🌈21)─2─日本文化は平和で衛生的な平安時代で形成された。~No.42 

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 日本の貴族(公家)による国風文化=天皇文化は、鎖国で中国の読書人文化=唐風文化や朝鮮の両班文化と完全に切り離された孤独な独自文化であった。
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 2023年2月8日 YAHOO!JAPANニュース Meiji.net「日本独自の文化はどのように形成されたのか
 日本独自の文化はどのように形成されたのか
 森田 直美(明治大学 経営学部 准教授)
 平安時代は、仮名文字によって生み出された日本独自の文学が貴族社会を写すとともに、それが、また、貴族社会に影響を与えるなど、連関しあいながら日本独自の文化を育みました。実は、その連関の発想こそが日本独自のものであり、現代の私たちもあらためて考えてみる価値があると言います。
◇平和な平安時代が日本独自の文化を育んだ
 「源氏物語」や「枕草子」という作品があることを、ほとんどの日本人は知っていると思います。でも、面白くて読み耽ったという人ばかりでなく、学校の古典の授業で一部分を習ったとか、受験に出るから勉強したという人も多いと思います。
 つまり、現代の私たちにとって、平安時代の文学や文化は、勉強として学ぶものであり、興味をもってふれたいと思うものではないのかもしれません。
 その背景には、現代の日本が実学偏重社会であり、すぐに役立つものや、目に見えてわかりやすいものばかりを重要視する風潮があると考えています。つまり、古典作品に対しては、教養とか、忙しい日々の中にちょっとした安らぎをもたらすもの、という捉え方をしている人が多いのだと思います。
 しかし、逆に言うと、日本の伝統的な文化を学ぶことは、本当に現実の役に立たないことなのでしょうか。
 あらためて、平安時代の文化を考えてみると、それは、よく言われるように、国風文化が確立していく時期です。
 894年に遣唐使が廃止になったことが、日本独自の文化が育まれる大きなきっかけだったと言われてきましたが、近年では、それを疑問視する議論も出ています。
 確かに、遣唐使の廃止はひとつのきっかけではあったでしょうが、そもそも、日本人は、外から入ってきた文化や技術などを自分たちがもっているものと上手く融合させ、アレンジし、新しいものを生み出していくことに長けていることが、ひとつの大きな特徴です。
 つまり、遣唐使によって大陸から珍しい文化が入り続けても、日本人は独自の文字や文学や文化を花開かせたのではないかと想像されます。
 むしろ、平安時代の400年もの間、大きな戦乱などが起こらず、非常に平和な状況が続いたことの影響の方が大きいでしょう。紫式部清少納言をはじめとした女性たちが文学作品を残せたのも、平和な時代が続いたからと言えます。
 また、この時代の貴族たちは、大陸からの文化を融合させるだけでなく、自分たちが生み出し、育んだ文学を、絵画や調度品などの工芸、服飾などにも連関させ、文化融合のような動きを起こしています。これは、日本独自の動きであり発想と言えるものです。
 グローバル時代と言われ、他国では替えの効かない日本独自のものが重要と言われるいまだからこそ、こうした日本人の特徴を理解することは大きな価値に繋がると考えます。
◇文化の重要な要素だった「色」
 平安時代の文化の特徴のひとつに色彩があります。
 例えば、奈良時代から、布地に様々な染色をする草木染めの技術が発達しますが、平安時代には、その色の組み合わせで四季や自然を表現する「かさねの色目」が編み出され、貴族たちは服飾を色で楽しむようになります。
 そもそも、当時の貴族たちの服の素材はほぼ絹のみで、形やサイズも決まっているので、現代のファッションのように、素材やデザインなどを選択する余地はありません。唯一、凝ることができ、楽しめるのが色でした。
 貴族たちは「かさねの色目」だけでなく、好きな色や自分に似合う色を着て楽しんだのです。なので、色の使い方で、その人のセンスの良さも見られていました。
 平安時代は、町に染め物屋があったわけではありません。各貴族の屋敷に染め場があり、そこで、自分たちで生地を染めていました。もちろん、貴族自身が自分で染めたわけではないでしょうが、染色の技術に関する知識は、貴族のだれもがもっていました。
 源氏物語にも、光源氏の周囲の女性たちの中で、だれとだれは染色が上手という話が出てきます。身につける色によってセンスの良さが見られたりするのですから、染色の技術力は、当時の貴族にとっては重要なポイントだったのでしょう。
 また、当時の貴族は、色を見れば、それがどんな草花を使って染めたものなのかもわかったので、貴重な草花によってしか染められない色を着ていると、その人の身分や財力もわかりました。
 こうして育まれた貴族の色彩感覚は、文学の表現にも活かされます。
 源氏物語に登場する女性たちには、それぞれイメージカラーがあります。紫の上は赤や紫系の色しか着ません。明石の君は白系です。色の対比が、それぞれのキャラクターに繋がって表現されていくのです。
 また、例えば、染色の技術を表現に連関させた万葉集の歌があります。「紫は灰さすもの」とか「ツバキの灰をさす」という表現は、紫の染色をするときにツバキの灰を使うことが当時の人々にとっては常識であったからこその表現です。
 あるいは、紅は、移ろいやすい心や、はかなさを表現するものとして詠まれています。アルカリ性の灰をかけると紅色は抜けてしまったり、褪せてしまったりすることを、当時の人たちは共通理解していたからです。
 こうした文学で培われた色のイメージは、今度は実社会の服飾に連関していくことにもなっていきます。
 つまり、実際の色や染色技術が文学のモチーフとなり、文学に描かれることで、そのイメージが今度は実社会で活かされたり、あるいは、それが描かれた文脈が工芸品や絵画などの美術のモチーフになったりという連関も起こってくるのです。
 例えば、調度品に描かれた花を、そのまま美しい花として愛でることもできますが、その花が源氏物語のどの場面に出てくるものなのか知っている人は、その文脈と重ね合わせてその調度品を楽しむこともできるのです。
 こうした連関が重なり合ってくることで、文学や美術、工芸、服飾といった、現代ではそれぞれに独立しているジャンルが混ざり合い、総合芸術のように成り立つことになります。それを楽しむことができる人は、豊かな教養やセンスの持ち主なのです。
 つまり、描かれた花をそのまま花として見るだけでなく、その花が象徴する謎を解くひらめきや発想力が必要であり、それは、目の前の芸術品をより豊かに楽しめることに繋がっていくのです。
 こうした手の込んだ面白さ、巧妙な面白さは平安時代に始まり、江戸時代、近代へと脈々と受け継がれ、日本独自の伝統文化として培われていくことになります。
◇伝統文化を知る入り口を提供することが重要
 現代では、こうした芸術の連関を生み、楽しむ文化が先細ってきています。しかし、それは、文化の変容パターンのひとつであり、自然な現象であるとも言えます。
 危惧するのは、その背景にあるのが、物質的な豊かさに支えられ、目の前にあるものの刺激性を短絡的に楽しむという風潮です。そうした一瞬の面白さを求め続けることは、決して持続することではありません。
 こうしたことも、先に述べたように、実学偏重による、効率性やわかりやすさ、役立つことを重視する流れによって生み出されているように思えます。
 グローバル経済が広がる現代では、実学偏重によって人材を育てないと競争に勝てない、という捉え方があるのかもしれません。
 しかし、グローバル化が進む中で、真に重要になってくるのは替えの効かない独自性です。だとすれば、日本の伝統文化を生み出してきたプロセスをあらためて見直すことは非常に重要です。
 海外の文化を取り入れてはアレンジし、独自のものを生み出すやり方。そして、生み出したものを豊かな発想力で連関させ、様々な表現や創造に連ねる積み重ね。
 そこには、目の前のものを短絡的に、即物的に受け入れることとは真逆のプロセスがあります。それを、先細りさせるのではなく、見直し、再評価することも大切なのではないでしょうか。
 すると、日本の伝統文化を楽しむとは、教養や安らぎだけで終わるのではなく、そこに替えの効かない価値を見出しますし、また、それは新たな価値を生んでいくものにもなると考えます。
 例えば、源氏物語を観光資源にして栄える地域があります。物語性をもつ神社仏閣ほど人が集まります。それは、文学や美術、歴史が人の想像力を刺激し、物語が生まれ、それが、その場所と連関しているからです。
 世界中から見れば、日本は、そうした替えの効かない日本らしさが豊富に残っている国です。その根源を先細りさせてしまっては、グローバル社会で日本のプレゼンスも先細っていくのではないでしょうか。
 一方で、効率性やわかりやすさ、役立つかどうかを重視する価値観の中で育ち、本学に入学してきた学生に、平安時代の文化や、そこにあるイデアと言えるような理想型の美しさといったものを伝えていくと、興味を寄せる学生が思った以上に多くいます。
 それは、彼らにとっては新鮮な情報、コンテンツだからなのだと思います。
 そのことは、目の前の損得勘定だけがすべてではないこと、広がりのある発想力、想像力のある世界を知るきっかけや入り口を伝えるコンテンツを、私たち大人が若い世代にもっと提供していくことが重要であることを教えてくれます。
 森田 直美(明治大学 経営学部 准教授)
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 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ平城京以前は短命で、平安京は1000年も続いたのか…現代人には想像しづらい「糞尿処理」という衛生問題
2/4(土) 10:17配信
 平安京の復元模型(平安京創成館の展示物。画像=名古屋太郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
 古代につくられた藤原京平城京といった都はいずれも短命だった。なぜ平安京だけは長く続いたのか。工学博士で元国土交通省港湾技術研究所部長の長野正孝さんは「かつての都では糞尿処理に問題があり、衛生状態が悪くなりやすかった。一方、平安京は繰り返される洪水で浄化されたため、千年の都となれた」という――。
 【画像】洛中洛外図上杉本(1565年、狩野永徳作、国宝)の右隻(部分)
 ※本稿は、長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■「水」で失敗した藤原京平城京
 天武天皇によって、唐の長安に模した藤原京が676年につくられ、続いて元明天皇によって710年に平城京に遷都が始まった。中国の最新の土木建築技術が導入され、碁盤の目の道路がつくられたことが知られている。
 さて、藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる都で、当時存在した奈良湖とは一番離れた地域である。それはなぜか。壬申の乱天武天皇が勝利した直後であり、外患を防御できる盆地の一番奥に都をつくったと考えられる。その結果、舟運の便が悪くなった。結果、平城京に遷都されるまでの時間は短かった。さらに平城京に710年に遷都されてからも、恭仁京など幾つもの都を転々とし、平城京に落ち着いたのは745年のことであった。その後784年、長岡京に遷都されるまでの少なくとも39年間は、平城京が政治の中心地であった。
 平城京は、物流面では北側に淀川から大阪湾に抜ける木津川と接し問題なかったが、飲み水の確保が難しかった。最盛期には10万人以上の人々が暮らしていたが、水源は佐保川一つであったため、生活排水による汚染が進み、疫病がはやりだした。井戸は枯渇し、汚染され、たちまち糞尿まみれの街になってしまった。碁盤の目の道路をほどよく洗い流すような水が必要であった。中国の外形上の模倣だけの都市計画では無理があった。水をコントロールできなかったと考える。
難波京が維持できなかった理由
 神崎川は現在は摂津市から大阪湾を結んでいる淀川水系の21キロメートルの一級河川である。延暦4年(785年)4月、時の摂津職和気清麻呂が淀川治水のため掘削を行ない、現在の神崎川の一部となった。古代において川に手を加えればすぐに「治水のためにつくられた」という説が出てくるが、これは治水の工事ではない。運河の工事である。784年に平城京から遷都された長岡京への物流路を確保するための工事である。詳しく当時の淀川河口の姿を見てみよう。
 この時代から100年前に、時計の針を戻してみる。当時の大和朝廷では大阪湾口に港をつくるか否かをめぐる大きな政争が起きていた。蘇我氏日本海交易と大和川水系の交易路を独占していた時代である。大和朝廷はどうしても瀬戸内海に進出したかった。乙巳の変(645年)で蘇我氏を倒したあと、朝廷はすぐに上町台地、現在の大阪城付近に都をつくり始めた。前期難波宮である。686年に焼失してしまったが、その後も難波京に挑戦した。
 私は、もともと大阪で、港を備えた都を機能させることは当時の技術では難しかったとみている。
■潮の流れや軟弱地盤で港が崩れる
 大阪城のすぐ南西にある法円坂遺跡は、6世紀頃まで機能し、巨大な港湾施設があった。
 やがて、大和川の土砂が淀川本流に迫り、上町台地の先端部に迫るようになった。難波の堀江、難波津などの工事が行なわれたとされているが、押し出される土砂で圧迫された河口部で波が荒れ、この港の機能維持が難しくなった。
 激しい潮の流れだけでなく、軟弱地盤にも阻まれた。この大阪の軟弱地盤で杭を打って新しい岸壁や物揚げ場づくりに挑戦しても、その後もすぐに埋まってしまう。潮位差が2メートルほどあり、水が引くと残った水圧によりつくった施設はすぐに崩れた。やがて、港ができない都は放棄された。
 繰り返しになるが、当時の技術では、大阪の築港は不可能であった。明治になってからも淀川改修、大阪港の整備はかなり難工事であった。大阪城ができてどうして港ができない。そんな疑問が出る。それは、地盤が違うからだ。台地上のしっかりした地盤で建てられるものと、軟弱な水際でつくるものは違う。結局、難波京もあきらめて、淀川筋を京都盆地まで上がって、京都盆地に都をつくることを選んだのである。
 上町台地先端の波の荒い河口部に近づかないで、なんとか淀川を上るために、副水路(専門用語では側方運河という)として新しい水路を掘って淀川右岸を上ることとした。現在の神崎川の一部である。
和気清麻呂の運河の実像
 和気清麻呂がどこからどこまで開削したか記録にない。多くの地図を見ると猪名川の河口から豊中、吹田あたりまで中世まで海であったとすれば、安威川から淀川までの3キロメートルほどの小さな水路を掘削したと考える。現在の尼崎の神崎から摂津までの10キロメートル以上の長い川を掘削したのではない。大勢の人夫が川筋と並行して小さな溝を掘っただけのもので、淀川の洪水防止ではない。
 ちょうどこのころ行基上人が瀬戸内海航路の摂播五泊(せっぱんごはく)を開いた。摂津・播磨五つの港、河尻(尼崎)、大輪田(神戸)、魚住(明石)、韓泊(姫路)、室生(たつの)である。これで播磨灘から淀川河口まで船でつなぐことができた。
 そして、東の起点の河尻(当時の猪名川の河口、現在の神崎町)は京都への淀川水運の出発点となった。河尻を出て長岡京まで、一泊目は淀川との合流点の江口(大阪市東淀川区)である。この付近の干満差は約2メートル、江口付近で潮が止まったのではないか。潮が止まるところには遊郭ができた。摂播五泊では河尻、西の大輪田(現在の福原)、室生にも遊郭ができた。当時は港がつくられたらすぐに遊郭ができたのである。江口の上流にもう一つか二つ港が必要である。
 私は、新たに都を計画している長岡京まで河口から二つか三つさらにつなぐ港が必要であったと考える。船は一日漕いだら必ず休むからだ。
平安京にも引き継がれた公衆衛生問題
 その後794年には平安京に遷都され、京都は明治維新まで日本の首都でありつづけた。京都の場合、運よく賀茂川が北から南に流れるよう土地が傾斜していた。上京の上流部を賀茂一族が昔から支配し、遷都のときにはすでに上水の水供給システムができていた。また、秦氏が灌漑(かんがい)用水を桂川から引き入れていた。水運として淀川の側方運河として利用された神崎川があった。
 問題は平城京でも苦労した公衆衛生であった。平安時代の京都も例外なくすぐに糞尿まみれのマチになった。京の都大路の発掘調査によれば、築地(ついじ)塀の裏は公衆便所であったという。大勢の糞尿で固まった糞石という塊が側溝や築地の至る所で発見されたという。公衆便所がなかったからである。さらに側溝には馬の死骸、行き倒れの死体まであったという。公衆衛生の対策がない都が、千年以上も続いてきたのは、皮肉にも首都である京の治水対策ができなかったことによる。
■繰り返される洪水が京都を救った
 平安時代末期、時の権力者白河法皇の有名な「意にならぬもの、賀茂河の水、双六の賽(さい)、山法師」いわゆる「天下三不如意」の逸話がしっかり答えを出している。繰り返される洪水が都を洗浄し、千年の都を常に洗って浄化してくれたのである。度重なる洪水が増え続けようとするスラム街の糞尿を水に流し、市街地の衛生状態を保ってくれたおかげで、街を維持することができたのである。
 天正6年(1578年)5月、信長が中国攻めを始めようとしていたとき、京都では大雨が三日三晩降り続き、洪水が起き、四条河原町付近まで水につかったという。しかし、1カ月後の6月14日には祇園祭が催されたという。すぐに水が引く町だったのだ。
 室町時代に描かれた「洛中洛外図」にもその答えがある。板張の屋根、板葺土間、網代壁の粗末な家並が続いている。水害で流され、壊されても、また、たくましく建て直しができるマチの姿がそこにある。洪水にうまく耐える術がこの都にはあった。江戸の町の300年は、水ではなく火、火事で発展し続けたことも書き加えておく。

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 長野 正孝(ながの・まさたか) 工学博士
 1945年生まれ。名古屋大学工学部卒業。工学博士。元国土交通省港湾技術研究所部長、元武蔵工業大学客員教授。広島港、鹿島港、第二パナマ運河など、港湾や運河の計画・建設に携わる。

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