💄38)─1─江戸時代の夜這い、不倫・寝取り、托卵女子は日本の伝統的性文化であった。~No.78No.79 ⑥ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人と昔の日本人は、見た目での姿形は同じでも中身が全然違う、別人のような日本人である。
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 神仏習合
 日本全国にある神社の神域や仏閣の境内で夜な夜な行われる宵宮や夜祭りは、男女の出会いの場、性愛の場であった。
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 2022年3月5日号 週刊現代「教養としての『性』を学ぶ
 現代では不道徳でも江戸期には文化だった」
 『夜這い』と『寝取り』の驚きテクニック
 物事の価値基準というのは時代によって違うもの。今の世の中ではどこか後ろ暗いイメージで語られがちな『夜這い』と『寝取り』だが、その世界を深掘りすると思いがけない発見が隠されていた。
 まず引き戸の音を消す
 恋焦がれた女性の寝床に自由に忍び込み、思いを果たしたい──。誰でも一度はそんなことを夢想するものだろう。
 だが現実は甘くない。現代でそんなことをすれば不法侵入に強制性交等罪などの罪に問われてしまう。まさにもってのほか、不道徳の極みだ。
 ところが、かつて日本には『夜這い』や『寝取り』が文化として根付いていた時代があった。江戸時代、日本人は今よりもおおらかに性を楽しんでいた。
 この時代、とりわけ夜這いがさかんに行われていたのは農村部だった。夜這いが始まるのは、村人たちが寝静まった亥の刻(22時頃)以降。満月の夜が多かったという。
 『村の中で夜這いを実行するのは、15歳以上の「若者組」と呼ばれる男たちでした。当時の村落には門を構えた家は少なく、敷地の中に簡単に入ることができた。ですが、大変なのはそこからです。当然、一目を憚っての夜這いですから、彼らは細心の注意を払い家に侵入しなければならなかった。
 その方法は周到です。村の男は誰にも見つからないように雨戸に忍び寄り、あらかじめ筒に入れておいた水を引き戸の溝に流した。地域によっては自分の小便を溝にかけるテクニックもあったそうです。そうやって雨戸を引く音を消した後、するりと家の中に入り込みました』(江戸風俗研究家で作家の永井義男氏)
 街灯もない江戸時代、その時刻には家は真っ暗だ。男は四つん這いになって屋内を移動し、娘の寝室に向かう。彼女がどこに寝ているかは日中の明るいうちに調べてある。
 そして、首尾よく寝室に辿りついた。この時代、部屋を仕切るのは襖だけ。男は胸を高鳴らせながら娘の身体をまさぐった。
 『江戸時代は現代と違い、夜はまったくの静寂です。それだけに夜這いをする際には余計な音を立てずにコトを進める必要があった。暗闇の中で誰にもバレないように性交に及ぶため、触覚や嗅覚は極限まで敏感になる。スリルと戦いながらセックスをするからこそ、普通よりも遥かに大きな快感を得たのです』(性風俗史研究家の下川耿史氏)
 そもそもの前提として、夜這いには娘の側に明確な拒否権があった。娘が嫌ならば、ノーを突き付けることもできたのだ。拒否された場合、男は無念ながら、そそくさと家を出なければいけない。掟を破って無理やり押し倒そうものならば、村八分の制裁が待っていた。
 『八つ口』が便利だった
 そんなトラブルをなくすためにも、夜這いが行われるときには事前の『やり取り』があった。農作業の最中や村落の道ですれ違う際、男は『今夜、行くから』と告げ、娘は頷く。その意思疎通があったからこそ、娘も心の準備ができたのだ。
 『夜這いは決して男性優位のシステムではありませんでした。村の中で結婚相手を見つけるための現実的な手段だった。村内の男女が結婚して子供を産めば、村にとっても新たな労働力が確保される。その意味でも、夜這いは共同体を存続させるための仕組みだったのです』(民俗学者天理大学名誉教授の飯島吉晴氏)
 話しを夜這いの現場に戻そう。お互いの了解があるとはいえ、家族が近くにいる中で大っぴらにセックスをすることはさすがにできない。そのため、基本的に夜這いは着物を着たままで行われた。
 ……
 通常、夜這いは何時間も行われることはなかった。男は早朝から野作業をしなければならないからだ。夜が明ける前に男は家を立ち去り、娘も何事もなかったかのように日常生活に戻るのが『暗黙のルール』だった。
 こう書くと、夜這いは純愛に基づいたもののように映る。だが、現実はもっと複雑だ。村落の複数の男が別々の日にひとりの女性に夜這いをかけ、娘もそれを受け入れることもある。その結果生まれた『父親知らず』の赤ん坊は、私生児扱いであったも村の中で大事に育てられた。そのあたりのおおらかさも、現代とはまるで事情が違う。
 夜這いが文化として定着していた江戸期の人々がいっそうセックスを楽しんだのが、祭りの日だった。村には1年を通して様々な祭りがあった。寒い冬を越えて訪れた春の日。田植え祭りの際なども、恰好の『口説きの場』だったという。
 『夏の盆踊りも農民たちにとっては特別な日でした。この日、村人たちは労働の辛さを忘れ憂さを晴らしました。もちろん、セックスも彼らにとって大きな楽しみだった。
 松明が燃え太鼓の音が鳴り響くトランス状態の中、村人たちは手を引き合った。そして茂みに直行して欲望の赴くままに性交に耽(ふけ)りました。
 ときには何人もの男衆がお目当ての娘を文字通り「担ぎ上げ」て、納屋まで連れて行き複数で交わり合ったといいます』(小説家の中村彰彦氏)
 司馬遼太郎の名作『燃えよ剣』でも、東京・府中の大國魂神社で催される『くらやみ祭』では夜這いが当たり前のように行われていたと描かれている。この日、多摩地域江戸府内から参詣に訪れた男女は祭りの灯が消えるのを合図に、手当たり次第に暗闇に紛れ通じ合った。後に新撰組の隊員となる武州多摩の若者たちも、大いに性交に励んだことだろう。
 くらやみ祭では、男は着ていた浴衣を脱いで女性が夜露に濡れないように地面に敷いてやったという。その浴衣の上で、男女が気の赴くままに激しく交わる、これもひとつのテクニックだ。
 娘から誘うサイン
 さらに、東西問わず祭りの日には村内にある寺のお堂で男女が入り乱れ『ザコネ』する風習があった。そこで酒に酔った男女が奔放にセックスに明け暮れた。
 それどころか、江戸時代には女性から夜這いを誘ったことさえあったから驚く。
 愛知県の知多半島にある半田市には『半田・亀崎、女の夜ばい、男極楽、寝てまちょる』という俗謡が残っている。寝ていると女性のほうが夜這いに来てくれるというから、なんとも夢のような話だ。
 ……
 この地方では、町だけではなく村でも女性から夜這いを誘っていた。知多半島には『やま』『おくるま』と呼ばれる山車(だし)を引く豪快な祭りがあるが、そこはまさに男女の出会いの場だった。
 祭りの日には引っ込み思案で気の弱い男衆にしびれを切らした女性陣が、ぐいぐいと彼らを引っ張った。
 ……
 このように女性から男性を夜這いに誘う風習は、相模や信州、京都北部にあたる丹後など日本中の至る所にあった。熊本・水俣地方でも『佐敷、水俣、女の夜這い』という言葉が残されている。
 ……
 当たり前すぎて処罰なし
 そして夜這いと並んで江戸時代の性文化だったのが、『寝取り』だ。
 人妻である女性の寝室に忍び込み、房事に耽る。危険と隣り合わせの密通だけに、その性交は激しく燃え上がった──。
 江戸時代、寝取りが頻繁に起きていたのは村落よりもむしろ城下町だった。
 誰もが顔見知りで人間関係が濃厚な村と比べ、江戸期の町は人口も多く、男女の出会いも多い。その分、夫のいないところで妻が浮気をすることも日常茶飯事だったという。
 『この時代、密通のバリエーションは様々でした。たとえば、大工の夫を持つ女性が間男と肉体関係を持っていたとする。夫は「今日は普請だから遅くなるぜ」と言おうものなら、妻は昼間であっても、すぐに間男を呼び込みました。間男は定期的に薬を売りに来る行商や同じ長屋に住む別の家庭の主人など、多岐にわたりました。
 現代ならば不倫しているカップルはラブホテルを使うのでしょうが、江戸期にはそんなものはなかった。上野・不忍池の周辺には「出会い茶屋」という逢引きのための茶屋が密集していたが、そんな場所は一握りです。この時代、寝取りはあくまで女性の家で起きていました。間男は夫が留守にしているタイミングを見計らって家に忍び込むのです』(下川氏)
 寝取りのテクニックもまた周到だ。……
 さらに、寝取りは商家の中でも起きていた。……
 とはいえ、寝取りは言ってしまえば『不倫』そのもの。夫にコトがバレたら、どんな沙汰がまっていたのだろうか。
 寛保の時代、寝取りは『公事方御定書』の『密通仕置之事』で明確に刑罰が定められていた。しかもその量刑は磔、獄門など強烈だ。
 それに加え、浮気された夫は妻と間男を殺しても罪に問われないという『私刑』まで許されている。江戸時代に起きた事件が記録された『藤岡屋日記』でも、キセルに漆絵を描く職人が妻と間男との密通を目撃し、ふたりを惨殺したというエピソードが紹介されている。
 だが、当時はあまりに寝取りが当たり前に行われていたため、現実的に厳しい処罰が下されることは稀だった。のべつまくなしに寝取りを取り締まっていれば、世の中が立ち行かなくなってしまうからだ。
 『この時代、密通は手打ち金でチャラになるという制度があったのです。そこ金額は、7両2分。いまの金額で70万円ほどでしょうか。1816年に書かれた「世事見聞録」によると、これを定めたのは江戸奉行の大岡越前だったといいます。
 とはいえ、70万円の手打ち金を庶民が払えるわけもない。実際には、寝取りが発覚しても2分(4万5,000円ほど)の慰謝料で済むケースがほとんどでした。寝取りが文化として浸透していた社会だっただけに、夫も「やれやれ仕方ない」と許していたのでしょう』(前出・永井氏)
 常識や文化は時代とともに変わっていく。当時に戻るわけではないが、性に自由だった江戸期を想像して楽しむのもまた味わい深いものだ」
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 2017年12月4日号 AERA「 浮気相手の子どもを夫に育てさせる…「托卵女子」の恐ろしすぎる生態
 もし自分の子どもが、妻の裏切りによる他人の子だったら──。愛情が深ければ深いほど、父の戸惑いと苦悩は大きい(撮影/鈴木愛子)
 自分の子だと信じていたのに――。浮気相手の子どもを夫の子として産む妻が、最近ひっそりと増えているらしい。事実を知った男性の悩み、葛藤は深い。
 7月のある夜、男性(32)は9歳の長女の内ほほを、そっと綿棒で拭った。インターネットで注文した親子関係の有無を調べるDNA鑑定のための作業は、拍子抜けするほど簡単だった。
 まさか、とは思う。3カ月前に離婚が成立した元妻とは、学生時代に「できちゃった結婚」。妊娠を告げられた時は、確かに「あれ? 計算が合わない」とは思った。とはいえ、本気で疑っていたわけではない。娘の顔は友人たちも驚くほど元妻に瓜二つ。自分と似ていないなんて、考えたこともなかった。
 それに、育児を放棄した元妻に代わり、9歳になるまで育てた子だ。自分の子でないはずがない。でも妻は、結婚後半年で浮気し、家を出ていった。心のどこかで引っかかっていたのかもしれない。悩みを振り切るように、綿棒を入れた封筒をポストに押し込んだ。
 2週間後、男性の元に届いた1通の封筒。鑑定の検査結果だ。封を開け、中を見ると、男性は言葉を失った。
 「親子関係なし」
 「この子さえいれば、もう十分」
 そう思い、男手一つで育ててきた愛娘は、妻の浮気相手の子だった。もしかすると、検査結果が間違っているかもしれない。にわかに受け入れられず、はやる思いで元妻に確認した。すると、彼女は悪びれることなく、こう言い放った。
 「それで、どうするの?」
 驚くことも、わびることもなかった。
 「その態度で、完全に『確信犯だな』と感じました」(男性)
 他の鳥の巣に産卵し、ひなを育てさせることで子孫を残す。カッコウホトトギスなどに見られる習性、「托卵(たくらん)」だ。別の男性の子を妊娠・出産し、夫に育てさせる女性を、最近はこの習性になぞらえ、「托卵女子」と呼ぶ。
 元・光GENJI大沢樹生が、1996年に結婚した女優の喜多嶋舞との長男と、血縁上のつながりがないと判明し、2015年に裁判で「親子関係不存在」が確認されたことも記憶に新しい。05年の離婚後、大沢は一時、長男の親権を持ち、一人で育てていた。
 もちろん血のつながりだけが親子のすべてではない。日本では里親や養子縁組などによって、血縁関係になくても親子として暮らす人もいる。実の親子でも、関係が悪化することもある。ただ、突然、妻の過去の裏切りとともに「自分の子ではない」という事実を突きつけられた男性は、子への愛情と、やり場のない妻への怒りに引き裂かれる。
 このまま一緒に暮らし続けるべきか、本当の親である元妻に娘を任せるべきか──。娘が妻の浮気相手の子だと分かった先の男性は、葛藤の中にいた。
 そもそも元妻に娘が育てられるのか。結婚当初から家事や育児をほとんどせず、男性が家に帰っても、夕飯が用意されていないことが多かった。夜泣きが激しい日も知らんぷり。男性が朝まで子どもの面倒を見てから出社した。
 結婚半年で元妻の浮気が分かって以降、はじめは元妻が長女を引き取ったが、半年ほどで「無理」と音を上げた。以来、ときどき男性や男性の実家の母が娘を預かっていたが、娘が1歳半のある日、男性の家から、元妻の元へと娘を送り出そうとしたときのこと。娘は小さな体で男性の母親にギュッと抱きついたまま泣き出し、そのまま離れようとしなかった。
 「1歳半なので、まだよく分からない年だったと思うんですが……。本能的なものがあったのかもしれません」
 「もう向こうにはやれない」
 男性の母親の強い勧めもあり、以来、7年以上、長女は男性の元で暮らしている。男性の母親はもちろん、近所に住むいとことも仲良しだ。元妻の元で暮らすとなったら、他人になってしまう。一緒に遊ぶのを楽しみにしているのに、どう説明すればいいのか。
 別居中、ときどき娘のために3人で旅行をした。「ママ、好き。3人で暮らしたい」。無邪気にそう話す娘の言葉を聞くと胸が詰まる。今は口では「娘が一番」と言う元妻だが、その言葉を真正面から信じることはもうできない。娘に「血がつながっていない」と、真実を告げるかどうかにも悩む。
 「もし妻に渡すことになれば、自分が本当の父親でないことを話さないと、離れて暮らす理由を娘に納得してもらえない」
 正直、男性には「自分自身の本当の子どもが欲しい」という思いもある。娘を引き取れば、再婚して別の女性と子どもをつくるハードルは高くなってしまうかもしれない。まだ32歳。やり直しも利く年齢だ。
 友人や先輩に相談するが、人によって答えは違う。同世代は「娘を引き取るべきだ」と言う人が多いが、40代や50代の先輩からは「独り身になってやり直せば?」と言われることも。
 「毎日どうすべきか考えますが、日々、答えが変わるんですよね。娘はかわいいですが、感情だけでは決められません」
 (編集部・市岡ひかり)」
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夜這いの民俗学・夜這いの性愛論
不倫 (文春新書)
不倫と正義 (新潮新書)
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 ウィキペディア
 夜這い(よばい)は、古代日本の婚姻当初の一形態。求婚する女のもとへ通う妻問婚のこと。後には、強姦まがいに夜中に性交を目的に他人の寝ている場所を訪れる行為をも意味するようになった。語義は「呼び続ける」こと。古代の言霊信仰では、相手の名を呼び続けることで言霊の力で霊魂を引き寄せることができると考えられた。
 国文学関係の研究者の間では、一般には夜這いは古代に男が女の家へ通った「よばう」民俗の残存とする考え方が多い。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「よばい」の解説
 よばい
 婚姻当初の一形態。のちには強姦(ごうかん)まがいの行為を含めていう。語義は「呼び続ける」こと。霊魂信仰では、相手の名を呼び続けると、言霊(ことだま)の力によって霊魂を招き寄せることができると考え、そういう呪術(じゅじゅつ)的な行為から出た語。古代には婚、娉、結婚などの文字をあて、男が求婚し、また女のもとに通(かよ)って行くことであった。当時の女性は生家(せいか)との結び付きが強く、結婚してもなお生家にとどまっていたから、夫は毎夜、妻のもとに通っていた。このような婚姻形態を婿入り婚、招婿(しょうせい)婚、通い婚、よばい婚、母処婚(ぼしょこん)などという。ただし女性が一生を生家で過ごしたという確証は得られず、子供ができたときとか、夫の親が隠退した時期を見計らって、妻が夫の家に入るのが一般であった。中世以降、武家を中心に男性支配が強まり、祭祀(さいし)や労働における女性の地位が低下するに伴い、結婚と同時に嫁が婿方に身柄を移す「嫁入り婚」が広く行われるようになった。村の男女が成人して、よばいなどの交際を重ねるうち、自然に自他ともに許す一組の夫婦ができあがっていたものが、世の中が厳密になり、極度に処女性が重んじられ、練習期間というべきものが認められなくなった。そういう時点で、相手の女性の同意さえ確認せず、深夜にしのび込むものだけをよばいとよぶことになり、「夜這(ば)い」などの文字をあてるようになった。なお、女が男のもとに通う「女のよばい」も、わずかながらあった。
 [井之口章次]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 日本人と中国人・朝鮮人は、何もかもが正反対の全然違う人間である。
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 不倫・夜這い・寝取り・托卵の主導権は女性が持っていて、女性かその気がなければ不成立であり、男性が女性の気持ちを無視して強引に性行為をすれば犯罪とされた。
 つまり、不倫・夜這い・寝取り・托卵が成立する条件は、男女同権か女尊男卑であって、男尊女卑ではない。
 作法に従わず掟を破れば、男は村八分の制裁を受けるか、最悪はムラから追放された。
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 日本民族は、乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
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 戦国武士の性行為(セックス)には、女性との異性行為、男性との同性行為、動物との獣姦の3種類あった。
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 自然のままに自由に性を楽しんでいた日本民族を、人としての常識や教養などで縛りくだらない・つまらないブラックな人間に変えたのは、大陸から伝来した儒教キリスト教啓蒙思想人道主義マルクス主義共産主義などであった。
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