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2023年11月12日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「あえて文字が書けないバカのふりをした…嫉妬深い平安貴族たちに対し紫式部が行っていた処世術
「源氏物語絵巻宿木(二)」(画像=徳川美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
紫式部が生きた平安時代の宮中はどんな場所だったのか。古典エッセイストの大塚ひかりさんは「階級意識が非常に高く、嫉妬深い貴族ばかりだった。突出した文学の才能を持つ紫式部は女性貴族からやっかまれ、たいへん苦労したようだ」という――。(第2回)
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※本稿は、大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■このように『源氏物語』は作られた
『源氏物語』は、今から千年以上前、1008年ころに成立した。
成立年が分かるのは、『源氏物語』の製本作業と共に、敦成(あつひら)親王(後一条天皇)の誕生記事が、『紫式部日記』に記されているからだ。後一条天皇の生年ははっきりしているので、おのずと『源氏物語』の書かれた時期も分かるわけである。
『紫式部日記』によると、『源氏物語』は、作者の紫式部と、女主人の彰子中宮を中心に、清書され、製本されていった。
出産後の彰子が内裏に還御する時期が近づく中、紫式部は夜が明けるとすぐに彰子の御前に伺候して、色とりどりの紙を選り整えて、物語の原本を添えては、各所に書写を依頼する手紙を書いて配る。一方では、書写したものを製本するのを仕事に明かし暮らしていた。それを見た道長は、
「どこの子持ちが、この寒いのに、こんなことをなさるのか」
と中宮に申し上げながらも、上等の薄様(うすよう)(薄く漉いた鳥の子紙)や筆、墨、硯まで持って来る。それを中宮は紫式部に下賜なさる。
■すべては帝に興味を持ってもらうため
と、こんなふうに、『源氏物語』は、彰子とその父・道長をパトロンに、作者の紫式部を最高責任者として、彰子サロンを挙げての一大プロジェクトとして製作された。
娘を天皇家に入内させ、生まれた皇子の後見役として貴族が繁栄していた当時、娘の局(つぼね)に天皇(東宮)の足を運ばせることは貴族の大仕事であった。サロンを盛り立てるために才色兼備の女房たちが雇われ、その一部は出仕前から書かれていたとされる『源氏物語』も、彰子サロンの評判を高めるべく、公達が足を運ぶよう、ひいてはミカドのお越しが頻繁になるよう、目玉商品として担ぎ上げられた。
■嫉妬、嫉妬、嫉妬
勢い、紫式部はその地位に比して優遇され、嫉妬の的ともなった。
中宮の内裏還御の車で、紫式部と同乗した女房が不満顔をしたり、一条天皇が「この人は日本紀(日本書紀)を読んでいるね。実に学識がある」と仰せになったのを、小耳に挟んだ左衛門の内侍という内裏女房が、当て推量に「すごく学識ぶっているんですって」と殿上人に言い触らし、“日本紀の御局”とあだ名を付けたりもした。そう日記に書き残した紫式部は、「実家の召使の前ですら慎んでいるのに、宮中なんかで学識ぶるわけないじゃない」と皮肉っている。
まして彰子中宮に『楽府(がふ)』という漢籍を進講していると知ったら、あの内侍はどんなに悪口を言うだろう、そう思った紫式部は、万事につけて世の中は煩雑で憂鬱(ゆううつ)なものだ……という気持ちになっている。
一方で、紫式部は、宮仕えをしていない貴族女性に嫉妬の念を抱いてもいた。
仲良しの同僚・小少将の君と、宮仕えの愚痴などを言い合っていると、公達が次々とやって来てことばを掛けてくる。適当にあしらうと、公達はそれぞれ家路へと急いで行く。それを見た紫式部は、
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「どれほどの女性が家に待っているというのか……と思いながら見送った」(“何ばかりの里人ぞはと思ひおくらる”)
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そう記してから、
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「我が身に寄せてそう思うのではありません。世間一般の男女の有様とか、小少将の君がとても上品で可愛らしいのに、世の中を情けないものと痛感していらっしゃるのを見ているからです。父君の不運から始まって、“人のほど”(人柄身分)の割に、“幸ひ”(ご運)が格段に悪いようなので」
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と言い訳している。
■我が身の情けなさを思い知る
小少将の君にこと寄せてはいるが、紛れもない紫式部の感想である。どれほど優れているとも思えないのに、男の家路を急がせるほどに大事にされている女がいる。それに比べて、私や小少将の君は、煩わしい宮仕えの身の上という不運。
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「さし当たっては恥ずかしい、ひどいと思い知るようなことだけは免れてきたのに、宮仕えに出てからは、全く残ることなく我が身の情けなさを思い知ったよ」(“さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひしるかたばかりのがれたりしを、さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな”)
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と嘆く紫式部の、世の理不尽への憤慨と、幸運な妻たちへの嫉妬の念が、ここにはある。
■人前では漢字をちゃんと書かない
紫式部は宮中で、嫉妬し、嫉妬されていた。
他人の嫉妬を避けるための手立てであろうか、人前では一という漢字すらちゃんと書かないようにしたり、つとめて目立たぬように振る舞ったりした。結果、
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「おっとり者と人に見下されてしまった」(“おいらけものと人に見おとされにける”)
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しかしこれこそが彼女が望んだことであり、おかげで彰子中宮からも「ほかの人よりもずっと仲良くなったわね」と仰せを頂き、紫式部は宮仕えで居場所を得た。
『紫式部日記』から浮かび上がる、彼女が自身に課している処世術は、「出る杭にならず、程良く中庸に生きる」というものであった。『源氏物語』が好評を博し、彰子の家庭教師として重用されたことからすると、紫式部の処世術は成功したと言っていい。
そんな紫式部は、『源氏物語』でヒロインの紫の上にこう思わせている。
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「女ほど、身の振り方が窮屈で、哀れなものはない」(“女ばかり、身をもてなすさまもところせう、あはれなるべきものはなし”)(「夕霧」巻)
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■言いたいことも言えない
さらに、
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「感動したり、面白いと思うことがあっても、分からないふりをして引っ込んで、隠れたりしていたら、一体何によって生きている張り合いを感じたり、無常な世の寂しさをも慰めたりすることができるだろう。だいたい世の仕組みも分からない、話しがいのない人間になってしまったら、育て上げた親としても残念でたまらないのではないか。言いたいことも心にしまってばかりで、“無言太子”とか、小法師どもが悲しいことのたとえにしている昔の人のように、悪いことも良いことも分かっていながら埋もれているとしたら、何のかいもないではないか」(“もののあはれ、をりをかしきことをも見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経るはえばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。おほかたものの心を知らず、言ふかひなき者にならひたらむも、生おほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。心にのみ籠めて、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、あしき事よき事を思ひ知りながら埋(うづ)もれなむも、言ふかひなし”)
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と続ける。
無言太子とは波羅奈国の太子で、何もかも悟っていたため、生まれて13年間、無言でいた。それで王に生き埋めにされそうになった時、初めて喋ったので生き延びたという『仏説太子慕魄経』などに見える説話である。
感情表現を抑え、知識も披露する機会がなくては、何を喜びに生きていけようかというのである。
この心内語は紫の上ではなく、源氏のものという説もあるが、いずれにしても紫式部の考えを反映していよう。
生半可に“さかしだち、真名書きちらし”(利口ぶって漢字を書き散らし)、ものが分かった顔をしている人の行く末は“いかでかはよくはべらむ”(ろくなものではありません)と清少納言をこきおろし、人前では、一という文字すら書きおおせぬふりをした紫式部は、その実、誰よりも感情表現や知識を披露する喜びを求めていたのである。
■源氏物語に描かれた「結婚も出産も拒む若い女」
時に作家は、登場人物に自己を仮託しながらも、その登場人物が作家の思想を超えて、思いも寄らぬ境地に達することがあるものだ。
その境地に達したのが、最後のヒロイン浮舟ではないか。
女房腹という『源氏物語』で最も低い階級を与えられた浮舟は、物語に登場時、無言太子さながらことばを発せず、何も感じていないかのようだった。それがしまいには、出家をしたいという意志を貫き、血縁も地縁も超えた疑似家族の中で、生きていくという選択をした。
もとより作者の紫式部自身は父親ほどの年齢の男と結婚し、子をもうけ、夫と死別後、意に染まぬ宮仕えに出たわけだが、彼女の綴る物語の果てには、結婚も出産も拒む若い女の姿があった。
恋しい母とも再会せず、男ともすれ違ったまま生きていくその姿は、物語ができた当初は愚かしく見えたかもしれない。
だが。
“数ならぬ人”“かの人形(ひとがた)”“形代(かたしろ)”と親や男に呼ばれ、“かくまではふれたまひ”(こうまで零落なさって)と、横川の僧都にも形容された浮舟が、「家族」を再生産する道を離れ、誰の身代わりでもない自身の人生を、心もとない足取りながら歩もうとする様は、今に生きる私にとっては、不思議なすがすがしさと解放感を覚える。
■自分だけは自分を見捨てるべきではない
先に浮舟の到達した境地は作家の思想を超えていたといったようなことを書いたが、紫式部は
「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上なのに、ずいぶん上流ぶっているわねと、女房が言っていたのを聞いて」(“かばかりも思ひ屈じぬべき身を、「いといたうも上衆めくかな」と人の言ひけるを聞きて”)こんな歌を詠み残してもいた。第一章では詞書(ことばがき)だけ紹介した、その歌とは、
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“わりなしや人こそ人といはざらめみづから身をや思ひ捨つべき”(理不尽なことよ。他人こそ、自分を人間扱いしないとしても、自分で自分を見捨てていいはずはないでしょう)
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自分だけは自分を見捨てるべきではない、というのである。
嫉妬と階級の渦巻く宮仕え生活の中で、そんな心境に達していた紫式部。その思いは、「身代わりの女」というモチーフを繰り返した『源氏物語』の一つの到達点……他者の身代わりでい続ける世界から抜け出して、最後の最後に生きることを選び取った浮舟の行き着いた境地に、そして嫉妬と格差にまみれた今に生きる我々に響き合っている。
数百年、千年残る古典文学には、未来へのメッセージが込められている……と、私が言い続けるゆえんである。
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大塚 ひかり(おおつか・ひかり)
古典エッセイスト
1961年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。古典を題材としたエッセイを多く執筆。著書に『ブス論』『本当はエロかった昔の日本』『女系図で見る驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』など多数。また『源氏物語』の個人全訳も手がける(全6巻)。趣味は年表作りと系図作り。
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