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江戸時代の数学・和算を支え発展させたのは、実学と興味と趣味で遊んでいたソロバン武士や庶民達であった。
江戸時代の日本には、西洋のような高等教育を受けた専門の学者・数学者はいなかった。
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人間社会はもちろん大自然は、宗教、哲学、思想、主義主張ではなく数学でできている。
数学が分からなければ、何も理解できない。
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現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
昔の日本人が賢かったから現代の日本人も賢いとは限らない。
鷹は鷹を生むが、それ以上に鳶を生む方が多い。
昔の日本人が鷹といっても、現代の日本人も鷹とは限らない。
現代の日本人は、歴史力・文化力・宗教力が乏しい。
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関 孝和(せき たかかず/こうわ、生年不明 - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、日本の江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。字は子豹、自由亭と号した。
生涯と業績
生年は寛永12(1635年)- 20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。生誕地は上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)と江戸の2説ある。実父が寛永16年(1639年)に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。関の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子の関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。
若くして関家の養子となり、また、当時の数学書である吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重とその子である綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めとなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。孝和は甲府藩における国絵図の作成に関わり、また授時暦を深く研究して改暦の機会をうかがっていたが、その後渋川春海により貞享暦が作られたため、暦学において功績を挙げることはかなわなかった。
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NHK
先人たちの底力 知恵泉「関孝和 真理の追究に加減はない!」
2020年12月1日(火) 午後10:00~午後10:45(45分)
ジャンルドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養>カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
番組内容天才数学者・関孝和。鎖国政策の江戸時代に、日本式の数学「和算」を、なぜ世界トップレベルに引き上げることができたのか?その知恵を探る。
詳細江戸時代には世界に誇る天才たちがいた。そのひとりが、「算聖」と呼ばれた天才数学者・関孝和。鎖国政策のなか、関は数式を表現する方法を編み出し、日本式の数学「和算」を、世界のトップレベルにまで引き上げた。世に知られる「発微算法」を著し、輝かしい業績を残した関孝和とは、どんな人物だったのか。なぜ江戸時代に数学の才能を開花させることができたのか。謎が多いその人生を掘り起こし、その生き方から知恵を探る
出演者ほか【出演】サイエンス作家…竹内薫,東京学芸大学名誉教授…大石学,内田恭子,【司会】新井秀和
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大人の科学.net
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江戸の科学者列伝
江戸の数学を世界レベルにした天才数学者 和算の開祖 関孝和
独学で大成した天才(1)
歴史に残る大数学者といえば西洋の数学者と相場が決まっている。古代ギリシアのピタゴラス、ユークリッド、アルキメデス、17世紀のデカルト、ニュートン、ライプニッツ、18世紀のガウス、19世紀のリーマン。少し知識があれば、ガロア、アーベル、オイラー、フェルマー、カントールなどの名も挙がるだろう。
しかしそこに日本の数学者の名が並べられることはまずない。これはわが国の数学が明治以降、西洋数学(洋算)の影響下に発展したことを考えれば、仕方がないところだろう。とはいえ、日本にも西洋の数学者に匹敵するすぐれた数学者が存在しなかったわけではない。その筆頭がニュートンとほぼ同時代に活躍した和算の大家関孝和である。
和算とは江戸期の日本に独自に発達した数学で、記号を使って高度な代数や幾何を解くという点では洋算と変わらなかった。また、そのレベルも同時代の西洋の数学と肩を並べるほどだった。その発展の立役者となったのが孝和である。
孝和の研究でよく知られているのが円周率の計算である。孝和は正13万1072角形を使い、円周率を小数点以下11桁まで求めた。連立方程式の解を求める公式をつくる過程で発見した行列式は、ヨーロッパに先駆ける発見だった。n次方程式の近似的な解を求める方法の考案、ベルヌーイ数(分数の級数)の発見、円理(円に関する計算)の創始など、いずれも当時のヨーロッパの研究水準と遜色ないものだった。
これほどの業績を挙げた関孝和とはどのような人物だったのだろうか。その探究はしかし、ひとつの大きな壁に直面する。それは孝和に関する資料、とくにその生涯に関する資料がきわめて少ないことである。その結果、彼の経歴にはいまだに多くの謎が残されている。第一の謎はその生年である。
孝和が幕臣内山永明の二男として寛永年間に生まれたこと、没年が宝永5年(1708年)であったことは資料からはっきりしている。ところが肝腎の生年が、寛永14年(1637年)と寛永19年(1642年)の二説あって、どちらとも特定できていないのである。その関連で生誕の地も上州藤岡と江戸小石川の二説があってやはり決定できていない。
このように基本的事実からあいまいな理由のひとつは、一般的に当時の幕臣に関する資料がほとんどないことにある。特に孝和の場合は、のちに述べるように養子新七郎の不行状により関家が断絶し、資料が散逸してしまったことも大きいとされている。
残された乏しい資料を精査した和算研究者佐藤賢一氏は、1630年代から1650年代までという幅広い可能性を指摘している。この議論は説得力があるが、ここでは混乱を避けるため通説に従って1640年頃としておくことにする。
独学で大成した天才(2)
孝和は長じて甲府藩勘定役を務める関五郎左衛門の養子となった。縁組みの時期も理由も明らかではないが、当時は家督を継げない次男以降の男子が養子に入るのは珍しくなかった。孝和も関孝和となったおかげで、甲府藩に出仕し、徳川綱重に仕えた。
生年や生地のほかに研究者を悩ませているのが、孝和がいつ、いかにして数学を学んだかという点である。幼くして大人の計算の誤りを指摘するなど、早くから数理に目覚めたようだが、直接のきっかけは吉田光由の『塵劫記』(1627年)を読んだことだとされている。
『塵劫記』は光由が中国の『算法統宗』(1592年)をもとに編纂した数学書である。
ここで和算の歴史を少したどれば、中国で発達した数学が日本にはいってきたのは飛鳥時代だとされている。この時代、すでに官職として算博士が置かれ、実用数学と理論数学を研究し、また数学教育の任にあたったという記録が残されている。室町時代には中国からソロバンが伝来、これが改良されながら独自の発展を遂げた。戦国時代になると、武将たちのなかに戦さや財政の必要から、数理に明るい者を重用する傾向があらわれるようになった。
それが和算として発展するのは江戸時代になってからである。戦国の世が終わり、失職した武士の中にはソロバン塾で生計を立てる者も出てきた。藩士にも武より文が求められ、貨幣経済の発展とも呼応して経理に強い者が登用されるようになった。このような時代背景のもと、ソロバンの教科書としても数学入門書としてもよく読まれたのが『塵劫記』だった。
こうして数学のおもしろさにとりつかれた孝和だが、その後はとくに師にはつかず独学で学んでいったと考えられている。孝和の師となったのは書物だった。とくに大きな影響を受けたのは、中国から伝わった数学書『算学啓蒙』(1299年)と『楊輝算法』(1274-75年)だった。このうち朱世傑が著した『算学啓蒙』によって最初に天元術にふれたというのが通説である。
傍書法から記号代数学へ
天元術とは、算木や算盤などの計算具を使う中国発祥の代数学のことである。算木には正数をあらわす赤い算木と、負数をあらわす黒い算木の2種類がある。これを算盤と呼ばれるマス目を書いた紙や布の上に並べ、その組み合わせで高次の代数方程式を解くことができた。
孝和は『算学啓蒙』を熟読し、天元術を完全に理解した。その理解のレベルは、もうひとつの数学書『楊輝算法』の朝鮮版本を書写した際に、その乱丁を正しく訂正できたことからもわかる。
しかし『算学啓蒙』の天元術には大きな制約があった。高次といっても取り扱えるのは未知数がひとつの整式のみで、しかも係数が数字の数式(たとえば 3x2+5x-22=0のような )に限られた。この限界は算木による方法の限界だと悟った孝和は、一般の整式もあらわせる独自の方法を考案した。それは算木の配列をそのまま紙に筆写し、式の係数に文字を付記することだった。
この表記法は「傍書法」とよばれ、等号やプラス記号こそなかったが、現代数学の記号法に通じるものだった。「傍書法」に基づいて開発されたのが「演段法」である。これは「配置」という一種の補助数を使い、その後、この補助数を消去して文字係数の方程式をつくる方法だった。
算木から記号へのこの転換は、和算の発展にとって決定的だった。「傍書法」と「演段法」を合わせて、算木では不可能だった文字係数の高次多元方程式に関する計算がはじめて可能になったからである。
この記号的代数学の体系は、のちに「点竄術(てんざんじゅつ)」と総称されるようになった。彼の点竄術の威力は次のようなエピソードからも証明される。
当時の代表的な数学書に和算家沢口一之のあらわした『古今算法記』(1671年)があった。天元術を解説したこの本の巻末には、天元術では解法がないとされる15の問題(遺題)が載せられていた。後世の研究者のために問題を提供するこの遺題という方法は、『塵劫記』から始まり、各地の数学愛好者の挑戦意欲を刺激した。これが和算のレベルアップに貢献した役割は大きかった。
『古今算法記』の遺題は難問ぞろいだったが、孝和は傍書法と演段法を駆使して次々に解いていった。こうして日本の数学は中国の数学から抜け出して、独自の数学――和算への道を歩み出したのである。関はその成果を延宝2年(1674年)、『発微算法』という書にあらわした。これは生前発刊された孝和の唯一の著書となった。
関の新しい数学は彼の弟子や理解者からは崇拝されたが、出る杭は打たれるのたとえもある。その抬頭を苦々しく思う和算家たちは、関の解法はでたらめで、答は間違いばかりだと非難した。また、その業績は中国の数学書の丸写しであり、しかも、それを他人に知られないよう書籍は焼却してしまったのだと指弾した。
だが、これはまったくの言いがかりだった。孝和の解法や解答が正しかったのはもちろんのこと、彼が参考にした数学書も当時、入手不可能なものではなかったからである。
世界的水準の研究(1)
孝和の研究は多岐にわたるが、そのひとつは円周率の計算である。
円周率を求める方法はアルキメデスの時代から知られていた。その方法は円に内接する正多角形の角数を徐々にふやしていき、その辺の長さを計算して、近似するというものだった。アルキメデスは正96角形を使って3.14という数字をえた。孝和も同様な方法で正13万1072角形の辺の長さを計算し、円周率を小数以下11桁まで求めた。そして円周率をあらわす近似分数として355/113を示した。
ライプニッツに先駆けて導入したのが行列式である。行列式とは数を縦横に並べた行列に対する計算方法(展開式)で、孝和はこれをふたつの変数を含む二つの方程式から、未知数を消去する過程で発見したいわれている。その研究成果は関が著した『解伏題之法』(1683年)に示されている。
孝和は方程式を、問題の性質によって解見題、解隠題、解伏題と分類し、それぞれ解法を示した。解見題とは算術計算で解ける問題、解隠題とは未知数が一個の方程式、そして解伏題とは、二つ以上の方程式(連立方程式)を解いて答を求められる問題である。この解法のために孝和が考案したのが、「交式」と「斜乗」からなる行列式の展開だった。
行列式は西洋数学では、ライプニッツが1693年に導入したのが最初だったとされている。孝和の発見はこれに約10年先駆けるものだった。のちに孝和の解法は3次の行列式までは正しかったが、4次以上には誤りがあることが判明した。しかしこれによって独力で行列式を開拓した孝和の先駆的業績が損なわれることはないだろう。
さらに前出『楊輝算法』にヒントをえて、高次方程式の近似的な解を求める解法(ホーナー法)も孝案した。イギリスの数学者ウィリアム・ホーナーが同じ解法を発見したのは19世紀はじめで、孝和は同等の解法を1世紀以上早く示していたことになる。
孝和はいわゆる「円理」の創建にも貢献した。円理とは前出の円周率や円弧の研究から発展した和算の一分野で、孝和以降の発展によって三角関数や積分、無限級数などが扱われるようになった。
また彼の死後、刊行された『概括算法』(1712年)には、フランスのヤコブ・ベルヌーイが発見したベルヌーイ数が示されている。両者ほぼ同時期の発見だっため、この級数は「関・ベルヌーイ数」とよばれることもある。これ以外にも数多くの先駆的発見を行った。
世界的水準の研究(2)
好奇心旺盛な孝和は、数学だけでなく天文学、暦学、測量学から機械仕掛け(からくり)などにも関心をもち、その才能を多方面で発揮した。
暦学では改暦の研究が知られている。それ以前の約8百年間にわたって使われてきた宣明暦は、このころには誤差が大きくなって使い物にならなくなっていた。これを改めるため徳川家宣(徳川綱豊)は新しい暦の制定を孝和に命じた。
孝和は最初の主君綱重亡き後、その子綱豊に仕え、綱豊が六代将軍として江戸城にはいると、随って江戸詰めとなった。その後は勘定畑を歩んで勘定方吟味役にまで出世していた。その主君の命とあって、孝和は一大決心をし、中国の「授時暦」を参考に暦学を数学で基礎固めする作業からとりかかった。孝和の研究は大きな成果を挙げたが、その徹底性ゆえに作業自体の進行は遅れた。
このとき孝和のライバルとなったのが、天文学者渋川春海(二世安井算哲)である。春海は碁の家元(碁所家)に生まれ、碁を通して諸大名との親交があった。春海は西洋の暦法を採り入れて誤差を修正した暦をいち早く完成させた。彼の暦は完全なものではなかったが、政治力も使いながら貞享暦として採用させるのに成功した。主君の命を果たせなかった孝和の落胆は大きく、それが彼の数学研究をも衰退させたともいわれている。
孝和の機械仕掛けの腕を示すのが、江戸城内のからくり時計修理にまつわるエピソードである。中国渡来のこの時計には、一定時ごとに中国人形がはしごを登って鐘をたたくという仕掛けが施されていた。しかし壊れてからはお抱えの時計師たちも誰一人手をつけられなかった。これを聞いた孝和は修理を申し出て、苦心の末、見事修理を成し遂げたという。
このほか江戸から甲府へ赴く途次、駕籠の中から見た地形を絵図に詳しく記録して甲府公に献上したとか、江戸城内にあった伽羅(きゃら)の香木を、さまざまな重さに正確に切り分けるよう命じられ、その場で線を引いて返すと、寸分の狂いもなく切り分けられたといったエピソードなども伝えられている。
よみがえる和算の開祖
孝和の偉業は集った多くの弟子によって、「関流」和算として継承、発展させられた。なかでも真の後継者と呼ばれるのにふさわしいのが建部賢弘である。
年少のころから兄賢明とともに数学を学び始めた賢弘は、若くして関の門をたたき、たちまちその才能を開花させた。彼の業績はスイスの数学者オイラーに先駆けて円周率πを求める公式を発見したり、円理を発展させて円周率を41桁まで求めるなど、師と同様世界的なものだった。この優秀な弟子たちをえて、晩年の関の仕事は彼らとの共同作業が多くなった。
賢弘の業績のひとつが、兄と協力して孝和の数学を伝える数学書を編集・刊行したことである。貞享2年(1685年)には孝和の主著『発微算法』を補う『発微算法演段諺解』を上梓している。『発微算法』が画期的な数学書であることはすでに述べたが、難点は不親切でわかりにくいことだった。傍書法や演段法の説明すらなかった。関の偉業を伝えたいと願う賢弘は、これに詳細な注を施して刊行した。
このとき賢弘は若干21歳だった。その後も数多くの著書の刊行に携わった。師を深く尊敬する賢弘は、「解伏題の法則(行列式)」をつくったわが師関孝和は、まさに神というべきだろうと讃えている。
幾多の業績を残した「算聖」とうたわれた関孝和も、最晩年は病気がちで思うように研究に専念できなくなった。そして宝永5年(1708年)、病のため亡くなった。
弟子には恵まれた孝和も、家族の縁には恵まれなかったようだ。孝和の家族に関する資料はほとんど残されていないが、過去帳などからわかる範囲では、遅く結婚し、40代でふたりの娘をもうけたが、不幸にも長女は幼少期に、次女は10代半ばで亡くなっている。跡継ぎがいない関家が養子として迎えたのが、弟永行の息子新七郎だった。冒頭でもみたように孝和資料の散逸には、この新七郎の不行跡が関与していた。
孝和の死により家督を相続した新七郎は甲府勤番士として赴任した。赴任11年目、甲府城中の金庫から大金が盗まれるという大事件が勃発した。この事件の捜査過程で、新之介が役目をさぼって他の番士と博打をしていたことが露見してしまった。当然、重い処分を科せられ、関家は途絶えた。その際、孝和に関する資料も没収され、散逸してしまったのである。
孝和の死後、彼の開拓した和算は弟子たちによってさらに高度な数学に発展させられ、江戸和算の全盛期が築かれた。額や絵馬に数学の解法を記して、神社などに奉納するという日本独自の算額の風習が広まったのもこうした隆盛の反映だっただろう。しかしその和算も、明治期にはいると洋算にとってかわられて衰退した。それにつれて孝和の業績も一部の研究者を除いて忘れられていった。
その孝和が戦前の一時期、にわかに復活したことがあった。皮肉なことに、国粋主義的な風潮のなかで、世界に誇る大数学者として小学校の教科書に紹介されたのである。こうした評価には我田引水的な過大評価もあったが、孝和の数学が世界的レベルにあったことは否定しえない。
かつては、日本には世界的な数学者は存在しなかったというのが通説になっていた。その理由は、公理から説き起こして、抽象的な思考を厳密に進めるという思考スタイルが、日本人には適さないからだといわれてきた。また日本ではソロバンが発達し、計算に重きが置かれたため、数学が理論的に発展しなかったのだという説もあった。しかしこれらの議論は偏っているというだけでなく、前提からして間違っている。
日本には関孝和も、建部賢弘もいた。ほかにも優れた数学者を輩出した。江戸期には数学書がベストセラーになり、西洋と同じ記号による数学が隆盛をきわめた。日本人は決して数学が嫌いなわけでも、数学的思考が苦手なわけでもなかったのである。
孝和に正当な評価を与える試みは戦後発展したが、その業績には未解明の部分も多い。傍書法は彼ひとりで開拓したものか、その過程で西洋数学の影響はなかったのか。それらを含めて鎖国日本を代表する知性の業績解明は、抽象的思考の極みであるその学問を通して日本人の思考そのものを問う作業となるはずである。
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実は世界最高水準だった! 江戸時代の「和算」とは
PRESIDENT 2015年8月3日号
桜井 進
サイエンスナビゲーター
「和算」をご存じだろうか。聞いたことはあっても、よく知らないという人が大半ではないかと思う。それもそのはず。学校の教科書でもほとんど触れられず、高校の日本史で和算家の代表格、関孝和の名前が出てくる程度だからだ。
和算とは、江戸時代から明治にかけて日本人が独自に研究、発展させた数学だ。そのレベルは極めて高度で当時、世界最高水準にあった。たとえば、関孝和の弟子である建部賢弘は、「円周率π」の計算で41桁まで弾き出すことに成功。これは天才レオンハルト・オイラーが微積分学を用いて同じ公式を発見する15年も前のことだ。
数学というと、我々は西洋から学んだものと思いがちだ。確かに明治維新で「西洋数学」を取り入れたが、それ以前に日本には和算という独自の数学があった。だからこそドイツの数学を輸入する際、いとも簡単に日本語に翻訳できたのだ。また、和算の発展があったから、数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞を日本人は3人も受賞しているのだ。国別の受賞者数では、米仏ロ英に次ぐ5位で、日本はまさに世界に冠たる数学大国であり、その原点が和算なのだ。
和算は江戸を中心に全国の各藩で盛んに研究された。私の出身地の山形は、江戸に次いで和算が盛んな藩の1つだった。紅花などで大儲けした富裕層がいて文化的なものを尊ぶ風土があり、また冬は雪に閉ざされるため家で数学の問題に打ち込むのによい環境だった。和算には関孝和の関流を筆頭にさまざまな流派があるが、山形では会田安明が「最上(さいじょう)流」をつくり、関流と20年間も優劣を競い合った。
そこで今回は、この和算に挑戦してみよう。数ある和算書のなかでも、『算法童子問』(村井中漸著)から「大原の花売り」を紹介したい。書名の通り子ども向けの本だが、案外と難しいので侮れない。
「京都大原の里から、毎日花を売りに来る女がいる。女の家には『桜・桃・椿・柳』の4種類の花があり、そのうち3種類を毎日均等になるように選び、売り歩く。選ぶ順番も同じだという。ある日、『桜・桃・椿』を買った。次に同じ組み合わせの花を購入できるのは何日後になるだろうか?」
図を拡大
どの花を家に置いてくるかを考える!
これは「組み合わせ」の問題である。4種類の花から3種類を選ぶ方法は何通りあるかを考えるのだが、「選び出す花」を考えると複雑になるので、逆に「家に置いてくる花」に着目する。「4種類のなかから3種類を選び出す」ことと、「どれか1種類を家に置いてくる」ことは同じ意味だからだ。
これを「余事象」といい、ある事象に対して、そうではない反対の事象を指す。この問題は余事象に注目することがポイントになる。要するに発想の転換だ。
図の通り、花は4種類なので、家に置いてくる花の選び方も4通りだ。したがって4種類のなかから3種類を選び出す方法も同じ4通り。つまり、花の組み合わせは4日で1回りするので、答えは「4日後」ということになる。
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和算(わさん)は、日本独自に発達した数学である。狭義には大いに発展した江戸時代の関孝和以降のそれを指すが、西洋数学導入以前の数学全体を指すこともある。
目次
1、 歴史
1、1 江戸時代以前
1、2 江戸時代
1、2、1 初期の和算
1、2、2 和算の中興
1、2、3 関流の勃興
1、2、4 江戸後期から明治にかけて
1、3 明治時代以後
1、4 和算研究
2、 和算の性格
3、 算木とそろばん
4、 算額
5、 和算の発展に関わった人物
6、 和算を題材とした作品
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