🌈59)─1─世界最古の小説は紫式部の『源氏物語』である。~No.96No.97 

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 2023年11月5日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「世界最古の小説は『源氏物語』である…イギリスの知識人たちが紫式部の天才ぶりに驚愕した理由
 紫式部の姿と歌(画像=ウェブサイト「やまとうた」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 『源氏物語』は「世界最古の小説」として知られている。なぜそのように言い切れるのか。英語学者・評論家の渡部昇一さんの著書『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)より、一部を修正して紹介する――。
 【画像】藤原道長
■『神曲』の300年前に書かれた本物の小説
 紫式部藤原為時の娘である。為時が花山天皇即位に際して式部大丞(だいじょう)に任ぜられ、少女時代に式部丞をやっていたことから、藤式部(とうしきぶ)と呼ばれたが、のちに『源氏物語』が知られるようになってから、尊敬の念をこめた呼び方として紫式部が定着した。
 『源氏物語』は紫式部の娘時代に父親が越後勤めとなった時に同行、その頃から書き始めたという説がある。『源氏物語』はダンテの『神曲』よりも300年前に書かれており、しかも、『神曲』とは異なり、本物の小説であった。
 さらに重要なことは、この膨大な小説が世界で最初の小説であることである。それを女性が書いていることで、しかもそこに使われている膨大なる言葉の中に漢語がほとんどないということである。
 官位を表す、たとえば「頭中将(とうのちゅうじょう)」という場合の「中将」という名詞などについては、当時、唐の制度を入れていた関係で致し方ないものの、普通の言葉のボキャブラリーとして、漢語がゼロに近いということはすごい。
■ほとんど漢語を使わず、大和言葉ほぼ100%
 当時は唐の最盛期も過ぎた頃ではあるものの、その影響を受けずに、あの大文学を漢字のボキャブラリーを使わないで完成させたことは感嘆すべきことである。
 それはルネッサンスの後に、イギリス人がラテン語圏の言葉を使わないで、ゲルマン語系ばかりの単語で文学を完成させたことに等しい、まさしく偉業である。
 たとえば14世紀にイギリス人のチョーサーが書いた『カンタベリー物語』などはほとんどフランス語で書かれたフランス文学だとフランス人は冗談半分に言っているし、シェイクスピアにしても数えてみれば半分ぐらいは外国語が交じっている。しかし、紫式部は官職の名前みたいなものを除けば100パーセント近く大和言葉だけで大河小説をものにしたのである。
歌人のエリート家系で、幼い頃から才能開花
 紫式部の家系は藤原冬嗣の子孫で、この一門には文人歌人が非常に多い。曾祖父は藤原兼輔で、祖父、叔父、父もみな文人歌人の名を成しており、遺伝的にもDNAを強く引き継いでいたのであろう。
 創作の『源氏物語』以外の作品には、『紫式部日記』や『紫式部集』がある。『紫式部日記』はいわゆる日記というよりはその折々に綴った随想録のようなもので、『紫式部集』には約120首の和歌がおさめられ、勅撰集に入っている歌が58首もある。
 紫式部は子供の頃から優秀であったという。父が兄の惟規に『史記』を教えている時に、脇で聞いていた式部のほうが早く覚えるものだから、父が「男の子にてもたらぬこそ幸いなかりけり」、つまり、式部が男の子でなかったのが残念だと言ったといわれている。
 その惟規も平凡な人ではなく、詩趣の豊かな歌を残している人であったから、その兄勝りと父に言われた紫式部の幼児の頃の穎脱(えいだつ)ぶりがわかる。
 結婚は当時としては割と遅かった。父に同行した越後から都に戻ると、藤原宣孝と結婚した。相手は48歳、式部は22歳で、随分年が違っていた。しかも夫宣孝の子には4人の違った母親の名前があり、随分と多くの側室がいたようだ。
■26歳年上の夫との結婚生活はわずか3年
 贈答の歌も残っているが、非常にスムーズに結婚したようでもないといわれている。紫式部があまり美人ではなかったからだとされるが、藤原宣孝は文学的な関心をもっていたので、そちらのほうで式部に引かれ、結婚する気になったと推測される。
 夫の死により終わったわずか3年の結婚生活はそれほど濃厚でもなかったという説もある。その証拠として、
 「いるかたは さやかなりける 月影を うはのそらにも 待ちし宵かな」
  (現代語訳=入っていく方角のはっきりわかっていた月の姿を、昨夜は上の空で待っていたことでした)
 という歌が残っており、これはどう考えても、早く夫が来てくれないかと思っていたようである。
 それでも2人には娘が生まれた。その1人は百人一首にも出てくる大弐三位で、この頃から『源氏物語』を本格的に書き始めて、上東門院に仕えるようになった。
 いろいろと逸話が伝えられているが、なかでも重要なのが、藤原道長に誘われて断ったのではないかということであろう。道長は当時はそれこそ「欠けたるものの 無しと思えば」というような、藤原時代の最盛期を築き上げた人物であった。
■絶対権力者だった道長を振った? 妾になった?
 その藤原道長が、
 「夜もすがら 水鶏(くいな)よりげに なくなくも まきの戸口に 叩きわびつる」
 という歌を詠んだ。自らを水鶏にたとえて、あなたの家の戸を叩き続けたけれども、あなたは開けてくれないという歌である。
 それに対し、紫式部はこんな歌を返した。
 「ただならん 戸ばかり叩く 水鶏ゆえ 開けてはいかに くやしからまし」
 戸を開けたら悔しい思いをするのではないかと、式部が当時絶対権力者であった道長を跳ねつけたということで、後世の人は非常に高く買う人がいる。
 一方、結局は道長の妾(めかけ)になったという説もあり、平安・鎌倉時代の男性官人に関する一級資料として名高い、洞院公定が14世紀の終わり頃に編纂した系図集『尊卑分脈』などはその説を採っている。
清少納言を下げて、「自分上げ」をする面も
 ところが、元禄時代の安藤為章は、『紫家七論』の中で、紫式部は非常に貞淑な女性だったと記している。
 この紫式部貞淑説というのは割と根強く唱えられている。明治以後でも芳賀矢一(京大教授・国学院大学学長)は彼女を「貞淑温良」といい、森鴎外は「貞淑謙譲」といい、萩野由之(東大教授)は「温厚謹慎」という。久保田辰彦はその『日本女性史』の中で、彼女の『新千載集』の和歌のはし書きから判断して「比較的貞節の正しかった女性であるとは認めてよいが、完全無欠で後世の淑女の亀鑑(きかん)とするわけにはいかないと思う」という主のことを述べている。
 ところが国文学者の関根正直は、『紫式部日記』は自己吹聴が多いと示している。
 たとえば、清少納言を貶(けな)して、「したり顔に真名(まな)(漢字)書き散らし侍るほどもよく見ればまだいとたえぬ」などと批判している。何かしたり顔をして漢字を書いているけれど大したことはない、というような意味である。
 これを紫式部に書かれたものだから、清少納言のほうが生意気な女みたいに受け取られてしまい、清少納言は非常に知識をひけらかす女、紫式部貞淑な女という二局分類されることがある。ところが、清少納言の『枕草子』の中には、自慢話はあっても他人の批判はないから、それは逆なのではないかという説もある。
 しかし、いずれにせよこの頃には、今から見ても世界的な女性たちが我が国から輩出されたことは間違いない。たまたま2008年は源氏千年祭で、京都は大変盛り上がりをみせたようだが、千年前の女性の文学的業績を国を挙げてというか、大いに称えている我々日本国民は幸せである。
■当代一流の英国知識人たちを唸らせた先進性
 『源氏物語』が広く国際的に評価が高まったのは、第一次世界大戦後のことで、発信地はイギリスであった。それ以前にも明治時代に一部イギリスで英訳されたが、あまり話題にならなかった。
 第一次世界大戦後はワイマール文化などフランスでもアプレゲール(戦後派)の独特の文化が栄えた時期で、ロンドンではブルームズベリー地区にケインズヴァージニア・ウルフといった当代一流の知識人たちが集まって住んでいた。彼らは自分たちこそが世界で一番洗練されて、現代的な感覚を持っていると自信満々だった。
 当時のヨーロッパは、第一次世界大戦で伝統的な文化が破壊されて、ヴィクトリア朝的なうるさい男女関係の規範観念なども取り払われていた。ヴィクトリア朝では、とにかく「下着」という言葉も使えないぐらいセックスにかかわることには神経質だったので、そうした表現にはかなり苦心していたのである。
 『源氏物語』の訳者は、裕福なユダヤ人のアーサー・ウェイリーという言葉の天才であった。その『源氏物語』の英訳を読んだブルームズベリー地区の人たちは驚愕(きょうがく)した。
 なぜならば、自分たちが最先端だと自負していた生活感覚と同じような感覚の人たちの話が、千年以上も前の日本で描かれていたからである。
■千年前の登場人物のほうがずっと洗練されていた
 『源氏物語』の登場人物は、自分たちと同じような感覚を持ち、しかも自分たちよりも洗練されていることに、彼らは愕然(がくぜん)とした。当時はちょうどマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1913~27年)が出たときで、これが現代文学の最高峰とされ、過去の小説の最高峰が『源氏物語』で、世界の二大小説だと称えられた時期もあった。その後、世界の五大小説など括り方はさまざまあるが、依然として『源氏物語』の評価は動かない。
 加えて言うが、清少納言の『枕草子』もエッセイとしては極めて優れていると海外では高評価されていた。
 私がドイツに留学した戦後10年目の1955年には、復興中のドイツでも割ときれいなポケット版『枕草子』のドイツ語訳がすでに出ていたほどである。清少納言もやはりたいしたものなのである。
 拙著『日本史百人一首』で述べたように、この時代の我が国の文学水準は、それこそ19世紀から20世紀にかけてのフランスの象徴詩のもっとも洗練されたものさえをも凌駕(りょうが)していたくらいだと思う。

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 渡部 昇一(わたなべ・しょういち)
 英語学者・評論家
 1930年10月15日、山形県生まれ。上智大学大学院修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。Dr.phil.(1958)、Dr.Phil.h.c(1994)。上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。その間、フルブライト教授としてアメリカの4州6大学で講義。専門の英語学のみならず幅広い評論活動を展開する。1976年第24回エッセイストクラブ賞受賞。1985年第1回正論大賞受賞。英語学・言語学に関する専門書のほかに『知的生活の方法』(講談社現代新書)、『古事記と日本人』(祥伝社)、『「日本の歴史」』(全8巻、ワック)、『知的余生の方法』(新潮新書)、『決定版 日本人論』『人生の手引き書』『魂は、あるか?』『終生 知的生活の方法』(いずれも扶桑社新書)、『「時代」を見抜く力』(育鵬社)などがある。2017年4月17日逝去。享年86。

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