💄43)─1─明治時代は離婚が多かった。~No.88 

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 2023年8月24日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「明治時代の日本人、じつはめちゃくちゃ「離婚」していた…! 意外な事実と「その6つの原因」

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 統計・調査が明かす、夫婦のリアル! 
 年間21万件、離婚率1.68%。
 個人が別れを選択する理由は人それぞれ。
 しかし、離婚という鏡を通すと、日本社会の姿が見えてくる。
 日本の労働市場の問題点が凝縮する母子家庭の貧困、離婚と所得の関係……。
 家族のかたちが不平等を拡大させてしまう現代日本を考える。
 【写真】単身高齢者問題を引き起こす「熟年離婚」の「4つの原因」と「1つの妙案」
 *本記事は橘木 俊詔 , 迫田 さやか『離婚の経済学 愛と別れの論理』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。

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 明治時代の離婚率は高かった
 現代の日本の離婚を論じるためには、過去の日本人がどのような行動を離婚に関しておこなってきたかを知ることがきわめて重要である。日本人における家族のあり方、宗教の果たした役割、経済的な豊かさなり貧困なりの影響、人びとの哲学・倫理・平等感などがどのような影響を持ってきたかを知れば、離婚の原因を推察できる。かつ、過去の日本人の離婚に関して知りうることが、現代の離婚を評価し将来の離婚を予想するに際して貴重な情報を提供するからである。
 まずは明治時代の初期から現代まで、日本の離婚率が長期的にどう変動してきたかを確認しておこう。図3─1は1880(明治13)年から現代までの離婚率、婚姻率の推移を示したものである。この図によってわかることは、離婚率に関しては明治時代の初期と中期において、かなり高かったことである。そして1900(明治33)年頃に急激に低下する。その低下の理由については後に言及する。それ以降は緩やかな速度で離婚率は低下を続け、第二次世界大戦までその下降傾向は続いた。
 戦後になって離婚率は一時増加したが、その後すぐに下降し、1963(昭和38)年には人口1000人比で0・73という戦後の最低値に達した。その後徐々に離婚率は上昇し、1990(平成2)年あたりからその増加率がさらに上昇を示し、2000(平成12)年頃にピークに達してから、やや反転して下降するようになって現代に至っている。しかし戦後の長いあいだの低離婚率の時代よりも、その水準は総じて高いところにある事実は重要である。
 婚姻率に注目すれば、戦前はかなり激しい変動を示したのであるが、平均すると人口1000人あたりおよそ8~9人の水準であった。戦後になると1955(昭和30)年から1970(昭和45)年あたりまで上昇を示したが、その後はコンスタントに下降傾向を示しており、現代においてはかなり低い水準となっていることがわかる。よく指摘されることだが、将来は一生涯未婚である人の増加が予想されており、20%ほどの人が一度も結婚しないだろうという予測もある(例えば、国立社会保障・人口問題研究所による『人口統計資料集』など)。なぜ離婚の問題を扱うのに結婚のことを論じるかといえば、結婚があるからこそ離婚が起こるからである。結婚する人の数が多ければ(少なければ)、当然のごとく、離婚する人の数が多くなる(少なくなる)可能性がある。ただし、両者間の相関にまでは言及できない。
 これまで述べてきたことをまとめると、離婚件数/婚姻件数の比率で見ると、つぎのように特色を要約できる。すなわち、戦前はその比率がほぼ下降の傾向を示したが、戦後になって上昇の傾向を示したのである。しかし21世紀初頭にそれがふたたび小さな下降の状況に転じたということになる。
 一夫一婦制以前──明治時代の離婚
 明治時代の初期と中期では、日本人はかなり高い率で離婚する傾向が見られたが、その理由をいくつか指摘しておこう。これに関しては湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』(2005年)が的確な分析をおこなっているので、それを参考にしながら我々の仮説をも加えて検討してみよう。
 第一に、当時は結婚を続けねばならないという倫理観は上流階級、庶民階級ともに強くなかった。それを裏付ける根拠としては、例えば落合恵美子編著『徳川日本のライフコース』(2006年)が指摘しているように、江戸時代から性交渉が比較的に自由な行為であったことが大きい。封建領主や武士階級では側室を持つことや妾を囲い込むことはよく見られたし、庶民階級においては「夜這い」が村の生活のなかでおこなわれていたのであり、その慣習が明治になっても残ったと解釈できるのではないだろうか。このように性行為が比較的自由であれば、夫婦はいつ別れてもかまわないという気持ちを多くの人が抱くことになる。
 とはいえ、これは別の種類の論点を生む。それは現代のように「一夫一婦制」が規範あるいは模範として存在しているなら、性の自由は不倫の原因になりうるので離婚に至ることがありうる。明治時代の民法の規定では「一夫一婦制」がまだなかったので、不倫による離婚というのは表沙汰にならなかったと考えてよい。
 第二に、現代でもその家族形態は残っているが、祖父・祖母、夫・妻、そして子どもの三世代住居というのは家父長制の下では多く存在していた。家父長制というのは、姫岡とし子『ヨーロッパの家族史』(2008年)やエマニュエル・トッド『世界の多様性』(2008年)の指摘するように、例えば15~17世紀のドイツやフランスなどヨーロッパにも存在していたし、儒教の伝統のなかにいる国々では社会を規定する制度であった。一家の長は夫であり、妻や子どもは夫に従う慣習にあった。そして長男が家の跡継ぎであった。男の子のいない場合には、娘婿や養子が代役となっていた。
 嫁が長男の家に入ると親、特に姑が待ち構えていて、その家にふさわしい嫁でないとわかると、離婚を迫られたのである。これは「追い出し離婚」と称される現象で、明治時代の前半ではよく発生していたのである。
 この俗に言う「嫁姑問題」が近代の日本において深刻な家族問題となったことは事実であるが、明治時代の後期以降になるとそう簡単に離婚に走らず、家庭のなかで内なる闘いとして進む場合が多くなった。それは後に述べるように離婚がしにくくなったことがあるし、家庭内でこの嫁姑問題を深刻にならないようにとか、あるいは解決する手段がいろいろ講じられたこともある。例えば同じ敷地内で老夫婦は若夫婦と同じ棟に住むのではなく、別棟に住むとか、近所に住むといった工夫をしたのである。
 第三に、社会全体の雰囲気として、離婚をするに際して明確な理由を打ち出す必要がなかったし、なんとなく嫌な配偶者というだけで、簡単に離婚に踏み込めたのである。それは本人たち夫婦のあいだでもそうであったし、夫婦間の仲はそう悪くなくとも親族との関係において、多少の不都合が生じただけで離婚することがあったのである。
 第四に、離婚という手続きがルーズであったことが大きい。すなわち結婚すら法的に届け出が不明確だったので、離婚の届け出が必要なかったのである。後に述べるように民法の制定によって結婚が法律上のこととなったので、離婚が簡単にできなくなったが、それ以前においては想像できるように比較的安易に離婚できたのである。
 多かった養子
 以上が主として湯沢雍彦による理由であるが、いくつか筆者が重要と考える他の理由をも加えておこう。第一に、当時の日本では養子制度がかなり普及していたことの効果である。子どものいない夫婦や単身者を筆頭にして、他家からの養子を幼少の頃や、成人してからさえも入れることがごく一般的におこなわれていた。したがって離婚して子どもがいなくなるとか、農家や町人でも後継者がいなくなるということを、養子によって避けることができるので、逆に言えば離婚がしやすいという事情を認めると理解できる。湯沢・中原順子・奥田都子・佐藤裕紀子『百年前の家庭生活』(2006年)によると、1872(明治5)年の武蔵国東部(現・埼玉県)の戸籍調査では、20代から60代までの男418名のうち100名が「婿養子」とされていたし、明治20年代の浜名湖周辺の村でも戸主126名のうち養子によるのは29名であった。これらをまとめると、男性の4人に1人(すなわち25%)は養子ということになる。養子制度の存在は確実に離婚を促進したのである。
 第二に、武家を筆頭に家系を保持することは江戸時代から明治時代にかけてのとても重要な慣習だったので、夫婦に子どもがないとか、あるいは妻の不倫が明らかになると、夫から「三下り半」という書状で妻に簡単に離縁状を送ることが容認されていた。いわば男社会のなすことが容認されていた時代を明治時代も引き継いでいたところがあったので、離婚が多かったことは想像できる。
 民法制定の影響
 ところがである。1898(明治31)年に明治政府によって新しく民法が制定・施行された結果、離婚の数は急減することとなった。明治30年には12万4000件もあった離婚数が、31年には9万9000件、32年には6万6000件と半分近くまで減少したのである。離婚の数が急減したので、この民法制定の影響はじつに大きかったと解釈される。真実はどうだったのであろうか。
 民法、そして戸籍法の施行によって戸籍が制定され、かつ離婚は届け出制となったので、確かに戸籍簿に「除籍」と書かれるようになったことの効果はある。いわゆる「家」制度の確立が民法によってなされたのであり、離婚は「家」にとって恥であるとの感覚が生じたので、離婚を思いとどまらせる原因となったのは確実である。
 もう一つの民法施行の効果は、「家」制度の確立が離婚による親権者を父親に限定したので、母親が子どもと別れることを嫌って離婚に踏み込まないことに表れた。これを側面から支持したのは、離婚は夫婦間での協議によってのみ成立すると定められたことで、それにより以前のように夫が一方的に妻に離婚を迫る時代でなくなったことが大きい。妻は子どもと別れたくないために協議離婚に応じなくなったのである。
 逆にこれらの効果は、いわゆる「嫁姑問題」を深刻にした可能性がある。なぜなら簡単に離婚できない状況となり、夫婦関係が冷えているところに夫の親が同居しているからである。姑は多くの場合息子の味方になるだろうから、嫁との関係がますます冷え切ってしまう可能性は高いのである。もう一つの影響は、妻との関係の思わしくない夫が別の女性と性交渉を持つようになって、いわゆる不倫の発生する可能性が増加したのである。その証拠として、明治時代の後期になると婚外子(すなわち非嫡出子の子ども)が1907(明治40)年には出生児の10%弱も存在したのである。不倫の横行が読みとれる。
 しかし、これら二つによって離婚にまで至ることをできるだけ避けようとしたというのが、明治時代の後半から終戦までの夫婦のあり方だったのである。
 さらに連載記事<深刻な「単身高齢者」問題を引き起こす「熟年離婚」の「4つの原因」と「1つの妙案」>では、熟年離婚の問題について解説する。
 橘木 俊詔/迫田 さやか
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 男尊女卑は、日本民族の伝統的家文化ではなかった。
 伝統的民族宗教最高神は、伊勢神宮の女性神である天照大神である。
 天照大神とは、天皇家の祖先神である。
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 日本人の庶民と言っても、江戸時代の庶民と明治・大正時代の庶民は違う。
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