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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
世界中のユダヤ人では、9割強が敵天皇反日本であり、1割弱が親天皇知日本である。
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世界の常識は、昭和天皇はヒトラーと同罪の犯罪者で、軍国日本はナチス・ドイツと同様のファシスト国家と認定している。
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戦前の日本では、官僚に隠れマルクス主義者が、外務省の多数が親ドイツ派で、海軍首脳部に親ソ派と反米派が、右翼・右派は反ユダヤ主義者・差別主義者でヒトラー信奉者、左翼・左派はレーニン信奉者・共産主義者として反宗教無神論・反天皇反民族反日本であった。
日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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2022年3月19日 MicrosoftNews 読売新聞「日本上陸のユダヤ元難民ら「敦賀は天国のようだった」…杉原千畝ルートにイスラエル観光客ら増加
© 読売新聞 イスラエルの国際旅行博で「杉原千畝ルート」をPRする西川館長(左から2人目)ら=2018年撮影、岐阜県高山市提供
杉原千畝(ちうね)の「命のビザ」でユダヤ難民が上陸した福井県敦賀市は、広域周遊観光ルート「杉原千畝ルート」の発信に励んできた。ゆかりの地の岐阜県八百津町や中津川市、周辺地域など計6市町村で、コロナ後に向けて、ユダヤ系の観光客誘致や受け入れ環境の整備を進めている。
「ユダヤ難民が上陸した敦賀港の史実を知ってもらう機会になる」。敦賀市の資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」の西川明徳館長(51)は2018年、イスラエルの国際旅行博で杉原千畝ルートをPRし、手応えを感じた。
元難民らが「敦賀は天国のようだった」などと話すビデオを旅行博のセミナー会場で紹介。感動して涙を流す人もいた。
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杉原千畝ルート推進協議会は、16年に設立された。呼びかけたのは岐阜県高山市だ。市内で宿泊するイスラエル国籍の客が増えており、13年には2800人を超えた。旅行シーズンの4月には、来日した同国籍の人の7割以上が市に来ていた。現・市東京事務所所長の林秀和さん(48)は「高山とイスラエルのつながりは特にないのに、なぜ」と驚いた。
「もしかして」。同県八百津町にある杉原千畝記念館に問い合わせた。イスラエルからの来館者のほとんどが、古い町並みが残る高山市と、合掌造りの集落で知られる世界遺産・白川郷(岐阜県白川村)に観光に寄るとわかった。
林さんは高山市の観光をPRするため、米国での観光キャンペーンにも参加。旅行業者から「北陸新幹線がつながれば、東京から敦賀まで行けるか」と聞かれた。杉原の足跡をたどる商品を扱っているという。北陸新幹線は24年春に金沢―敦賀間が延伸される。「敦賀にルートに入ってもらえば魅力が高まる。イスラエルからの観光客をもっと呼び込めるのでは」。そう考えた林さんは、敦賀市や、外国人観光客に人気の金沢市などに連携を呼びかけた。
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協議会は、ルートの観光スポットなどを載せたヘブライ語版のパンフレットも作成。多くのユダヤ人が住むイスラエルや北米の旅行博で、反響があった。
コロナ禍の20年はオンラインでのPRに力を入れ、ルートの紹介動画を製作し、インターネットで広告も配信した。21年には観光関係者を対象に、宿泊時に必要な配慮やユダヤ教の戒律に合う食品の認証についてのセミナーを開催。旅行者が安心して滞在できるよう努めている。
ムゼウムには19年度、1200人超のイスラエル人客がツアーや個人で訪れた。「京都と金沢の間にある敦賀に」と立ち寄った団体ツアーもあった。北陸新幹線の敦賀以西が延伸され、外国人観光客に人気の京都や大阪までつながれば、利便性がより高まると期待される。
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イスラエルと日本は5月に国交樹立70周年を迎える。敦賀市人道の港発信室の本庄志帆里さん(36)は「多くの人にムゼウムを見学し、敦賀港を歩いて当時に思いをはせてほしい。周囲にも訪問を勧めてもらえるようなルートにしたい」と話している。(桑田睦子)」
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杉原千畝が助けたポーランド・ユダヤ人難民とは、ドイツ軍占領下の西ポーランドではなく、ソ連軍占領下の東ポーランドから逃げてきたポーランド・ユダヤ人であった。
イギリスのポーランド亡命政府とポーランド軍の密命を帯びたポーランド軍スパイは、陸軍の密命を受けて情報収集活動を行っていた杉原千畝に協力していた。
ポーランド亡命政府とポーランド軍は、ドイツ軍と戦っていたが、同時に連合国の一員であるソ連・共産主義勢力をも憎んでいた。
ポーランド軍は、親日派として日本陸軍と繋がっていた。
日本陸軍の主流派は、親ポーランド派であって親ドイツ派ではなく、親ユダヤ派であって反ユダヤ派ではなかった。
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ユダヤ人難民を助けた人々で、無償で発見されて家族諸共処刑される事を覚悟した勇気ある人は極わずかで、多くは報酬を受けて助けいざとなったら見捨てるか逃げ切れないと分かったら密告した。
世界では、自分の命も他人の命も金で自由に買えた。
それは、奴隷制度が宗教的にも法律的にも常識として存在していた証拠である。
黒鉄ヒロシ「『命のビザ』で有名な元外交官の杉原千畝さんにしても、彼は無償でユダヤ人を助けています。当たり前ですが・・・。ところが、映画『シンドラーのリスト』で知られるシンドラーの場合は、あとでユダヤ人の家を回って金を集めているんですね。やっぱり日本人の美しさとは、勝っておごらず善行をうたわず。でも、ある程度は発信しないと駄目です。
……
そういうこと言うと、すぐ修正主義とか言われますが、事実を正確に主張することは大事です。中国なんか、とんでもないことを平気で公式な歴史にするでしょう。歴史の改竄する国と改竄しない国で対応を分けて考えないといけない。日本人は品がいいから、何度も煮え湯を飲まされる」
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戦時中、ニューヨーク・ユダヤ人共同配給委員会(JDC、ジョイント)は、犬塚惟重海軍大佐の奔走で可能になったスイス赤十字社経由での救済金を上海ゲットーのユダヤ人難民達に送った。
アメリカ政府は、在上海ユダヤ難民救済基金の送金を差し止め、抜け穴であったスイス赤十字社経由で救済金をも阻止した。
東条内閣は、開戦と共に凍結した英米系預貯金の中からユダヤ難民救済の寄付分だけを解除して、保護しているユダヤ人難民を窮地から救った。
現地の日本陸軍部隊はユダヤ人難民を保護していたが、反ユダヤ派や親ドイツ派の日本人や朝鮮人達は偏見と差別で見えないところで陰湿な虐待を続けていた。
世界ユダヤ人会議報告「自分たちは日本の占領下で迫害を受けることもなく、日本側はユダヤ人、特にヨーロッパからの難民には友好的でした」
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ユダヤ人難民を助けた昔の軍国日本人と、チベット人・ウイグル人・モンゴル人・その他を助けず見捨てて恥じない現代の平和国日本人とは別人である。
昔の日本人は幾つもの偉いところがあったが、現代の日本人には偉いところはなにもない。
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日本人と中国人・朝鮮人とは別種・別系統のアジア人である。
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軍国日本は、国を挙げてソ連に占領された東部ポーランドから逃げてきたユダヤ人難民を助け、保護し、安全な海外に行けるまで面倒を見た。
昭和天皇はポーランド・ユダヤ人難民に手を差し伸べる事を希望していた。
松岡洋右・東条英機らA級戦犯達は、表に立たず影で助けていた。
陸軍・特務機関・憲兵隊、警察・特高、そして難民収容施設があった神戸市や神戸市民は、ユダヤ人難民を親ドイツ派・反ユダヤ派・親ソ派らから護り庇っていた。
因果応報である「他人に良い事をすれば自分に良い事が起きる」は、戦前の日本ではウソで、戦時中と戦後にユダヤ人難民を護った人々には悲惨な目に遭い、中には殺害された人もいた。
如何に悲運に見舞われようとも、昭和天皇の「ユダヤ人難民を助けたい」という大御心を信じて行動した事に悔いはなかった。
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The KANSAI Guide
Exciting Journey
ポーランド孤児とユダヤ難民が降り立った日本唯一の港
2021.3.18
「人道の港 敦賀」にまつわる2つの命の物語
日本海に面する若狭湾地域は、奈良や京都の都からみて北の海の玄関口に当たる。そのため海路を通じて国内外の様々な人と文化が行き交った。中でも敦賀は、波おだやかな天然の良港であり、古くから発展していた。17世紀中頃には、大名の庇護を受けた初期豪商が活躍し、「北国の都」と称されるほどの賑わいを見せた。
明治になると三つの鉄道敷設が計画された。その一つは、1882(明治15)年に開通している敦賀と琵琶湖を結ぶ鉄道だ。そして、1912(明治45)年、ヨーロッパまでひと綴りの切符で渡航できる直通列車、欧亜国際連絡列車の運行が開始された。それまでおよそ1カ月を要していた日本からヨーロッパの旅程は14~17日程度に短縮され、敦賀はアジアとヨーロッパの各都市を結ぶ拠点となり、「東洋の波止場」とも呼ばれた。当時の敦賀港の繁栄の様子は敦賀市立博物館で見ることができる。
世界で紛争が頻発する20世紀前半。国際港として栄えた敦賀は、多くの外国の人々が救出された出来事とも関わりが深く、敦賀港は「人道の港」とも呼ばれる。その出来事の一つが「ポーランド孤児救済」の物語だ。ロシア革命後、内戦状態に陥ったシベリアで家族を失い、生死をさまようポーランドの子どもたちがいた。彼らを救うため、ウラジオストクのポーランド人から救援要請を受けた日本政府は日本赤十字社に救助活動を指示した。
孤児たちはウラジオストクから敦賀に渡り、日本に上陸した。上陸した子どもたちは粗末な服を着て、やせ細り、青白い顔をしていた。日本赤十字社が1人1人に肌着や上着、靴、靴下などを新調した。敦賀の人たちは菓子、玩具、絵葉書などを差し入れ、宿泊、休憩所も提供した。子どもたちは、敦賀から東京や大阪の施設を経由して、その後無事に祖国ポーランドへ送られた。1920年から1922年にかけて救出された孤児は763人に及んだ。1983年、その孤児の1人がお礼を言うために、60年ぶりに、日本赤十字大阪支部を訪れている。
そしてもう一つの出来事。第二次世界大戦の最中、ナチスドイツ等の迫害からリトアニアに逃げ込んでいたユダヤ難民に対し、当時の杉原千畝リトアニア・カウナス領事代理が、人道上の見地から日本通過ビザ所謂「命のビザ」発給を行った。
リトアニアからの脱出ルートは当時ドイツと敵対していたソ連をシベリア鉄道で東に向かい、ウラジオストクから日本海を渡って敦賀へ上陸するルートしかなかった。敦賀への入港後、所持金不足で上陸出来ないユダヤ人のため、アメリカのユダヤ人協会が経済的な支援を行った。その資金を届け、避難の旅の手助けをしたのが、外国客誘致支援業務に当たっていたジャパンツーリストビューローだった。敦賀からウラジオストク間の航路に添乗員を派遣し、ユダヤ人輸送の斡旋に当たり、ユダヤ人協会から渡された名簿をもとに顔と名前の照合や、協会からの支給金の給付等の業務に奔走した。
こうした人々の必死の人道的な善意のリレーによって、多くのユダヤ人たちが救われたのだ。これにより数千人の命が救われたといわれる。
2006年、これまであまり語られることのなかった敦賀上陸時のユダヤ難民の足跡を調査し、敦賀の果たしてきた役割を後世に伝承しようという動きが地元の歴史研究グループの中で起こった。当時の敦賀市民たちの足跡をたどると、少年が上陸したユダヤ難民にリンゴなどを置いて行ったこと、銭湯の主人が無料で浴場を開放したこと、駅前の時計店の店主が、お腹を空かした難民を気の毒に思い、時計を買い取ったり、食べ物を提供したことなどが明らかになっていった。
こうして収集した市民証言等をもとに2008年3月、資料館、人道の港 敦賀ムゼウムがオープン。2020年11月には、近代敦賀港にあった洋風建築四棟を再現した建物を復元し、さらに資料の充実を図り、リニュアルオープンした。
ポーランド孤児とユダヤ難民が上陸した歴史、彼らに手を差し伸べた人々のことや敦賀のまちの人達が迎え入れた様子などが紹介されている。敦賀の港と鉄道は、人や文化、経済だけでなく、海を越えた命と平和の架け橋になったのだ。
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ホロコースト百科事典
避難と救済
ユダヤ教の安息日の儀式の際、毎週金曜日の夜に使用された、ポーランドで購入された一組の燭台。 1939年のドイツのポーランド侵攻を逃れてきたポーランド系ユダヤ人がこれらの燭台を携え、ビルナ地区まで逃げてきました。
ユダヤ教の安息日の儀式の際、毎週金曜日の夜に使用された、ポーランドで購入された一組の燭台。 1939年のドイツのポーランド侵攻を逃れてきたポーランド系ユダヤ人がこれらの燭台を携え、ビルナ地区まで逃げてきました。 —USHMM特別展「避難と救済」より。
1939年頃、 あるユダヤ人がナチスに占領されたヨーロッパから日本に逃れるときに使用していたスーツケース。 このスーツケースには、モスクワのホテルのステッカー(左上)、日本郵船のステッカー(中上)、日本国内の6軒のホテルのステッカーなど、さまざまな滞在地のステッカーが貼られています。
1939年頃、 あるユダヤ人がナチスに占領されたヨーロッパから日本に逃れるときに使用していたスーツケース。 このスーツケースには、モスクワのホテルのステッカー(左上)、日本郵船のステッカー(中上)、日本国内の6軒のホテルのステッカーなど、さまざまな滞在地のステッカーが貼られています。 —USHMM特別展「避難と救済」より。
サンフランシスコ・クロニクル紙の記事「難民の悲劇」。 この記事は、支援組織「アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会」のモーゼス・ベッケルマンのインタビューをベースにしたもので、 北米や南米への移動中、滞在地である上海や神戸、リスボンで足止めされポーランドやリトアニアの難民が密集している状況について述べられていました。 難民が足止めされている主な原因は、大部分の国が移民に対して門戸を閉ざしていたため、一時滞在ビザや入国ビザが下りないことでした。 1941年5月。
サンフランシスコ・クロニクル紙の記事「難民の悲劇」。 この記事は、支援組織「アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会」のモーゼス・ベッケルマンのインタビューをベースにしたもので、 北米や南米への移動中、滞在地である上海や神戸、リスボンで足止めされポーランドやリトアニアの難民が密集している状況について述べられていました。 難民が足止めされている主な原因は、大部分の国が移民に対して門戸を閉ざしていたため、一時滞在ビザや入国ビザが下りないことでした。 1941年5月。 —USHMM特別展「避難と救済」より。
1939年9月に始まった戦争により、ドイツおよびソ連占領下のポーランドでは、300万人以上のユダヤ人が抜き差しならない状況に追い込まれました。実際にホロコーストの恐怖から逃げ出せたのはほんのわずかな人々でした。1940年終わりから1941年初めにかけて、ホロコーストの大量虐殺が始まるほんの数ヶ月前に、2,100人のポーランド系ユダヤ人が極東へ、さらにその先へと逃れました。最初に避難したリトアニアから東に向かってシベリヤ横断鉄道と汽船を乗り継いで、日本まで約9,600キロという逃避行になりました。多くの人にとっては、上海が流浪の終着地となりました。
多数の人々の不断の努力なしに、安全圏に到達できた人はほとんどいませんでした。行く先々で幾つものユダヤ人団体ならびにユダヤ人社会によって、資金援助やその他の支援が提供されました。しかし最も重要な支援は、オランダ亡命政府およびナチス・ドイツの同盟国である日本の代表者という思わぬところから差し伸べられました。1940年夏のこれらの人道的行為は、リトアニアに避難していた数百人のユダヤ人の救済にとっては重要なものでした。
「大使や領事に大変複雑な避難経路を説明するために、われわれは地図と地球儀をすっかり記憶し、熟知していました。経路がなければ、たとえ書類の上だけでも、一時のために自分達で作り出したのです。」
—ゾラフ・バルハフティク(難民リーダー)、戦後の回想録より
2022年3月20日 神奈川新聞 カナコロ「「命のビザ」受給者の足跡見つかる 氷川丸乗船名簿に氏名
話題 |2019年5月6日(月) 05:00
1941年の氷川丸のシアトル到着船舶乗船名簿。ビザ受給者リストにもあるポーランド人の「Lutyk Zofia」とその家族とみられる氏名が並ぶ
第2次世界大戦中、ナチスの迫害からユダヤ人を逃すため、外交官・杉原千畝(1900~86年)が任地リトアニアの日本領事館で発給した日本通過ビザの受給者が、横浜から米国に向かった氷川丸の乗船名簿に複数名、登載されていることが、鎌倉市の市民団体の調査で分かった。
「鎌倉・杉原千畝さんを顕彰する会」(会長=中沢克之・元鎌倉市議会議長)が、米国への到着者名簿を入手。リトアニアにある「杉原記念館」が公表している、いわゆる「命のビザ」の受給者リストと突き合わせた結果、少なくとも43人が符号したという。
日本郵船は「戦時中の乗船名簿は現在は残っていない」としているが、同会は氷川丸が戦時中に米移民局に提出した到着者名簿を米公文書館のリストから発見。国立国会図書館が米公文書館から購入したマイクロフィルムを調べた。
ナチス迫害の被害が多かったポーランド人らに絞り、氷川丸の到着者名を一人ずつ調べた結果、40年11月から41年6月に横浜から米・シアトルに到着した8便の乗船者のうち、少なくとも43人がビザ受給者と同じ氏名、国籍だった。
中沢会長は「氷川丸がユダヤ難民を運んだ事実はよく知られているが、誰を運んだという記録は残っていない」と説明。「他の船の記録まで広げて調べれば、ユダヤ難民が第三国へ逃れた実態がより詳しく分かるのでは」と話す。
ドイツ占領下のポーランドなどから逃れてきたユダヤ難民は40年7月、杉原が領事代理を務めた日本領事館に押し寄せた。ビザ発給の条件を満たしていない者もいたが、杉原は人道的な判断に基づいて発給した。
6千人とも言われる受給者らは、シベリア鉄道でウラジオストクまで行き、海路で敦賀港(福井県)に入った。そこから列車で横浜や神戸に移動した後、氷川丸などで米国やカナダなどに逃れた。当事者の証言も残されている。
中沢会長は「ユダヤ人を運んだ他の船は戦時中に沈められ、現存するのは横浜港に係留されている氷川丸のみ。出港前の宿泊先など、横浜とユダヤ人の関わりを解明するきっかけにもなれば」と説明。また「杉原ビザで救われた方々の孫やひ孫が氷川丸の存在を知り、祖父母の乗った船を見に横浜を訪れてほしい」とも期待している。」
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ユダヤ人は、世界では殺されていたが、日本では殺されていなかった。
日本人がなぜユダヤ人を殺さなかったのか、それは日露戦争でユダヤ人に助けられたという恩義を、歴代天皇だけではなく、民族・こくみん全てが忘れないように語り継いだからである。
日本民族は性善説の徒として、お人好しで、生真面目で、義理堅く、道理の合わない曲がった事だ嫌いで、強い者が弱い者をイジメ虐げる事に我慢できず、そうした義憤から理不尽に差別・迫害・弾圧・殺害されるユダヤ人難民を見捨てられず、とばっちりとして飛び火を受けようと、火中の栗を拾って大火傷しようと、損得抜きで、バカを承知で、自己犠牲と無償で助けていた。
日本民族とは、「義を見てせざるは勇なきなり」を信条として生き、そして死んでいった。それが、死を覚悟した「武士道」であった。
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日本人の反ユダヤ主義者は、西洋礼賛の高学歴な知的エリートや進歩的インテリと敬虔なキリスト教徒(特にアメリカ・キリスト教会の信者)に多くいた。
アメリカなど諸外国では、宗教的人種差別主義や白人至上主義などによる反ユダヤが普通、常識となっていた。
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ロシア・ソ連と国境を接する北欧のフィンランド、イスラム教国のトルコやイランは親日派であった。
特に、イスラム教徒は、反宗教無神論の共産主義を激しく憎み、日本陸軍に協力してトルコ・中央アジア・満州までの長大なソ連封じ込めのユーラシア防共廻廊(宗教防壁の長城)を作ろうとしていた。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
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靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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歴史的人道貢献とは。昭和天皇とA級戦犯である東条英機、松岡洋右、松井石根らは、ヒトラーから逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツ、ゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
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昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
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日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
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現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
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昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
事実、中国共産党がウイグル・内モンゴル・チベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。
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当時の世界の常識は、反ユダヤ主義であった。
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アメリカやヨーロッパ諸国は、ナチス・ドイツがユダヤ人に行っている非人道的ホロコーストを情報として知っていた。
アメリカ・イギリス・ソ連など連合国は、戦争の勝利を優先してユダヤ人の救出を後回しにした。
戦争に勝利すれば全ての問題が解決する、である。。
中立の立場であったバチカン、キリスト教会、国際赤十字など国際機関は幾ら何でもヒトラーはそこまでやらないだろうと自分に言い聞かせて目を逸らした。
一部のキリスト教会は、改宗したキリスト教徒ユダヤ人を保護して助けたが、異教のユダヤ教徒ユダヤ人は見捨てた。
世界の無関心によって、600万人近いユダヤ人が虐殺された。
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現代の欧米諸国は、ユダヤ人達をホロコーストから救えなかった事を反省し、同じ悲劇を繰り返してはならないとして、中国共産党が行っている目の前のジェノサイドを非難し批判しそして制裁を科している。
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戦前の軍国日本によるユダヤ人難民救護・保護は、報酬を取らない貰わない、完全なボランティアによる無償であった。
数万人のポーランド・ユダヤ人難民達は、陸軍・警察・民間企業・一般市民らに助けられて日本に上陸し、日の丸・日章旗を見上げて逃げきった喜びを噛みしめ、明日への希望を持ち、未来を夢見て、日本から安全な世界へと旅立っていった。
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戦前の軍国日本は、親ユダヤ派として反ユダヤ主義はなく、反ユダヤ派がいたとしても反主流の少数派であった。
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日本に逃げ込んだユダヤ人難民は、ヒトラー、ナチス・ドイツから逃げてきたドイツ・ユダヤ人ではなく、スターリン、ソ連、共産主義から逃げてきたポーランド・ユダヤ人であった。
当時、ナチス・ドイツによる組織的なユダヤ人根絶のホロコーストは始まってはいなかった。
ホロコーストが動き始めたのは、1942年頃からであった。
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A級戦犯の松岡洋右と外務省内の親ユダヤ派は、保護したポーランド・ユダヤ人難民を安全地帯に逃がす為に受け入れてくれる国や地域を探し、受け入れてくれるところが見つかれば送り出していた。
送り出した、国はアメリカや中南米諸国であり、地域としてはイギリス保護領パレスチナであった。
アメリカやイギリスは、日本ルートで逃げてくるポーランド・ユダヤ人難民を遮断する為に日本に外交圧力を加えていた。
松岡洋右は、アメリカやイギリスが嫌っているのを承知で、アメリカ国内の反政府的アフリカ系アメリカ人組織との接触を試みていた。
FBIは、松岡・寺崎英成コネクションを警戒していた。
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ナチス・ドイツは、同盟国日本がユダヤ人難民を保護し庇っている事に強い不満を抱いていたが、アメリカの対ソ支援ルートである北太平洋・ウラジオストクルート、インド洋の東アフリカ沿岸ルート及びオーストラリアルートの3ルートを遮断する事を強く申し込み、上海ゲットーのユダヤ人問題は黙認していた。
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日本・中国の現地ゲシュタポと反ユダヤ派・親ドイツ派の日本人達は、上海ホロコーストを計画した。
計画を知った松岡洋右の満州派と松井石根の上海派は、上海ホロコーストを潰してユダヤ人難民達を救った。
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ナチス・ドイツの同盟国である軍国日本は、アメリカとの戦争で特攻や玉砕など激烈な戦闘する中で、ヨーロッパ・ユダヤ人まで気を回すゆとりはなかった。
日本陸軍の親ユダヤ派は、上海ゲットーに保護している数万人のユダヤ人難民を反ユダヤ派・差別主義者らのホロコースト計画から守るので手一杯であった。
戦後、ユダヤ人難民を守った日本陸軍将校の多くが人道に対する罪・平和に対する罪で有罪となり、責任の地位にあった幾人かは処刑された。
それが、東條英機・松井石根・板垣征四郎らA級戦犯達である。
その中心人物が、松岡洋右元外相であった。
ユダヤ人保護を望んだのが、反ドイツ・ソ連派で親イギリス・アメリカ派の昭和天皇であった。
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現代日本は、隣国である中国共産党がウイグル人、チベット人、モンゴル人、少数民族へのジェノサイドや香港民主派、法輪功信者への弾圧から目を逸らし、批判も非難もせず、虐待と虐殺される彼らを助けようともしない。
犠牲になる人々の人命・人権・人道よりも、自分の利益になる利権や商売による金儲けを優先している。
現代日本の人権派は、嘘であり、偽物である。
昔の日本人には陰徳があったが、現代の日本人には陰徳がないどころか陽徳さえない。
つまり、現代の日本人は、戦争犯罪のような悪い事はしないが、人道貢献や平和貢献などいい事もしない、つまらないは味も素っ気もない人間である。
国際連盟設立委員会で人種差別に反対したのは昔の日本人であって、現代の日本人ではない。
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台湾有事が起きれば、戦争反対の護憲派日本人は、東日本大震災など甚大な災害が発生する度に支援してくれた親日派・知日派の台湾を助けず見殺しにする可能性がある。
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