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北前船が大ピンチ!新たな輸送路とは?
2023年11月4日放送 20:02 - 20:08 NHK総合
ブラタモリ #253 新幹線開業!敦賀
海の道が危うくなりより重要となったのが敦賀から京都までの道。大量輸送を目的とした新たな道が整備された。琵琶湖を通り船で運んだが輸送量には限界があったという。外国船が関門海峡に現れると大阪や京都に輸送できなくなり明治政府は新たな輸送路を整備したという。鉄道で敦賀・京都間の大量輸送が可能となった。
キーワード
琵琶湖敦賀(福井)大阪府長浜(滋賀)東京都京都府関門海峡大津(滋賀)疋田(福井)金ケ崎(福井)疋田船川
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ブラボーふくい!
疋田舟川(敦賀市)
2023年10月11日 17時48分 (11月10日 18時00分更新)
琵琶湖へ 運河の記憶
2003年度に県の事業で江戸時代の姿が再現された「疋田舟川」。水底には丸太が敷かれている=いずれも敦賀市疋田で
かつての宿場町の面影を残すのどかな集落を、清らかな水をたたえた幅2メートルほどの石積みの水路が貫いている。敦賀市疋田(ひきだ)の集落内にある「疋田舟川」。山あいの小さな水路には、敦賀湾と琵琶湖を運河で結び、日本海と京都、その先の太平洋までつなぐという、壮大な計画の記憶が眠っている。
敦賀市中心部から琵琶湖の北端までは、直線距離で約20キロ。疋田はそのおよそ中間に当たる。周辺は日本海側と太平洋側を隔てる中央分水嶺(れい)としては比較的標高が低く、古くは平安時代から、山を抜ける運河を開削する構想があった。
計画が具体化したのは、近海に外国船が出没し、日本海側と京都を安全に結ぶ輸送路が求められた江戸時代後期。1816(文化13)年、幕府の命を受けた小浜藩が、敦賀-疋田間約6・5キロ、幅2・7メートルの水路を完成させた。水底にマツの丸太を敷いて舟底の滑りを良くするなど、さまざまな工夫が凝らされた。疋田から琵琶湖までは陸路を進む必要があったものの、舟川には米や海産物などが行き交い、荷揚げ地となった疋田も大いににぎわったという。
舟川は幕末の豪雨で被災して廃止され、明治以降は道路の拡幅によって川幅も狭くなり、農業・生活用水として細々と使われてきた。運河建設の計画は昭和中期までたびたび持ち上がったものの、技術や費用の問題で立ち消えになった。
江戸時代の川舟の模型などが展示された「愛発舟川の里展示室」
現在の舟川は2003(平成15)年度に、県の事業で江戸時代当時の様子を一部区間復活させたもの。川幅や水底の丸太が忠実に再現されており、階段を下りて水辺で遊ぶこともできる。16年には、舟川のすぐ横に「愛発(あらち)舟川の里展示室」が開業。江戸時代の川舟の模型や測量図などが並び、当時の様子や時代背景を学ぶことができる。
川辺には舟の形をしたベンチがあり、憩いの場になっている
舟川のそばには舟の形をしたベンチも設置され、周辺は地元住民の憩いの場になっている。地元区長の前川豊さん(74)は「地元でも舟川の歴史を知っている人は少なくなった。若い世代になんとか伝えていきたい」と力を込めた。 (林侑太郎)
夏は子どもが水遊びに
疋田区長・前川豊さん(74)
舟川は私が子どものころは、風呂の水にしたり、夏はスイカを冷やしたり、生活に根差した場所でした。それは今も変わらず、夏は子どもたちが水遊びをするなど、憩いの場になっています。もし琵琶湖まで運河がつながっていたら、集落の景色は大きく変わっていたかもしれませんね。
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読売新聞オンライン「ロシア軍艦の横暴阻止した「対馬事件」…犠牲になった島民たたえ、歴史伝える二つの碑
2023/06/14 08:34
スクラップ
長崎県対馬市美津島町大船越の瀬戸沿いに並んで立つ、二つの顕彰碑がある。幕末、対馬に上陸したロシア軍艦乗組員の横暴を阻止し、犠牲になった2人の島民をたたえており、歴史とともに、外交や領土問題の大切さを今に伝えている。(島居義人)
松村安五郎の顕彰碑を訪れた子孫の松村英二さん
吉野数之助の顕彰碑
旧美津島町誌などによると、1861年(文久元年)、ロシア軍艦「ポサドニック号」(長さ約70メートル、360人乗り)は、対馬中央部の 浅茅あそう 湾に上陸。湾奥部の海岸一帯を基地化し、乗組員らが大船越瀬戸を小舟で強引に通過しようとした。
その横暴を、大船越地区の農民の松村安五郎と、給人の吉野数之助が、番所の役人とともに阻止。乗組員は銃を発砲して安五郎を殺害し、捕らえた数之助も自害に追いやったとされる。
2人は、91年に戦死者の待遇を受け、靖国神社に 合祀ごうし された。その後、顕彰碑が建てられ、2005年に市指定史跡となった。
ポ号の寄港名目は、函館から長崎に向かう途中での船体修理だったが、地政学上、ロシア海軍が対馬を海洋進出の拠点にする狙いがあったとの見方もある。
乗組員らは、海岸部を不法占拠した半年の間、宿舎や波止場、砲台場、鍛冶場、家畜小屋などを建て、井戸を掘るなどした。幕府の退去要求を聞き入れなかったため、幕府はロシア艦の動静を監視していたイギリスに仲介を依頼し、ポ号は対馬を離れた。一連の出来事は「対馬事件」と呼ばれる。
安五郎の顕彰碑に参った子孫、松村英二さん(74)は「当時、外国人に土地や島を乗っ取られたり、許可なく使用されたりすることに納得できなかったと思う。領土問題には 毅然きぜん として対応すべき、との教えを後世に伝えているようだ」と話す。
5月に広島市で開かれた先進7か国首脳会議(G7サミット)では、ロシアのウクライナ侵略や中国の覇権主義的な動きへの対応、核軍縮など国際社会が抱える様々な課題が議論された。
対馬の防衛史に詳しく、関連史跡のガイドをしている対馬市の小松津代志さん(75)は「歴史に学び、継承することが平和づくりにつながる。外交や領土問題に関心を持つことを忘れてはいけない」と話した。
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対馬事件と討幕。
2022-05-29
☭9」─1─対馬事件。尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃した。ロシア軍艦による対馬武力占拠と租界要求事件。1854年~No.23No.24No.25 * ⑧
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徳川幕府は、海上輸送路の重要性を認識し、外国の脅威(ロシアの軍事侵略)から海の大動脈であった北前船航路を護っていた。
明治政府(軍国日本)も、徳川幕府の対露国防戦略を引き継ぎ、ロシアの侵略を半島や大陸で撃破するという積極的自衛戦争に勝利する為に利用していた。
それが分からないのは、日本の民族史において現代日本人だけである。
特に、「激流に近い海流のある海が天然の防壁となって日本を大陸からの軍事侵略から守ってきた」と説く高学歴な日本人は〝そうだ〟と言える。
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鎖国をしていた日本は現代日本とは違い、オランダからの僅かな情報から西洋の動向、世界情勢を見ていた。
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戦前の敦賀は、世界史的な人道貢献の町で、天皇が統治する日本を頼ってヨーロッパから逃げてきた数万人の西洋人難民を助けていた。
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敦賀市博物館 文化庁
つるが歴史遺産 疋田舟川
先人の運河計画に思いを馳せる川の流れ
敦賀湾は古代より日本海沿岸、さらには大陸と繋がっており、各国の物資が敦賀へもたらされました。疋田地域は、それらの物資を琵琶湖経由で京都まで運ぶための要所でした。江戸時代に入ると北前船で運ばれる大量の物資をより効率よく京都へ運ぶため、敦賀・琵琶湖間に運河開削を目指す機運が高まりました。
計画が実現したのは文化13年、現在の舟川の原型ができあがり、敦賀の町から疋田までは舟で、疋田からは牛車で深坂峠を越えて琵琶湖へ荷物が運搬されるようになりました。その後一旦は廃止されましたが、幕末には日本近海に外国船が現れた結果、下関、瀬戸内海航路以外の京都への物資輸送路確保のため、改めて1855年に整備、運送が再開されました。
最終的に舟川は慶応2年(1866年)に廃止されました。敦賀・琵琶湖間の運河開削はその後も計画されましたが、実現することはありませんでした。しかし日本海と琵琶湖をつなぐ輸送路は、明治14年(1881年)の長浜―敦賀の鉄道開通として別の形で結実したとも言えます。疋田舟川は幻の運河計画の一部が実現した形とも言えるかもしれません。日本海と畿内をつないだ時代を伝え、今も昔も変わらずに流れています。
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(平成29年4月認定)構成文化財
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中学受験鉄人会
No.1394 『ブラタモリクイズ!敦賀~すべての道は敦賀に通ず?~編』
今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は11月4日に放送された敦賀編です。
今回の舞台は福井県・敦賀市。来年3月には、いよいよ北陸新幹線がやってきます。長い歴史を持つ日本海側の港町・敦賀には新鮮な海の幸をはじめ、おすすめのグルメが盛りだくさんです。北陸新幹線を迎える新駅舎が高くつくられた理由とは?敦賀に通じる「古代の道」を北陸道守り神の大鳥居が示していた?北前船が生んだ敦賀名物とは?明治の末期、ヨーロッパを目指す人々のためのターミナルが敦賀にあった?敦賀にすべての道が通じているとは、一体どういうことなのでしょうか?敦賀の地理的特徴、歴史の歩みを見ながら、その理由を探って行きましょう!
福井県・敦賀市の位置
福井県の真ん中あたりに位置する敦賀市。
来年2024年の3月に北陸新幹線の敦賀駅が開業します。
北陸新幹線E7系電車 画像引用元:ウィキペディア
今まで東京から敦賀に来るには、東海道新幹線で米原まで行って北陸本線に乗り換えるか、北陸新幹線で金沢まで行って陸路を使うか、羽田空港から小松空港まで空路で、そこから陸路というルートでした。
それが来年3月に北陸新幹線の金沢・敦賀間が開業となります。福井県に初めて新幹線が乗り入れることになるのです。
北陸新幹線のルート図 画像引用元:福井県HP
間もなく新幹線が通じる敦賀ですが、今回のお題「すべての道は敦賀に通ず」の意味は、ただ単に新幹線がつながるということだけではありません。
実は敦賀には今も昔もさまざまな道が通じていて、その道の1本1本を見て行くと歴史の上で、いかに敦賀が重要な場所だったかがわかります。
まずは新幹線敦賀駅でも多くの道が通じていることがわかりますので、開業前の新しい駅舎を一足先に見てみましょう。
敦賀駅の駅舎 画像引用元:福井県公式観光サイト
駅舎の最上階、新幹線のホームに向かいます。
ホームにつながる76段もの階段は、見上げるような高さです。もちろんエレベーターもあります。
ホームからの眺めは素晴らしく、海まで見えます。
駅舎は地上約37m、12階建てのビルとほぼ同じ高さで、敦賀市内の建物の中でもかなり高く、さえぎるものが見えません。
そこまで駅舎を高くした理由には「道」が関係しています。
駅舎の高さと敦賀に通じる道に、一体どのような関係があるのでしょう?
その理由が新幹線のホームの端でわかります。
運転士さんや車掌さんしか入らないエリアへ向かいます。
ホームの詰所(つめしょ:一時的に宿泊、仮眠したり、待機する施設のこと)から景色を見ると、トンネルが意外と近くにあることがわかります。
新たに開業する新幹線は、山の中腹にあるトンネルを通って敦賀駅までやってきます。
詰所からは、他にも「道」が見えます。
高速道路の「北陸自動車道」、その手前に「国道8号」が見えます。
みんなこの辺りに集中していることがわかります。
Q1.敦賀駅の駅舎が高くなった理由とは何でしょうか?下の画像をヒントに考えてみましょう。
敦賀駅周辺の地図
※緑矢印の先が「国道8号」、青矢印の先が「北陸自動車道」です。
A1.もともと多くの鉄道や道路が重なり合っていたため。
日本海側の交通の要衝・敦賀には、大阪や京都、名古屋や金沢方面からの鉄道が通じています。
そして、北陸自動車道や国道8号は、新潟方面から敦賀を経由して、京都方面へ向かっています。
このように敦賀駅周辺は、もともと多くの鉄道や道路が重なり合っていたので、新幹線は一番高いところを通すことになったのです。
これ以上下げることができない高さにまで下げてはいますが、新幹線のホームは高い位置にあって、駅舎自体も高くなっています。
敦賀にたくさんの道が集まっていることがわかりました。
実は、敦賀には古代から重要な道が続いていました。
それがわかる場所へと向かいます。
敦賀駅から北へ約1㎞の場所で、古代・敦賀に通じていた重要な道がわかります。
そこにあるのは氣比神宮(けひじんぐう)です。
氣比神宮の大鳥居(国の重要文化財) 画像引用元:ウィキペディア
社殿の建立は702年という、大変由緒ある神社です。
「北陸道総鎮守」と書かれた看板があります。
古代の日本では、現在の北陸地方にあたるエリアを「北陸道」と呼んでいました。北陸道には、都からの重要な道が通じていて、敦賀は都から見て、北陸道の入口にあたります。
そこに位置する氣比神宮は、北陸道全体を守る神として敬われていたのです。
氣比神宮大鳥居は、江戸時代初期の1645年に建立され、国の重要文化財に指定されています。江戸時代から変わらぬ形のままです。
江戸時代からある大鳥居は、京都方面から来る人を迎えるように、京都につながる道に向いています。
実は、江戸時代より前、大鳥居は今とは別の場所に建てられていたのです。
現在の大鳥居が建てられる前に描かれたとされる境内図を見ると、大鳥居はもともと境内の北東の位置にありました。
ずいぶんと離れた場所に建てられていましたが、実は古代・敦賀には、もうひとつ重要な道が通じていて、この鳥居こそがその道を解き明かすカギになります。
かつて大鳥居が立っていたとされる場所に向かいます。
絵図をよく見ると もともとの大鳥居は北の方角を向いています。
つまり北側から来る人を迎えていたのです。
氣比神宮の位置
※赤丸が氣比神宮の位置、赤矢印が北の方角です。
Q2.大鳥居が北の方角を向いていたことから、敦賀にどんな人が来ていたと考えられるでしょうか?
A2.大陸から海を渡って来る人
敦賀の真北から来る人とは、日本海をはさんで海外から来る人でした。
それでは、海から来た人はどこから敦賀に来たのでしょうか?
「大陸」から海を渡ってやってくる人を意識して大鳥居が建てられたと考えられています。
中国の東北部に「渤海(ぼっかい)」という国があり、その渤海の使節が多く日本に訪れていました。
渤海と新羅(しらぎ)の領域 画像引用元:ウィキペディア
※紫が渤海、青が新羅です。
奈良時代の727年から約200年にわたり、渤海は日本に外交使節を派遣していたと言われています。
朝鮮半島から日本に来るには、大宰府や対馬が近かったため、来やすかったのですが、渤海から直接日本に来ようとすると、日本の色々な場所に着いてしまいます。
色々な場所に着いた渤海使に対して、都からは「とにかく敦賀に行きなさい」との使いを送り、敦賀に着いたところで正式に上陸となったと言われているのです。
つまり、もうひとつの道とは「海の道」のこと。敦賀には古代から、大陸との重要な航路が通じていたのです。
それでは、なぜ敦賀が古代・日本の玄関口になったのでしょうか?
実は敦賀の港にはこういうことに適した特徴があるのです。
それを探りに、氣比神宮から西へ約1.5㎞、現在の敦賀港の近くへと向かいます。
天筒山(てづつやま)から望む敦賀港と三内山(みうちざん) 画像引用元:ウィキペディア
敦賀の港から海の方を見ると、普通は陸地から海を見ると見える景色が、ここでは見えません。
Q3.陸地から海を見ると見えるけれど、敦賀の港からは見えないものとは何でしょうか?下の画像をヒントに考えてみましょう。
敦賀港(赤丸です)の周辺地図
A3.水平線
敦賀港から見えないものとは「水平線」です!
敦賀の港の西側には敦賀半島が、東には越前海岸(えちぜんかいがん)が続きます。
深く入り込んだ湾の奥にあるのが敦賀の港です。
敦賀湾 画像引用元:環境省HP
そこには、どんな利点があるでしょうか?
まず波がないこと。敦賀の港は、琵琶湖よりも波が静かと言われるくらいに静かなのです。
さらにもうひとつ、古代・敦賀の港には地形的な大きな利点がありました。
それを探りに、海岸近くの道路へと向かいます。
東の方角に向かいながら、道を進むと、海がある北側が高く、南側が低くなっていることがわかります。
これは「浜堤(ひんてい)」があったためです。
浜堤とは、砂などが波の力で打ち上げられて、海岸線に平行にできる堤状の高まりのことです。
エストニアのサーレマー島に見られる浜堤 画像引用元:ウィキペディア
この辺りの土地の高さを色分けした地図を見てみると、海岸に平行して浜堤があることがわかります。その南側はまわりに比べて低くなっています。
その低くなっている場所が、古代はどのような地形になっていたのでしょうか?
そこは、陸側に海が入り込んだ場所でした。
海が入り込んだこの地形こそが、古代日本の玄関口にとって大きな利点だったのです。
陸側に海が入り込んだ地形のイメージ図
Q4.陸側に海が入り込んだ地形であることがどのような利点となったのでしょうか?
A4.大陸からやってきた船の管理・監視ができたこと。
狭い川から入ってきて広いところに船を横づけさせると、船の管理・監視をすることができました。
古代の敦賀の港では、この地形を利用して検疫や入国審査を行っていたのです。
まず、大陸からやってきた船は沖合に停泊させて、小さな船に人を乗り換えさせて、この場所に集めます。そして、国内の船とは隔離した上で、検疫や入国審査を行っていたと考えられています。
現在の国際線の空港にも通じるような管理・監視システムと言えます。
古代の敦賀には、入国管理ができる地形があったからこそ、大陸からの道が通じていたのです。
これまでは、古代に通じた道を見てきましたが、次は江戸時代です。
敦賀にある道がつながったことで、敦賀名物が生まれました。
それがわかる場所が、200mほど離れた場所にあります。
ある建物の中で、何かを作っているのですが、独特の香りがします。
そこで作っているのは、「おぼろ昆布」です!
昆布かきによるおぼろ昆布加工(福井県敦賀市) 画像引用元:ウィキペディア
敦賀名物とはおぼろ昆布のこと。
職人の手によって一枚一枚ていねいに、薄い昆布が削り出されます。
なんと全国で生産される約8割が、敦賀産です。
江戸時代から今に至るまで、手作業でつくられているのです。薄さは透けて見えるくらいで、なんと0.01mmというのが売りになっています!
おぼろ昆布は江戸時代、敦賀につながるある道があったからこそ生まれた名物なのです。
敦賀湾や近海ではもちろん昆布はとれません。昆布は北海道産です。
Q5.北海道産の昆布を敦賀で加工できるようになった要因に「○○船」の存在があります。○○に入る漢字2字は何でしょうか?
A5.北前(船)
なぜ敦賀でおぼろ昆布が名物になったかというと、それは「北前船(きたまえぶね)」があったからです。
明治末から大正期に撮影した北前船 画像引用元:ウィキペディア
北前船とは、日本海側を航行して、北海道・大阪間の港ごとで商品の売買をしていた商船のことです。
江戸時代から明治に至るまで、日本の物流の大動脈でした。
つまり、おぼろ昆布を生んだ道とは、「北前船の航路」のことなのです。
北前船の寄港地の中でも特に敦賀には大量の昆布が運ばれました。
でも、なぜ敦賀なのでしょうか?
大消費地に近いこともありますが、実は一番の利点が他にあったのです。
Q6.昆布を北海道から京都や大坂に直接運ぶのではなく、敦賀で1回降ろした理由とは何でしょうか?下の地図をヒントに考えてみましょう。
赤の点線が北前船の航路、赤丸が敦賀の位置、青四角が大坂の位置です。
A6.1回敦賀で降ろすと、もう1度北海道に帰ることができたため。
北海道のものを京都や大坂に持ってくると、一番利潤が上がります。
北海道から船で大坂まで運べば、1回で大量の昆布を運ぶことができますが、これでは年に1往復しかできません。
そこで大坂まで行くのではなく、1回敦賀で降ろすと、もう一度北海道まで帰ることができて、年に2回往復ができます。
つまり消費地の大坂、京都に近い敦賀は、北前船が昆布で利益を上げるのに絶好の場所だったのです。
こうして敦賀に大量の昆布が集まり、それを加工したことで、名物のおぼろ昆布が生まれました。
敦賀に名物を誕生させた北前船の道ですが、幕末になると、この海の道にある問題が発生します。
日本近海に外国船が出没したことで、安全な航路の確保が難しくなりました。
北前船もさることながら、年貢米などを運ぶ船も大坂まで行っていました。幕末に「下関戦争」が起きましたが、こうしたことが起きると、下関を通るルートも使えなくなってしまいます。
大阪や京都にお米が届かなくなってしまうという危機が訪れてしまうのです。
海の道が危うくなり、より重要となったのが敦賀から京都までの道。
ここに大量輸送を目的とした、新たな道が整備されました。
それがわかる、敦賀の港から南へ約7㎞のところにある、「疋田(ひきだ)」という集落へと向かいます。
明治時代の道標が残っていますが、そこに「右 西京 東 東京」と書かれています。
つまり、そこが分かれ道であったことを表しています。
疋田の集落は、琵琶湖の北側にあって、左の道、右の道というのは、琵琶湖の両側に分かれて行く道の
ことなのです。
黄色丸が疋田の位置、赤丸が京都の位置です。
新たに整備された輸送路というのは、この道ではなく、そこを流れる川のことです。
小さな川のように見えますが、実は人工の水路で、「疋田舟川(ひきだふながわ)」と呼ばれています。
疋田舟川 画像引用元:文化庁HP
京都へ向けた新たな輸送路がこの疋田舟川です。
敦賀の港から疋田まで、約6.5㎞、船で荷物を運ぶ水路として、幕末に京都町奉行によってつくられました。
疋田の先には琵琶湖があり、再び舟で運ぶことができます。
疋田舟川と琵琶湖、2つの水運を利用して、敦賀から京都まで大量輸送をしようというものだったのでした。
現在は舟が通ることがイメージできないほど川幅が狭くなっていますが、当時はもう少し広かったのです。道の方を広げるために、半分くらいに縮めてしまいましたが、川の幅は3mくらいあったと言われています。
当時は川の両岸から60人ほどで船を引っ張り上げていました。
これで外国船の影響を受けない輸送路が整備されました。
ただ、人力で引っ張り上げるものだったので、その輸送量には限界があり、経済的に立ち行かなかったことで、この道が恒常的に使われることはありませんでした。
疋田舟川はわずか10年足らずで廃止になってしまったのです。
この疋田舟川が使われていた時代から10年もしないうちに明治時代になります。
明治政府もまた輸送路について、同じ問題を抱えていました。
外国船が関門海峡に現れると、大阪や京都に輸送できなくなってしまうため、このルートを明治政府も重要視していたのです。
そして、明治政府が新たな方法でここに輸送路を整備します。
それが何か?疋田舟川をたどるとわかるのです。
レンガのアーチが見られる場所があり、その上に非常に起伏の少ない一直線の道路が続いています。
Q7.この場所につくられた新たな輸送路とは何でしょうか?ヒントは「起伏の少ない一直線の道」です。
A7.鉄道
疋田舟川の機能を代替するもの、それは「鉄道」でした!
この鉄道こそ、明治政府がつくった新たな輸送路だったのです。
敦賀の港近くの金ヶ崎(かねがさき)から琵琶湖に面した長浜まで、鉄道を整備しました。蒸気機関車と琵琶湖水運を使い、敦賀から京都までの大量輸送を可能にしたのです。
赤丸が金ヶ崎の位置、青四角が長浜の位置、オレンジ線が両区間を結ぶ鉄道です。
日本最初の鉄道と言えば新橋、合わせて神戸・大阪間ですが、実はこの2つにこの金ヶ崎・長浜間を含めた3路線の建設が決まったのはほぼ同時で、明治2年のことでした。
敦賀から琵琶湖の水運につなげるルートは、明治新政府が最初につくると決めた鉄道の路線の中に入っていたのです。
それだけ重要視されていました。
江戸時代、物流の大動脈になれなかった水路と、明治時代になってなりえた線路。
ここはまさに日本の輸送の文明開化を示す場所と言えるのです。
続いては、この線路の終点。そこは終点というだけでなく、実は敦賀につながる新たな道が見えてくる場所でもあります。
そこで、明治時代につくられた鉄道の終点、敦賀の港近くの金ヶ崎へと向かいます。
金ヶ崎は港のすぐ横で、金ヶ崎停留所がつくられたことがはじまりです。
今も線路が残っている場所は、「金ヶ崎停留所跡」です。
その後、鉄道で東京ともつながった金ヶ崎、明治の終わり頃になると、この鉄道は貨物だけでなく、人も運ぶようになりました。
この停車場に来た人たちはここを最終目的地とはせずに、さらに次のところへ行こうとしていました。
ここに来た人たちは、一体どこに向かったのでしょうか?
昔の写真を見ると、停車場のすぐ隣に船が着いている様子が写っています。
金ヶ崎桟橋と「満州丸」 画像引用元:福井県立図書館HP
その船はどこに向っていたのでしょうか?
当時の切符を見ると、東京―ベルリン、東京―敦賀(米原経由)と書かれています。
なんと、敦賀に通じていたのは、「ヨーロッパへの道」でした。
Q8.敦賀からヨーロッパに向かう際の最初の経由地は、ロシア沿海地方の中心都市で、1919年頃には6000人もの日本人が居住していたと言われます。この経由地となった都市の名前は何でしょうか?
A8.ウラジオストク
ウラジオストクの位置
東京から敦賀まで乗換えなしで行ける列車の運行が始まり、切符一枚で敦賀を経由して、ヨーロッパまで行くことができたのです。
この列車を「欧亜国際連絡列車」と言います。敦賀からウラジオストクは船で渡り、列車に乗り換えてモスクワ、ワルシャワを経由して、ウイーン、パリまでも行けました。
東京からパリまで船では40日かかるところ、連絡列車によって17日で行けるようになったのです。
「すべての道はローマに通ず」と言われるローマからの道も敦賀につながっていました!
鉄道と港の町、敦賀。
海を越え、世界中から道が通じていたこの町は、いつの時代も常に新たな道がつながる場所だったのです。
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日本歴史地名大系 「疋田舟川」の解説
疋田舟川 ひきたふなかわ
福井県:敦賀市疋田村疋田舟川
疋田から小屋川こやのかわに通ずる川幅九尺の舟川。文化一三年(一八一六)三月に起工、七月に竣工したが、天保五年(一八三四)末馬借座の訴願で廃止。遺構の一部が残る。
琵琶湖の北より深坂ふかさか山を開削して、敦賀に疏水を通す企画は古くからあり、平清盛の命で重盛が開削した跡が深坂山に残ると伝える(北窓瑣談)。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、宝永(一七〇四―一一)頃には河村瑞軒も試みたという(越前国名蹟考)。京都の田中四郎左衛門は、寛文九年(一六六九)から一〇年にかけて琵琶湖疏水計画の書類・絵図を敦賀町奉行所に提出、元禄九年(一六九六)にもまた企画をするが、郡内の一九ヵ村の庄屋の反対にあって中止された(山本家文書)。
コトバンクでは本文の一部を掲載しています。ジャパンナレッジをご利用いただくとすべての情報をご覧になれます。→ジャパンナレッジのご案内
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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http://dobokuisan.starfree.jp>hikitafunakawa
疋田舟川 - 関西の公共事業・土木遺産探訪
疋田舟川
外国の圧迫に備えた陸上輸送の効率化
復元整備された疋田舟川
JR北陸線に乗り深坂トンネル(L=5,170m)を抜けると新疋田駅。無人の改札口を出て北へ800mほど行くと疋田の集落がある。疋田は、鉄道が通じるまでは、日本海と琵琶湖を結ぶ交通路の重要な拠点であった。ここで見つけた疋田舟川の遺構を手がかりに、陸上輸送の効率化としての水上輸送への転換策の歴史を紐解いてみた。
寛
図1 敦賀と琵琶湖を結ぶ交通路
図2 「中部北陸自然歩道」になっている深坂越、路面に残る敷石に往時の殷賑が偲ばれる文12(1672)年に河村 瑞賢が西廻り航路を開拓するまでは、日本海側の諸港から搬出される米穀などは、敦賀で荷揚げして陸路で琵琶湖岸に至り湖上の水運で大津に運び再度陸路を経て京・大坂に送られるのが通常だった。
琵琶湖と敦賀を結ぶ道路は古くから開かれており、神亀4(727)年に笠 朝臣(あそん)金村が平城京から船に乗り継いで塩津に達し山を越えて敦賀に向かった時に詠んだ歌「塩津山 打ち越え行けば 我(あ)が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも」(「万葉集」巻3)が知られる。彼が辿ったのは、塩津と敦賀を最短距離で結ぶ深坂峠を経由する「深坂越」だとされ、歌にあるような険しい山道だったようだ。紫式部も、長徳2(996)年に越前国司に任じられた父に伴われて輿でこの峠を越えるとき「知りぬらむ 往来(ゆきき)に馴らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと」(紫式部集)と詠んだ。
また、国が定めた「北陸道」として琵琶湖と敦賀の間には海津から山中峠を経て敦賀に至る「七里半越」1)と呼ばれるルートが整備され、こちらは深坂越ほど厳しくなかったため、物資の輸送によく用いられた。これに伴い、湖北では海津湊が賑わった。七里半越で物資の輸送に当たったのは、馬の背に荷を乗せて運ぶ「馬借」だった。平安時代に始まった頃には農閑期の副業だったが、商業が発達して輸送量が増大した室町時代に専業化したようだ。
これとほぼ時を同じくして、敦賀と塩津を結ぶ「新道野(しんどうの)越」が深坂峠の東方に開拓された。従来の峠より130mも低いところを通るので馬匹の通行に利し、七里半越に並ぶ幹線道路として扱われた。天正17(1589)年に大阪築城の資材を運ぶために改修が加えられるなど改良が繰り返され、新道野越の優位性が高まるにつれ湖上輸送の拠点は塩津に移っていった。陸上輸送が改善されたことにより、敦賀を経由する物資輸送はますます盛んになり、最盛期の寛文年間(1661~1673年)には、藩から許可2)を受けた馬借が保有する381匹ではとても間に合わず、三方郡などから平馬(へいま)3)や背持(せもち)3)を
図3 新道野越を開いた西村 孫兵衛の名を冠する茶屋、店内に芭蕉の「奥の細道」など10代目西村 野鶴の遺品が展覧されている動員して1日2,600~2,700の荷駄を近江に送ったという。荷馬に課される「駄別」 (通行税)は年額340貫を数え、小浜藩4)の収入の1割以上を賄った。なお、新道野越は、明治11(1878)年に敦賀陸送会社の寄付金で荷車道に改修されて(同時に深坂越は廃道の措置がとられている)ますます貨客の往来が増加した。現在の国道8号に踏襲されている。
次に、琵琶湖の水上交通に目を転じてみよう。琵琶湖では「堅田衆」と「菅浦水軍」が湖上権を争っていたが、平安末期に平氏がこれを掌握し、以後 時々の支配者は都に近い琵琶湖を征することの重要さに鑑み、
図5 享保年間(1716~36)におけ る大丸子船の所属港別隻数、大丸子船とはおおむね100石以上の もので本図には5隻以上の所属船を有する港を表示(喜多村 俊夫 「近江経済誌論攷」より
図4 「北淡海・丸子船の館」に展示されている丸
子船、船底が多数の鉄板で補強されている湖上水運を組織することに力を注いだ。
琵琶湖では、「丸子船」と呼ばれる船底の平たい独特の船が使われた。荷物をたくさん積み速力が出るように工夫されており、百石積みの丸子船が塩津から大津までおよそ4時間で航行したという(丸子船の構造と特徴についてはhttp://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/
download.php?file_id=57852が詳しい)。その全盛期は江戸時代中期で、琵琶湖全体で1,400艘が運行しており、最も多数の船を有していたのが塩津だった。西回り航路が開拓されて減少したものの、明治中期に鉄道網が整備されるまで重要な交通機関として大いに賑わった。
興味深いのは、水上交通を掌握した人物が日本海と琵琶湖を結ぶ運河を構想していることだ。古くは平 清盛がそれである。久安6(1150)年、子の重盛に敦賀から塩津に達する運河の開削を命じた。
図6 深坂地蔵、地元の人により丁寧に守られていた重盛は深坂峠付近で工事に着手したらしいが、まもなく堅固な岩盤にあたって断念を余儀なくされる。深坂峠の直下にある「深坂地蔵」がそれだと言い伝えられており、別名を「堀止地蔵」という。その時、重盛は「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」と書き残した。
豊臣 秀吉に仕えて敦賀城主に任じられていた蜂屋 頼隆と大谷 吉継・吉隆も運河計画を構想した。それは大浦川を利用するものであったらしいが、これも大岩石に遭遇して工事をあきらめたと伝えられる。大浦川は「太閤のけつわり堀」とも呼ばれるそうだ(http://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000073413.html)。
図7 秀吉が運河として利用しようと試みたといわれる大浦川 江戸時代に入ると、京都の豪商 田中 四郎左右衛門が寛文9(1669)年から元禄9(1696)年にかけて3度にわたり幕府に許可を願い出、幕府も興味を示して実地検分に乗り出したが、敦賀側の反対で頓挫している。この時のルートは、塩津~沓掛間約6kmの水路を掘削し、新道野~敦賀間の約16kmは笙の川・疋田川を利用するというものであったようだ。
その後、幕府は米穀の効率的輸送のために河村 瑞賢に西回り航路を開設させ、敦賀と湖北の諸港との間の陸運は大きな打撃を受ける。しかし、幕府には、この区間の輸送を考え直さなければならない状況が生じたのである。それは、ロシア船の近海への出没だ。山越えする水路を整備して効率的な輸送を実現しようと、瑞賢に調査させる。が、日本海から琵琶湖まですべて水路で結ぶのは現実的でないと思ったようで、敦賀~疋田間約6.5kmに舟が通る水路を開削するよう小浜藩に指示した。大坂の豪商 飾屋 六兵衛を金主にして文化13(1816)年に完成。これが疋田舟川である。途中、笙の川と交差するところでは長さ14間半(約23.4m)の筧を渡した。8月に、長さ3間(約5.5m)、幅7尺(約2.1m)の川舟8艘に米23俵を乗せ60人が曳いて試験運送を行ったとある。急流のため水位が上がらず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしたのが特徴だ。舟川と併せて、山中峠までの七里半越を改修し峠から大浦に出るルートを整備して、牛車を使用して輸送するようにした。川舟と陸送を組合せたのである。
これはかなり賑わったようだが、馬借たちが反発して天保4(1833)年に廃され馬借座が復活している。既得権益の整理はむつかしいものだ。しかし、やはり西回り航路への不安は大きく、再び敦賀と琵琶湖の間が重視されるようになった。安政4(1857)年、疋田舟川を修復して運用が再開された。だが、慶応2(1866)年にこの地方を襲った豪雨5)により被災し、復旧されることなくそのまま廃止に至った。
疋田舟川は一定の効率性はあったであろうが、荷物の積替えの手間もかかったことから、敦賀と琵琶湖の間に本格的な運河の必要性が改めて認識されたようだ。疋田舟川が被災した翌年、加賀藩は幕府の命を受けて精確な測量図を作成したが、建設に着手する前に大政奉還があって実現することはなかった。明治5(1873)年には吉田 源之助が敦賀~琵琶湖間の運河開削と宇治川の通船化を目指した「阪敦運河」を提唱し、38年に貴族院で採択されたが、折からの日露戦争で事業化されなかった。大正12(1923)年には源之助の遺志を継いだ幸三郎が4,000t級の軍艦が通航できる「阪敦大運河計画」を提案、昭和8(1933)年には琵琶湖疏水を建設した田辺 朔郎が閘門水路方式で敦賀~塩津間に幅員85m、水深10mの運河を掘削して10,000t級の汽船を通すアイデアを披瀝したが、いずれも日の目を見ることはなかった。10年には、谷口 嘉六と宮部 義男が、艀(はしけ)を列車に乗せて3kmのトンネルで深坂峠を抜けるとする「はしけ鉄道計画」を提示して注目された。現在のコンテナ輸送にも通ずるユニークな発想だったが、これも太平洋戦争の戦局悪化により立ち消えになった。戦後では、37年に大野 伴睦自民党副総裁や平田 佐矩四日市市長らが公表した、敦賀~塩津間と姉川~揖斐川間に運河を建設して日本海と伊勢湾を結ぶ「日本横断運河計画」について、調査に国費が充てられたが、主唱者の相次ぐ死去と経済効果に対する疑問などから実現しなかった。
平 重盛の予言は今日に至るも覆えされていないのである。
現在の疋田舟川は、平成9(1997)年度から県の「地域用水環境整備事業」により整備されたもの。廃絶した後の舟川は部分的に農業用水として使用されていたのだ。老朽化した護岸の機能改善とともに江戸時代の面影を復元する整備を行い、16年に完成した。道路の拡幅により元の幅員の9尺(約2.7m)は保たれていないが、右岸側の石積みは当時のままのものということだ。2箇所のポケットパークが整備されて、歴史を紹介する展示が行われている。舟川に沿う旧街道に面する家々は特別な修景がなされているわけではないが、全体として宿場町の面影はよく保たれている。
(2015.04.21)
(参考文献) 「福井県史 通史編3 近世一」(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-02-05.htm)
1) 敦賀と海津の間の距離が七里半(約30km)であったことによるという。実際の距離は25kmくらいと思われる。
2) 馬借は「座」を結成して諸荷物を独占的に運送する特権が与えられる一方、幕藩の使者などを無償で送達する「伝馬の義務」が課されていた。
3) いずれも馬借の補助的な役割を担ったもので、平馬は臨時に課役に応じる馬、背持は人が背負って運ぶもの。
4) 寛永元(1624)年に若狭国主 京極 忠高に敦賀郡が加増され、以後敦賀郡は小浜藩に属した。
5) 幕末の不穏な情勢にあって藩は警戒を厳しくしていたところ、慶応2年8月7日に、折からの豪雨で鳩原にあった屯所が裏山の土砂崩れで崩壊し農兵17名が死亡するという事件があった。これにちなんでこの豪雨水害を鳩原水害と呼ぶ。
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