🏞79)─3─北前船。江戸の経済と文化と料理を支えたアイヌとの北方交易。~No.321No.322 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徳川幕府は、経済面や国防の面から蝦夷地のアイヌを間接保護する必要があった。
 蝦夷地やアイヌ人に対する差別は、江戸時代と現代日本では全然違う。
 その証拠に、徳川幕府は世界で蔓延していた疫病からアイヌ人を救っていた。
   ・   ・   ・   
 アイヌ人は、江戸時代を支え、日本国の存亡を握っていた。
   ・   ・   ・   
 蝦夷地は(北海道)は日本の植民地ではなく、アイヌは北方の土人であったが日本の植民地人・奴隷ではなかった。
 アイヌ民族日本民族琉球民族は。兄弟民族で縄文人の子孫である。
   ・   ・   ・   
 2024年1月号 Voice「地域から日本を動かす 結城豊弘
 北前船から現代を俯瞰する。
 北前船にはどんなイメージがあるだろうか。
 歴史の授業で習った北前船は、北海道の昆布を日本海の港や天下の台所・大阪に運び、代わりに米や布、各地の物産を運搬し、交易を行なった巨大貿易帆船と記憶している。
 北前船の歴史について解説した伊東香織倉敷市長は、『北海道から北前船で運ばれたニシンのかすが、有益な肥料として綿花の栽培に使われ、倉敷の紡績業の繁栄につながった』と指摘。人と物の交流が文化振興にとって大切であり、それは現代にも通じると強調した。
 ……
 フランス人を魅了
 2022年10月には、フランス・パリ市で4日間、同フォーラムが開催され、大好評だったそうだ。美食の国フランスで昆布の『日本の出汁(だし)文化』もアピール。日本の刀剣やアニメも紹介した。今回の岡山での開催にも絆がつながり、欧州の各国大使や領事がフォーラムに多数参加。フランス東部のアルザス地方・欧州日本学研究所や駐日欧州連合(EU)代表部などが顔を揃えた。
 僕は、参加者の一人であるフランスの元文部大臣でアルザス欧州日本学研究所所長のカトリーヌ・トロットマンさんと対談した。
 彼女は『2025年には、アルザスに日本の漫画博物館を開設する計画がある。日本の文化は、複雑なフランス人を魅了する。北前船の物流の歴史にも心が躍る。アルザスと日本との交流は、江戸時代末期に大阪商人が繊維品を買いつけにきたころから始まる』といって、『ゲゲゲの鬼太郎』の生みの親、水木しげる氏の出身地である『妖怪の町』境港を紹介した僕の手を握り返した。
 北前船じゃ一度の航海で1隻当たり約千両、現代のお金で約1億円以上の莫大な富を稼いだという。西日本の古着が生産技術の差から東日本では高値で売られ、西日本では北海道の昆布やニシン、ニシンのカスが肥料として、高値で売れた。
 しかし、多額の利益を生む北前船も、嵐で遭難すれば一巻の終わり。まさに命がけの航海が、寄港地に料亭や茶屋などの振興と民謡の流行、神社仏閣などの繁栄をもたらしたのだ。さらに、そこから生まれた祭りや文化、町並みが、現代では海外とのまったく新しい交流を生み出していく。……」
   ・   ・   ・   
 北前船とは、蝦夷地のアイヌと本土の和人との間でおこなわれた北方交易の事であり、日本の食文化など多くの面で支えていた。
 つまり、日本民族の文化や経済はアイヌ人の恩恵を受けて進歩・発展し繁栄していた。
   ・   ・   ・   
 日本の近代化は、江戸時代の北前船交易や日本人の旅好きによる国内での人・物・金の流動で成功した。
   ・   ・   ・   
 こんぶネット 一般社団法人 日本昆布協会
 昆布って何?
 昆布は海で育つ藻、海藻の仲間です。
 「海草」と「海藻」読み方は同じですが、海草は、海中で花を咲かせ種子によって繁殖し、海中で一生を過ごすアマモなどの海産種子植物のことをいいます。比較的浅いところに多く、海底深くに生育することはありません。
 一方海藻は、海で生活する藻類のことで、胞子によって繁殖します。海藻の根は栄養吸収のためではなく、岩に固着するためのものです。葉色によって緑藻・褐藻・紅藻の3種類に分けられます。世界に約2万種の海藻類があるといわれ、食用にされるのは昆布に代表される褐藻に多く、全部で約50種程度といわれています。
(参考:水産庁
 昆布の歴史
 こんぶの名前の由来
 日本の味としてすっかり食生活に定着している昆布ですが、その歴史はあまりに古く、確かな記録は残っていません。縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています。
 こんぶが旅した”こんぶロード
 鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。昆布が庶民の口に入るようになったのは、そのころからです。海上交通がさかんになった江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになりました。昆布を運んだ航路の総称を「こんぶロード」と言います。こんぶロードは江戸、九州、琉球王国沖縄県)、清(中国)へとのびていきました。
特に、琉球王国薩摩藩(鹿児島県)と清とのこんぶ貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。
 新しい土地に新しい昆布文化が生まれる
 こんぶロードがのびて新しい土地に昆布がもたらされると、そこに独自の昆布食文化が生まれました。
 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べています。
 関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっています。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるのです。
 こんぶ料理
 参考文献
 (株)全教図「中学校技術・家庭科副読本こんぶ」(平成9年3月発行)
 北海道ぎょれん「北の幸。釧路の味 釧路の昆布」 
 昆布の種類(昆布いろいろ)
 日本で採れる昆布の95%以上は北海道全域で、その他は 東北(青森県岩手県宮城県)の三陸海岸沿いで採れ、 場所によって、採れる昆布の種類が違います。
 どれで、だしをとっても、煮て食べても良さそうですが、 実は使い方が異なります。
 縁起物でもある昆布で幸せを引き寄せよう!
 開運!縁起物でもある昆布で 幸せを引き寄せよう!
 昔から、おめでたい席に欠かせない昆布は、
 いわば日本人の必須ラッキーアイテム。
 なぜ、どうして昆布は"縁起がいい"とされてきたのか…。
 話せば長~くなるその謎を、ギュッと凝縮してお届けします。
 これを読んで、あなたの開運に役立てくださいね!
 なぜ昆布は縁起物なの?
 縁起のいい食べ物として、結婚式やおめでたい席に欠かすことができない≪昆布≫は、鎌倉・室町時代から今日まで『よろこんぶ』として、縁起物とされています。
 まるでゴロ合わせのシャレのようですが、昆布が"縁起物"と言われるようになるには、日本人と昆布の切っても切れない関係があります。
 政(まつりごと)にも欠かせなかった昆布
 奈良時代の歴史書続日本紀』によると、「715(霊亀元)年、蝦夷(現在の東北地方)の須賀君古麻比留から"こんぶ"が朝廷に献上された」と書かれています。
 実はこれこそが、昆布について書かれたもっとも古い記録。
 また、平安時代の詳しい決まり事についてかかれた『延喜式』という書によれば、地方の特産物を収める税金として陸奥の国(青森県)から、昆布が収められていたといいます。
昔の名前は“ヒロメ”です
 「ヒロメ」とは幅が広い海藻の意味で、「広布」と表していました。それが音読みされだして「こんぶ」と呼ばれるようになったという説があります。
 この「ヒロメ」という言葉が、結婚披露宴を「おひろめ」と呼ぶ語源と言われています。
また、現在でも祝儀の時には、幅の広い昆布(ヒロメ)を縦二つに折ってぐるぐる巻き、紅白の紐で結んだものを床の間に飾るという習慣が残っている地方もあります。
 戦国時代は必勝祈願の必須アイテム
 昆布は、平安期にはすでに祝膳にのぼったそうです。そんな宮中の古式にならって室町時代になると武将が出陣するときのラッキーアイテムとして登場します。
一に打ちあわび、二に勝ち栗、三に昆布…すなわち「打ち勝ちよろこぶ」という語呂あわせですが、戦乱の世の武将達には単なる言葉遊びでは済まされない、もっと大切なアイテムだったと思われます。
 栄養面でもお祝いの場にピッタリ!?
 広く一般の人まで、昆布をお祝いごとに使うようなったのは江戸期から。結納の席にも、子生婦(こんぶ)として登場するようになりました。昆布の繁殖力の強さもあって"よい子が授かりますように"と用いられていたようです。しかし、食物繊維やカルシウムがたっぷりの昆布は、妊婦さんにはうってつけの食品という側面もあったのかもと推測されています。
 このように、昔からおめでたい日やここ一番の大事な日にかかせない大切な食糧として受け継がれてきた昆布。
 長い長い歴史の中で、ただの語呂合わせだけではない価値が出来上がったのだと推測されます。
 “縁起物”として昆布が大活躍するシーン
 結納品 子生婦
(こんぶ・こうぶ)
 "よろこぶ"との語呂合わせはもちろん、その旺盛な繁殖力が好まれ「立派な子供を産めますように」という願いを込めて「子生婦」という字が当てられている。ちなみに…婿養子の場合は「子生夫」「幸運夫」と書く場合も。
 土俵
 "勝栗や昆布・米・ スルメ・塩・カヤの実"などの"鎮物(しずめもの)"が、場所中にケガや事故がないようにと、祈願する土俵祭りの際に土俵の中央に埋められます。
 鏡餅
 正月などに、神仏や床の間に供えるお餅の正月飾り。地域によっては紅白餅だったりと様々な形式がありますが、餅の上の飾りも様々で、昆布をはじめ橙・串柿・干しするめなどがあります。
 このように昆布は日本古来の縁起物として色々なシーンで大活躍しています。
 食品としても、縁起物としても日本を代表する存在と言えそうですね。
   ・   ・   ・   
 料理王国
 日本料理の基本・だしを学ぶ~昆布 ―1200 年の歴史と文化
  #歴史
 日本料理の基本・だしを学ぶ~昆布 ―1200 年の歴史と文化
 2021年9月24日 #歴史, Journal, 日本料理, 歴史・文化, 食材, 魚介
 料理王国2021年10月号の特集「日本料理の基本・だしを学ぶ」より、本誌でカバーできなかった内容を紹介する新連載。日本料理特有のだしについてご紹介します。
本誌内容はこちらから:
 https://cuisine-kingdom.com/magazine-202110
 日本人と昆布の関わりはたいへん長く深いものです。文献に初めて登場するのは1200 年ほど前のことですが、最初に煮炊きが始まった縄文時代(約1万5000 年前~ 2300 年前)から昆布はすでに使われていたといわれます。古来より昆布は細かく削って薬として珍重されたり、神様へ奉納されたりするなど貴重で神聖なものでした。現在のように、だしの素材として使われるようになったのは、中国から伝わった精進料理が発展を遂げた12世紀頃です。精進料理にとって海藻である昆布は使い勝手のよい食材であり、だしや煮物などさまざまな料理に用いられたほか、胡麻油で揚げた昆布も栄養価が高く好まれました。
 昆布店が得意先に年末に配った縁起物の引き札。北前船を描いた錦絵(明治後期)をもとにしている
 その後、17世紀後半になると海運が発達し、昆布の収穫地である北端の蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)から商業の中心である西の大坂まで昆布の長距離輸送が可能となりました。そこを往復して物資を売買する船は「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれ、北陸地方敦賀はその主要な寄港地としてにぎわいました。物資のなかでも昆布は重要な地位を占めており、敦賀で加工され、京都や大坂へと出荷されました。この「昆布ロード」の確立により昆布が安く出回るようになり、庶民のあいだにも広まっていったのです。
 日本料理の特徴のひとつに、保存のきく乾物をさまざまに活かすというのがありますが、だしの素材である昆布はその代表格です。収穫した昆布を一定期間寝かせることで熟成させ、さらにもどして使うことでうま味を抽出する技法は日本ならではのものであり、日本料理の核となっています。
 昆布には多くの種類がありますが、利尻昆布羅臼昆布、日高昆布、真昆布が、現在流通しているなかでもっとも有名なものです。京都の料理店では利尻、大阪を中心とする関西地方では真昆布が多く出回り、東京では日高がなじみ深いなど地域や料理によって使われる昆布が異なります。「だしの味で料理が決まる」とされ、料理店のだしへのこだわりはとても強いものです。この本で紹介する料理では、とくに断わりがない場合は、利尻昆布でとっただしを用いています。
 だしの素材以外でも、昆布を薄く削ったおぼろ昆布、酢でもどした昆布を重ねて熟成させ、表面を削ったとろろ昆布、醬油で炊き上げた佃煮昆布など多くの加工品があります。
   ・   ・   ・