💄36)─2─武士は結婚も離婚も主君の許可が必要であった~No.75 

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 2022年1月31日 MicrosoftNews AERA dot.「結婚は主君の許可が必要だが、離婚するときはどうだった? 江戸時代「武士」の一生行事
 © AERA dot. 提供 イラスト/さとうただし 週刊朝日ムック『歴史道Vol.10』から
 武士全体の9割以上を占めていたという四十九石以下の下級武士たち。限られた収入の中、分相応の生活を営み、愉しんでいたという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』では、江戸三百藩の暮らしと仕事を解説。ここでは誕生、元服から家督相続、隠居まで武士の一生の行事を一挙紹介する。
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 上は将軍から、下は御家人などの下級武士に至るまで、武士は同じような行事や儀礼を経験しながら一生を送ったが、誕生からしばらくの間は祝い事が続くのが習いであった。生まれてから1年だけをみても、お七夜、御宮参り、お食い初めの行事と続いた。
 当時は医療水準がまだまだ低く、乳幼児の死亡率は非常に高かった。家族にしてみると、無事生き続けたことをその都度祝いたい気持ちが強かった。よって、家族による祝い事が幼少期に連続したわけである。
 誕生から7日目の行事・お七夜では、父親からは武士の魂である刀や産着などが贈られるのが定番だった。約一カ月後のお宮参りは今でもみられる行事だ。百日目にはお食い初めの行事となる。
 5歳になると、袴着の行事が執り行われる。初めて袴を着ける儀式であり、子供を吉の方向に向けて碁盤の上に立たせ、左の足から袴をはかせた。武士の場合、外出時や人に対面する時は袴を着用するのが習いであったことから、その練習をさせたのである。袴を着用し始めた時から、腰には刀を差すようになる。
 15歳くらいになると元服の儀式が執り行われる。もともとは公家が初めて冠を被る儀式であり、髪を結って冠を被る加冠の儀と称された。武士の場合は前髪を落とし月代を剃って髷を結う儀式だったが、その役を担った者は烏帽子親と呼ばれ、後見人のような役割を担うことになるのが通例である。
 元服に伴い、名前も変更となる。幼名から実名(諱という)に改めたが、実名で呼ばれることはほとんどなく、普段はもう一つの名前である通称で呼ばれた。例えば、坂本龍馬の諱は直柔だが、通称の龍馬で呼ばれるのが通例だった。なお、元服は吉日が選ばれたが、年の初めの正月の吉日に執り行われることが多かった。
 20歳を過ぎると、家督相続の有無に拘らず嫁取りの話となる。嫁は自分と同じか、少し上の家禄を持つ武士の家から迎えるのが通例である。裕福な商家の娘を迎えることも珍しくない。家計が苦しい家にとり持参金は魅力的だったからだ。だが、武士と商人では身分違いであるため、武士の養女としてから嫁に迎えた。
 武士の場合は、結婚には主君の許可が必要とされた。逆に離婚の場合も、結婚を許可した主君に届け出て、その許可を得る形が取られた。
 嫁取りの次は家督相続の運びとなる。家督を継ぐにも婚姻と同じく主君の許可が要件だったが、家督を相続しても役職に就けるとは限らない。逆に相続せずとも役職に就く事例は少なくない。当人の能力次第だった。
 幕臣にせよ藩士にせよ、役職に就けない者の方がはるかに多かった。役職に就かずとも家禄は保障されており、何とか生活することはできたが、家禄を増やすには役職に就くしかなかった。そのため、就職活動は熾烈なものにならざるを得なかった。
 50代に入ると、家督を譲って隠居の身となる事例が多くなるが、隠居と家督相続はセットになっており、これもまた主君の許可が必要だった。家禄は家督とともに跡継ぎに譲られたが、隠居後も役職にとどまる事例もあった。その場合は別に手当が支給された。
 隠居後も長く生きる事例は珍しくなかった。泰平の世であったこともその一因だった。
 ◎監修・文/安藤優一郎
 あんどう・ゆういちろう/1965年千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。近著に『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)、『越前福井藩松平春嶽』(平凡社新書)、『お殿様の定年後』(日経プレミアシリーズ)他、著書多数。JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」等で江戸をテーマとする講師も務める。
 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』から」
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