🏯15)─1─古代から中世へ、官軍だった日本軍が私兵=武士になった理由。~No.27No.28 * 

         ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年4月12日 MicrosoftNews JBpress「古代から中世へ、官軍だった日本軍が私兵=武士になった理由
 © JBpress 提供 「男衾三郎絵詞東京国立博物館蔵 出典:Colbase 男衾三郎の屋敷の前で通行人が襲われている。彼らは弓矢の的として狙われた。
(乃至 政彦:歴史家)
 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代天皇行幸から、織田信長明智光秀伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、第二章「中世初期の兵科別編成」の内容を抜粋して紹介する。
 中国・韓国と日本の朝廷の違い
 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、武士たちがやりたい放題に動いている。
 これを見て不思議に思わないだろうか。中国や韓国の時代劇や歴史劇を思い浮かべてもらいたい。そこに日本の武士のような存在はない。武士たちは私兵である。
 そんなものが土地を持ち、その奪い合いに執着して互いに争う。あるいは首都の治安を担当しようとして権力闘争をする。
 中国や韓国の朝廷のようにちゃんとした官軍がいたら、地方で私兵を養う豪族たちがこのように振る舞えるわけではない。
 ところが中世日本の場合は、そうした官軍どころか警察らしいものも姿が見えない。これはどういうことだろうか。
 武士登場以前の古代兵制
 武士が登場する以前、7世紀から10世紀過ぎまでの日本は、中国・朝鮮との緊張関係から、大陸の軍隊と比肩しうる画一的な軍隊を創出しようとしていた。そこで大陸風の軍隊が導入された。五人隊長や千人部隊など、五人単位による隊伍と隊列が整備されたのだ。そこで日本では中国式の編成方式をそのまま継受することにした。俗っぽく言えばパクりである。
 当時の軍隊構成を記す『養老令』宮衛令によると、「一隊」は「先鋒」25人と「次鋒」25人の2陣、合計50人で構成されている。さらに軍防令の「軍団大毅条」には、「軍団は大毅が1000人を統率し、少毅がこれを補佐する。校尉は200人。旅帥100人。隊正50人」とあるが、唐(中国)の軍令にも「校尉が衛士200人の団を有し、隊正は50人の隊を有する」という同式の軍制(『唐令拾遺』)があり、これをそっくり受け継いだことは間違いない。
 だが、日本は軍隊の強化と並行して対外関係の改善に努め、中国や朝鮮との全面戦争を回避することに成功した。こうして仮想敵国を失った古代日本の軍隊は、その矛先を西側ではなく東側へと転じる。そこには蝦夷があった。
 古代日本の軍隊は蝦夷への侵略を進めるが、ひとつの壁に突き当たる。蝦夷軍が単一国家ではなく、各地に点在する武装勢力の連合だったのだ。蝦夷軍は少数精鋭の散兵である。これと戦うには、密集隊形へのこだわりを捨て、散兵であたるのが望ましい。
 そこで日本は新たに健児を主体とする軍隊を作り出す。
 宝亀11年(780)3月の『続日本紀』に「殷富百姓才身堪弓馬者」(弓馬を使いこなせる富裕な地主)と記される彼らは、官製の訓練を施されたマニュアル通りに戦う普通の歩兵ではなく、現地で力をもつ富裕な百姓からなる少数精鋭の騎兵であった。
 今でいうなら、資本家としての不動産などによる所得があって、豪邸に住み、高級スポーツカーを乗り回し、スポーツジムや道場に通うような強壮の民間人である。ただし古代の富裕な百姓たちが乗り回すのは、スポーツカーではなく軍馬であった。バットモービルを乗り回すブルース・ウェインよろしく武装する資金と鍛錬する時間を得られし者たち。それが武士の前身として現れたのである。
 最強ヒーローチームがすぐそこにいたのだから使わない手はない。ここから朝廷は、官軍や警察の機能と運用を、民間に丸投げすることになる。かれらに任せれば、もう全て安心だ──と思っていたら、そうもいかなかった。
 武士の時代と兵制の変化
 武士たちに力を与え過ぎたのはやはりまずかったらしい。平将門の乱平忠常の乱、前九年後三年の乱などを経て、保元元年(1156)の乱により、とうとう「武者ノ世」という恐ろしい時代を迎える(『愚管抄』)。こうして生まれた武人社会は、六波羅探題鎌倉幕府→足利幕府→戦国大名→豊臣政権→徳川幕府などとその主体を変えながらも中世から近世までを支配することになる。“武家政権”の時代が来てしまったのだ。
 武士というのは、このように私領を有する富裕層が私兵を養い、私闘を行う武装勢力として生まれ、向かうところ敵なしの状態に乗じて、ついには天下を乗っ取ってしまった。
 武家政権は、朝廷が武士の代表機関である幕府をコントロールする体裁によって政体が保たれた。朝廷の視点で見れば、武士の闘争はどれも内々の私戦で、例えば天下を揺るがした源平騒乱(12世紀後期)や、関ヶ原合戦を中心とする慶長庚子の大乱(16世紀末)も、国家規模で俯瞰すれば、単なる軍閥同士の内輪もめである。
 武家政権を確立させたいわゆる“源平合戦”は、中小規模の私戦が積み重なることによって得た実力を朝廷に追認され、源氏側が平氏政権を討ち滅ぼす戦いだった。
 元寇の戦争も戦闘を主導する武士たちが高名な用兵家によって統制されていたわけではない。彼らは、国家のために誰かに命じられたまま一糸乱れず進退するのではなく、「弓矢の道、先をもって証となす。ただ駆けよ」とおらびあげ、勇気を振り絞り、力を合わせて、異国の軍隊を追い払ったのである。
 もちろんそこには伝統化された激闘の経験智が蓄積されている。中世日本の築城技術、武装および兵制を軽くみる歴史研究家も多いが、もう少し軍事研究史の専門家たちの指摘に目を向けるべきだろう。
 漫画やドラマでは鎌倉時代から江戸時代まで武士の兵制にあまり変化がなさそうに見えるようなところがあるが、実際はそうではない。日本の武士は、常に現場に最適な軍隊のシステムを模索して、発展を繰り返しており、戦国時代、豊臣時代、江戸時代の武士による兵制は、全体で見ても細部を見てもまるで違っている。この点、シンクロナスで順次掲載中の『戦う大名行列』でも具体的説明による説明を展開しているので、中世軍事史に関心のある方はぜひご覧になってもらいたい。
 © JBpress 提供 乃至政彦著「戦う大名行列」(SYNCHRONOUS BOOKS)。「歴史ノ部屋」会員はweb版の全編をご覧いただけます。
 【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。
 【歴史の部屋】
 https://www.synchronous.jp/ud/content/613ae89077656127a1000000
   ・   ・   ・ 
 血と死を「穢れ」として忌み嫌うのならば、戦争・合戦で敵と定めた人を殺して領地を奪う事は最悪な非人道な所業であり、それ故に人殺しを生業とする武士(職業軍人)は最も穢れた「卑しい人間」である。
 武士とは、人の恨みを買い、怨霊に祟られている、罪深い人間である。
 穢れ信仰・怨霊崇拝からすれば、武士は救いようがない非人間である。
 つまり、偏見を持って差別されるべきは、部落民ではなく武士である。
 歴史的事実として、平安時代までの武士は地下人として軽蔑され冷遇されていた。
   ・   ・   ・  
 武士の台頭による源平合戦鎌倉幕府とは、朝廷・公家・中央・近畿・西国に対する武士・地方・関東・東国による身分革命であった。
 日本の身分革命は、世界の階級闘争革命とは違っていた。
   ・   ・   ・   

  
戦う大名行列 (SYNCHRONOUS BOOKS)