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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本国語は、明治20年代に、積極的自衛戦争ができる国に改造する為に造られた標準語であった。
大陸戦争ができる強い近代的軍隊を作る為には、統一言語である日本国語による近代教育が必要であった。
つまり、「すすめ、すすめ、兵隊さんすすめ」であって「さいた
さいた、桜がさいた」ではなかった。
近代的な新日本国語は軍隊言語であった。
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2024年7月24日 MicrosoftStartニュース 朝日新聞デジタル「「共通語」のルーツは参勤交代? 明治以降は「黒い魔物」も影響か
亀有木遣保存会「菊粋」の稽古。週に1回、仕事後の夜に神社へ集まり、声を張る。一番手前が小南正美会長=東京都足立区の長門八幡神社
© 朝日新聞社
■現場へ! 全国方言サバイバル②
亀有木遣保存会「菊粋」のメンバー。この日参加したうち2人は3代以上続く「江戸っ子」という
「ヤアーレ コリャネ」
6月下旬の午後8時すぎ、東京都内の長門八幡神社に、下町の亀有木遣(きやり)保存会「菊粋(きくすい)」の会員が集まってきた。週1回の稽古だ。小南正美会長(66)が音頭を取り、声を張る。力強い節回しは江戸の雰囲気を感じさせる。
メンバーの話し言葉に「江戸弁」は残っていない。だが小南会長は昔の先輩の言葉遣いを思い返し、こう教えてくれた。
「『のう』とか、東のことを『しがし』、まっすぐを『まっつぐ』、出発を『でっぱつ』って。そんなの今言わないよね」
東京は「共通語」の発信地。共通語とは一体何者か。
国学院大の久野マリ子名誉教授(75)は、江戸時代に各藩士が心得ていた「書き言葉」にルーツがあるとみる。「各藩ごとに方言はありましたが、その話し言葉ではなく、書き言葉で意思疎通を図ったのが始まりでは」。
そもそも江戸の話し言葉は何弁だったのか。この謎に久野さんは「恐らく京の上方言葉と、関東一円からの移住者の言葉が混在した状態」。そこに各藩の方言が参勤交代で流れこみ、書き言葉で会話を試みたのが共通語の原点ではないかと久野さんはいう。
一方、東京女子大現代教養学部(方言学)の篠崎晃一教授(67)は「江戸の参勤交代の前に素地はできたのでは」と推測する。
江戸時代に徳川家の武士団が集結。山の手などに武家屋敷を構え、庶民らは下町に住むなかで「商人が屋敷に出入りして武士の言葉に接し、互いに影響しながら共通語の基盤ができたのでは」と篠崎教授。共通語の成立は「恐らく江戸中期」とみる。
江戸中期以降、俳人の越谷吾山が編纂(へんさん)した日本初の方言書「物類称呼(ぶつるいしょうこ)」や、江戸の言葉と対訳した各地方の方言書が相次ぎ刊行された。「言葉にバリエーションがあるとの意識と、江戸に共通語があるとの認識があった、という裏付けでは」と篠崎教授は分析する。
1993年に国学院大であった公開学術講演会を収録した「東京語のゆくえ」(国学院大日本文化研究所編)には、興味深い経過も紹介されている。
明治以降、政府が近代化を目指して学校教育で採用した「標準語」は、軍隊帰りの兵隊や疎開生徒を通しても地方に拡大。さらに電話機も影響した。昭和30年代、標準語会話を突然迫られるため、当時の電話の色から「黒い魔物」と呼ばれたという。
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