子孫である。
   ・   ・   ・   
 薩摩藩の支配は、奄美大島などに対しては重税と苦役を課すなど過酷であったが、明国・清国との密貿易の窓口である琉球に対してはそれ程でもなかった。
 琉球政府は、先島諸島などに対して重税と苦役を強いる恐怖統治を行っていた。
   ・   ・   ・   
 清国がアヘン戦争でイギリス軍に敗北した事に強い衝撃を受けたのは、日本ではなく琉球王国であった。
 琉球は外敵から王国を守る軍隊を持っていない為に、西洋列強の侵略から国土を守る為には日本・薩摩に頼るしかなかった。
 南から北上してくるイギリスやフランスの目的は、清国(中国)との交易であった為に、ただちに琉球を侵略し植民地にする意思はなかったし、琉球の後ろに武士の国・日本が存在する為に慎重な行動を取っていた。
 その慎重な行動ゆえに、日本進出をアメリカに先を越された。
   ・   ・   ・   
 フランスは、清仏戦争(1883年8月~1885年4月)で清国軍に勝利し清国南洋艦隊を撃滅させると、清国領のベトナムを戦利品として強奪し、タイ王国の東、インドシナ半島東半分(カンボジア王国ラオス王国阮朝{グエンちょう=ベトナム王国})を植民地としてアジア侵略の軍事拠点とした。
 フランスは、ニューカレドニア島のように琉球を領土若しくは植民地にできなかった。
 フランスの精神である自由・平等・博愛は、白人キリスト教徒の当然の権利であっても非白人非キリスト教徒には認められていなかっただけに、フランスの植民地は地獄であった。
   ・   ・   ・   
 西欧列強に平和と友好、誠意と誠実を見せても軍事的弱さ見抜かれれば、ハワイ王国のように自主独立国を否定され武力で占領され、そして滅亡に追い込まれる。
 友好国であったイギリスは、ハワイ王国を見捨てた。
 アメリカは、1898(明治31)年にハワイを併合し、ハワイ人は増えた白人移民によってマイノリティに追いやられ差別と搾取を受けた。
 西洋キリスト教文明圏諸国の侵略の手口は、最初に布教と交易が来て、最後に軍隊が来る。
 ハワイ王国キリスト教によって滅ぼさ、ハワイ民族はキリスト教によって排除された。
 日本側にとって、日米戦争は避けられない運命的戦争であり、戦争する正当な理由があった。
 その象徴が、現代の日本国憲法である。
   ・   ・   ・   
 自主独立国とは、1か国若しくは数カ国の侵略軍を自衛戦争で撃破し守り切る国力・軍事力と戦術戦略がある国家の事を言う。
 戦わない国家は、自主独立国とは言わない。
 万国公法=国際法は、勝者に微笑み、敗者には冷淡であった。
 国家間の約束・条約・合意は、愚かな国・弱小国は金科玉条・不磨の条文として墨守するが、賢い国・強い国は単あるくだらない紙きれとして守らず好きな時に好きなように破り踏み躙りなかったものとして捨て去る。
 それは、中華の歴史・中国の歴史・朝鮮の歴史を見れば明らかである。
   ・   ・   ・   
 日本が歴史の教訓とすべきは、清国の中国ではなくムガル帝国(1526~1858)のインドである。
 武器を取って自力・独力で戦争をして勝たなければ自国は守れない。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、北は蝦夷地(北海道)・南樺太択捉島国後島、南は琉球までを自国領として外敵の侵略から守るべく諸藩に武力防衛の軍隊派遣を命じていた。
 東北諸藩は、蝦夷地・南樺太択捉島国後島に数千人を派兵した。
 国土防衛の最重要課題は、現地住民つまりアイヌ人と琉球人が日本に味方するのか敵になるかであった。
 もし、アイヌ人や琉球人が侵略者に味方すれば、日本は敗北して領土を失い、北海道以北はロシア領となり、沖縄はフランス領となり、小笠原諸島アメリカ領かイギリス領となった。
   ・   ・   ・   
 西欧列強が慎重に対日戦略を取ったのには、徳川家康の対外戦略が影響していた。
 ロシアは徳川家康の影響を受けていなかっただけに、性急な対日戦略、砲艦外交・武力威圧外交を行った為に、蜂の巣を叩いて蜂の防衛本能を高める効果と同じ作用を日本人に起こさせた。
 つまり、「神国日本を命を捨て夷狄から守れ」という攘夷熱は北のロシアによる侵略で始まり、その狂気は上級武士ではなく下級武士や庶民の間に燎原の火のように広まった。
   ・   ・   ・   
 命を犠牲にしても天皇・皇族・皇室を守ろうとした狂信的な尊皇派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、芸能の民、異形の民、異能の民、賤民(穢多・非人)、部落民(山の民・海の民・川の民)など、政治権力や宗教権威から見放され恩恵を受けない人々であった。
   ・   ・   ・   
 何故、キリスト教西洋列強に対する流血を伴う過激な攘夷が吹き荒れたかと言えば、戦国時代に中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として売って金儲けしたという歴史的事実があったからである。
 現代日本の歴史は、日本は遅れている、愚かで馬鹿である、と言う事を子供達に教える為にこの歴史的事実を抹消している。
 だがしかし、日本人を外国人に奴隷として売ったのは「大金」が欲しかった強欲な日本人庶民である。
 日本人売買を禁止したのが、豊臣秀吉徳川家康、そしてキリシタン弾圧をした徳川幕府であった。
 キリシタン弾圧を非人道行為と叫ぶに日本人は、日本人奴隷売買を人道行為として容認する日本人である。
   ・   ・   ・   
 日本人の庶民は、乱取り・落ち武者狩り・戦場泥棒で荒稼ぎしていた。
 日本とは、人の生き血を啜る男鬼・女鬼(夜叉)がたむろする羅生門のブラック社会であった。
 何故、日本の代表的伝統民族芸能に武士の能・狂言、庶民の歌舞伎、神社神道の御神楽、宮中神道雅楽、仏教の盆踊りなどが上げられるか、それはこの為である。
 そこには、隣人愛のキリスト教も反宗教無神論共産主義マルクス主義)も無力である。
 そもそも、日本には癒しや慰めや励ましはあっても救いや救済はない。
   ・   ・   ・   
 日本人の醜い本性を炙り出した文学が『山椒大夫』である。
   ・   ・   ・   
 日本人とは、薄情で、冷血で、非情で、冷酷で、残虐な、人の仮面を被った男鬼や夜叉=女鬼である。
 それは、現代日本人でも変わりはしない。
 日本人は、情があって、穏やかで優(やさ)しく、賢く、優(すぐ)れていて、秀でたところを持っている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、親ユダヤ派で、人種差別に反対し、人道貢献に積極的に関与し、東条英機に原爆を製造し戦争に使用する事を中止するように厳命し、戦争回避と戦争終結を切に望んだ、現実的平和主義者の昭和天皇を惨殺する為につけ狙っていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストを後ろで操っていたのが、ソ連コミンテルン中国共産党などの国際共産主義勢力とアメリカ・ユダヤ人、国際金融資本、国際軍需産業、国際報道機関であった。
 戦後の国連(戦勝国連合)もまた反天皇反日本勢力であった。
 国際反天皇反日勢力は、日本を解体縮小し農業小国にする事を計画していた。
 日本解体計画は、2020年現代においても反日派敵日派中国共産党政府や韓国・北朝鮮そして反天皇反日的日本人によって続いている。
 その証拠が、「琉球民族アイヌ民族先住民族であり、日本に併合され差別と搾取などの迫害を受けてきた」という、国連の勧告である。
 天皇制度日本を滅亡へと追い込んでいるのは、中国共産党と日本人共産主義者マルクス主義者)達である。
   ・   ・   ・   
 現代日本琉球独立派やアイヌ自立派に、中国共産党北朝鮮そして韓国が接近している。
 反天皇反日的日本人は、国連などの国際舞台で、諸外国の反天皇反日勢力と共謀して活動を活発化している。
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で、特定の人種・民族の事ではない。
   ・   ・   ・   
 日本とは、世界の中心から遠く離れた端、大陸の縁、文明・文化と人・技術が最後に流れ着く辺境、大陸の生と海の死の狭間=水際=渚、見捨てられた列島=絶海の島群である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人は、同じ女系母系の祖先を親に持つ三人姉妹である。
 琉球人は長女で、日本民族は次女で、アイヌ人は末娘で、乱婚した男性によって分かれ血が汚れ穢れた混血(ハーフ)の雑種である。
   ・   ・   ・   
 日本民族が成立したのは、明治元年9月8日(西暦1868年10月23日)である。
 琉球民族が成立したのは、1429年に第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立した時である。
 アイヌ民族が成立したのは、5~13世紀にオホーツク人が移住して乱婚し、7~13世紀には擦文人蝦夷地に移住して乱婚し混血度を深め、ハッキリアイヌ民族といえるのは鎌倉時代以降の人々である。
   ・   ・   ・   
 日本国語には2大方言があり、1つが本土方言であり、もう1つが琉球方言琉球語である。
 アイヌ語は、北海道・北方領土4島はもちろんだが関東や東北の古い地名にも少し残っている。
 日本国語・琉球語アイヌ語と中国語(黄河流域漢族語)・朝鮮語は、東アジア言語であっても似通ったところが少ない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、長江文明の後継である日本文明を持ち日本文化をつくった。
 琉球民族は、長江文化・東南アジア文化・日本文化・黄河文化の影響を受けた琉球文化をつくった。
 アイヌ民族は、オホーツク文化など北方諸文化と日本文化などの影響を受けてアイヌ文化をつくった。
   ・   ・   ・   
 日本文化には、縄文文化弥生文化の直系子孫文化=神道文化(南方海洋民文化)に揚子江流域文化(女系母系・その他)、インド・南アジア文化(仏教・その他)、中央アジアシルクロード文化(ヘレニズム=ギリシャペルシャゾロアスター教ユダヤ教・原始キリスト教イスラム教・その他)、黄河流域文化(男系父系、儒教道教・その他=中国文化・朝鮮文化)など日本に渡来した西方の多種・多元・多様な諸文化が加わっている。
 故に、日本文明・日本文化は中華文明=黄河文明と中国文化・朝鮮文化とは違う。
   ・   ・   ・   
 縄文人の祖先である南方系海洋民は、台湾から沖縄を経由して日本に流れ着いた。
   ・   ・   ・   
 縄文人は、日本列島を中心として、南は琉球、北は北海道・北方領土4島・樺太・千島列島・カムチャツカ半島、西は朝鮮半島南半分に広く住み、手漕ぎ丸木舟で日本海を主要航路として行き来していた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人とは、南方系海洋民・西方系草原民・北方系山野民が乱婚し混血した縄文人の血・遺伝子(Y染色体)を受け継いだ諸部族であって、血筋を別にする異質な独立した民族ではなかった。
 三者が別れたのは、縄文人に新たな移住者が乱婚し混血化したからである。
 日本民族日本人に弥生系帰化人(天皇と日本国に忠誠を誓った者)、琉球人に揚子江流域民、アイヌ人にオホーツク人。
 混血した相手によって、琉球民族日本民族に似ているが、アイヌ民族日本民族に似ていない。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人には宗教・言語・文化・風習・習慣など多くの面で共通性が存在するが、中国人や朝鮮人とは似通ったところは少ない。
 その象徴が、沖縄から秋田・男鹿半島まで日本各地に伝わる渡来神・海人神・客人神である。
 そして、琉球御嶽信仰、日本神道産土神信仰、アイヌのカムイ信仰である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人と琉球人は、揚子江流域にあった長江文明・稲魚介食文化の影響を強く受け、黄河流域の黄河文明・麦家畜食文化の影響は弱かった。
 日本民族日本人と琉球人との共通は、南方系海洋民の水泳・素潜り・釣り針である。
   ・   ・   ・