⚔2)─1─戦国時代は地獄。戦乱に地震、台風、飢饉、疫病そしてキリスト教の宗教侵略。~No.2No.3No.4 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦場で日本人が最初に使った鉄砲は、南蛮ポルトガル製火縄銃「種子島」ではなく、応仁の乱における明国製石火矢銃「三目銃」であった。
   ・   ・   ・   
 2020年7月6日 YAHOO!JAPANニュース「地震、飢饉、疫病が続発し、南北朝から戦国時代へと乱世が続いた室町時代
 (提供:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)
 南北朝から戦国時代へと続く乱世の時代
 室町時代の災禍について紹介する前に、歴史を簡単に復習しておきます。足利尊氏の裏切りと新田義貞による攻撃で鎌倉幕府が滅亡し、1334年に後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりました。ですが、天皇中心の政治に武士の不満が高まり、尊氏が都を奪い、武家中心の社会に戻りました。尊氏は後醍醐天皇に対抗して光明天皇を立てたため(北朝)、後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝)、1336年に南北朝時代が始まります。
 尊氏は守護の権限を拡大して各地の武士をまとめます。守護は後に守護大名化します。国人と呼ばれた土着の武士は集団化し、後に戦国大名になっていきます。農村でも、荘園などの内部で農民たちが自立的・自治的な惣村を作り集団化しました。また、貨幣経済の浸透で商工業が栄え、流通も盛んになりました。
 こうして、社会が多様化し、民衆の力が高まりました。その結果、幕府の力が弱まり、飢饉も頻発して、土一揆国一揆一向一揆などが各地で起き、社会が乱れました。そして、足利義政の跡継ぎ争いや、守護大名間の勢力争い、守護大名家督争いなどが絡んで1467年に応仁の乱が始まり、戦火が全国に広がりました。応仁の乱守護大名が出陣したため、各地では、留守を預かった守護代や国人が力を持ち、下剋上が起こり、戦国時代につながりました。これらの背景には、すさまじい災害と疫病、飢饉があったようです。
 北条の反乱のさ中に鎌倉を襲った大風
 鎌倉幕府の執権だった北条高時の遺児の北条時行は諏訪に逃れていましたが、1335年に足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府の再興を企てました。まさにその時に暴風雨で大仏殿が潰れ、大仏殿に逃れた500人が命を落としたと言われています。大風が吹かなかったら、時代は変わっていたかもしれません。
 この争乱は中先代の乱と呼ばれ、後醍醐天皇の命を受けた尊氏によって鎮圧されます。翌1336年には、尊氏らが京都に戻って建武の乱を起こし、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を始めます。尊氏は、建武の式目を発表し、1338年に征夷大将軍になって室町幕府を始めました。尊氏は、鎌倉幕府後醍醐天皇を裏切ったため、余り人気が無いようです。
 南北朝の内乱の時代に起きた疫病の頻発と南海トラフ地震
 南北朝の時代は1392年に足利義満によって合一されるまで、約60年続きました。この間、南朝では8回、北朝では17回の改元が行われます。その内、災異改元は、南朝が4回で、天変が2回と兵革が2回、北朝は10回で、重複はあるももの、疫病に関わるのが8回、天変が7回、兵革が6回あります。すなわち、南北朝の60年は疫病と天変と内乱の時代でした。
 1361年8月3日には南海トラフ沿いで正平・康安地震が発生します。正平は南朝、康安は北朝元号です。奈良や大阪、熊野で堂塔が倒壊、破損し、和歌山の湯の峯温泉が涸れるなどしたようです。また、高知、徳島、大阪での津波の記録も残されています。南海地震側の震源域の被害記録が多いようですが、最近、各種のデータから東海地震も連動したと考えられるようになりました。また、この地震の1年前に津波を伴う地震があり、3日前と2日前にも京都が強く揺れる地震がありました。これらが同じ震源域内の地震かどうかは不明ですが、もしも震源域周辺の地震だったとすると、南海トラフ地震臨時情報の活用が期待できることになります。正平・康安地震や疫病、兵革もあり、1362年に北朝元号が康安から貞治に改元されます。
 ちなみに、ヨーロッパでは、この南北朝の時代に、1339年から英仏間で百年戦争が始まり、1347年にはペストが蔓延し、ルネッサンスの時代へとつながっていきます。
 応仁の乱に至る間の地震、飢饉、疫病による混乱と一揆
 南北朝の時代が終わった後、室町幕府は、応永の乱で大内義弘を討つなどして守護大名の力を削ぎ、明との勘合貿易などで豊かになって、安定期を迎えました。その中、1408年に紀伊や伊勢に被害を出した応永地震が起きています。
 その後、1419年に洪水や大風・干ばつなどが、1420年に大干ばつが発生し、凶作で応永の飢饉が起きました。さらに1428年にも2年続きの飢饉が起き、農民が徳政を望んで正長の土一揆を、翌年には播磨の土一揆を起こしました。1438年にも飢饉や疫病が起き、1441年に嘉吉の徳政一揆が起きます。この年には、播磨の守護の赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱も起きました。さらに、1445年には諸国を台風が襲い、1446年は大洪水、1447年には大風、洪水、干ばつなどがありました。このため、凶作と疫病で文安の飢饉となり、徳政を求めて文安の土一揆も起きました。
 東国での地震、争乱と応仁の乱
 関東地方では、1433年に永享相模の地震が起き、1436年には鎌倉で大火があります。さらに、1454年には東北地方太平洋沖を震源とする享徳地震が発生します。この地震東日本大震災と同様の超巨大地震です。直後には、鎌倉でも大地震があったようです。こういった中、関東地方を中心に戦国時代の先駆けともいえる四半世紀に及ぶ享徳の乱が始まります。
 関東での争乱の中、1459年の干ばつと台風、1460年の大雨洪水、冷害、バッタの蝗害(こうがい)などが重なって各地で凶作となり、長禄・寛正の飢饉が起きました。飢餓に陥った人が都に集まり、飢えと疫病に苦しんで大量の犠牲者が出ました。この中、寛正の土一揆が起きます。そして、混乱が続く中、1467年に応仁の乱が始まり、都は焼け野原となります。
 地震だらけだった戦乱の時代
 応仁の乱終結した後、1485年に山城の国一揆が、1488年に加賀の一向一揆が起き、1493年の明応の政変の後、本格的な戦国時代に突入します。この戦乱の中、大地震が続発します。1495年9月12日に明応鎌倉地震が起きました。一説では、この地震津波に乗じて、戦国大名北条早雲小田原城を奪取したともいわれています。鎌倉大仏殿が津波で破壊されたとの説もあり、相模トラフ沿いの地震の可能性も指摘されています。ただし、いずれも諸説あるようです。もしもこの地震が相模トラフ沿いの地震だとすると、1293年永仁鎌倉地震、1703年元禄地震、1923年大正関東地震と、200年に一度くらいの頻度で地震が起きていることになります。
 1498年には7月9日に日向灘地震があり、9月20日には南海トラフ沿いで明応地震が起きます。被害は甚大で、安濃津浜名湖津波被害などが、伝えられています。ですが、戦乱の時代の中のため、その真偽は良く分かりません。相模トラフ沿いと南海トラフ沿いの地震が3年の間隔で発生したとすると、1703年元禄地震と1707年宝永地震と同様の連続発生だったことになります。
 その後、1502年に越後南西部での地震、1510年に摂津・河内の地震、1520年に紀伊半島や京都で被害が記録される永正地震などの被害地震がありました。また、1535年には美濃で大水があり2万人が犠牲になったとの記録もあります。ただ人数が多すぎる気もします。斎藤道三と土岐頼純が激突し戦火が広がっていたさ中の洪水です。
 さらに、1539年に大雨・洪水、蝗害で飢饉が発生し、1540年にも大雨・洪水や疫病流行などが起き、天文の飢饉になりました。畿内では、1544年、1557年にも洪水が起きたようです。そして、1560年に今川義元織田信長が雌雄を決した桶狭間の戦いを迎えます。
 大航海時代のヨーロッパの影響が日本に忍び寄る
 明応地震が起きた1498年は、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開いた年です。これ以降、ヨーロッパと東アジアが海路で結ばれ、香辛料やお茶などの交易が盛んになります。また、1492年にコロンブス西インド諸島を発見し、コロンブス交換が起こり、アメリカ大陸から梅毒が欧州に伝わり、逆に天然痘などがアメリカ大陸に伝わりました。この天然痘によって中南米アステカ文明とインカ文明が滅びました。1521年にスペイン人のコルテスが中米のアステカを征服し、1533年にピサロインカ帝国を滅亡させます。マゼランの率いたスペイン艦隊が世界一周を成し遂げたのは1522年です。日本が戦乱に明け暮れる中、世界は大航海時代に突入しました。また、ルターが1517年に95か条の論題を発表して宗教改革を始め、欧州は大きく変貌していきます。
 その影響は、日本にもやってきました。アメリカ大陸から伝わった梅毒が倭寇を介して日本にも伝染し、1512年に流行を起こしました。有名な戦国武将の浅井長政加藤清正も感染したようです。また、1543年に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、1549年には、宗教改革に対抗するイエズス会フランシスコ・ザビエルキリスト教を伝えます。そして、織田信長豊臣秀吉徳川家康による天下統一へと時代が進んでいきます。
 様々な災害や感染症、西洋との関りを考えることで、室町時代の歴史の変遷が分かりやすくなるような気がします。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。」
   ・   ・   ・   
天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書)
オランダ商館長が見た 江戸の災害 (講談社現代新書)
マンガでわかる災害の日本史 (池田書店のマンガでわかるシリーズ)
   ・   ・   ・   
 戦国時代は戦乱と災害で地獄であった所に、海の向こうから「神の御名」によって日本人を奴隷として売り買いするキリスト教が宗教侵略してきた。
 自分だけ得をすればいいと考える貪欲・強欲な日本人は、戦場で「乱取り」を行い、逃げ惑う女や子供を捕らえて人買い商人達に奴隷として売って金を稼いでいた。
 親鸞は、えげつない日本人の本性を嘆くが、何とかして衆生を救うべく仏・阿弥陀の恩徳に縋るべきだという他力本願の「悪人正機説」を説いた。
 キリスト教禁教とキリシタン弾圧を行ったのは、日本仏教であった。
   ・   ・   ・   
 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
   ・   ・   ・   
 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
   ・   ・   ・   
 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
   ・   ・   ・