💖24)─1・B─ナチス迫害逃れのユダヤ人難民達を救った外交官・根井三郎の功績。〜No.99 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2017年Aug18日 JTBグループcolors「ウラジオストク総領事代理、根井三郎の決断
 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 ジャパン・ツーリスト・ビューローが担った命のリレー
 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」のワンシーン
 杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人たちは、シベリア鉄道で極東ウラジオストクへと向かう。そこから船に乗れば、自由への第一歩、日本の地を踏めるのだ。
 ところが、国内へと押し寄せる難民の数の多さに、日本政府は受け入れを拒む。
 ウラジオストク総領事代理、根井三郎は、杉原と同じハルビン学校の出身。杉原とも旧知の仲であった。根井は、「日本の領事が出した通行許可書を持っているのに、入国の許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになる」と抗議。難民たちを船に乗せたのだ。
 映画の中に、印象的なシーンがある。
 JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューロー職員の大迫辰雄を領事館に呼び、「あなたは彼ら難民を日本に送りたいと思うか」と問う根井。
 大迫は答える。「本国から拒否されている以上、船に乗せるべきではない。(略) まして彼らはユダヤ人です。助けなかったとしても、他国から責められることはないでしょう。ただ……(略) 私は、彼らを、救いたいです」。
 そして根井は大迫に向かって言う。「私が全責任を負います。彼らを船に乗せてください」。
 遠いリトアニアから、杉原によって託された命のバトンは、ウラジオストクで根井へ。根井から大迫へと渡されたのである。
 ニューヨークから届いた想いは、ジャパン・ツーリスト・ビューローを介してユダヤ人へ
 杉原千畝が発行した「命のビザ」は、第三国へと渡るため、10日間に限って日本国内に滞在することを認めるという、日本を通過するためのビザだった。
 このビザを持っていても、日本へ入国するためには、「避難先の国までの旅費を持っていること」「日本滞在中の費用を持っていること」という条件があった。
 命をつなぐため、着の身着のままで避難してきた難民たちは、手持ちの資金が十分な者ばかりではなった。2週間にも及ぶシベリア鉄道での長い旅の間には、ソ連の秘密警察に現金や貴金属を奪われることもあったという。
 そんなユダヤ人を経済的に助けたのが、アメリカのユダヤ人協会からの援助金だった。
 リトアニアから敦賀まで、やっとの思いでたどり着いても、手持ちの資金がないために、日本への入国が許可されず、避難旅行に支障をきたす事態を避けるために。
 援助金と難民のリストは、ウォルター・プラウンド社(現トーマス・クック社)からジャパン・ツーリスト・ビューローニューヨーク事務所へ、さらに敦賀事務所の駐在員と乗船勤務にあたる添乗員へと送られた。
 乗船勤務にあたるジャパン・ツーリスト・ビューロー職員は、ウラジオストクから敦賀への船旅の間に、乗客の姓名を確認し、ニューヨークから届いたリストと照らし合わせながら、一人一人に資金を手渡していった。
 荒海に揉まれる「天草丸」でユダヤ人を助けた大迫辰雄
 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」のワンシーン
 当時のジャパン・ツーリスト・ビューローは、「人道的見地から引き受けるべきである」 と判断をし、受け入れ準備を整えていく。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員、添乗員を派遣して、命の旅を助ける体制を整えて行った。
 その時に乗船勤務にあたっていたのが、映画にも登場する大迫辰雄ウラジオストク敦賀を結ぶ連絡船「天草丸」に乗務していた。
 『JTB 50年史』に寄せた回想録の中で、大迫が当時を振り返っている。
 「天草丸は船齢28年とかで、相当の代物、2,000トンというから大きい船とは言えない」。古く小さな船で、荒波が渦巻く冬の日本海を、2泊3日の時間をかけて渡るのだ。「船員以外の船客はほとんど船酔いで出てこない。私もご多分に漏れず、初めての第一回の往路の航海では船酔いの洗礼を受け、ほとんど寝たきり、食事なしの苦しい経験をせざるを得なかった」。
 船室の多くは三等で、窓のない大部屋に雑魚寝状態だった。通常は200名の収容数に対して、ユダヤ人輸送では400名ほどが乗船していたという。
 「多くの航海は時化のため殆どの難民が船酔い状態で、悪臭漂う三等船室で一人一人をチェックすることは大変な仕事であった」。耳慣れないユダヤ民族の名前を聞き取ることも至難の技なら、同じ苗字の人が多いことも作業を難しくした。「何とか本人をリストから探し出そうと、数百名の膨大なリストを夢中になってチェックしたことを今でも覚えている」。
 こうして日本の地に上陸したユダヤ人たちは、敦賀から神戸、横浜へと移動。そこからアメリカへと、安住の地を求めて船出して行った。
 一度に何百人という難民たちの移動が要領よく行われるよう、バス輸送を準備したり、時には臨時列車の手配をしたり。それもジャパン・ツーリスト・ビューローが請け負うこととなる。
 こうしたウラジオストクからの船の受け入れは1940年(昭和15年)9月から翌年6月まで、20数回にも及んでいる。
 「民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に」
 大迫は、手記をこう結んでいる。
 「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務をまっとうしたことは確かである」と。
 杉原千畝から託された命のバトンを受け取り、それぞれが覚悟と責任を持って受け継いだからこそ、命のリレーは繋がり、全世界へと広がっていった。
 長く語り継いでいきたい、日本人の、そしてJTBの誇りである。
 大迫辰雄役「濱田岳さん」コメント
 大迫辰雄役「濱田岳さん」
 役者としてこのような作品に出演させていただけたことを、大変嬉しく思います。
自分の命の保証もなく、考えや発言に、とても厳しい目を向けられていた世の中で、他の国の方々のために、ご尽力された大迫さんを演じさせていただけた事は、これからの僕の人生の中で大きな財産の一つになりました。
ありがとうございました。
 © 2015「杉原千畝 スギハラチウネ」製作委員会
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 12月17日 宮崎日日新聞「根井三郎(本県出身外交官)「命のビザ」数百人に発給
 第2次世界大戦中にナチスの迫害を受けていたユダヤ人難民の数百人が、本県出身の外交官・故根井三郎が発給したビザ(査証)を持って日本に渡ったとの見解をロシアのホロコースト研究者が示していることが分かった。根井がビザを持たないユダヤ人難民に対し、人道的支援などを目的に独断で通過ビザを発給したと記載された公文書がロシアに保管されているが、規模が明らかになるのは初めて。
 (全文は17日付朝刊または携帯サイトで)
 【写真】根井がビザを発給して数百人のユダヤ人難民を救済したと語るアルトマンさん=神奈川県鎌倉市
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 2019年3月1日15:25 西日本新聞「「命のビザ」つないだ外交官…根井三郎の知られざる功績 杉原千畝ユダヤ難民救う
 資料展会場で、「根井三郎を多くの人に知ってほしい」と話す顕彰する会の根井翼会長
 1941年にウラジオストクから日本に一時帰国した際に撮影したとみられる根井三郎の写真
 資料展会場で、「根井三郎を多くの人に知ってほしい」と話す顕彰する会の根井翼会長
 1941年にウラジオストクから日本に一時帰国した際に撮影したとみられる根井三郎の写真
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民のため杉原千畝(ちうね)(1900~86)が発給した「命のビザ」を引き継いで亡命を手助けした外交官、根井三郎(1902~92)の功績を後世に伝える取り組みが、生誕地の宮崎市佐土原町で広がっている。世界各地で難民を巡る対応が社会問題化し、国内では官僚の「忖度(そんたく)」が取り沙汰される今、自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある外交官が「命」のバトンをつないだリレーが注目されている。
 駐リトアニア領事代理だった杉原は1940年7月から9月にかけ、外務省の訓令に反して、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に約2千通の日本通過ビザを発給。家族を含め約6千人の命を救ったとされ、国際的に知られている。
 一方、杉原の思いをつなぎ、多くの難民を救済した根井の功績は日本国内でもあまり知られていない。
 難民の大半はシベリア鉄道で移動後、日本への航路があったソ連極東・ウラジオストクへ。現地の総領事代理だった根井が41年3月に外務省と交わした電報が外交史料館に残っている。
 外務省は軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民らを敦賀港(福井県)行きの船に乗せ、ビザを持たない者には独断でビザや渡航証明書を発給した。
 上陸先の敦賀や神戸では市民が温かい手を差し伸べた。杉原、根井のバトンを継いだ神学者小辻節三(1899~1973)は国に働き掛け、行き先が決まるまで滞在を延長させた。
 根井は戦後、法務省に移り、名古屋入国管理事務所(現管理局)の所長を最後に引退。難民を助けた理由は語らぬまま90歳で他界したため、古里でも功績は知られていなかった。
 だが近年、福井県敦賀市の元職員で、杉原と小辻の研究者古江孝治さん(68)による調査をきっかけに2016年3月、宮崎市佐土原町の親族宅で根井の写真が見つかった。同年8月には同市で「根井三郎を顕彰する会」が発足。翌年には、関東在住の孫が家族とのアルバムや将棋盤などの遺品を受け継いでいることが判明。根井が長崎県立大村中を卒業後、外務省に入省していたことも分かった。
 杉原千畝記念財団理事を務める古江さんは「ユダヤ難民救済は杉原だけの力で成し得たものではなく、根井ら陰で支えた人も評価すべきだ」と語る。顕彰する会の根井翼会長(76)は「侍のような素晴らしい宮崎生まれの外交官がいたことを多くの人に知ってほしい」と話している。
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 同会は根井の家族写真など50点を集めた資料展を4日まで開催中。2日午後2時から、イスラエル政府の「ヤド・バシェム(諸国民の中の正義の人)賞」に根井を推薦している大学教授や古江さんらによる講演会がある。いずれも同市佐土原総合文化センターで。無料。同会=0985(73)1111。=2019/03/01付 西日本新聞夕刊=」
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 2020年6月3日 6:00 西日本新聞「もう一つの「命のビザ」米で発見 ユダヤ人救済率先、根井三郎が発給
 古川 剛光
 根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家。撮影は米国亡命後(北出明氏提供)
 米国に亡命したシモン・コエンタイエルさんの孫が保存している日本通過ビザ。昭和16年2月28日の日付と、総領事代理根井三郎の署名がある(北出明氏提供)
 根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家。撮影は米国亡命後(北出明氏提供)
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民の亡命を手助けした外交官、根井三郎(1902~92)によって発給された日本通過ビザ(査証)が米国で初めて見つかった。生誕地の宮崎市が2日、発表した。市は「根井が人道的立場から主体的にユダヤ人の救済に動いたことが裏付けられた」としている。
 根井は当時、ソ連(現ロシア)極東ウラジオストク総領事代理だった。後に「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝(ちうね)(1900~86)が駐リトアニア領事代理として発給した通称「命のビザ」を携え、シベリア鉄道で現地に逃れてきたユダヤ難民らに対応。敦賀港(福井県)行きの連絡船の乗船許可を与え、ビザを持たない者には独断でビザを発給したとする記録がソ連側に残っていた。
 これまで杉原が発給したビザに、根井が署名し、日本通過を認める検印をしたビザは見つかっていたが、根井が単独で発給したビザは確認されていなかった。
 今回、ユダヤ人難民に関する著書がある東京在住のフリーライター、北出明さん(76)の調査で、ユダヤポーランド人の故シモン・コエンタイエルさんが妻、娘と3人で根井のビザを使って日本を通過し、中国・上海経由で米国サンフランシスコに亡命していたことを確認。米国在住の孫からビザの画像データの提供を受けた。ビザには、1941年2月28日の日付と根井の署名がある。
 外務省はこの年、杉原が発給した通過ビザを再検閲し、要件を満たさない者は日本行きの船に乗せないように、と根井に命令した。これに対し、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と拒絶した電文が外交史料館に残る。
 市民らでつくる「根井三郎を顕彰する会」の根井翼会長(78)は「自分の利益を顧みず、人道的に行動した宮崎生まれの外交官を誇りに思う。混沌(こんとん)とした現代、世界中の人に根井の功績を知ってほしい」と話している。 (古川剛光)」
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 6月3日12時14分 中日新聞「「命のビザ」新たに発見 旧ソ連 根井総領事代理が発給 
 ユダヤ人難民のコエンタイエルさん一家の写真を手に、ビザ発見の経緯を語る北出さん=敦賀市
 「総領事代理根井三郎」の署名が入った日本通過ビザ。裏に米国大使館がタイプライターで書いた移民ビザ却下通知書の文字が透ける=北出さん提供
 駐ウラジオストク総領事代理を務めた根井三郎さん=1941年ごろ、宮崎市の「根井三郎を顕彰する会提供」
 敦賀行き 証言を裏付け
 第二次世界大戦中、旧ソ連の駐ウラジオストク総領事代理を務めた根井三郎さん(一九〇二〜九二年)が、ナチスドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民に発給した日本通過ビザが初めて発見された。根井さんが独断でビザを発給したとの証言記録は二〇一七年にロシアで見つかっており、この調査に携わった大学教授は「証言を裏付ける重要な資料」とみる。ユダヤ人難民を救った「命のビザ」は駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)が有名だが、「根井ビザ」の発見者は「陰の功労者にも光を当ててほしい」と話している。(高野正憲)
 ビザは一九四一(昭和十六)年二月二十八日、ポーランド出身の故シモン・コエンタイエルさんと妻、娘の一家三人に発給されたもの。「敦賀・横浜経由『アメリカ』行」と書かれ、根井さんの署名と、在浦潮斯徳(ウラジオストク総領事館代理の印が押されている。「第二一号」と番号が振られ、少なくとも他に二十枚発給されたと推測できる。当時、外務省は行き先国の入国許可がない者へのビザ発給を認めておらず、根井さんが独断で出したとみられる。
 発見者は、ユダヤ人難民に関する著作のあるフリーライター北出明さん(76)=東京都中野区。難民の生存者調査をする中で、神戸市の滞留者名簿から一家に注目。新聞記事などから、米国に住むシモンさんの娘フェリシアさん(83)を突き止めた。ビザは一家の歴史を知ろうと調査に協力する孫のキム・ハイドンさん(53)から四月に画像で入手した。
 一家のパスポートや名前が確認できる当時の資料によると、三人は三九年九月にナチスポーランド侵攻に伴い、リトアニアへ避難。四一年二月にモスクワの米国大使館で移民ビザを申請したが却下され、ウラジオストクへ。当地で根井さんから受けたビザは、米国大使館が出したビザ却下通知書の裏に書かれており、切迫した状況がうかがえる。同年三月に敦賀港から入国して神戸市に滞留後、中国上海へ出国。戦後、米サンフランシスコに渡った。
 二〇一七年に国士舘大のヤコフ・ジンベルグ教授がロシア側と行った共同研究で、根井さんが本省の許可を得ずに通過ビザをわずかに発給したことを、旧ソ連の外交官に話したとする会談記録がロシアの公文書館で見つかった。ジンベルグ教授は新しい発見なので検証が必要としつつ、「本物と見ている。当時有名だった杉原ビザは偽造品が難民の間で出回っていたが、数が少ないとされる根井ビザは偽造品もないだろう」と語る。
 北出さんは「ユダヤ人難民の救出には杉原さん一人だけでなく、根井さんらいろいろな人物の尽力があった。そこに思いを寄せることが正しい歴史認識につながる」と話している。
 ねい・さぶろう 宮崎市(旧広瀬村)出身の外交官。1921(大正10)年に旧満州の日露協会学校に入学。2期先輩に杉原千畝がいた。40(昭和15)年12月からウラジオストクで勤務。戦後は法務省に移り、名古屋入国管理事務所(現・管理局)の所長を最後に引退した。41年3月、既に杉原ビザによる入国難民の対応に苦慮していた外務省は、根井さんに杉原ビザの再検閲を命じたが、一度発給したビザを覆すことは「国際的信用から考えて面白からず」と反論。難民たちを敦賀行きの船に乗せた。2016年、宮崎市に顕彰会ができた。
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 6月8日07:04 産経新聞「「命のビザ」、新たに発見 宮崎出身の故根井三郎が発給
 根井三郎が発給したビザ(北出明氏提供)
 先の大戦中に旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理だった宮崎県出身の外交官、故根井三郎(1902~92年)が、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人に発給したビザ(査証)が初めて見つかり、宮崎市が、写真を報道陣に公開した。「命のビザ」で知られる外交官の故杉原千畝発給のビザに、根井が署名したものが既に確認されていた。
 宮崎市によると、杉原に関する著書があるフリーライターの北出明氏の調査で、米国に亡命したユダヤ人の子孫が、根井発給のビザを持っていることが分かった。ビザには「昭和16年(41年)2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記され、根井の署名がある。市は日付などから根井が発給したもので間違いないと判断した。
 根井は宮崎市(旧広瀬村)に生まれ、大戦中の40年に総領事代理に就任。日本の外務省は翌41年、根井に対し、ビザを再検査して要件を満たさない場合は日本行きの船に乗せないよう命じた。しかし、根井は多くのユダヤ人難民を日本行きの船に乗せた。
 市民団体「根井三郎を顕彰する会」の根井翼会長は、市役所で記者会見し「根井は自分の身を顧みず難民の命を助けた。このような外交官がいたことを全世界に発信したい」と話した。
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 7月16日 公明党トップ / ニュース / ユダヤ人難民救った外交官・根井三郎を顕彰
 根井会長から資料展について説明を受ける党県議団と市議団のメンバー(左側)
 宮崎県立図書館(宮崎市)で18日まで、旧広瀬村(現宮崎市佐土原町)出身の外交官、根井三郎(1902~92年)の資料展が開催されている。第2次世界大戦中に独自の判断でビザ(通過査証)を発給し、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民の命を救った根井の功績を、広く知ってもらうことが目的。今回の資料展は、実物のビザが4月に米国で初めて発見されたことから注目を集めている。公明党宮崎県議団と宮崎市議団は初日の12日、資料展を主催する「根井三郎を顕彰する会」の根井翼会長(78)から展示内容の説明を受け、意見交換した。
 発給ビザの写し展示
 大戦中、根井と同じくユダヤ人難民に“命のビザ”を発給した外交官として有名なのが、リトアニアカウナスで日本領事館の領事代理を務めていた杉原千畝(1900~86年)だ。
 杉原にビザを発給されたユダヤ人は、ソビエト連邦シベリア鉄道で横断し、ウラジオストクから船で福井県敦賀港へ。ここから米国などに渡っていた。
 当時、ウラジオストク総領事代理だった根井は、「杉原が発給したビザを持つユダヤ人は船に乗せないように」と、暗に示した外務省の命令に従わず、ビザを持つ者は日本行きの船に乗せ、持たない者には独自の判断でビザを発給していた。
 年譜パネルや所蔵物などが展示されている資料展の様子
 今回の資料展では、こうした“命のバトンリレー”の解説をはじめ、根井の足跡をまとめた年譜や新たに米国で発見されたビザの写しなどのパネルが並ぶ。そのほか、家族の写真アルバムや将棋盤などの所蔵物も展示されている。
 「顕彰する会」の根井会長は、「本人が何も語り残していない中、ビザの実物が見つかったことは、人道的な功績の裏付けとなり、今後の顕彰活動の大きな励みになる」と意気込みを語る。
 ビザには「第二十一号」と番号が振られ、他にも20枚が発給されたと推測できるという。同会は来年2月にも宮崎市内で資料展と講演会を予定しており、「可能であれば次回は実物のビザを展示して、多くの人に郷土が誇る偉人の功績を知ってもらえれば」(根井会長)と期待を込める。
 社会科副読本に公明提案で掲載
 意見交換の席上、党宮崎市議団の太場祥子議員は、先の6月定例議会で、根井の功績を教育現場で伝え残していくよう求めた結果、今年度に実施する社会科副読本(小学3年生用)の改訂作業で具体的に掲載される運びとなったことなどを報告。
 党県議団の河野哲也団長らは「今後、常設展示の実現を含め、国、県、市の公明議員が連携しながら国内外へと発信していきたい」と語っていた。
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 9月23日07:01 産経新聞ナチス迫害逃れ 故根井三郎、命つないだビザ ユダヤ難民の孫ら「宝物」 宮崎
 根井三郎(根井三郎を顕彰する会提供)
 命のビザ(査証)がなければ私たちはいなかった-。第二次世界大戦中、旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理だった宮崎県出身の外交官、故根井三郎(1902~92年)発給のビザが6月に報道公開されたことを受け、ナチス・ドイツの迫害から逃れて渡米したユダヤ人の家族が、ビデオ会議システムを通じた共同通信の取材に「根井のビザは家族の宝物」と語った。
 ユダヤ難民の著書があるライター、北出明さん(76)によると、ビザを受給したのはポーランドユダヤ人の故シモン・コレンタイエルさん。逃避行には妻の故エマさんと、長女のフィリス・ディマントさん(83)が同行した。
 3人は1939年、ナチス・ドイツポーランド侵攻に伴い、隣国リトアニアに脱出。41年、モスクワの米国大使館で移民ビザの申請を却下され、シベリア鉄道ウラジオストクへ。そこで根井が単独で発給したビザを取得した。
 ビザには根井の署名があり「昭和16年(41年)2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記載。3人は福井県敦賀行きの船で日本に渡り、上海の日本租界で終戦を迎えた。47年に渡米し、その後ディマントさんは同様にホロコーストユダヤ人大量虐殺)を逃れた夫と結婚。今は静かに余生を送る。
 ディマントさんの長女、デボラ・レメルさん(62)らは根井の存在を知らず、命のビザで知られる外交官の故杉原千畝(1900~86年)発給と思っていた。取材に対し、ホロコーストに触れ「母にとってビザや写真が当時持っていたものの全てだった。根井のビザは家族の宝物だ」と語った。
 「母はビザのおかげで生き抜き、今ではひ孫までいる大家族。根井のビザがなければ私たちはいなかった」。三女、キム・ハイドンさん(53)はディマントさんが孫の結婚式でほほ笑む写真を手に話した。一家は戦争の記憶を伝えるため、ビザや関連資料を、米国のホロコースト博物館に寄贈することを検討する。
 レメルさんらが今春、米カリフォルニア州のディマントさん宅で、箱に保管された古い書類を見つけ、北出さんに連絡。宮崎市や同市の市民団体「根井三郎を顕彰する会」が報道公開した。
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 【プロフィル】根井三郎
 ねい・さぶろう 明治35(1902)年、宮崎市佐土原町(旧広瀬村)生まれ。大正10(1921)年、旧制長崎県立大村中を卒業し、外務省留学生採用試験に合格。1925年から中国ハルビン、イランなどで勤め、40年に旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理に就任した。戦後は外交官を退職し、大蔵事務官や入国管理庁外務技官、鹿児島と名古屋の入国管理事務所長などを歴任。平成4(1992)年に90歳で死去した。
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 【用語解説】命のビザ
 1940年、リトアニアカウナス駐在領事代理の故杉原千畝が日本政府の命令に反し、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ難民に発給した日本通過ビザ(査証)が有名。旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理の故根井三郎は、杉原のビザを再検閲し要件を満たさない渡航を認めないよう命じられたが「国際的信用から考えて面白からず」と反論。杉原発給のビザに、根井が署名したものも確認されている。杉原は根井がロシア語を学んだ中国ハルビンの日露協会学校の2期上だった。
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 2021年2月24日 週刊NY生活「杉原氏以外にも「命のビザ」
 北出 明・著
 株式会社パレード・刊
 第二次世界大戦中、6000人ものユダヤ人を救った日本人といえば、センポ・スギハラ、杉原千畝(すぎはら・ちうね)と言う名前を、日本人なら今では小学生でも知っているほど有名になった。
 杉原の功績は終戦直後には日の目を見ず、後年になってから杉原の妻や長男が人道主義を貫いたことの名誉を周知のものにしたいと運動したことが、ベールに包まれていた戦争史を明るみに出すきっかけとなった。杉原に関する文献やレポートは数多いが、2012年に生存者の家族に面会して書かれた『命のビザ、遥かなる旅路 杉原千畝を支えた日本人たち』は別格だ。英語版も2014年に翻訳出版されている。続編となる本書は、前作から10年経って、著者の北出明さんがさらに調査や研究を進めていくうちに、杉原千畝以外にもユダヤ人の救出に尽くした内外の外交官がいることに気がつき始め、これまであまり日が当たっていなかった人物に焦点を当てている。
 登場するのは駐カナウス・オランダ領事のヤン・ツバルテンダイク氏、駐ウラジオストク領事代理の根井三郎氏、駐神戸オランダ領事、後に駐日オランダ大使となるN・A・J・デ・フォート氏、駐ソ連大使の建川美次氏、駐日ポーランド大使のタデウシュ・ロメル氏の4人。
 ヤン・ツバルテンダイク氏は、杉原千畝が発行するビザの後に控える渡航先であるオランダ領であったカリブ海上のキュラソー島入国ビザを発行した人物だ。著者の北出さんは、ツバルテンダイク氏の次男、ロバートさんとアムステルダム郊外で面会した。「父がユダヤ難民を助けたのは、人間としての博愛精神からであって、過度に功績を強調されることは望んでいなかったでしょう。しかし、その行為がまったく注目されていないのは残念なことです」と遺族としての複雑な思いを語る。ツバルテンダイク氏の功績は母国ですら知られていなかったのだ。
 根井三郎氏は、そのキュラソー・ビザを取得して無事に杉原千畝から日本通過ビザを発給してもらったユダヤ難民が向かったシベリアの駐ウラジオストクの領事代理だった。ユダヤ難民がウラジオストックまでの広大なソ連の領土をなぜ無事に通過することができたのか。ユダヤ難民のソ連移動は国営旅行会社のインツーリストが一手に引き受けており、シベリア鉄道の運賃とホテル代などの収入が馬鹿にならなかったこと。当時世界の各国はユダヤ人の難民受け入れに消極的でソ連も例外ではなく、彼らのヨーロッパ脱出は歓迎したいところでもあった状況を解説する。根井は外務省本省から「ビザ発給は控えるように」との訓令を受けるが、「単に第三国査証が中米行きとなっているとの理由で一律に検印を拒否するのは帝国在外公館の威信から見て面白からず(いかがなものか)、キュラソー行きの場合、通過査証を与えることが適当であると考える」と反論した。
 北出さんは「私は以前から、杉原ビザ以外にもユダヤ人を救った『命のビザ』が存在していたことを我々はもっと知るべきだと主張してきました。天国の杉原千畝さん自身、自分一人がヒーローのように扱われていることに戸惑いを感じているのではないかと思えてなりません」と巻末でコメントしている。(三浦)」
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 5月2日 MicrosoftNews テレビ宮崎ユダヤ難民救った独自ビザ 約80年の時を経て発見 外交官・根井三郎の功績
 2020年4月に見つかった1枚のビザ。第二次世界大戦中、ユダヤ難民の国外脱出を助けた宮崎市佐土原町出身の外交官・根井三郎の功績を物語るものだ。根井三郎について、国の内外の研究者が注目し始めている。
 根井三郎が独自に発給 「命つなぐビザ」
 2020年4月に発見された、ある1枚のビザに大きな注目が集まった。
 根井三郎を顕彰する会 根井翼会長:
 非常に驚きと、確かだったという確信と喜びを感じている
 1941年2月28日付の日本通過ビザ。
 © テレビ宮崎 根井三郎のビザ(北出明さん提供)
行き先には、敦賀・横浜経由「アメリカ」行と記され、「ウラジオストク日本帝国総領事館 根井三郎」の署名がある。
 根井三郎がユダヤ難民に対して独自に発給したビザが初めて見つかった。
 ビザを発見したのは、「命のビザ」関連の著書がある東京在住のフリーライター・北出明さんだ。
 杉原千畝のビザで命を救われた人の足跡を調査する中で、このビザを受け取ったポーランド出身の家族の子孫にめぐり合った。
 フリーライター・北出明さん:
 これが、根井三郎が出したと言われるビザか。大変な驚きでしたよビザの発給が却下された通知の裏面に根井三郎については、時の政府の命令に異を唱え、杉原千畝のビザを持つ難民たちを日本行きの船に乗せていたことがわかっているほか、根井が「自らビザを発給していた」と述べたという旧ソ連の会談記録が、数年前に見つかっている。
 ナチス・ドイツの脅威が背後に迫る中、国外への脱出を急ぐユダヤ難民たち。
 フリーライター・北出明さん:
 杉原さんは、ギリギリまで粘って領事業務(ビザ発給)をして、リトアニアを出国したのが9月初め。(今回のビザの持ち主である)シモン・コレンタイエルは、おそらく間に合わなかった
 今回見つかったビザは、モスクワのアメリカ大使館から移民ビザの発給を却下された通知の裏に書かれており、国外脱出が危ぶまれた一家の切迫した状況がうかがえる。
 © テレビ宮崎 アメリカ大使館がビザの申請を却下した通知(北出明さん提供)
 フリーライター・北出明さん:
 アメリカ大使館の拒否の文書を受けて、おそらく途方に暮れたと思う。だけど、とにかく逃げなければならないということで、モスクワからシベリア鉄道に乗って、とにかくウラジオストクに行った。そして、根井さんの総領事館に駆け込んだ(のではないか)
 子孫が家の片づけ中に偶然発見
 その後、一家は無事、日本に入国することができた。
 一家は1947年にアメリカへ。ビザは、子孫が家の片づけをする中で偶然発見された。
 フリーライター・北出明さん:
 (ビザを見つけた)キムは自分の母、祖父母は、てっきり「杉原ビザ」で来られたと思っていた
 フリーライター・北出明さん:
 “杉原リスト”をくまなく調べたけど、(親族の名前が)なかった。どうして私の母や祖父母は日本に来られたんだろうという疑問を持っていた。それは、根井さんが出したあのビザで、あなたの家族は日本に上陸できたのではないかと言いました。それは感激していましたよ
 1枚のビザがつないだ命。このビザには、「第21号」と書かれており、根井三郎のビザで救われた人たちは、他にもいたことが推測される。
 約80年の時を経て見つかった1枚のビザは、歴史の陰に埋もれていた根井三郎の確かな功績を物語っている。
 根井三郎については、ここ数年になって史料が少しずつ見つかり、国の内外の研究者が注目し始めている。(テレビ宮崎)」
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