🏞75)─3─ロシアの侵略から日本を守っていた徳川幕府。露米会社。松平定信の非開拓論。~No.310 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 『サムライ異文化交渉史』 御手洗昭治著 ゆまに書房
 「第5章 ロシアの『露米会社』と日露関係
 はじめに
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 なお、18世紀にはすでに1781年に工藤平助が完結させた『赤蝦夷風説考』や1789年に本多利明が完成した『蝦夷拾遺』など、当時のロシアの対日接近に関して、幕府に警告を発した文献も存在する。ただし、利明の北方調査記録である『蝦夷拾遺』は、北方地域に関心のあった老中田沼意次以外の目にはとまらなかった。特に意次の失脚後は、彼の後継者達は北方関係に関心を示そうとしなかったため、そのころ書かれた多くの有益な書物と同様に、『蝦夷拾遺』も幕府の文庫奥深くしまい込まれてしまったのである。
 また、これらの文献は、主に日露を中心としてバイラテラル(二国間)の枠組みの中で論じられている。そこで、日露関係や日露交流、日露交渉をテーマにする研究者たちが、ともすれば見過ごしていると思われる点を幾つか存在するので、ここで述べて見たいと思う。
 (a)18世紀から計画され19世紀に実行されたロシアにおける対日接近を企(くわだ)てた最初の世界周航は、日本人が一般的に抱いている友好的な対外交渉や日露交流の促進、日露関係の樹立を唯一の目的としたものではないということ。
 (b)さらに、それは広大なアジア・太平洋市場と直轄したアメリカを含む北太平洋周辺の露米会社領植民地の拡大、ひいては現代でいうところのグローバル貿易によるロシア商業のマルティラテラルな躍進と領土拡大という国益の追及をめざすものであったこと。
 (c)それは、従来の歴史書でもほとんど語られてはいないようだが、現代の日露交渉も地政学的観点から観れば、それは18世紀に米露間でくり広げられていた交流や交渉、それは20世紀の国益を最優先する米ソ間の外交戦略と密接な関係があること。
 『国際政治の究極の目標は常に、パワーである国益の獲得にある。』と述べたのは、政治学者として著名なモーゲンソーである。国内政治での暴力を抑止する公権力が存在するために法律があり、裁判所もある。しかし、国際政治にはそれに相当するものはない。国際法国際司法裁判所があったとしても、21世紀の現代においてもそれらは国家行為に対する有効性をもっていない。18世紀後半から19世紀前半における世界において、そのようなコンセプトが、西欧列強と日本及び他の太平洋地域諸国には、全く存在しなかったことは当然のことである。
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 要するに、日本人は、『交流』を波風の立たない情緒的相互インターアクション(対人コミュニケーション行動)と捉えるに対し、ロシアや西欧の列強は、時に摩擦やぶつかり合いが伴うハードな『談判』と『ゼロ・サム型交渉』ゲームの一端と捉える傾向が強い。これは、高度な戦術も使用されるため、闘争的な『戦略型対抗交渉』と呼べる。本書で使用する『交渉』とは、後者の『戦略型交渉』を意味することを明記しておきたい。
 交渉・交易・交流の捉え方と文化間の温度差
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 話を戻せば、西欧の列強は15世紀に端を発する大航海時代から独自の戦略構想を構築し、それに基づき他国への進出を企てるようになった。
 ロシアにみられる体外・異文化交渉戦略構想
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 異国人ミディエーターの活用
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 ロシアの北太平洋進出と領土拡張政策の戦略
 『ロシアではその長い歴史にわたって、国は領土拡大の手段であると同時に、経済開発の手段でもあった。また、西欧には民族国家の伝統があるが、ロシアでは国は民族のためとは考えられておらず、民族の枠を超えて特別の任務を担うものだと考えられている。この「ロシアの理想」が、宗教、地政学イデオロギーに基づいて、さまざまに主張されている。ところが、突然、ロシアの領土はほぼロシア民族の居住地にまで縮小し、この任務が拒定された。』(……)
 1469年、ロシアのイワン皇帝はカザフを征服し一躍有名になった。なぜなら、これが当時、異境であったシベリアへのロシアの戦略的な進出の始まりであったからである。……
 次ぎにロシアは東方へ進出し、1587年にトボルスク村を築き、その後オホーツクまで進出することに成功した。1652年には、カムチャツカ半島にロシア村を建設した。その後もロシアは次々と領土を拡大し、今度はアラスカのみならず北米の西海岸の北部まで進出する。この間、ロシアは日本との交易を目的に、日本へ戦略型異文化交渉を通して接近を試みたのである。ちなみに、ロシアは1711年、1739年、1771年、そして1792年のラクスマン来航にいたるまで数回にわたって、千島、サハリン(樺太)、それに北海道まで南下を試みる。
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 御雇外国人ベーリング
 1728年から41年の期間をかけて、ヴィータス・ベーリング海軍大尉率いる探検隊は、ピョートル大帝の遺命のもとに、シベリアを起点としてアラスカ、アリューシャン列島、カムチャツカ半島、クリール列島、そして北海道から日本本土への海洋ルートを開発した。
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 歴史学者のズナメンスキーはベーリングの対日観について、次のように述べている。『また、もし日本との交易が可能ならば、これはロシア帝国にとって少なからず利益を与えることであろう。(中略)たまたま出会った日本船を奪い取ることもできるし、さらにカムチャツカにおいて前述の大きさ、もしくはそれよりやや小さめの船を建造することも可能である』(S・ズナメンスキー、前掲書)
 1784年、コーデアック島でグレゴリー・シェリーホフ(シェリコフ)の指導のもとにロシア人は初めて北アメリカに居留地を建設し、ロシアの文字、宗教、建築、料理などロシア文明を新世界に紹介する礎をつくった。……
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 『元文の黒船』シパンベルグ遠征隊
 ロシア船で最初に日本来航し、日本人と最初に交渉を試みたのはシパンベルグである。シパンベルグの来航は、ラクスマン中尉の根室来航をさかのぼる51年前の元文4年、1739年6月のことである。そのためシパンベルグ遠征隊のことは『元文の黒船』と呼ぶことができる。ただし、シパンベルグ遠征隊の日本来航の歴史的意義について知られていないのが現状である。
 シパンベルグは、1737年の6月に日本にむけて出帆、千島列島を探索し、千島は32の島から成りたつと記録書に残した。……そして1739年には、現在の宮城県仙台沖を3隻に船で探検し、石巻近くの現地の人々と折衝をした。……ロシア側の基本課題は、ピョートル以来の千島方面の領土拡大戦略と深く結びつていた。
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 なお、日本人が北方への関心を抱くきっかけになったのが、ハンガリーポーランドの混血児ベニョフスキーの警告である。
 ……この情報が幕府に伝わり、『北警論』が起こったのである。また、松前藩アイヌの人々の情報を通して、ロシアがカムチャツカを占領し千島を南下しつつあることを知ることになる。
 シャバリンの日本遠征
 ドーミトリー・シャバリンはイルクーツクの商人であった。1777年、ロシアの資産家レーベジェフはシャバリンに『秘密の航海』という名のもとに武装船(ブリガンディ)ナタリア号を提供する。
 シャバリンは雇い主であるレーベジェフの指示にしたがい、(1)18島以南の毛人の服従、(2)未知の土地とその住民の人口、家屋数の調査を行い情報を得た。また、(3)日本人と交渉するために本船はワニナウに残し、同僚、毛人1名、逃散者1名を伴い、総員32名を船に分乗させることに成功した。当時、松前藩択捉島は、『松前家より法度申付候儀無之、島中無制』としており、それを島の住民も認めていた。そのやさきに、全千島列島の占領を含むロシアの支配が伸びていった。
 シャバリン、1778年6月19日に現在の根室半島の北岸にある厚岸(アトキス)に到着した。……
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 ロシア側ではエカテリーナ2世が、すべてのロシア人に『何の制限もなく、クリール列島に狩猟と交易の権利あらびに日本との交易の権利が与えられない』ようにイルクーツク総督に命令を下した。そのため、シャバリン日本遠征隊に投資した資産家レーベジェフの価値はいちじるしく低いものとなった。彼に対する国からの特別な見返りもなかった。これ以降、ロシアは国益を中心とする地政学的な視点で日本に接近を試みることになるのである(……)。
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 幕府のロシア南下楽観論
 では、当時日本の幕府はロシアの現代の北海道を含む北辺地域に向かっての動きをどうとらえていたのであろうか。
 1793年に松平定信は老中を辞した。定信は、中井竹山の説を受用し、現代の北海道である北辺地域に対しては、『蝦夷地非開墾』主義者であった。とはいえ、1798年と1799年になって、蝦夷地開拓が突如として国策として採り上げられるようになった訳ではない。
 帰属の不鮮明な東蝦夷地の開拓は、すでに前政権の田沼意次によって採り上げられていた。ただし、これは『赤蝦夷風説考』の作者工藤平助や『蝦夷捨遣』の著者本多利明の貢策に追うところが大きかったのである。田沼意次は、『赤蝦夷風説考』の愛読者であった。
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 幕府による1785年から1786年の北方調査は、蝦夷地の水産資源、地下資源、農地開発はもとより、南下するロシア人の交易の実態調査に及び、新財源の開発を核とするものであった。当時幕府側は、まだロシア人の南下を国土防衛の脅威とは想像もしていなかった。ロシア人が日本に求めているものは、交流を通しての交易であり領土的野心からではないというのが当時の見解であった。この見解は、当時箱館奉行として東蝦夷地の経営にあたっていていた羽太正養の『辺策私弁』に継承されていった。楽観論と呼べる松平定信の『非開拓論』によれば、(1)北辺の自然環境の厳しい蝦夷地の開発は容易ではなく、(2)そのまま放置する方が賢明であり、(3)たとえ異国人が東蝦夷地に侵入したとしても、彼等は長く大軍を留めることは不可能であり、(4)よって、異国から狙われることはないであろうという、危機意識不在のものであった。
 ところが、1793年、ラクスマンの来航に続き、ロシア人のウルップ島植民などロシア勢力の接近と、1796年~97年(寛政5年)の2回にわたるイギリスのウイリアム・R・ブロートンの室蘭(エトモ)来航は、単なる地理学的調査ではなく、『占領』を前提とする戦略的接近行動であることが認識されるようになるのである。
 食糧基地としての日本
 歴史的にロシアの海軍省は、日本を食糧基地として捉えていた。1802年のはじめにサルイチェフ提督が、オホーツクやカムチャツカ半島の植民地にヤクーツクから生活必需品を運ぶより、日本から食糧を仕入れた方が得策であることを海軍省に進言した。また、オランダとイギリスの東インド会社植民地を歴訪したクルーゼンシュテルンも、同年1月に、インドと太平洋諸国との貿易を推進する会社の設立計画を海軍省に提出した。
 この当時の国際情勢を考慮に入れた上で、露米会社は、同年7月29日に、ロシア初の世界周遊隊を太平洋に派遣して通商・航海の発展とフロンティア拡大を提唱する趣旨の申請書をパーヴェル1世の後を継いだアレクサンドル1世に提出した。この申請には、千島列島のウルップ島(ラッコ島)の植民地を強化し、千島アイヌ人の人々を通して、日本政府との交渉に備える方針など明記されている。こうして、アレクサンドル1世は、1802年レザノフに対し『露米会社』による世界周航船派遣の許可を与えたのである。
 これに加えて、アレクサンドル1世はその派遣を機に、対日接近戦略の執行手段として日本人漂流者を返還させることにした。これについては、レザノフと親しかったニコライ・ルミャンツオフからも提案され、彼はこれを機に日本との再交渉を行い『通商関係』を開くことの許可を1803年2月20日に皇帝から得たのである。
 因みに1778年の対日交渉、それに1792年のラクスマン中尉による対日交渉、またその後のシェリーホフによるウルップ島植民などは、1790年代の北太平洋のロシア領に課せられた諸問題を解決する方策として『領土拡大策』という国家戦略の一端として行われたものである。かれらの対日異文化接触は個別の現象ではなく、新植民地の当面する解決策として採られたものであって、相互に密接な関連を持っていった。歴史学者のレンセンは、帝政ロシアの『露米会社』の位置づけは、ロシアの北太平洋やハワイ、それにフィリピン諸島も視野に入れた『シー・パワー』構想に基づく領土拡大政策であると次のように述べている。
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 要するに、18世紀後半ロシアはジョン・C・ペリーの説く『大北方三日月地構想』(……)に相当する日本・千島・米国を包括する『大南東方三日月地構想』(……)を、国家戦略として打ち出していた(Tomlin,p2)と言えるだろう。
 ロシアの植民地獲得運動と北アメリカ北西部の魅力
 18世紀後半は200年にわたる欧米の植民地獲得運動のファイナル・ストレッチ(最終段階)にあり、アメリカ北西岸が列強の植民地獲得競争の終点となっていた。スペインは国力の限界まで植民地を拡大した結果、その維持が困難となっていたため、この時期にアメリカ西海岸のカリフォルニアに進出したのは、ロシア人の南下に刺激されたイギリスであった。
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 イギリスに対し、当時のロシアの地政学的戦略とパワー、それに経済活動はウラルより西にあり、北西貿易はロシアの中心から離れているために分が悪かった。ロシアは清朝とのルネチンクス条約(1689年)で、アムール川流域に対する請求権を放棄せざるを得なかった。アムール川領域は現代と同様に、当時も肥沃で広大な平地が広がり、冬は比較的温暖で、ロシアにとっては地政学的に、また農業面においても何としても手中に収めたい領域であった。さらに、その地は太平洋という大海への出口でもあった。
 南に向かうことを阻止されたロシアの領土膨張エネルギーは、北東部、すなわち『北アメリカ』へと向かうこととなった。ロシアの戦略では、河口を目指し、河口に沿いながらシベリアを横断し、オホーツクを目指した。これはかつての東方への膨張パターンを再現したものであった。ただし、ロシアにとっては、北アメリカまで進むには、太平洋を横断するための『シー・ルート』を確保する以外に方法がなかった。ロシアは1779年になってようやく、北アメリカにアレクサンドル・A・バラーノフを中心として植民地政府である『露米会社』を設立する。当時は、モスクワからロシア領アメリカまでは7カ月もかかった。ロシアにとっては、アラスカのシトカそれにコーディアからは、本国のペテルブルクよりもアメリカの西太平洋岸(……)の方が、距離的にも時間的にも近かったのである。
 アメリカはといえば、1785年までは、当時敵国であったイギリスを北太平洋の国際的な商業活動から締め出し始めていた。そして、ロシアの主な競争相手になっていた。
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 ところで、ロシアの北太平洋両岸に対する支配を刺激した要因は何であったのだろうか。次にそれに関して探ってみたい。
 キャプテン・クックとロシア
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……イギリスはロシアを敵視していたことを想起する必要がある。18世紀に日本がロシアの南下を警戒したように、ロシアもイギリスなどの列強が北太平洋地域に北上を続ける動向に対して警戒心を抱くようになり、防衛の必要性が現実の問題として浮上するのである。
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 ラーストチキンの秘密探検隊
 バーウエル・レベージェフ・ラーストチキンは、1775年6月5日、ムーヒンという商人にニコライ号を購入し与え、秘密探検隊を編成し日本探検を実行するように要請した。……
 (1)[ロシア・プロトジャーコフ隊の略奪とアイヌ人の人々の反撃を教訓とし、]アイヌの襲撃に対して十分な警戒を怠らない。(2)あくまで、自分達は商人とみせかけ、(3)日本人の防衛の実態を調査し、(4)ロシア移民のため、農地を調査すること。
 しかし、結果的に松前藩との直接交渉の試みは失敗に終わる。
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 露米会社と日本との関係
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 アレクサンドル1世は、1802年の7月29日に『露米会社』による世界周航船派遣に許可を与えた。また、その派遣を機に日本人漂流民の送還を『対日交渉』の『テコ』とし、日本との通商関係を開くことが、レザノフと親しかった商務大臣ニコライ・ペトロヴィッチ・ルミャンツォフから提案され、翌年の1803年2月20日にアレクサンドル1世の裁決を得たのである。
 クルーゼンシュテルンの構想とレザノフ遣日使節
 その後、1804年9月26日にレザノフが第2回『遣日使節』に指名され、皇帝の親書を携えて日本に交渉のため赴くこととなった。場所は江戸ではなく長崎であった。
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 歴史学者のレンセンは、帝政ロシアの『露米会社』の位置づけと、ロシアの北太平洋やハワイ、それにフィリピン諸島も視野に入れた『シー・パワー』構想に基づく領土拡大について次のような分析を行っている。
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 なお、レザノフの長崎交渉は前述したように失敗に終わる。レザノフ事件は、日本人が鎖国以後に最初の欧人との交戦となった事件である。しかも、日本にとって完敗に終わった衝撃的な事件であった。
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 露米会社の衰退
 アレクサンドル1世の『植民地鎖国令』は、千島方面におけるロシア領についてウルップ島を南限としていたが、『露米会社』の衰退はロシア政府の『対日通商行為』をも鈍化させた。その後日本の北辺地域に静寂が戻った。幕府は1821年12月7日、蝦夷地の直轄を止めてこの地を松前藩に返却した。その一方で、日露関係の沈静化とは逆に、日本の周辺には欧米列強の異国船が出没するようになった。
 しかしならが、他の利益を得ていないロシアは物資供給と毛皮売却の点においても、周航船以外の広東、ハワイ、カリフォルニアにおける貿易のすべて英米船に依存しなければならなかった。特にハワイは農産物も豊富であり、造船材料も入手できるという関係上露米会社はハワイ諸島のカウアイ島の部族長に交渉し、ワイナア湖畔に植民地村を設け要塞まで築いた。しかし、カメハメハ1世の知る所となり、アメリカ側の援助を得た王の為にロシア側は撃退された。ロシアはフィリピンとも貿易を試みたこともあったが、これも失敗に終わった。
 このため露米会社は、苦境を打破するために対日交渉に深い関心を持たざるをえなかった。
 しかし、日本政府は漂流民の受け取りを拒絶して、いきなり大砲を打ち出したのでオルロフは漂流民を択捉島のフルベツ村付近に上陸させて帰帆した。ロシア側の最初の試みは失敗に終わったが、露米会社の方針は変わらなかった。
 ガバリーロフの北海道接近の試み
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 幕末の日本人が観たアメリカの露米会社
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 アレクサンドル1世はバラーノフの死後、英米資本との競争と圧迫に対し1821年9月21日に、ロシアの権益擁護のため従来の提携妥協路線を改め、植民地海域における外国船の来航や企業の進出を禁止することを決定した。これが、いわゆるロシアの『植民地鎖国令』と呼ばれるものである。
 しかしながら、この『植民地鎖国令』はかえってイギリスやアメリカの反発を生み、露米会社の経営の悪化をもたらす結果となった。これに対して、アメリカは1823年に『モンロー・ドクトリン』を発し、露米会社のアメリカ大陸における活動に釘をさした。その後1824年と翌年の25年の『対米英協約』によって、ロシアの北米植民地は削滅された。それに加えて、ロシア植民地におけるアメリア資本の通商活動も容認されず、露米会社の存続は不可能となったのである。クリミア戦争に大敗を喫したロシアが1867年にアラスカをアメリカに売却すことになる素因は、この時にすでに作られていた。」
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新書版 黒船前夜 (新書y 330)
「新聞」で読む黒船前夜の世界
サムライ異文化交渉史
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 歴史嫌いな現代の日本人が、ペリー黒船艦隊やハリス総領事との日米交渉を日本の開国と近代化と信じ込んでいるうちは本当の歴史が理解できない。
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 第9条憲法を信奉する日本人達は、平和を維持し戦争を絶対しないと為に武器を捨てて侵略軍に降伏し、侵略者による如何なる理不尽な要求でも無条件に受諾し言われるがままに従い献上する。
 それが明らかになったのは、ロシア軍のウクライナ侵略における左派系メディアの犠牲者を出さない為の降伏論、譲歩論、妥協論である。
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 江戸時代後期から始まった西洋の東アジア侵略に、徳川幕府水戸藩そして一部の下級武士・庶民は気付き危機感を抱いたが、清国(中国)や朝鮮は知らなかったし知ろうとも思わなかった。
 その認識のズレは昭和前期まで続き、その結果として、日本を破滅的大惨事が襲った。
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 1737年 元文の黒船。
 1792年 寛政日露交渉と攘夷運動。
 1807年 文化露寇事件と徳川幕府蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)。
 1854年 ロシア軍艦による対馬一部占拠と半永久的租借(植民地)要求事件。
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 1840年~42年 阿片戦争
 1853年 ペリー黒船艦隊の日本来航。
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 1868年 明治元年
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 2022年 ロシアは、領土拡大目的でウクライナを侵略し、反ロ派ウクライナ人を虐殺している。
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 北海道や北方領土4島の価値観、戦略的重要性は、江戸時代後期の日本人の方が現代の日本人よりよく知っていた。
 その証拠が、現代、中国資本による北海道の国土の爆買い、各地での外国人移民(特に中国人移民)急増である。
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 歴史的事実として、ロシアは常習犯的にウソを付き人を騙し約束を破る信用できない国であり、狂喜して戦争を繰り返し、悪鬼の如く略奪し、猟奇的な虐殺を行う、人命・人権・人道なき非人間的な怖ろしい敵であった。
 その典型的な凶暴ロシア人が、ロシア人共産主義者であった。
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 現代の日本人と昔の日本人の違いは、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を持ち、集めた情報から国際的地政学・世界情勢を正しく理解し、信念・思想・哲学を持って対策を立て、未来を見据えて惑う事なく実行しているかどうかである。
 つまり、外国語が話せるではなく、世襲・非世襲も関係なかった。
 現代の日本人が江戸時代後期に行って当時の日本人の様に活躍できるかと言えば、それは不可能で、なぜ不可能かと言えば当時の日本人に比べて現代日本人は「能力」はもちろん「教養」「知性」がない、それ以上に「平和と安寧、生存と存続の為に戦争をして死ぬ覚悟」がないからである。
 つまり、歴史力・宗教力のない現代の日本人には、昔を、昔の日本人を語る資格がない、という事である。
 現代の日本人とは、1980年代以降の日本人の事で、「戦争を知らない人間が日本をダメにする」としたり顔で説教する戦後民主主義教育を受けてきた団塊世代団塊ジュニアの左派系メディアで人気がある文化人・知識人・教養人・学識者・有識者・他の事である。
 昔の日本人は現代の日本人とは違い、その証拠が日露戦争領土拡大侵略戦争説と靖国神社問題である。
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 何故、日本が東北のロシアを恐れたかといえば、東北は丑寅の方角で陰陽道で言う所の鬼門で、鬼門から現れたロシア人は紛れもない厄をもたらす鬼であった。
 鬼門から現れたロシア人(西洋鬼・白人鬼・キリスト教邪教鬼)に対し、朝廷と水戸学信奉者達は陰陽道から怨敵退散の攘夷論を唱えたが、徳川幕府は日本統治者として現実を見据えて対応し迷信に近い陰陽道による縛りは弱かった。
 何故、日本人がロシア人に比べてアメリカ人・イギリス人・フランス人を恐れないのかの原因はここにある。
 つまり、鬼畜米英と叫んでアメリカ人・イギリス人を憎んでも、鬼門から現れたロシア人ほどに恐れ憎みきれないのはこの為である。
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 ロシアは平和的友好的交易を求めて日本に来日したが、日本はロシアの軍事侵略の前ぶれとして恐怖し警戒した。
 事実、ロシアは完全武装の軍艦1隻もしくは数隻の艦隊で蝦夷地に現れ、今は戦争しなくても後で戦争を仕掛ける危険性があった。
 ロシアは、相手が自分より弱い或いは相手の中に味方してくれる者がいるとわかれば容赦なく侵略しするという、ずる賢さがあった。
 つまり、対日戦略には日本侵略と日本植民地化が含まれていた。
 徳川幕府水戸藩吉田松陰尊王派・勤皇派、愛国主義者・民族主義者の判断は正しく、現人神天皇と神国日本を武力で守るという「攘夷」は間違っていなかった。
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 ロシアの対日戦略は、時の皇帝や大臣、総督、艦長等によって「友好と恫喝」がコロコロ変わり、最後的にはロシアの好戦・日本の避戦で日露戦争へと突入した。
 弱小国日本にとって、軍事大国ロシアとの本格戦争は十中八九負ける戦争で、できれば戦争はしたくなかったが、武士の覚悟として「降り掛かる火の粉」は自らの手で火傷をしても払い除けなければならなかった。
 現代の日本人が信仰のように信じ切っている「日本が武器を捨て戦争をしなければ戦争は起きない」は、バカげた、くだらない話である。
 現代日本には、名誉と土地を守る為に死を覚悟して戦う・戦争をする武士や百姓はいない。
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