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東洋経済
「独身男性が多い都市で、どうしたら便利に快適に暮らせるのか、ということで、江戸のインフラが整っていった」と堀口氏(写真右)(写真:ソロ男プロジェクト提供)
「江戸時代のソロ男は、子どもは残せなくても今に続く産業を残したと思う」(荒川氏)(写真:ソロ男プロジェクト提供)
「独り身大国」江戸と現代の知られざる共通点
コスプレに熱中、食事はデリバリーを頼む
荒川 和久 : ソロもんラボ・リーダー、独身研究家
2017/06/21 6:00
究極の単身男性社会だったお江戸。独り身男たちの生活には、現代の独身男性との多くの共通点が見いだせます(写真:chombosan / PIXTA)
未婚化・非婚化の進行が叫ばれる現代の日本ですが、江戸時代の江戸もまた独身大国だったという事実はあまり知られていません。
江戸時代の庶民の結婚観、そして消費や文化などを探ることで、江戸と現代の共通点を見いだし、これからやってくる「ソロ社会」へのヒントを見いだすことはできるのでしょうか。
今回は、「ソロモンの時代・番外編」として、独身研究家として著書『超ソロ社会』(PHP新書)などがある荒川和久氏と、『江戸はスゴイ』(PHP新書)など江戸時代を中心とした著書を数多く持ち、江戸文化歴史検定1級を最年少で取得するなど「お江戸ル」としてもご活躍中の堀口茉純さんとの対談をお送りします。
「男の街」だった江戸
荒川和久(以下、荒川):現在、未婚化が大きな社会問題になっています。直近の2015年では、男性の生涯未婚率が23.4%、女性が14.1%と、過去最高を更新(国立社会保障・人口問題研究所調べ)。2035年には人口の5割が独身になるともいわれています。しかも、未婚男性の数が未婚女性よりも大幅に多い、「男余り」の状況があります。
これは現代社会特有の現象ではなく、江戸にも同様な状況がありましたよね。そもそも、江戸という都市は男性の都市だった。享保6年(1721年)の江戸の町人人口は約50万人でしたが、男性32万人、女性18万人と圧倒的に男性人口が多かったわけです(南和男『江戸の社会構造』塙書房)。
堀口茉純(以下、堀口):確かに、江戸時代の江戸は異常な男性過多でした。
ほぼ何もない状態から100万人が暮らす大都市をつくるということで、極端な説明の仕方をすれば、江戸の住民の半分は都市づくりの担い手である男性、そしてもう半分は、単身赴任で地方からやってくる武士。男性の都市といっても過言ではありません。
荒川:そうでしたね。
しかも、明らかに独身男性が多かった。幕末慶応年間(1865~68年)の史料では、町人16~60歳の男性の有配偶率は、麹町地区で47.3%、渋谷宮益町地区でも46.5%と半分にも達していない状況でした。
独身男が暮らした「長屋」の実態
堀口:独身男性が多い都市で、どうしたら便利に快適に暮らせるのかということで、インフラが整っていく流れが面白いんです。
庶民の独身男性は、独身のまま人生が終わることが多いので、男が1人でも生活していけるコミュニティに所属する必要がありました。それが、互いに持ちつ持たれつの関係でできている長屋です。
長屋は、お手洗いも炊事場も共同で、1人4畳半くらいのスペースで暮らしています。長屋の中で、家事や力仕事を分担し合っていました。そうやって、いろいろな世代やタイプの人が緩やかに生活しているのが長屋で、庶民の生活の最小単位でもあったんです。
荒川:今でいうシェアハウスの多世代型ですよね。若い男も夫婦もおじいちゃんおばあちゃんも、いろんな世代の人がいたわけじゃないですか、長屋って。それがすごくいいなと思うんですよね。
堀口:そうなんですよね。ただ、江戸の人はプライバシーという概念がなかったから大丈夫だったのだと思います。今のわれわれからすると、ふすまを開けたら隣の人が住んでいるという環境は、なかなか慣れないと思うんですけど。
荒川:でも、僕が小学生の頃ですら、家の鍵はいつも開いていましたし、学校から帰って家に家族が誰もいないのに、たまに隣のおじさんが僕の家の縁側でお茶飲んでいるんですよ。それで違和感がなかった。昭和のあるときまでは、そんな感じだったんじゃないでしょうか。
堀口:そうなのですね(笑)。
当時は年間を通じて何らかの全員参加行事があって、それがコミュニティ内の人を結び付けていたんです。
長屋だと、七夕は井戸を掃除する日って決まっているので、全員で掃除して、皆でそうめん食べて、お酒を飲む、なんてことをしていました。年間を通じて行事が決まっていたので、そのときには嫌でも顔を合わせて互いを知っていたんですが、今は会社でもイベントに強制参加させるのはなかなか難しいでしょうね。
荒川:そうですね。だからこそ、長屋のようなコミュニティは、ソロ化するこれからの時代に必要なのかもしれません。
一方、江戸の独身男性と現代の「ソロ男」の生態系には、類似点も多いと思います。たとえば、江戸の独身男性はオタク的な趣味もたくさんやっています。ある意味、今のアキバと江戸って似ていると思うんですよ。
堀口:そうですね。江戸には今でいうオタクっぽい人が多くいました。浮世絵の絵師なんて、ずっと虫のことを観察していたりと「社会人としてどうなの?」と言いたくなるような人もいますが、とてつもない芸術作品を作っているんです。
荒川:現代においても、独身のオタクの人たちのパワーはすごいと思います。中には自己肯定感が低く、ネガティブで内向的な人もいますが、むしろ、だからこそ、ものすごいクリエーティビティを発揮する人が出てくる。
美人画は吉原に行けない男の欲望が生んだ?
堀口:浮世絵といえば、美人画を鑑賞するのは疑似恋愛ですよね。実際に吉原に行けない人のために美人を描いたものが最初なので、独身男性の欲望がベースにあるんです。
そういえば、コスプレも江戸時代にすごくはやっているんですよ。
荒川:そうなんですか!
堀口:仮装ができるかできないかで盛り場での人気度が違うので、頑張っていたみたいですよ。歌舞伎役者や、有名な歴史上の英雄などの仮装をしていたようです。男性も女性も。
いちばん大きな仮装のイベントは、吉原で1カ月間仮装パレードをする「吉原俄(よしわらにわか)」というイベントでした。そのときは花魁(おいらん)ではなく、吉原の裏方で働いている芸者たちが出し物をするんですよ。仮装をして踊ってと、まさにハロウィンのパレードみたいな感じです。
荒川:まさにハロウィンですね。
堀口:お花見でも仮装をやっていたみたいです。イベントの日に一生懸命仮装で趣向を凝らすというのはあの当時からすでにやっていたんですね。
荒川:歌舞伎役者のデフォルメされた浮世絵も、今でいうパロディ画ですよね。黄表紙も、今でいうラノベ(ライトノベル)やマンガですね。そうした芸術がどんどん生み出されたのは、やはり江戸中期以降のあの時代じゃないですか。
堀口:平和で戦争に行く必要がないから、文化面にやたらと力が行くんです。今を充実させるために貪欲な人たちだったので、今を楽しくしたいということでさまざまな芸術が発達したんです。
荒川:現代のソロ男も、今を生きるために貪欲で、消費や趣味で今この瞬間を楽しもうとしているので、感覚は一緒です。
お江戸の食文化は独身男が支えた
堀口:それから、食文化も栄えました。独身男性が多い江戸。しかも、みんな働いているため自炊するのは大変です。そこで食べ物の行商がはやるんですよ。お総菜やおつゆとかですね。しかも、仕事前に食べられるように、完成したご飯のデリバリーが家にまで来ていたんです。
荒川:そんなサービスがすでに江戸時代にあったんですね。
堀口:和食は江戸時代に発達しましたが、要因は外食産業なんですよ。食事を家で食べられない男性に向けたサービスとして、仕事に出ていった先で軽食を取るために屋台が発達したり、行商があったりと、コンビニエンスな食べ物が発達していきました。
荒川:江戸時代の男性はまったく自炊をしなかったのですか?
堀口:おコメくらいは炊くんですけど、それ以外の物は安い値段で買えてしまえるので、作る必要がなかったんですね。
ただ、江戸時代も260年間あるので、後半になると料理男子が出てくるんですよ。趣味として料理をする男子ですね。すると、レシピ集も出版されるようになって。
荒川:その流れってすごく今と似ていますね。今も外食産業はソロ男たちが支えていて、1人で1家族以上に外食費をかけています(外食費は1家族以上!独身男は「よき消費者」だ)。コンビニなどの中食もそうですね。その反動で、自分で作りたがる料理男子も出てきた。
堀口:本当だ、すごく似ていますね。
荒川:男余りだったこと、オタクがいたこと、独身男性たちによって食文化が栄えたこと。今の日本と江戸時代の江戸は共通点がたくさんありますね。
結婚しない独身男性に対して「結婚して子どもを残してこそ一人前だ」と説教する人がいるんですが、江戸時代のソロ男たちって、「子孫は残せなかったけど、今に続く文化や産業を残した」と思うんですよ。未婚化や非婚化は決してマイナス部分だけではなく、そうした力もあるんじゃないかと思います。
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江戸時代の日本文化とは、男子独身者(草食男子)文化であった。
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江戸時代の総人口は、増減が少ない安定時代であった。
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徳川幕府や諸大名は、人口を増やす為に子沢山を奨励したが、庶民は貧しくて子供を産み育てるゆとりがなかった。
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江戸時代の日本は、人生50年で若者は多く老人は少なかった。
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金持ちは結婚できて、貧乏人は結婚できなかった。
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独身男性の楽しみは、金を残す必要がなく、将来・老後の心配する気もなく、今が愉しければそれでいいとして、金は貯め込むより稼いだ金は全て女遊びや食道楽で散財していた。
草食男子にとって、結婚は憧れでもなく、家族を持ち子どもを育てる事は幸せでもなかった。
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江戸時代は、ブラック社会であった。
女の争いは醜く、女は山の神・夜叉(鬼)と怖れられ、女性は人を呪い殺すと考えられていた。
男尊女卑の社会では、女性が自立し自活し一人で金を稼げる仕事が少なかった為に生活力のある男性と結婚するしか生きられなかった。
結婚は、愛ではなく金で行っていた。
金持ちは、何人でも妾({めかけ}愛人)を抱えていた。
金持ちの妻は資産と本業を貰えるのなら、夫が何人も妾を持ち浮気しようとも許していた。
妾は、隙あらば資産と本業を乗っ取る為に、金持ちに妻を離婚し追放するよう囁いていた。
妻が家から追い出されるかどうかは、跡取りの子供を生んでいるかどうかにかかっていて、生む子は男の子より女の子の方が良かった。
農家は男の子を喜ばれたが、商家では女の子が喜ばれた。
亭主関白は、女の掌の上で踊らされているだけであった。
山の神・夜叉の女性から見れば、亭主関白と威張っている男性は単純バカであった。
江戸時代の家庭では、カカァ天下であった。
夫にとって、家・家庭・家族は針の蓆のようで憩いの場ではなかった。
日本人男性にとって、結婚し子供を生む事は地獄であった。
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PHPオンライン衆知
江戸の外食産業が異常に発達したわけ
江戸時代初期、新興都市である江戸の町は男性があふれ、女性が少ないという特殊な人口構成でスタートしたのだが、男女比が半々になるのは結局、幕末になってから。つまり、江戸時代を通じて慢性的に女性不足だった。
たとえば江戸時代中期、享保6年(1721)11月の統計によると、江戸の町方人口は、女178109 人(35.5%)+男323285 人(64.5%)= 501394 人(100%)。
これに寺社門前人口と、武家人口およそ50万人を加えたものが、江戸の総人口なわけだが、こちらは残念ながら正確な統計がない。ただ、寺社地の住人は基本男性だし、武家は各藩から単身赴任でやってきているケースがほとんどなので、町方よりも、さらに男性比率が高かったことは間違いないだろう。
このような状況から、きわめて現実的な問題が発生する。食事の問題である。
現代のような家電製品がない当時は、米を炊くだけで、そうとうな時間がかかった。食事を作るのも大仕事で、寺社や武家では専門の調理方を置くこともできたが、町方では、なかなかそうもいかない。
紅のついたる火吹き竹長屋暮らしの庶民がまともな食生活を送ろうと思ったら、所帯を持って男が外で働くあいだに家で女性が食事を作る、といった役割分担が不可欠だったが、都都逸にも「九尺二間に過ぎたるものは 紅のついたる火吹き竹」(解説・九尺二間とは四畳半+土間の江戸庶民が暮らす裏長屋の一般的な間取り。そこに紅をつけた奥さんがいて、火吹き竹を使って飯を炊いてくれるなんて贅沢な話だ、リア充爆発しろ! という意味) とあるように、残念ながらそんな例は稀だった。頑張って自炊したとしても、一人分の食事のために薪や油などの燃料や食材、調味料を揃えるのは非効率的である。
このために発達を遂げたのが外食産業だ。
その大きなきっかけになったのが明暦の大火。
大半が灰燼に帰した江戸の町は、幕府の主導により驚異的な勢いで復興するが、実際に汗を流して現場で働いたのは、土木人足や職人たち(多くが地方から単身江戸にやってきた独身男性)である。日中の過酷な肉体労働を乗り切るために、仕事の合間に食事をとってエネルギー補給がしたい……。そんな彼らのニーズに応えるように、江戸の町には大量の煮売り屋が軒を連ねるようになった。煮売り屋とは煮物や惣菜や団子などの軽食に、茶や酒をつけて出す、ファストフード店のような業態である。
当時、食事は基本的に自宅で済ませるもので、外食の機会は旅などの特殊事情の際に限られていたから、町中で誰もが手軽に食事をとれる煮売り屋の出現は、そうとう画期的だった。
煮売り屋は、瞬く間に江戸中に広がるが、あまりに流行りすぎて火災の原因になり、明暦の大火からわずか3年後の万治3年(1660)には、正月からの3カ月間で105回も火事が起こったというから、本末転倒な話である。
このため、幕府は煮売り屋の夜間営業を禁止する法令をたびたび出しているが、たびたび出しているということは、たびたび破られていたということ。焼けたら建てればいいじゃない、といわんばかりのたくましさだ。
復興のなかで生まれたもう一つの飲食業が、料理茶屋。料理を出すことを専門にした飲食店のことで、茶を使って大豆や米を一緒に炊いた一膳飯と、豆腐汁、煮物、香の物をセットで提供する店が浅草寺門前の並木町で生まれたのが、その始まり。現在の定食屋のような業態だった。このようにガッツリ昼食を食べさせる店というのは、実は当時は世界的に見てもとても珍しく、日本でも初めての事例だった。
というか昼食自体が、明暦の大火後のこのような外食産業の充実により定着した食習慣と考えられている。それまでは朝、夕の一日二食が基本だったが、出先で昼食をとるのが当たり前になり、一日三食が一般化したというのだ。
腹が減っては復興はできぬ、だったのかもしれない。
※PHP新書『江戸はスゴイ』 より抜粋編集
著者紹介
堀口茉純(ほりぐち・ますみ)
お江戸ル/歴史作家
東京都足立区生まれ。明治大学在学中に文学座付属演劇研究所で演技の勉強を始め、卒業後、女優として舞台やテレビドラマに多数出演。一方、2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得すると、「江戸に詳しすぎるタレント=お江戸ル」として注目を集め、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。著書に『TOKUGAWA15』(草思社)、『UKIYOE17』(中経出版)、『EDO-100』(小学館)、『新選組グラフィティ1834‐1868』(実業之日本社)がある。
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東洋経済
独身が5割超、江戸男子に学ぶシングルライフ 吉原、居酒屋、コスプレ…今に続く文化を量産
荒川 和久 2018/04/01 08:00
© 東洋経済オンライン 江戸は現代以上に「未婚社会」だった(写真:RoBeDeRo/iStock)
日本の未婚率や離婚率の上昇を近年の特殊な状態だと勘違いされている方が多いようですが、むしろ逆で、明治末期から大正・昭和にかけての「皆婚と非離婚」のほうが異常値だったと言えます。
もともと未婚も離婚も多かった
もともと日本人は未婚も離婚も多い人々でした。江戸時代から明治初期にかけての離婚率に関して言えば、当時の世界一だったかもしれません。現代の離婚率世界一はロシアの4.5(人口1000人当たりの離婚者数、2012年)ですが、江戸時代はそれを超える4.8だったといわれています(2006年参議院調査局第三特別調査室「歴史的に見た日本の人口と家族」より)。江戸期の離婚率の高さについてはこちらの記事(「夫婦は一生添うべし」が当然ではない理由)を参照ください。
未婚についても同様です。先日、歴史人口学者の鬼頭宏先生と対談させていただいたのですが、17世紀くらいまでは日本の農村地域でさえ未婚が多かったそうです。
結婚して子孫を残すというのはどちらかいえば身分や階層の高い者に限られていて、本家ではない傍系の親族や使用人などの隷属農民たちは生涯未婚で過ごした人が多かったのだとか。たとえば、1675年の信濃国湯舟沢村の記録によれば、男の未婚率は全体で46%であるのに対して、傍系親族は62%、隷属農民は67%が未婚でした。
それが、18世紀頃から傍系親族の分家や小農民自立の現象が活発化したことで、世帯構造そのものが分裂縮小化していきます。それが未婚化解消につながったひとつの要因と言われています。つまり、今まで労働力としてのみ機能していた隷属農民たちが独立し、自分の農地を家族経営によって賄わなければならなくなると、妻や子は貴重な労働力として必須となるからです。結婚とは、農業という経済生活を営むうえで欠くべからざる運営体の形成だったのです。
こうして農村地域の未婚率は改善されていくわけですが、それにしてもまだ1771年時点の男の未婚率は30%(前述信濃国湯舟沢村)もありました。農村よりも未婚化が激しかったのが江戸などの都市部です。幕末における男の有配偶率を見てみると、現代の東京の有配偶率よりも低いことがわかります。
このグラフを見ておわかりのとおり、男女で有配偶率が大きく違います。それは、江戸が相当な男余りの都市だったからです。1721(享保6)年の江戸の町人人口(武家を除く)は約50万人ですが、男性32万人に対し、女性18万人と圧倒的に男性人口が多かったのです。女性の2倍、圧倒的に男余りでした。つまり、江戸の男たちは、結婚したくても相手がいなかったのです。「茨城県が1位!『ニッポン男余り現象』の正体」という記事にも書いたとおり、現代の日本も未婚男性が未婚女性に比べ300万人も多い男余り状態です。江戸と今の日本はとても似ていると言えます。
独身男性であふれていた江戸だからこそ、最も栄えたのが食産業でした。今も独身男性は消費支出に占める食費の割合(エンゲル係数)が30%近くあります。特に外食費比率が高いのですが、ソロ男たちは、外食費や調理食品、飲料や酒の消費額は、実額で一家族分以上消費しています(外食費は1家族以上!独身男は「よき消費者」だ)。
ファストフードも居酒屋も
独身男の食欲が旺盛なのは江戸時代とて一緒で、握りずしは今でいうファストフードとして生まれたものです。当時の握りずしは、今のおにぎり大のサイズがあり、江戸の男たちは歩きながらそれをほお張ったのでしょう。屋台のそば屋も天ぷら屋も対象ターゲットは江戸の独身男たちでした。酒屋で酒を買ったせっかちな江戸っ子たちが、店先で飲み始めたことから、つまみのサービスが始まり、そこから「酒屋に居る」という意味の居酒屋業態が栄えることにもなりました。
当時長屋に住む独身男たちは、自炊こそあまりしませんでしたが、家で米だけは炊いていたようです。何も米だけを食べていたわけではありません。おかずとなる総菜は「棒手振り(ぼてふり)」という行商が売りに来てくれたため、料理の必要性がなかったのです。今風に言えば、デリバリー型フードサービスが充実していたわけです。
また、独身男性たちはほとんどモノを所有しませんでした。生活に必要な物はレンタルで賄うのが普通だったのです。そのためのサービスが、損料屋です。使用に際する代償を損料として受け取る商売でした。衣料品、布団、蚊帳、食器、冠婚葬祭具、雨具、道具、家具、畳、大八車などのほか下着のふんどしでさえレンタルするのが当たり前でした。これこそ現代でいうシェアリングエコノミーで、すでに江戸時代からあったのです。
元祖「会いに行けるアイドル」
江戸時代にもアイドルが存在していたことをご存じですか? 1760年代、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘笠森お仙がそうでした。要はカフェのウェートレスなんですが、美人だと評判になり、美人画で有名な鈴木春信が彼女を描いたことで江戸中に拡散し、大人気となりました。
「会いに行けるアイドル」の元祖です。あまりの人気に、茶屋では彼女の絵や手ぬぐい、人形などお仙グッズも売り出し、それがまた大ヒットしたそうです。まさに現代のアイドル商法と同じではありませんか。
ちなみに、笠森お仙は、人気絶頂期に突然姿を消したためストーカーによる誘拐拉致説も流れ、ファンの男たちは騒然となりました。が、真実は幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁いだとのこと。今でいえば、金持ちエリート実業家と結婚してアイドルを引退したというところでしょうか。オタクたちの純粋な恋が悲しい結末を迎えるのは江戸時代も今も変わらないようです。
さらに、江戸時代はコスプレ文化さえありました。歌川広重が描いた「東都名所高輪二十六夜待遊興之図」という浮世絵があります(江戸東京博物館所蔵)。二十六夜待ちとは、旧暦七月二十六日(現代だと八月中旬から九月中旬の間)の夜に、念仏を唱えながら昇ってくる月を待つというイベントですが、信仰的な意味合いより、月が昇る明け方まで飲んで騒ぐオールナイトのお祭りとして栄えました。当日は、先にご紹介したすしや天ぷらなどの屋台が並び、タコのコスプレで参加した男たちが楽しむ様子も浮世絵に描かれています。
江戸時代のコスプレのクオリティの高さは、『蝶々踊図屏風』にも見られます。これは、江戸ではなく京都で1840(天保10)年ごろ大流行した仮装踊りのお祭りですが、タコやすっぽん、なまずのコスプレをして踊る大勢の人達が描かれています。まさに現代の渋谷のスクランブル交差点でのハロウィンのようなにぎわいです。
ほかにも、挿絵の入った読み物の黄表紙は、今でいうマンガのようなものですし、当然ながら、吉原や岡場所という性風俗産業、春画などアダルト産業は、独身男性過多の需要に応じて発展した産業でもあります。
現代の結婚しない男たちに通じるもの
「宵越しのカネは持たない」という江戸のソロ男たちの消費意欲は旺盛でしたが、それは決してモノ消費のような所有価値を重視した価値観ではありません。むしろ、承認や達成という人間の根源的な欲求を満足させようとする意欲が強く、彼らにとって消費行動とは「幸せ感の獲得」という精神価値充足の手段でした。これもまた、現代の結婚しない男たちに通じるものがあります。
このように独身男性が多かった江戸と現代は共通点が多く、日本はすでに一度大きなソロ社会を経験していると言えます。だからといって国が滅びたわけではありません。むしろ、彼ら江戸の独身男性たちは、子孫こそ残せなかったものの、今に続く多くの文化や産業を残したとも言えるでしょう。
さらに、もうひとつ重要な視点。江戸は循環性のある「つながる社会」でもありました。灰買いや肥汲みはもちろん、古紙や古釘、抜けた毛髪に至るまでリサイクルしていました。それは、人々の価値観も、物事や人はすべてつながっており、自分の行いは巡り巡って自分に戻ってくるという概念に基づいています。
一人で暮らす人たちが多い社会だからこそ、個人単位で人とつながる意識を大事にする。それこそが、これから訪れる未来のソロ社会において、私たち一人ひとりの生き方のヒントがある気がします。もちろん、江戸時代がすべてバラ色の時代とは言えませんし、江戸回帰を推奨するものでもないですが、これほどまでに現代との類似点があったことは興味深いと思います。
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