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2023-01-30
💖目次)─8─近代天皇と軍部・陸軍の人道貢献・平和貢献。現代日本人は人助けが苦手。~No.1 *
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2023年2月28日 MicrosoftStartニュース Forbes JAPAN「戦中にユダヤ人難民を受け入れたメモリアル 神戸市の歴史的石垣に脚光
多名部 重則
https://images.forbesjapan.com/media/article/61216/images/main_image_6e666c208ad7b7a1769bc693b438bdea517c4887.jpg 第二次世界大戦中の1940年、リトアニアのカウナス領事館の杉原千畝(すぎはら・ちうね)は、ナチスドイツから迫害を受けた難民たちの窮状を知り、本国外務省からの訓令に反して、日本への一時入国を認める通過ビザを発給した。
後にこのビザは、「命のビザ」と呼ばれ、約5000人のユダヤ人難民の命を救ったとされ、彼の勇気ある行動は世界的に称賛されている。
ビザを得たユダヤ人たちは、シベリア鉄道を使ってソ連(現ロシア)のウラジオストクを経て、船で福井県敦賀市にたどり着いた。そのあと、ほとんどのユダヤ人たちが神戸へと移った。
そして、この地で数カ月から1年ほどを暮らし、米国、カナダ、上海など受け入れ体制のある第三国へ旅立ったといわれている。
きっかけは杉原千畝の母校からの電話
そんなユダヤ人たちが神戸で生活していたことを伝える「石垣」が、いま注目を集めはじめた。
というのも、第二次世界大戦中に大空襲を受けた神戸には、彼らが暮らしていた痕跡をしめす建物がまったく残されていない。だが、ユダヤ人難民の支援拠点であった「神戸ジューコム」がこの石垣の西側にあったことで、2年前からこの場所が知られるようになってきたのだ。
石垣のある場所は、異国情緒あふれるレトロな北野の街にあり、外国人異人館がたくさんあり、観光客が多いエリアだ。
石垣がクローズアップされるにあたり、キーパーソンとなったのが福岡美和だ。彼女は敷地内にこの石垣がある学校法人コンピュータ総合学園で事務長代理を務める。彼女の義理の父がこの学園を開園している。
学校法人コンピュータ総合学園事務長代理 福岡美和
福岡の話によれば、きっかけは2018年、杉原千畝の母校、愛知県立瑞陵高校からの1本の電話だったという。それは、杉原を讃える記念施設の展示物に、いま学園の敷地内にある石垣の写真を使わせてほしいというものだった。この石垣は第二次大戦中にソ連を経由して神戸に逃れてきたユダヤ人を支援する施設に使われていたものだというのだ。
寝耳に水だった福岡は、確証を得ようと調べ始めたという。たった1つ見つけたのが、ニューヨークにある世界的なユダヤ人支援組織から神戸ジューコムにあてた電報の画像だった。なんと、その宛先の住所が福岡の働くコンピュータ総合学園のものと一致していたのだ。
その後に福岡は、神戸のユダヤ人難民の調査をしていた岩田隆義と出会う。岩田は神戸市立小学校の校長や異人館・風見鶏の館の館長も務めた歴史研究家だ。
岩田が差し出した1枚の写真を見たとき、福岡は身が引き締まる思いがしたという。ユダヤ人たちの背後に写っているのは、学園に残っている石垣と同じものだとわかったからだ。
ユダヤ人たちの背後の石垣が(撮影:河野 徹、所蔵:大阪中之島
© Forbes JAPAN 提供
ユダヤ人たちの背後の石垣が(撮影:河野 徹、所蔵:大阪中之島美術館)
彼の話によれば、その頃の神戸の人々は、心を開いてユダヤ人の難民を受け入れ、さまざまなあたたかい交流が生まれていたという。ユダヤ人たちに思いやりの心で接し、亡命先が見つかるまで親身になって世話をしていたというのだ。
実は神戸市も、2016年に、当時のユダヤ人たちのことを後世に残そうと証言や写真を提供してほしいと住民に呼びかけていた。1940年頃といえば、日本はナチス政権下のドイツと同盟関係にあり、国としては難しい立場であった。だが、寄せられた53点の写真や手記から、ユダヤ人一家を家族のように迎えるなど、フレンドリーな神戸の人たちの姿が浮き彫りになった。
世界的な人道支援の地ここにあり
よく考えてみると、神戸の街は1868年の開港で海外と結ばれ、欧米のビジネスマンたちが好んで住んだのがこの石垣のある北野の街だった。いまでもキリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグ、ジャイナ教の寺院が半径500メートル以内に「同居」している。きっと、そのころの神戸の人たちには、ユダヤ人難民といっても、いつも街で顔を合わせる外国人と変わらなかったのであろう。
神戸ジューコム入口(撮影=河野-徹、所蔵=大阪中之島美術館)
そんな事実を知った福岡の心に、ある感情が芽生えたという。彼女が次のように語る。
「岩田さんたち研究者は、この石垣の存在をかねてから知っていました。ところが、メディアはそれに気づかず、ネット上にも情報がなかった。地元の人どころか、これを所有している学園の誰もが知らなかったのです。世界的な人道支援の地がここにあり、日本人が温かく迎え入れたという記録と記憶が消えかかっていました。これを伝えなければならないという責任感がわいてきたのです」
そこで、関係者らとともに2020年11月に石垣の横に案内看板を設置する。ところが、序幕式の2週間前に神戸でのユダヤ人を研究していた岩田隆義が79歳で急逝する。そのとき、あらためてこれを後世に伝える重みを福岡は実感したという。以後、この石垣やユダヤ人難民のことが地元テレビや新聞にとり上げられるようになったという。
最近になって、海外からの渡航制限が緩められると、ユダヤ人が暮らした証拠をひと目見ようと、この場所を訪れる人たちが増えてきた。それだけではない。中学校、高校、大学などから石垣を視察したいので説明をしてほしいという依頼が、彼女のもとに多く寄せられているという。
この2月12日、香川県立高松高校の1年生と2年生の29人が石垣の前に立った。県立高松高校は県内ではトップの進学校で、杉原の妻・幸子の母校でもある。そんな縁もあり、人道支援や平和学習のためにここを訪れたのだ。
香川県立高松高校の生徒に説明する福岡美和
参加した高校生の竹内睦美は「学校で活動するのと現地に来るのとは大きく違いました。こうしてリアルに語ってもらえると、私たちの世代からも次の時代に繋げていかなければと感じます」と話す。
実を言うと、福岡は大学を卒業したあと、大阪にあるテレビ局の朝日放送に入社した。最初の仕事はなんと報道カメラマン。約7キログラムもある業務用ビデオカメラを担いでいたという。阪神・淡路大震災では記者として最前線でも取材した。今回のユダヤ人難民のメモリアルとなる石垣の件は、ひょっとするとそんな彼女の「記者魂」にひさしぶりに大きな火がついたのではないだろうか。
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軍国日本と陸軍は、ユダヤ人難民を助けていた。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
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靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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歴史的人道貢献とは。昭和天皇とA級戦犯である東条英機、松岡洋右、松井石根らは、ソ連のポーランド侵略から逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツ、ゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
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昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
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日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が超エリート層の高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
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現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
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昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
事実、中国共産党がウイグル・内モンゴル・チベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。
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杉原千畝が助けたポーランド・ユダヤ人難民とは、ドイツ軍占領下の西ポーランドではなく、ソ連軍占領下の東ポーランドから逃げてきたポーランド・ユダヤ人であった。
イギリスのポーランド亡命政府とポーランド軍の密命を帯びたポーランド軍スパイは、陸軍の密命を受けて情報収集活動を行っていた杉原千畝に協力していた。
ポーランド亡命政府とポーランド軍は、ドイツ軍と戦っていたが、同時に連合国の一員であるソ連・共産主義勢力をも憎んでいた。
ポーランド軍は、親日派として日本陸軍と繋がっていた。
日本陸軍の主流派は、親ポーランド派であって親ドイツ派ではなく、親ユダヤ派であって反ユダヤ派ではなかった。
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ロシア・ソ連と国境を接する北欧のフィンランド、イスラム教国のトルコやイランは親日派であった。
特に、イスラム教徒は、反宗教無神論の共産主義を激しく憎み、日本陸軍に協力してトルコ・中央アジア・満州までの長大なソ連封じ込めのユーラシア防共廻廊(宗教防壁の長城)を作ろうとしていた。
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2019-03-21
💖24)─1・A─ポーランド・ユダヤ人難民を助ける事に、日本軍部は協力し、日本外務省は猛反対した。1940年〜No.99
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ヘブライ文化研究者・小辻節三氏の功績に感謝状Published 8 months ago on June 7, 2022By The Sankei Shimbun
イスラエルから感謝状を贈られたへブライ文化研究家、
小辻節三氏の次女、メリーさん(右)と山田純大(左)=東京都内
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5月23日付の毎日新聞外信面の囲み記事に目が留まった。イスラエルの国会議員と駐日大使が22日、東京都内の介護施設を訪問した。ヘブライ文化研究者の小辻節三(こつじせつぞう)の功績をたたえて、次女の暎子(てるこ)さん(91)に感謝状を贈るためだ。俳優の山田純大(じゅんだい)さんの尽力で実現したという。
第二次世界大戦中、駐リトアニア領事代理だった杉原千畝(ちうね)が発行した「命のビザ」は広く知られている。数千人のユダヤ人がナチス・ドイツの迫害を逃れ、日本にたどりついた。強制送還の恐れもあった彼らのために奔走し、米国などに送り出したのが小辻である。スパイ容疑で拷問されたこともある命がけの活動だった。
第二次世界大戦中にナチスの迫害から逃れて日本にやってきたユダヤ難民の滞在期間を延長したヘブライ文化研究家の小辻節三氏(遺族提供)
米国の大学に留学した山田さんは、現地で入手した小辻の自伝を手がかりにゆかりのある人々を訪ね歩いた。平成25年に刊行した『命のビザを繫(つな)いだ男』によると、京都の神官の家に生まれた小辻は聖書と出会い、米国でヘブライ語を学んでユダヤ教に行き着いた。
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Focus on 'People': Japan Extending a Hand to Africa Through TICAD 8
小辻節三氏が愛用した聖書
満鉄の松岡洋右総裁に請われて満州に赴き、現地のユダヤ人社会と深いかかわりを持つ。やがて外相として日独伊三国同盟を締結する松岡は陰ながら小辻のユダヤ人保護を手助けする、意外な事実も記されている。
74歳で亡くなった小辻はエルサレムの墓で眠る。家族にこんな言葉を残した。「百年以内に誰か、自分をわかってくれる人が現れるだろう」。遠くウクライナから避難民を受け入れている今、改めて顕彰すべき人物である。
ところで山田さんの父親、杉良太郎さんは大スターであると同時に、慈善活動家としての顔を持つ。コロナ禍により矯正支援施設を訪問できなくなった際、代わりの企画として受刑者に本を推薦したことがある。選んだのはもちろん息子の著作だった。
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2022年5月24日付産経新聞【産経抄】を転載しています
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