💄43)─2─大正・昭和時代前半期は離婚が少なかった。軍国主義下の離婚。~No.89 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年8月25日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「 いまから約100年前の日本人は、ほとんど「離婚」していなかった…その「意外なワケ」
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 統計・調査が明かす、夫婦のリアル! 
 年間21万件、離婚率1.68%。
 個人が別れを選択する理由は人それぞれ。
 しかし、離婚という鏡を通すと、日本社会の姿が見えてくる。
 日本の労働市場の問題点が凝縮する母子家庭の貧困、離婚と所得の関係……。
 家族のかたちが不平等を拡大させてしまう現代日本を考える。
 【写真】「熟年離婚」の「4つの原因」と「1つの妙案」
 *本記事は橘木 俊詔 , 迫田 さやか『離婚の経済学 愛と別れの論理』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。

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 三界に家なし──大正時代の離婚
 大正時代に入ると世間は「大正デモクラシー」と称して、人間性豊かな自由で民主的な生活が送れたような印象を持つが、このことは誇張ぎみのところがあり、実態は明治時代と変わらない旧社会であった。具体的には「家」制度は厳格であったし、家父長制の下で夫の権限は強く、妻は夫に従うことを強要された。離婚しようものならたちまち生活苦に陥るのは女性なので、結婚にしがみつかざるをえない妻の姿があった。そして世間では離婚して実家に戻った女性は「出戻り女」と呼ばれて、半ば蔑視の対象とされたので、離婚に踏み切らないのが実情となっていた。
 これらのことを端的に示す言葉として、「三界に家なし」が湯沢『大正期の家族問題』(2010年)で引用されており、女性の弱い立場を象徴している。「女三界に家なし」の三界とは仏教用語であり、「欲界・色界・無色界」のすべての世界を表す言葉で、女性はどの世界においても安住の家がない、ということを意味している。すなわち、子どものときは親に従い、嫁に行っては夫に従い、老いては子どもに従わざるをえないので、一生にわたって、自分の家はないということになる。こういう状況が女性の立場を示すのなら、離婚などはよほどのことがないかぎり、女性にとっては選択肢から外されているということになる。
 ここでこのような状況に追い込まれた女性の幸福について考えてみよう。嫌な夫、あるいは姑、あるいは嫌な家庭生活を捨てて離婚した方がいいのか、それとも離婚しない方が幸せなのかどうかが論点である。現代であればそういう嫌な生活を捨てた方が幸せであることはかなり確実であるが、当時は必ずしもそうとは言えない側面もあった。なぜならば、離婚した女性には「貞女は二夫に見えず」という儒教思想が結構流布していて、死別や離婚によって一人身になった女性の再婚は容認されない雰囲気が社会にはあった。男性の再婚は許されるという理不尽な時代だったので、今の時点から評価すると女性は弱い立場にいたということになる。後に示すことであるが、現代では、女性が離婚を言い出し、そして女性は再婚をさほど望まないので、時代の変化はまことに興味深い。
 そういう時代にあえて離婚した女性は世間から冷たい眼で見られるし、何よりも女性の稼ぎ口は限られていたので、一人身になれば貧困に陥ることは明白である。経済的に苦しい立場になるよりも、精神的に苦しい結婚生活で我慢した方がまだまし、と判断する女性もいるかもしれない。換言すれば、精神的な苦痛による結婚生活の不幸よりも、経済的に心配の要らない結婚生活の幸福を優先する女性がいるかもしれない。もう一つには子どもと別れたくないという希望が強かったことが挙げられる。
 経済生活の重視か、精神生活の重視かの選択は個人の好みによるので、どちらの女性の生き方が好ましいかの判断はできない。しかし明治以降、大正期、そして昭和期の大部分の期間において離婚率が低かったことは、離婚することによって経済的に苦労することを避ける女性が多かったと解釈できるので、当時の女性は経済的な幸せを多分不本意ながらも重視したのであろう。そして家庭内の結婚生活の不和には眼をつぶって我慢、という忍耐の強い女性が多かったのである。
 経済発展と格差社会──昭和時代前半期の離婚
 図3─1で示したように民法制定後に離婚率は急激に低下し、その後のゆるやかな低下は昭和時代に入っても続行したし、この時期は日本の過去100年間のうちでもっとも離婚の少ない時代であった。初婚夫婦のほとんどがどちらかの死亡まで結婚生活を続けるという、平和でのどかな(? )夫婦生活・家庭生活だったのである。
 なぜこの時期に日本人は離婚しなかったのか、大正期で述べた理由がそのまま当てはまると考えてよいが、昭和時代に入ってからの新しい理由もある。日本は昭和の時代に欧米諸国よりかはまだ遅れていたが、ますます経済は発展したので国民の生活水準は少しは向上した。そうすると国民は平穏な経済生活を送れると感じて、まずは家庭生活の安泰を望んだ。これが結婚生活の安定をもたらしたことは確実である。ここで経済学からの一つの解釈を述べておこう。大正時代から昭和時代にかけて日本は産業革命を経験して、資本主義は発展を見て工業国家へと進む道を歩んだ。軍事力と並んで経済力が強くなったが、その一因として家庭生活の安定がある。すなわち安定した家庭があったからこそ、働き手としての夫はよく働き、妻は夫を支えたのであった。こういう家庭の下では労働力供給がスムーズになされたので、経済は強くなったのである。
 とはいえ湯沢『昭和前期の家族問題』(2011年)、橘木『日本の経済格差』(1998年)や『21世紀日本の格差』(2016年b)が強調するように、日本における格差社会が顕著になったのが昭和の時代であり、農村での大勢の小作人は貧困生活を強いられていた。以前から存在していた大土地所有化がそれまで以上に進展した結果でもあった。特に飢饉が発生したときの農村の実状は悲惨でもあった。さらに資本主義の発展によって都市部の工場労働者は低賃金と過酷な労働条件に苦しんでいた。『21世紀日本の格差』、同『日本の経済学史』(2019年)が指摘するように、マルクス経済学の導入と発展はこのような労働者の実態を経済学として解明するもので、日本でもマルクス経済学は勢いを増しつつあったのである。
 このように下層階級にいる人の生活はひじょうに苦しく、男も女も単身で生活するだけの稼ぐ力がないので、二人が働く結婚生活によってのみ、何とか生きるだけの稼ぎを得られたのである。そうすると離婚などをしている状況にはなかったと解釈される。換言すれば、生きていくために結婚生活を続けざるをえなかったが、格差社会の下層にいる人びと(そういう人びとが全人口のなかで圧倒的に多い)の生活だったというのである。
 軍国主義下の離婚
 もう一つ昭和前期に離婚が少なかった理由がある。それは当時の軍国主義と資本主義の影響である。日本は帝国主義の時代に入って、アジア各国の領地を手に入れるべく軍隊が海外に進出するといったように、軍事色が強くなっていた。集団主義と国家統制の強い時代に、個人主義の発露である離婚が奨励される雰囲気はなかったのである。家族を大切にして、子どもを育てるという目標が賞賛されたのも、背後には軍事のための兵隊員の確保と、経済を強くするための労働力の確保、という現実的な目的が潜んでいたのである。
 このように離婚率はひじょうに低かったが、それでも離婚の発生がゼロではなかった。どういう理由でもって離婚に至ったのであろうか。離婚は当事者同士の話し合いによる協議離婚が圧倒的に多かったが、裁判による離婚もほんの少しであるが発生していた。幸いなことに裁判資料として、原因別の離婚の統計があるので、それを参照しながら当時の離婚理由を考えてみよう。裁判による離婚決定は、両者の関係がひじょうに険悪な状態になってからの裁決なので、特殊なものと思われるかもしれないが、協議離婚の理由も裁判離婚と大差がない。前者は大きくこじれる前に合意をめざしたのであり、後者はそれをめざしたが不可能だったので法律と裁判に任せただけであり、理由までたどれば大差はないとみなしてよい。
 さらに連載記事<深刻な「単身高齢者」問題を引き起こす「熟年離婚」の「4つの原因」と「1つの妙案」>では、熟年離婚の問題について解説する。
 橘木 俊詔/迫田 さやか
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