⚔23)─1─日本の戦国時代は世界でも特殊な「商取引の時代」であった。~No.95No.96 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年7月25日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「戦国合戦の兵糧問題、現地調達=略奪だったのか?「禁制」から読み解く実態
 甲府駅前の武田信玄像(山梨県甲府市) 写真/アフロ
 戦国時代の「禁制」とはどんなものだったのか? 
 話題を呼ぶ歴史家の乃至政彦氏の新刊『戦国大変』では、「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。
 今回はそんな『戦国大変』について読者から寄せられた質問、「禁制」と「兵糧問題」について聞く。
 問い 戦国合戦において、戦いが長引いた場合、兵糧の現地調達、略奪が行われていたと聞きますが、それは本当でしょうか?  実際はどうだったのでしょうか? 
■ 日本の戦国時代は「略奪社会」だったのか? 
 『中世への旅』(ハインリヒ・プレティヒャ著 白水社)という西洋史のシリーズが話題になっているのですが、そのなかに「農民戦争と傭兵」という一冊があります。
 そこには戦時の兵糧問題について書かれているのですが、では、戦国時代の兵糧事情はどうだったのかと探ってみたところ、どうも日本の戦国時代は、海外とは違うようだということが見えてきました。
 日本の戦国時代でも、後方から兵糧を支援したり、兵糧を現地で調達するということがあったとされており、特に最近は、現地調達で兵糧をおぎなった比率が高かったのではないかといわれています。
 現地調達とは、つまり、現地で略奪をするということです。戦国武将は戦いの際に、略奪することで、自分たちに必要な物資(兵糧・武器・道具など)を揃えていた。そんな解釈が、最近、主流になりつつある感じがしています。
 ただ、じつは、これには史料的な根拠がありません。戦国時代には、そういった記録が、あまりないのです。
 では、実際は、どういうことをおこなっていたのか。
 また、何故こういった説が出てきたのかというと、各地の戦国大名が戦場ならびにその周辺地域で出した、「禁制」にあります。
 禁制には何が書かれているかというと、攻め込む側の大名や武将が、「現地で破壊行為をするな」「火をつけるな」「伐採をするな」「奪うな」などといったことを約束したということが、書かれています。現地の村や集落、お寺や神社で、禁制事項が書かれた文書を、「高札」にして掲げるわけです。
 この禁制が史料として現存していることで、「ということは、この禁制が出されていないところでは、略奪がし放題だったのだな」という解釈が成り立ち、戦国時代では、「略奪が当たり前だった」というイメージが、広く一般にも定着してきています。
 「押買禁止」と「商売繁盛」
 ただ、この禁制をよく見ると、「押買(おしがい)をするな」ということが、書いてあることが多いのです。
 押買というのはなにかというと、たとえば、コンビニに行った時に、100円で売っている品物があったとします。この100円の品物に対して、1円だけ渡して持っていってしまう。これが押買で、不当な取引です。
 また、店員さんが私物のペンを持っていたとして、「これ買うよ」といって100円を渡して、勝手に持っていってしまう。商品ではないものに対して、お金を無理矢理押しつけて、持っていってしまうわけですから、こういう強引な取引も、押買になります。
 また禁制は、どのように出されているのか。研究によって明らかにされているのですが、村や町人の代表者、あるいは、お寺や神社などの代表者が、攻め込んでくる大名や武将に、「禁制を出してください」と申し出ます。物品やお金を出して、「ウチで、こういうことをさせないように、禁止令を出してください」というわけです。
 戦場での略奪を防いでもらうために、お金を払って、自分たちの安全を守ってもらっていたのだという解釈が一般化されました。ここから、戦国の軍隊というのは、略奪が当たり前で、それを見逃してもらうためには、金品を支払う必要があったのだという見方が強くなっています。
 ただ、私は、これは逆だったのではないかと思います。
 禁制を出してもらおうという、集落の代表者や寺社の人たちを見ると、どうも貧しい感じではないわけです。少なくとも、賄賂ではないものの、相手にお金や物品を差し出すわけですから、ある程度、豊かなわけです。
 そんな彼らがなにをしていたのかというと、じつは営業をしていたのではないでしょうか。
 彼らは、まず「禁制を出してください」とお願いをします。そして、禁制が出たら、これを集落の辻や寺社の門前に掲げるわけです。「どこどこの軍隊は、こういうことをしてはいけません」と書かれた禁制を掲げます。するとどうなるかというと、その軍隊が来た時に、なにも破壊されることなく、安心して自分たちのところに、兵隊を宿泊させることができます。
 戦国時代も後期になると、合戦のための軍勢というのは、何千、何万と来るわけです。彼らが来た時に、宿泊施設を提供し、さらに食料も提供する。もちろん、押買を禁止するわけですから、正当な取引が保証されています。ということは、そこで大儲けができるわけです。
 つまり、戦国時代の禁制というものは、営業の所産であったといえるのです。戦国時代に禁制が残されているということは、戦争を利用して儲ける人たちがいたという証拠なのです。
■ 「奪う」より「取引」の時代
 戦国時代というのは、100年くらい続きましたが、100年もの間、略奪などの行為をつづけていては、社会が成立しないでしょう。民衆は、合戦によって、破壊されたり、奪われたりされるばかりではなかったのです。
 たとえば、ある国の軍隊がやってくる。その時に、略奪が横行しているのであれば、「奪われるくらいなら逃げよう」となるはずです。しかし、民衆は逃げずにその場に留まって、上手く儲ける方法を考えていたわけです。その仕組みが、戦国時代の兵糧の問題を解決しました。戦国大名は遠征先でも、物資を奪っていたのではなく、取引をしていたわけです。
 現在、放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康正室瀬名姫(築山殿)が、「戦国時代は、奪うのは当たり前だけれども、そんなことをせず取引をして、あの人が、食料がないのだったら、食料をあげなさい。ウチが、食料がないのだったら、食料をもらいなさい。その代わり、それに値するものを差し出しましょう」と提案する場面がありました。
 まさにこれと同じことが、戦国時代に行われていたのです。
 室町時代の「応仁の乱」は、1467年から11年もの間、京都で二大勢力が争っていました。この時、京都の建物が、いくつも破壊されました。しかし、京都は京都として、なんの機能も失われませんでした。
 京都というのは基本的に、米が集まるところなので、そこにいた大名の軍勢は、兵糧を奪ったり、本国から兵糧を送ってもらわなくても、お金を支払うことで米を調達できたのだと思います。
 現地でお金を払えば、普通に兵糧が手に入るわけですから、略奪をする必要がないわけです。逆に言うと、日本の戦国時代は、これが当たり前だったので、西洋の戦争とちがって、兵站(後方から物資を輸送してもらう)というものの位置づけが低いのです。
 戦国の合戦でも、兵糧の輸送についての史料はありますが、特殊な状況に置かれたケースの話が多いような気がします。
 たとえば、孤立した城。城が敵軍に囲まれてしまったら、さすがに誰とも取引ができなくなります。そこで、味方が兵糧を運び込むわけです。つまり、禁制を出して、宿泊所や市場を確保できない場合は、仕方ないから、後方から物資を送ります。
 応仁の乱以降、日本の戦国大名たちは、戦場で兵糧をどうやって手に入れるのかということを、禁制を通じて覚えていきます。当然、庶民たちも、戦国大名の軍勢に兵糧・物資を売れば「儲かるぞ」と考えます。これを日本中が、学んでいくわけです。
■ 世界でも特殊な日本の「戦国時代」
 戦国時代、100年くらい続きましたが、紛争の理由は、様々であっても、争った人々は、同じ日本に住み文化を共有する、ふだんから顔を合わせる人同士でもあったわけです。
 戦国時代においても日本人は、基本的に、社会を、それほど壊しませんでした。
 その一方で、商人など、戦乱の時代であることを利用して、儲ける人がいました。その商人と密接に結びついた、人たちもいました。この人たちは、ある意味では商人を利用して、自分たちが生活しやすいように、適応してしまいました。日本人が、戦争に適応してしまった時代というのが、戦国時代なのです。これが西洋の異国同士の争いだと、お互い文化が違う国同士だから、こういうことには、ならないのだろうと思います。
 日本の戦国時代のことを考えるときに、外国の戦争のイメージを、そのまま当てはめると、だいぶ、違って見えてくるのではないかと思います。日本国内の国盗り合戦と、西洋の国家間の戦争は、まるで異質のものといえます。外国の戦争を基準に見てしまうと、戦国時代というものは見えにくくなると思います。
 そもそも、戦国時代という言葉にとらわれすぎるのも、よくありません。歴史教科書では、基本的には、戦国時代という表現は避けていて、「室町時代」や「安土桃山時代」などと表現されています。戦国時代というのは、あくまで中世の延長であり、近世(江戸時代)の前である、その中間にある時代が大きく動いている時期だと考えるのが、いいのではないかと思います。
 その戦国時代の間に定着した、戦争を前提とする社会が、江戸時代でも、ある意味では続いていたわけです。
 たとえば、参勤交代の大名行列というのは、戦国時代の大名の軍勢が動くのと同じです。何千という人が、大量に移動します。移動先にいる民衆はどうしたかというと、「ウチの宿に泊まってください」と、熱心に営業活動を行いました。そして、「ウチの宿は、なになにさんという大名がよくお泊まりになる本陣だ」と誇らしげにし、こうして宿場町が、どんどん栄えていったのです。
 江戸時代には、戦国時代の名残があります。これが日本の文化を見る上で、面白いところだと思います。
 戦乱の時代というと、血なまぐさい、非生産的な時代と見るような傾向もあるでしょうが、社会というのは、そんななかでも成り立っていく。そんなことを、戦国時代は、我々に示してくれています。(構成/原田浩司)
乃至 政彦
   ・   ・   ・