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女性の名前を隠したのは、儒教の男尊女卑や普遍宗教の家父長制による偏見や蔑視に基づいた女性差別からではなった。
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日本神道・日本神話に於ける最高神は、天皇家の祖先神である女性神・天照大神であった。
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女性の名を男性に明らかにする事は男性との結婚を意味した、それ故に女性の名前は大事に隠されていたのであり、女性差別からではなかった。
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平安時代までの神道による貴族社会は、鎌倉時代以降の儒教による武士社会に比べて女性を大事にするフェミニズムに近い社会であった。
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2024年7月1日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「紫式部の名前が不明」なのは「ストーカー対策」だった? 女系図で分かる意外な血縁関係
大河ドラマ「光る君へ」
吉高由里子が紫式部を演じる「光る君へ」 公式Instagram(@nhk_hikarukimie)より(他の写真を見る)
大河ドラマ「光る君へ」で主人公の紫式部は「まひろ」という名で呼ばれている。しかしこれはあくまでもドラマオリジナルの名前であって、紫式部の本名は今日、分かっていない(香子とする説もある)。
それはなぜか。女性を軸とした系図をもとに歴史を読み解いた『女系図でみる驚きの日本史』(大塚ひかり著)をもとに、当時の「名前事情」と、紫式部ら平安貴族の意外な血縁関係を見てみよう。
(前後編記事の前編・後編〈「光る君へ」紫式部の子孫は今の皇室へとつながっていく 女系図でみる日本史の真実〉では、紫式部の子孫の意外な出世ぶりを見る)
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胤(たね)よりも腹(はら)が大事――母親が誰かに注目した「女系図」でたどると、日本史の見え方が一変する。滅亡したはずの平家は、実は今上天皇にまで平清盛の血筋を繋げる一方、源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えているのだ。「史上初にして唯一の女性皇太子はなぜ誕生したのか」「徳川将軍家にはなぜ女系図が作れないのか」等々、著者作成の豊富な系図をもとに、次々と歴史の謎を解き明かしていく
紫式部の名前はなぜ分からないのか
平安時代の女は、かなりな「有名人」でも「名前」の分からぬ場合が多い。
紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門……これら有名文学者の「名」は、女房として仕えた際の「呼び名」であって、皆、本名ではない。
任官や叙位は「氏姓と実名を対象に行われるのが鉄則」(角田文衛『日本の女性名』上)なので、官位があれば本名も分かるはずだが、有名女房は必ずしも官位があるわけではないし、たとえ官位があっても、通称と本名は「ほとんど合致させえない」(同前)、つまり任官書類に記される人がどんな通称で呼ばれる女房であるか分からぬために、相当な有名女房でも本名は不明ということになる。
なぜ、女の名はそんなにも分かりにくいのか。
名前を知られると呪われる!
《源氏物語絵色紙帖》
名前と人間は一体であるという考え方から、名前を知られることは心身共に支配される危険を意味し、その危険度は女や貴人のほうが高かった。今で言うなら個人情報をさらすと、詐欺やストーキングに悪用されるから秘すといった感覚で、実名も知らぬまま、ハンドルネームで呼び合っているネット社会に似てなくもない。(実名忌避の俗信) 《源氏物語絵色紙帖 螢 詞烏丸光廣》部分 (京都国立博物館所蔵)(出典:ColBase
武士の時代には女の地位が低下したため、公的な記録に女の名が残りにくくなったということがあるが、女の財産権が強く、地位も高かった平安貴族の場合は事情が異なる。
結論から言うと、太古からあった「実名忌避の俗信」が根強く残っていたためだ。
「実名忌避の俗信」とは、名前と人間は一体であるという考え方から、実名を知られると呪いをかけるのに利用されたり、災いを受けるなど危険であるとして、実名を秘したり、別名で呼ぶ習慣のことだ(穂積陳重『忌み名の研究』、豊田国夫『名前の禁忌習俗』など)。
とくに「女子は相手に実名を告げるのは、肌を許すこととすら考えられていた」(角田氏前掲書)。名前を知られることは心身共に支配される危険を意味していたわけで、その危険度は女や貴人のほうが高いため、実名を秘すうち、不明になってしまうのだ。
今で言うなら個人情報をさらすと、詐欺やストーキングに悪用されるから秘すといった感覚で、実名も知らぬまま、ハンドルネームで呼び合っているネット社会に似てなくもない。
娘によってのみ名を残す父
私が気になるのは、そんな名前の分からぬ女によって、名を知られる父の存在だ。
たとえば『蜻蛉日記』の作者は「道綱母」、『更級日記』の作者は「菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)」と、生んだ息子や父の名前を冠して呼ばれる。
しかし藤原道綱はともかく、菅原孝標などは、今では娘のほうが有名で、そのおかげで知られているような人だ。
これが極端になると、ただ娘の存在によってのみ、名を残す父ということになる。
『尊卑分脈』などの系図集を見ていると、そんな系譜未詳の男たちがけっこういる。
後鳥羽院に入内して順徳院を生んだ藤原範子(のちに重子と改名。以下、重子)の父範季は“母高階為時女”とあって、高階為時の娘から生まれたことが分かるのだが、高階為時が誰の子なのか、『尊卑分脈』の高階氏の系図を見ても為時の名は載っていないので分からない。
似たようなことは重子の年上のいとこで、後鳥羽院の乳母である刑部卿三位範子や、その妹であり、政界で絶大な権勢を振るった卿二位(きょうのにい)兼子の父範兼の母方祖父についても言える。範兼は『尊卑分脈』によれば“母兵部少輔高階為賢女”とあり、その母は高階為賢の娘であることが分かるが、為賢の名はやはり『尊卑分脈』の高階氏の系図には載っていない。もっともこちらは江戸末期に編纂された系図集『系図纂要』(第13冊)には記載されており、それによると紫式部の娘賢子の生んだ為家の息子であることが分かる。
いずれにしても彼らは、本来なら『尊卑分脈』のようなメジャーな系図集に記載されるような位階もなければ功績もなく、藤原範季や範兼といった孫、さらには重子や範子・兼子姉妹といった名高い曾孫がいたからこそ、名が残されたのである。
この手の最たる男が宮道弥益(みやじのいやます)だ。
『尊卑分脈』の藤原定国の名の横には“母宮内大輔宮道弥益女(むすめ)従三位引(列)子”と記されている。定方、胤子、満子も定国と同じ母の腹だ。
彼らの父藤原高藤は正三位内大臣。その父良門は早死にしたため正六位上止まりだが、藤原北家に属す名門だ。高藤は娘の胤子が醍醐天皇を生んだため、死後は正一位太政大臣を贈られた。一方の母列子は、郡の大領(受領の下で郡を治める郡司の長官。従八位上相当)という低い身分の宮道弥益の娘であった。身分違いの二人が出会ったのは『今昔物語集』(巻第22第7)によれば、少年時代の高藤が鷹狩で雷雨に遭い、弥益の家に雨宿りしたためだ。その時、高藤は1人の供しか連れず、その供が田舎へ帰国したので、この家の場所も分からずじまいだった。6年後、この供の男が上京したので、彼の手引きでその家を訪ねてみると、美しく成長した弥益の娘と、かつて契った時にできた姫がいた。その姫が胤子というわけだ。
娘列子が高藤の妻にならなければ、生まれた胤子が醍醐天皇の母とならなければ、宮道弥益という名が系図集に刻まれることはあり得なかった。
彼は娘や孫娘によってのみ、つまり「女系図」によって歴史に名を残した男なのである。
系図「紫式部の先祖と子孫」
紫式部の先祖と子孫 系図は『女系図でみる驚きの日本史』より(他の写真を見る)
紫式部という呼び名が表す力
実は、『源氏物語』の作者の紫式部は、この高藤や、先に名を挙げた藤原範子・兼子姉妹とは無縁ではない。
系図1を見てほしい。高藤は紫式部の先祖であり、範子・兼子姉妹は子孫である。
紫式部の先祖は上流に属し、彼女の子孫もまた上流に属していた。それどころか、今上天皇にまで達していることが、女系図をたどると分かる。
紫式部の父や夫の代では受領階級に落ちぶれていた彼らの子孫が、いかにして上流に達する子孫を輩出したのか。
そこには「女の力」が働いていた。
紫式部自身、子孫繁栄の大きなきっかけとなった人で、その影響力は「紫式部」という呼び名に表れている。
というのも、女房の呼び名は和泉式部、赤染衛門のように、自身の姓や、夫や父の任国や官名を組み合わせてつけられることが多い。
だが紫式部は例外だ。彼女がもとは、他の女房同様、藤原氏という自身の姓と、父為時のかつての官職、式部丞(しきぶのじょう)から“藤式部”と呼ばれていたことは、『栄花物語』の1011年、1012年の記事からも分かる(巻第9・巻第10)。
それが彼女の書いた『源氏物語』が有名になると、ヒロインの紫の上(若紫)から“紫式部”と呼ばれるようになる。『紫式部日記』には、藤原道長が彰子中宮の御前にあった“源氏の物語”を見て、冗談事を言って口説いてきたり、藤原公任が、
「このあたりに“わかむらさき”(若紫)はおいでですか?」
と、紫式部に声をかけていることが記されている。物語は女子供の慰み物と考えられていた当時、『源氏物語』は当代一の権力者である道長や、名高いインテリの公任にも愛読されていたのだ。
こうして貴族社会に『源氏物語』作者として名を馳せたため、『栄花物語』でも1025年時点の呼び名は“紫式部”になっている(巻第26)。
“紫式部”は、父でも息子でも夫でもなく、彼女自身の功績に基づく呼び名なのである。
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後編〈「光る君へ」紫式部の子孫は今の皇室へとつながっていく 女系図でみる日本史の真実〉では、系図を読み解くと驚くほど繁栄している紫式部の子孫たちについて紹介している。
胤(たね)よりも腹(はら)が大事――母親が誰かに注目した「女系図」でたどると、日本史の見え方が一変する。滅亡したはずの平家は、実は今上天皇にまで平清盛の血筋を繋げる一方、源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えているのだ。「史上初にして唯一の女性皇太子はなぜ誕生したのか」「徳川将軍家にはなぜ女系図が作れないのか」等々、著者作成の豊富な系図をもとに、次々と歴史の謎を解き明かしていく
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デイリー新潮編集部
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7月1日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「光る君へ」紫式部の子孫は今の皇室へとつながっていく 女系図でみる日本史の真実
貧乏貴族だった「まひろ」一家だが
家系図を見ていくと紫式部の子孫たちが今上天皇にもつながっていくという。写真は天皇皇后両陛下並びに愛子内親王殿下(令和6年1月1日)
大河ドラマ「光る君へ」序盤では、「まひろ」(紫式部の劇中での呼び名)やその父が金銭的にも地位的にも恵まれない生活をする様が描かれている。しかし今日、家系図を見ると意外なほどに紫式部の子孫たちが繁栄していることがよく分かる。たどっていけば今上天皇にもつながっていくのだ。
【家系図を見る】紫式部の子孫たちが今上天皇にもつながっている
女性を中心に系図を読み解いた『女系図でみる驚きの日本史』(大塚ひかり著)から、紫式部の子孫とその周囲の人間模様を見てみよう。(前後編記事の後編・前編〈紫式部の名前が不明なのは「ストーカー対策」だった? 女系図で分かる意外な血縁関係〉では、名前の秘密に迫る)
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母の名だけ記される
紫式部の「名」によって最も恩恵をこうむったのは一人娘の賢子だ。
『栄花物語』巻第26で“紫式部”の名が記されるのは、賢子が親仁親王(後冷泉天皇)の乳母に選任された時のこと。親仁親王の乳母は合計3人選任されているが(1人目の頼成女は病気で退出)、賢子以外の二人は夫や父の名と共に紹介されているのに対し、賢子だけは、
“大宮(彰子)の御方の紫式部が女(むすめ)”
と、母の名と共に紹介されている。
1025年当時、父の藤原宣孝が故人ということもあろうが、紫式部の没年は未詳なものの、1014年が定説だ(日本古典文学全集『源氏物語』1 解説など)。逆に『栄花物語』の記述から1025年生存説もあるとはいえ、故人であってもそのこと(故人であること)を明記せぬ場合もあろう。
わざわざ母の名だけが記されるのは、それだけ紫式部の声望が高かった表れで、賢子は、本人の資質もさることながら、一つには紫式部の娘だからという「母のコネ」もあって乳母に採用されたのだ。
乳母の力が一族に影響
公実の子の腹別系図 系図は『女系図でみる驚きの日本史』より
賢子のような中流貴族女性にとって「天皇家の乳母になること」は、立身出世の最も早い近道であり、一族繁栄の手だてである。
貴人の乳母がいかに一族に影響を及ぼしていたかについては、田端泰子『乳母の力』などに詳しいが、その権勢は、清少納言が“うらやましげなるもの”(うらやましく見えるもの)として、
“内(うち・天皇)、春宮(とうぐう)の御乳母(めのと)”(『枕草子』「うらやましげなるもの」段)
を挙げていることからも分かる。
そんな清少納言を“したり顔にいみじうはべりける人”(得意顔の、とんでもない人)(『紫式部日記』)とこきおろした「宿敵」とも言える紫式部の娘賢子がミカドの乳母になっているのは皮肉だが……。
紫式部の関係者には天皇家の乳母になった女が少なくない。なかでも賢子の異母兄藤原隆光の孫光子は、堀河・鳥羽の2代の乳母として、
“ならびなく世にあひ給へりし人”(並ぶ者のないほど時勢に合って栄えていらした方)(『今鏡』「すべらぎの中 第2」)
であった。
系図2を見てほしい。同じ公実の子の中でも、昇進の早いのは光子の子女で、『今鏡』(藤波の下 第6)によれば、通季(1090~1128)は“母二位(光子)の御子にて、むかひ腹(嫡妻腹)”なので、10歳年上の異母兄の実行(1080~1162)より位は上だ(ただし通季が早死にしたのに対し、実行は学才もあり長生きしたので太政大臣まで出世したと『今鏡』は言う)。子孫も通季のそれが最も繁栄し、多数の国母や大臣を輩出している。一方、母の地位の低い長男の実兼に至っては『今鏡』には母の名も記されず、『中右記』『公卿補任』では公実の“長男”“一男”は藤原基貞女腹の実隆になっている。出てきた腹によっては「いない子」にされてしまうのだ。
繁栄する紫式部の子孫
胤(たね)よりも腹(はら)が大事――母親が誰かに注目した「女系図」でたどると、日本史の見え方が一変する。滅亡したはずの平家は、実は今上天皇にまで平清盛の血筋を繋げる一方、源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えているのだ。「史上初にして唯一の女性皇太子はなぜ誕生したのか」「徳川将軍家にはなぜ女系図が作れないのか」等々、著者作成の豊富な系図をもとに、次々と歴史の謎を解き明かしていく 『女系図でみる驚きの日本史』
このように子孫に多大な影響を与えた光子の末娘が有名な待賢門院璋子である。
璋子は白河院の寵愛する祇園女御の養女となった関係から、白河院の“御娘”(『今鏡』「藤波の上」)となり、母光子が乳母をつとめた鳥羽天皇(白河院の孫)に入内した。鳥羽天皇との第1子である崇徳院の父が実は曾祖父白河院であった。
ミカドの乳母の娘が天皇家に入内するという例は院政期から目立ってきて、後鳥羽院の乳母の刑部卿三位藤原範子の娘・源在子も、後鳥羽院に入内して土御門帝を生んでいる。
「天皇の母方」が政権を握る外戚政治が崩れ、「天皇の父=上皇(院)」が政権を握るようになった院政期、乳母の地位はうなぎ登りに高くなっていたのだ。
この範子の妹兼子は“卿二位”と呼ばれ、鎌倉初期の史論書『愚管抄』は、北条政子と義時という“イモウトセウト”(妹と兄)が“関東”を治め、
「京では卿二位がしっかりと天下を掌握している」(“京ニハ卿二位〈兼子〉ヒシト世ヲ取タリ”)(巻第6)
と記している。そして、
「女人入眼(にょにんじゅがん)の日本国というのはいよいよ真実であると言うべきではあるまいか」(“女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ”)
と評している。
“入眼”とは、仏像に眼を入れるところから最後の仕上げという意味で、だるまに眼を入れるようなものだ。著者の慈円によれば、
「女人がこの国を完成させると言い伝えられている」(“女人此国ヲバ入眼スト申伝ヘタル”)(巻第3)
と言う。
日本では、最後の仕上げを女がする、女がうまく治めることを成し遂げる、と伝えられているというのだ。
注目すべきは、慈円に“女人入眼”の例として北条政子と並べられている藤原兼子がやはり賢子の子孫、つまりは紫式部の子孫ということだ。
紫式部の子孫は意外なまでに繁栄している。
紫式部腹ではない宣孝の子孫も混ぜれば、院政期貴族社会の中枢を担っていたと言えるほどだ。
光子の甥の顕隆は『今鏡』によると“夜の関白”の異名を持つ権勢家だった。
「白河院の院司として毎夜院の御所に伺候し、彼の進言することはすべて聞き入れられた」(竹鼻績全訳注『今鏡』上 語釈)からだ。
建春門院平滋子も宣孝の子孫で、ということはその子の高倉天皇や孫の後鳥羽院も子孫であり、また107歳の長寿を保った北山准后も、宣孝の子孫の実氏との間に娘をもうけ、その娘と後嵯峨天皇との間に生まれたのが、後深草院や亀山院である。ということは、女系図で見ると、宣孝の子孫は今上天皇に幾重にもつながっている。
清少納言と紫式部の意外な接点
一方、紫式部がライバル視していた清少納言は、紫式部周辺の子孫と比べると、振るわない……と言いたいところだが、実は、娘が天皇家につながる宣孝の子孫を生んだ下総守藤原顕猷の先祖は、清少納言の夫の一人であった藤原棟世の曾祖父の兄弟だ(系図4)。
しかも清少納言と紫式部の子孫は思わぬところで交わっている。
上東門院小馬命婦は清少納言と藤原棟世の娘とされるが、小馬命婦がその娘に代わって詠んだ歌が、『後拾遺和歌集』に載っていて、相手は高階為家、すなわち紫式部の孫なのだ。彼は、小馬命婦の娘とつき合っていたものの、訪れが遠のいていた。それが“みあれの日暮れには”と言って“葵”を寄越してきた。
“みあれ”は賀茂祭の前に行われる神事のこと。“葵”は賀茂社の神紋で、祭の日は髪にかざしたり家に掛けたりした。
“逢ふ日”にも通じ、要するに「みあれの神事の日の暮れに逢おう」と言ってきた。それで小馬命婦は娘に代わって詠んだ。
「この草は葵とは見分けがつかぬほど枯れてしまったのに、どう言って、みあれの神事の今日、掛ければいいの? あなたはすっかり離れて行ったのに、どうして今日が逢う日だというの?」(“その色の草とも見えずかれにしをいかにいひてかけふは掛くべき”)
その後、二人が再会したかは不明だが、紫式部の孫息子と清少納言の孫娘は恋人同士だったことが、この歌から分かる。
紫式部―大弐三位、清少納言―小馬命婦、和泉式部―小式部内侍、伊勢御息所―中務……といった具合に、母と娘で名を馳せる中流貴族が多いのも、平安中期の特徴だ。
女系図で見ると、思わぬ人々のつながりに驚いたり、「誰それの女(むすめ)」「誰それの母」といった名のない女が、一族繁栄の意外なカギになっていることが分かるのだ。
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前編〈「紫式部の名前が不明なのは「ストーカー対策」だった? 女系図で分かる意外な血縁関係」〉では、平安時代の意外な「名前事情」を解説している。
デイリー新潮編集部
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平安時代は文化が香る雅な社会ではなく、野盗や人身売買が横行する山椒大夫社会であり、魑魅魍魎が跋扈する羅生門社会であり、死臭が漂い怨霊が荒れ狂う地獄社会でもあった。
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京都は幾度も幾種類もの自然災害に襲われ、そのつど夥しい犠牲者を出していた。
京都府南部付近は活断層が集中しててい為に、巨大地震も多発していた。
日本の伝統文化は、泥沼に中の蓮のように、避けられない自然災害と死するはかなさの中から生まれた。
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吉村均「日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった」『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』
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日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に旧石器時代・縄文時代、弥生時代・古墳時代と日本民族が住んできた。
日本民族は、旧石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人に、南方揚子江系弥生人(渡来人)、北方満州系古墳人(帰化人)が乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種(ハーフ)である。
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日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりの事であり、日本の個人主義とは自分の仕事に誇りを持つ事である。
つまり、日本民族日本人とは集団主義者であると同時に個人主義者でもあった。
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ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
死への恐怖。
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2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
何もしない勇気
最適化された世界の窮屈さ
……
太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
……
『浅はかな干渉』が生み出す害
……
『注意の搾取』が奪い去ったもの
私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
……
物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
古神道のシャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
日本で生きるのは、運しだいであった。
日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
彼らには、数万年前の旧石器時代・縄文時代と数千年前の弥生時代・古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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日本民族は、旧石器時代・縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
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日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
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日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基、西行、一休、鴨長明、兼好法師、芭蕉、葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
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女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
出産で、女性は死亡する事が多かった。
日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
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日本民族中心神話において、最高神は天皇の祖先神である女性神の天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。
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