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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現実を生きる日本人には、哲学や思想は縁が薄く、ましてや宗教やイデオロギーは縁が無かった。
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封建主義と言っても、日本と西洋では違うし、日本と中華(中国・朝鮮)とでは全然違う。
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2024年4月17日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「自分たちの精神というものがない」…戦前日本を包んでいた「封建制」の“知られざる影響”
「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。
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大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。
『これおしまい』連載第4回
『「日本は遅れている」から「西洋的なものはダメ」へ…美術家・篠田桃紅が目の当たりにした、大正時代の極端すぎる“変化”』より続く
封建制に生きる女性の“当たり前”
「私の時代は、女学校を出たら結婚して、奥さんになる。そのことになんの疑いも持たない。それが当たり前で、どう生きるかなんて、そんなに考えない。お嫁さんになる支度をして、ちょうどよさそうな人がいたら結婚する。
でも私はそうではなかった。自分の考えで生きたかった。あの時代に私みたいなのはいませんよ。自由に生きたいだなんて。人の家にお嫁に行けば生きられるけど、それでは自由がない。結婚した姉は、子どもを産み、決して不幸ではない。姉にならってもよかった。でも私はそうはしなかった」
習字を教えれば自由に生きられる、と彼女は自分の道を踏み出します。
「お習字の下野先生から『もうあなたに教えるものは何もありません。いつでもひとかどの書家になれますよ』と言われていた。父の師・杉山三郊先生も『おたくのお嬢さんは非常に字がうまいから、中国、平安などの古いものを手本にして学べば、一流の書が書けるようになりますよ』と父に話していた。
父が認める2人の先生のお墨付きで、私はお習字の先生をすれば、自分の自由に生きられる。そう思ったのね。それが始まり。それが地について一人生きるようになっちゃった」
最初は周りの人に声をかけて、お習字の練習会を開きました。次第に生徒の数が増えて、一人で暮らせるだけの収入を得るようになります。長兄・覚太郎が結婚し、家に義姉がくることを知ると、彼女はすぐに家を出ました。
家出のワケ
「私が一番邪魔。いつまでも家にいる、そういう居場所があるわけではない。父と母も私をどこかにお嫁にやらなければと思うに決まっている。両親の厄介にならないで生きて行かれれば、そのうちにいい生き方を考えられる。
まあそんなものよ、私の時代は。部屋が6つもある、庭のついた素敵な家を借りて、お家賃を払えるかなあなんて初めは思ったのね。だけどなんとかできちゃった」
その後、ある不思議な出会いで、この人ならと思う男性にも出会います。でもその人は学生。両親にも紹介し、結婚は大学を出るまで待ちましょう、ということになります。しかし、銀座でお茶を飲むことが半年続くと、彼女は戦前の結婚のありかたに疑問を持つようになります。
「そのかたはちょっとした家柄の人で、卒業後も就職先が決まっていた。私は彼の実家や親族のために自分たちが生きるような、古い考えに唯々諾々と従うことに嫌気が差してしまったのね。自分たちの精神というものがない。そんな封建的な家に将来入って行けそうにない、そう言ってやめちゃったんです。そのかたが嫌いになったというわけではなく」
そうこうしていると、親しい友人の夫が結婚生活2、3ヵ月で出征して、戦死。嫁いだ先で、友人は生涯未亡人として生きることになります。当時は軍人の未亡人が再婚すると、世間から非難を浴びる時代。嫁いだ先の家で、身を粉にして仕えている友人を見て、彼女はなんとかならないものかと心を痛めます。
次から次へと友人の夫が戦争に駆り出されるのを見るにつけ、ますます結婚はできないという思いを強めていきます。やがて、手に職を持たない世の女性も、縫製工場などに動員されるようになります。
『美術家・篠田桃紅が浴びた「ムゴい言葉」…それを乗り越えた彼女の「自由論」とは
』に続く
篠田 桃紅(美術家)
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