🌺2:─1─人類学は自然人類学、先史考古学、社会人類学で構成されている。~No.2No.3

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 日本民族大和民族は、明治の近代化で急遽作られた分類で江戸時代まではなかった。
 「日本民族単一民族である」はウソである。
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 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」
 奥野克巳
 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
 サファリルックで「未開の地」へ?
 そもそも、人類学とは何でしょうか。みなさんは人類学という言葉を聞いたとき、どのようなイメージを思い浮かべるでしょう。サファリルックのような服装で「未開」の部族に入り込み、フィールドワークをつうじてその人たちの文化を明らかにする学問? たしかにそれもひとつの見方です。ただ、それはある意味で固定化されたイメージにすぎません。
 たとえば最近では、デヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(2018年)が話題となりました。誰も読まない文書の作成、いつまでも結論が出ない会議の連続……。現代にはやりがいもなく、無意味な仕事が蔓延しています。読者のみなさんも、「なんでこんな無駄な仕事があるんだろう」と感じる場面が多いかもしれません。効率化が進んだ現代において、「無駄」な仕事はどんどん淘汰されていくと思われていました。ところが、そのような無意味な仕事は逆に増えていくばかりです。それらをブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と断言したグレーバーの研究は、社会の中での生産や分配、消費などの人間の経済生活を考察するという点で経済人類学として位置付けられます。それだけではなく、いまや人類学は、芸術人類学や医療人類学、観光人類学、映像人類学、心理人類学、宗教人類学など多岐にわたっています。
 このようにずらりと並んだ下位分野を見ると、人類学とは何をやっているか分からない、正体不明の学問のようにも思えるでしょう。
 ですが、人類学が誕生して以来、この学問が問い続けてきた本質は何も変わりません。それは「人間とは何か」という問いです。
 人間とは何か。その根源的な問題を追い続けて、人類学者たちは悩み、悪戦苦闘してきたのです。そして彼らが見つけ出してきた答えは、今を生きている私たちのものの見方や生き方を変え、現実を生き抜くための「武器」にもなり得るのです。
 人類学100年の歴史とは
 4人の超重要人物
 記念碑的な著作が出版された1922年に近代人類学が誕生してから100余年、これまでに数々の人類学者たちが世界中を駆け回り、幾多の学説を唱えてきました。それらをひとつひとつ取り上げ、トピックや人名別に整理して辞典的にまとめた本はすでに世の中にたくさん出されています。ですが、この本ではあえてそのような形はとりません。ズバッと人類学の要諦を掴むための、「はじめての人類学」としての一冊を目指します。
 誤解を恐れず言えば、人類学には「絶対にこの4人は外せない」という最重要人物がいます。ブロニスワフ・マリノフスキ(1884―1942)、クロード・レヴィ=ストロース(1908―2009)、フランツ・ボアズ(1858―1942)、ティム・インゴルド(1948―)です。彼らは19世紀後半から現代に至るまで、それぞれの時代を生きながら人類学において重要な概念を打ち出してきました。
 先回りして言えば、マリノフスキは「生の全体」を、レヴィ=ストロースは「生の構造」を、ボアズは「生のあり方」を、インゴルドは「生の流転」を突き詰めた人類学者と捉えることができます。
 人間の生にまつわるこの4つの考え方は、そのまま人類学が歴史の中で勝ち取ってきた学問的な成果です。つまり4人の人類学者を取り上げることで、人類学の歩みが一掴みにできると言えるのです。本書ではこの4人を中心に、人類学の「真髄」を押さえます。
 さらに連載記事〈「ミンゾクガク」は「民族学」?「民俗学」?日本人が大好きな「河童伝説」の研究が生まれた「本当の理由」〉では、人類学の超重要ポイントを紹介しています。
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 4月10日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「くだらなすぎる現実から抜け出したい…100年前、ひとりの人類学者が発見した「ある答え」
 奥野克巳
 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
 現場主義の人類学者
 どのような分野であれ、人は何かを知りたいと思ったとき、まずはこれまで先人たちが残してきた書物を探します。そして目的のことが書かれている本や文献、資料にあたれば、たいていのことはイメージが掴めるでしょう。
 しかし、それで本当に知りたいことの「すべて」が理解できるわけではありません。異国の人々を知ろうとする人類学ならば、なおさらです。遠く離れた場所に住む人たちのことは、本だけでは分かりません。どうしても理解できない部分がモヤモヤと残ります。それならば実際に現地に行って、見てみることで、謎は解決に向かうはずです。そして現地での滞在は短期ではなく、長期に及ぶほど理解は深まるでしょう。
 © 現代ビジネス
 そのことを人類学の中で突き詰めた人がいます。ポーランド生まれのブロニスワフ・マリノフスキです。彼はフィールドに出かけて長期間にわたって現地に住み込み、その土地の言語を身につけて調査を進めました。
 マリノフスキは現地の人たちが行っている行事や儀礼、仕事、その他の様々な出来事に参加(参与)しながら観察を行う「参与観察」という手法を編み出しました。この参与観察は、現在でも人類学において非常に重要な研究手法として受け継がれています。彼は現場主義に徹した最初の人類学者だったのです。
 安楽椅子学者への強烈なアンチ
 そもそも前章で触れたように、19世紀から20世紀にかけての人類学では、文化を直進的に進化発展するものとして捉える「文化進化論」が優勢でした。19世紀の人類学者たちが「安楽椅子の人類学者」と揶揄されたように、彼らは探検家や旅行者、宣教師などによって記録された二次資料に基づいて、机の上で仕事をしていたのです。
 文化進化論の目的は、文化の諸要素を当該社会の全体性から切り離して比較し、時間的な前後関係に並べ替えることでした。要するに、文献で得た情報をつなぎ合わせるパッチワークです。
 ですが、頭の中だけの世界に終始するそうした方法には限界があります。これまでの研究手法を退屈に感じ、不満を抱いていたマリノフスキは実地に調査に出かけて、文化をより深いところで捉えようとしたのです。
 マリノフスキは、共同体を外から眺めて「ここの社会はこうなっている」と表面的に断じることをしませんでした。むしろ内部に潜入して、自分の目の前で起きていることの細部にこだわりながら記録し、人間が生きているさまを生々しく描き出したのです。彼の生み出したやり方をひとつのモデルとして、20世紀の新しい人類学のスタイルが切り拓かれたのです。
 目の前で繰り広げられている出来事をその場でわしづかみにするフィールドワークは、社会が儀礼や経済現象、呪術などが複雑につながり合ってひとつの統合体として成立していることを教えてくれます。そしてマリノフスキはその複雑なつながり合いを「機能主義」として理論化し、旧来の人類学を打ち破りました。マリノフスキは、人間の生きている全体をまるごと理解することを提唱したのです。
 さらに連載記事〈日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
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 4月10日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「ミンゾクガク」は「民族学」?「民俗学」?日本人が大好きな「河童伝説」の研究が生まれた「本当の理由」

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 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

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 【写真】多くの人が間違っている「人生の終わり方」
 イギリス、アメリカ、フランスの違い
 いわゆる「人類学」と呼ばれるこの学問分野は、成立の背景の違いから、国や地域によって名称が少しずつ違っています。あるいは同じ名称が国によって別の意味で使われたりしているので、紛らわしいのです。
 人類学(Anthropology)は、ギリシア語の「人間anthropos(アントロポス)」と「学logy」からなり、「人間についての研究」を意味します。イギリスでは、人類学は「自然人類学」、「先史考古学」、「社会人類学」の3つによって構成されます。
 まず「自然人類学」は、皮膚や眼の色、身体各部のサイズや骨格、指紋や血液型などの身体的特徴を比較分類しながら、系統関係や変化を考える分野です。理系的な分野だと言えるでしょう。「先史考古学」は、遺跡から出た土器やそれと一緒に発見された動物の骨や植物の種子などを調べて、先史時代の人間を再構成するものです。そして「社会人類学」は、文字通り地球上に存在する諸民族の社会や文化の研究を行う分野です。イギリスの社会人類学では、伝統的に家族、親族、婚姻や集団の問題に重点が置かれてきました。
 これがアメリカに渡ると、これらの3つの領域の他に言語学(言語人類学)が加わります。言語学は、人間の持つ言語の能力やそれぞれの言語の特徴に関する研究です。アメリカでは、イギリスで社会人類学と呼ばれている分野を「文化人類学」と呼びます。私たち日本人にとっては、この文化人類学という言い方のほうが、なじみがあるかもしれませんね。
 これに対しフランスでは、社会人類学文化人類学は一般に「民族学」と呼ばれてきました。日本語だとミンゾクガクという同じ音で「民俗学」という学問もあって紛らわしいのですが、フランス語では民族学をEthnologie、民俗学をFolkloreと呼ぶので間違いようがありません。
 人類学の起源
 民族学とは自民族以外の民族(ethnos)を研究する学問で、民俗学は自民族の言語や社会生活を調査・研究する学問です。民俗学は、日本においては河童の伝説を取り上げたことで有名な『遠野物語』の著者・柳田國男によって始められた学問として知られています。
 このように、イギリスやアメリカでは諸民族の文化だけではなく、生物学的なヒトの形質も含めて探究する学問が人類学と呼ばれてきました。隣接し合った学問どうしの総合化という意識を持っている研究者は、いわゆる文化人類学を中心にやっていても、自らを「人類学者」と名乗ることもあります。私自身も、そっちの範疇に入ると思っています。
 人類そのものや人間の文化を扱う研究領域がどの時期に、どのようにして現れたのかに関しては諸説あります。ですが15世紀以降、ヨーロッパがそれまで経験したことがなかった規模で「外の世界」と出合ったことが契機になったのは間違いありません。
 ヨーロッパで絶対主義国家が興隆し、重商主義が発展したことで、15世紀末に大航海時代が始まりました。ヨーロッパは、海の向こうの未知なる「他者」たちに出合ったのです。その意味で人類学は、その歴史の始まりからして「他者」についての学問という性格を持っていました。
 人類学の起源に関して、もうひとつ重要なこととして、ヨーロッパにおける人間の本質や人間社会の成立への関心の高まりが挙げられます。
 ルネサンス期後半(16世紀)から啓蒙主義時代(18世紀)にかけて、国家というものが存在しない自然の中に置かれたら、人間はどのように暮らしていくのかという、「自然状態」に対する関心が高まったのです。
 17世紀を生きた哲学者トマス・ホッブズは、自然状態に近い社会では、人間の本性がむき出しになり「万人の万人に対する闘争」が起きると唱えました。そして、その状態を治めるために社会契約を結んで、国家がつくられたのだと説きます。これを「社会契約説」と呼びます。この言葉を聞いたことがある読者もいるでしょう。
 一方、18世紀の政治哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、自然状態の人間とは、自己愛と同情心以外の感情は持たない無垢な精神を持つ存在だと捉えました。
 ルソーよりも20年あまり早く生まれたのが、啓蒙思想家のシャルル・ド・モンテスキューです。1721年の『ペルシャ人の手紙』は、架空の2人のペルシャ人の旅を描いている点で、後の「民族誌」の先駆けであったとも評されることがあります。1748年の『法の精神』は、政府の形態や諸国民の気質に気候が与える影響に関して、世界中の事例を用いて考察しています。
 さらに連載記事〈日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」〉では、人類学の超重要ポイントを紹介しています。
 奥野克巳
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⛩50)─1─日本民族と怨霊神社。~No.117No.118 

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 日本民族は、人を呪い殺した怨霊を御霊にすり替えて崇拝していた。
 日本神道においては、災いや不幸をもたらす疫病神、貧乏神さらには死神さえも敬うべき神様であった。
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 2024年4月8日 YAHOO!JAPANニュース mi-mollet(ミモレ)「この春、絶対に「縁切り」したい人必見! 日本三大怨霊の「崇徳天皇」への参拝をすすめる理由
 良縁祈願だけでなく、なんとか「悪縁」を断ち切りたい、と願う人も少なくないのではないでしょうか。わずわらしい人間関係、直したい自分の悪い習慣など……断ち切りたい「ご縁」は様々かもしれません。
そうした、人にはなかなか打ち明けづらい「縁切り」の願いを叶えてくれる神様を教えてくれるのが、社会心理学者にして神社参拝のスペシャリストでもある八木龍平さんです。著書『愛される人はなぜ神社に行くのか?』では、絶対に縁切りしたいときにおすすめの神様と神社を紹介! 知っておきたい参拝の基本とあわせて、本書から特別に紹介します。
 「絶対に縁切りしたい!」なら崇徳天皇
  ひとり思い詰めた顔をして参拝する人をよく見かける神社があります。
 「縁切り」で知られた神社です。
 人のご縁は結ぶだけでなく、切ることを迫られるときもあります。深刻なケースもあり、大っぴらに話せないことも多いですが、縁切りを願う人は少なからずいます。
 「人の縁を切るって、一体どんな神様が担当されているのだろう?」
 京都市内に縁切り神社の代名詞・安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)があります。ご祭神を見て、納得しました。日本三大怨霊のおひとり崇徳(すとく)天皇です。父の鳥羽天皇に嫌われた不遇の天皇として知られ、鳥羽天皇法皇となって最高権力者の時は意地悪をされ続け、鳥羽法皇崩御した直後、鳥羽法皇に優遇された後白河天皇に戦争をしかけられて負け、讃岐国(今の香川県)へ流罪になります。天皇上皇の配流は、およそ四百年ぶりの出来事で、二度と京の地に戻ることなく、崩御されました。そりゃ恨みますよね。
 安井金比羅宮の起源は、崇徳天皇上皇になってよく訪れていた藤寺(ふじでら)です。上皇は藤寺に寵愛していた女官を住まわせ、たびたび訪れていたのです。上皇讃岐国崩御すると、悲嘆にくれた女官は出家して尼になり、上皇自筆の尊影を藤寺の観音堂に奉納し、墓を築いて遺髪を埋め日夜ひたすらお経を読んだとか。その後、ある僧が参拝すると上皇の霊があらわれたことから、崇徳上皇流罪にした後白河法皇の命で崇徳上皇を祀る寺が建立され、明治時代より安井神社になりました。
 怨霊は、災難を避ける厄除けや縁切りの神様に
 怨霊を祀る神社は、かつてひどいことをした相手を神様に祭り上げて、「どうか祟らないでください」と、怒りの心を鎮めていただくようお祈りする場所です。崇徳天皇は生前、悪意ある意地悪をされ続けました。神様になると、生前の挫折や苦しみが逆転してご利益になります。怨霊なら災難を避ける厄除けや縁切りの神様として人々に頼られます。崇徳天皇は三大怨霊ですから、最強の厄除け・縁切り神でしょう。
 崇徳上皇讃岐国に配流された時に金毘羅権現(通称こんぴらさん)を信仰したことで、こんぴらさん総本宮金刀比羅宮(ことひらぐう)や前述の安井金比羅宮で、崇徳天皇こんぴらさんと一緒に祀られています。
 「怨霊の神社に参拝するなんて、ちょっと怖い……」
 ご安心ください。崇徳天皇が恨んでいらっしゃるのは、鳥羽天皇後白河天皇およびその一派なので、あなたを恨んではいません。
 「崇徳天皇って普通の人間だよね。なのに神様っておかしくない?」
 神道の神様は2タイプいて、自然神とご先祖さまです。自然神は太陽や月、風、土、海、山、水など自然物です。一方、ご先祖さまは普通の人間です。同じ人間の大先輩だからこそ、我々の悩みや苦しみに共感し、希望を理解してくれます。また我々の方が神様に共感し、「崇徳天皇は私みたいだ!」と神様に自分を投影したりもします。
 「崇徳天皇」をお祀りする神社は?
 人からの嫌がらせや人間関係のトラブルを断ち切るのに、崇徳天皇の冷気のようなエネルギーがサポートします。あなたの悪縁や大事な人が困っている悪縁を、こっそり断ち切りましょう。
 悪縁を断つと、金運など運気全般上昇しますので、何もなくとも定期的に縁切りするのが良さそうです。
 <崇徳天皇をお祀りする神社>
虎ノ門 金刀比羅宮(東京都港区虎ノ門1丁目2‐7)
安井金比羅宮京都府京都市東山区下弁天町70)
白峯神宮京都府京都市上京区飛鳥井町261)
金刀比羅宮香川県仲多度郡琴平町892‐1)
崇徳天皇宮(香川県香川郡直島町618)
 難しい決まりや作法は何もない――参拝の基本
 ひとり神社仏閣参拝なんかもおすすめですね。
 そこで参拝の基本についてお伝えします。
 私はお寺よりも神社の方がくわしいですが、まず特に決まりやルールはありません。神社もお寺も、かつては字の読めない人たちが沢山参拝していましたから、難しい決まりや作法は何もないのです。
 手を合わせて、頭を下げる。これが神仏への祈りの基本です。
 浄土宗・浄土真宗なら、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と(心の中で)唱えればそれで十分です。ただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽往生すると浄土宗の開祖・法然は主張しました。他のことはしなくとも、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えればいいというわけですね。
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⛩104)─1─神社本庁の内紛。日本宗教界の危機。~No.233No.234No.235 

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 2023年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ついに「公家家格の頂点」「神社界のボス」も超激怒...ヤバすぎる横暴を続ける現在の「神社本庁」につきつけた「ノー」
 日本全国の神社のうち約95%が加盟している宗教法人「神社本庁」で内紛が勃発。トップの座を巡り裁判にまで発展している。知っているようで知らない神社の仕組みとともに、その内幕をルポする―。
 【写真】誕生日を迎える佳子さまの最新動画で「不敬」な反応が続出…
 前編記事『まさかの「神社本庁・崩壊」の危機...総長の「不正土地取引」に「超有名神社の離脱」と「2000人関係者が猛激怒」が相次いで勃発』より続く。
 総長職への異常な執着
 さて、神社本庁の田中総長は京都府八幡市にある石清水八幡宮宮司を務めている。ところが、神社本庁関係者は「石清水八幡宮も構図は同じで、経営はラクではないはず」と明かす。
 「総長職の報酬は年間1000万円以上あるので、田中さんが総長の席にこだわっているのは、権力欲のほかに、金銭的側面もあるのでは、とも見られています」
 氏の総長職への執着は異常だ。前述の通り田中氏側の敗訴という判決が下された職員寮の不正土地取引疑惑を巡る裁判の後も、辞任を求める声を無視して総長の座を死守。通常は2期6年で交代となる総長の座を現在14年も続けているのだ。
 「'22年6月の役員会で田中総長は5期目に名乗りを上げました。驚くべきことに、この時の役員会で過半数の理事が田中氏続投に賛成票を投じたのです」(神社本庁関係者)
 職員寮売却の件でも背任が疑われたというのに、なぜ多くの理事が田中氏を支持したのか。神社本庁関係者が続けて解説する。
 「実は役員会は田中さんと、彼の側近で神道政治連盟の打田会長に近い役員らで固められていて、自浄作用が働かない。だから、何年も総長の座を維持し続けることができるのです」
 田中氏は三大八幡宮(宇佐、石清水、鶴岡)の社家(神社を世襲する家柄)出身の神職エリート。國學院大學神道学科を修了し、平安神宮権禰宜(宮司の補佐役)を経て石清水の宮司となった。若手神職の集まりである神道青年全国協議会の会長を務めたのち、神社本庁副総長となり、総長に昇格する。
 その田中氏を副総長時代から支えてきたのが打田氏だ。打田氏は國學院大學神道学科を修了後、'77年に寒川神社に奉職。'80年に神社本庁に転任し、本庁職員となる。渉外部長として対外人脈を広げつつ、神道政治連盟の事務局長に就任してからは日本会議や政界ともつながりを深めていった。
 長期政権が叶ったワケ
 「田中さんは'04年に副総長になったものの、事務方の本庁職員に人脈があるわけではなく、政界との縁もそれほど深くない。そんな田中さんを資金面、人脈面、政治面で支えたのが打田さんでした」(神社本庁関係者)
 打田氏は、'07年には神道政治連盟の幹事長に就任し、本庁人事にも口出しできる存在となった。
 「神社本庁を運営する理事たちは有力神社の宮司を務める地方の名士たち。神社本庁内部のことはズブの素人なので、打田さんがアドバイスをして、本庁全体の運営をさばいていた。
 さらに打田さんは驚くほど口が達者で、本庁役職員を取り込むのもうまい。自分に近しい職員にはいいポジションをあてがうなど、人事面で優遇する人心掌握にも長けていました」
 人事を掌握し、役員会をコントロールすることで、田中氏が総長になる'10年には、神社本庁全体を牛耳る「田中-打田体制」が完成していた。
 そして理事の多くを側近らで固めることで、田中氏は4期目、5期目という異例の長期政権を実現していったのだ。
 総長の座を巡って
 ところがあまりに横暴な行いを看過できず、これに「待った」をかけた人物がいる。神社本庁の象徴としてのトップ・鷹司尚武統理だ。
 「鷹司統理は、公家の家格の頂点である『五摂家』の一つ、鷹司家の現当主であり、昭和天皇の第3皇女の養子で、上皇陛下の義理の甥にあたる人物です。神社界の頂点ともいえる伊勢神宮の大宮司も務めたこともあり、まさに『神社界のボス』という存在です」(神社本庁関係者)
 田中氏の暴挙を許さなかった鷹司統理は、'22年の役員会で田中氏とは別の理事を指名した。しかし、前述のとおり役員会の結束は固く、田中派の賛成多数で、統理が指名した理事は総長の座を得られなかった。
 この総長の座を巡るイス取りゲームは、統理から指名された理事が、総長になれないのはおかしい、と訴え出たことで裁判にまで発展。'22年12月に下された一審では「鷹司統理が原告を次期総長に指名したとしても、役員会が議決により原告を次期総長に決定していない以上、原告は、総長に就任していない」として司法の場でも田中総長側に軍配が上がった。さらに、'23年6月の第二審でも一審が支持され控訴を棄却。田中氏は総長のイスに座り続けている―これが「神社本庁田中派支配」の実態だ。
 こうした状況に見切りをつけて、鶴岡八幡宮は「神社本庁離脱」を表明したわけだが、行動を起こしたのは鶴岡八幡宮だけではない。
 「裁判に前後する形で鷹司統理を支持する『花菖蒲ノ會』が結成されました。すでに全国2000人近くの神社関係者が賛同し、『反田中』を明確にしています」(同前)
 神社本庁が空中分解する日
 同会の呼びかけ人には、鶴岡八幡宮に加え、出雲大社、東京大神宮などが名を連ねる。彼らもまた本庁離脱も辞さない構えだ。前出の島田氏が言う。
 「以前から田中体制と険悪な関係にあった香川県金刀比羅宮は'20年にすでに離脱をしていますが、鶴岡八幡宮も離脱を決断したことで、ほかの神社が追随する可能性があります。神社界は田中総長派と鷹司統理派で二分されている。このままでは神社本庁が空中分解してしまいかねません」
 この分断こそが、神社本庁の危機の正体なのだ。
 神社本庁に、田中体制に批判が集まっていること、また鶴岡八幡宮が本庁を離脱した経緯について質問書を送ったが、期日までに回答がなかった。
 国立歴史民俗博物館名誉教授で社会学博士の新谷尚紀氏は、こうした内紛は「神様への感謝の気持ちが薄れている証拠」だと指摘する。
 「神社は、みんなが拝んでご利益をいただく場でもあります。そこにお仕えする人は、奉仕に徹しなくてはいけません。『神様が見ておられる』と思えば、自然とそうなるでしょう。現在の神社本庁はそうした神職の基本に立ち返るべきではないでしょうか」
 神社本庁の内紛が収まり、純粋な気持ちで参拝できる日が早く訪れることを願うばかりだ。
 「週刊現代」2024年4月6・13日合併号より
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💄71)72)─1─戦国時代の男色と現代の同性愛は別物である。〜No.143No.144No.145 

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 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「「男色」が広まったのは戦場からではない?今日的な同性愛とは異なる、戦国時代の男色にありがちな誤解
 『豊臣勲功記』よち、本能寺で討ち死にする森蘭丸
 (歴史家:乃至政彦)
■ 男色に関する誤解
 戦国時代の男色(『日葡辞書』に「Nanxocu.ナンショク(男色) 悪い,口にすべからざる罪悪.」とあるように、「なんしょく」が正しい発音。「だんしょく」とは読まない)については、今も多くの誤解がまかり通っている。この時代の武士は、男色が当たり前だったというのは、ある意味では正しいが、ある意味では間違っている。
 男色を好きな武士はたくさんいたのは事実だが、有名な「カップリング」はごく一部を除いて、ほとんどどれも事実ではない。
 少なくとも、武田信玄春日虎綱高坂昌信)、上杉謙信樋口与六直江兼続)、織田信長森成利森蘭丸)の関係は、史料の誤読、または江戸時代や昭和の創作によって広まったものである。
 基本的に男色は一過性の「忍ぶ恋」であり、大っぴらにするものではなかった。だから、有名な関係にはなりにくい。
 このほか一般的な男色イメージと、事実との相違点を3点ほど述べていこう。
■ (1)男色は今日的な同性愛とは異なる
 北野武監督の映画作品『首』では、中年男性が中年男性の胸を舐めるようなシーンが印象的に描かれていて、「これでは『首』じゃなく『乳首』だ」という感想を漏らす友人もいた。これを見て戦国時代の男色をそのまま再現していると思った観客は少なくなさそうだ。
 しかし、当時の男色は、「未成年男性への性愛」であって、成人した「男同士の自由恋愛」ではなかった。だから、中年男性同士が性的に交わる例は史料に例が認められていない。少なくとも「あって当たり前」なものではなかったのである。 もちろん当時に今風の同性愛もあっただろうが、史料から探れる範囲では表立ってそのような関係は結ばれていない。タブーではなかったと思うが、他人に公表する理由がなく、社会的にも取り上げる必要がないと思われていたのか、そうした記録は残っていないのである。
 武士の男色に思いを馳せる場合、ここを前提としておく必要があるだろう。
■ (2)男色が広まったのは戦場からではない
 また、武士の間で少年愛が流行した理由について、「武士は完全なる男社会であり、特に戦場では女を禁忌としたからだ」と説明されることがある。だが、これは完全に間違いである。
 武士が男社会なのは事実だが、戦場に女性が排除されていたわけではない。なるべくなら安全のために立ち入らせなていなかったが、タブーだったわけではない。
 例えば、河越夜戦において大将の上杉憲政は、遊女を集めて遊んでいたところを北条氏康に奇襲攻撃されて、敗北したとされている。この遊女たちは氏康が派遣したクノイチとも言われている。
 これは事実ではなく創作話に過ぎないと思うが、それでも戦場に遊女を集めて遊ぶことが当時の景色として不自然ではない事実がなければ成り立たない逸話であろう。
 豊臣秀吉小田原城攻めでも、秀吉が本陣に武将たちの妻子を呼び寄せ、自身もまた遊女を集めてこれを敵方に見せつけた逸話が有名である。
 戦場に、女性が禁忌とされたというのは、事実ではないのだ。各地方の籠城戦では女性の活躍が多数認められ、夜戦地の首塚に女性の遺骨も発見されている。
 ではどこから男色が流行り始めたかというと、僧侶からである。足利時代に、僧侶たちが上級武士との接待や交流に稚児を使った。女装のような装束で着飾った美少年にチヤホヤされたら、武士たちが骨抜きになるのも当然であるだろう。ここから男色が広まっていったのである。
■ (3)男色は大歓迎されていたわけではない
 中世から近世にかけて、男色は無批判に受け入れられていたというイメージがあるが、これも眉に唾をつけておかなければならない。
 実際には、男色に嫌悪感を抱くものも少なからずいた。
 たとえば、近世初期に書かれた『田夫物語』には、百姓が武士の男色を徹底的にバカにして、「その方の非道、はやはや止めたまえ」と痛烈に非難するシーンがある。
 そして男色好きの武士は「お前たちは田舎者だから、そのよさがわからないのだ」と捨て台詞を残してさっさと退散する。
 実際、徳川幕府は、武士の男色を「無体」として、禁止する対策を取っていた。それから書かれた軍記では、バカなお殿様が無能者を取り立てる筋書きとして、「男色で出世した愚将」という基本構造による関係をたくさん捏造した。
 このほか男色については、たくさんの誤解がある。
 具体的な詳細は、4月12日ごろ発売の『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫)に書いたので、興味のある方はぜひご一読願いたい。本書がメインで扱っているのは戦国時代だが、日本の男色そのものを理解するのにも有用となるだろう。
 【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。
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🌈16)─2─日本が異性装を嫌悪し始めたのは近代化したからである。女装したバサラ、かぶき者、男伊達。~No.32 

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 日本文化には、幾重にも装いを新たに変身・変化する多様性を秘めていた。
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 エセ保守とリベラル左派には、民族中心神話に根差している日本文化が理解できない。
 特に、LGBT理解増進法案を成立させた政治的エリートと賛成したメディアや教育の進歩的インテリにはそれが言える。
 その意味で、現代に喧伝されている日本文化は戦後に作られたエセ民族伝統文化、歴史・宗教・自然と切り離された紛い物である。
 政治的エリートや進歩的インテリは、武士・サムライでもなければ百姓でもない。
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 昔の日本には、同性愛があった。
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 2024年4月8日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「日本が異性装を嫌悪する度合いを強めたのは、欧米にならったせい」古代の英雄・ヤマトタケルの“女装”はどう語り継がれてきたのか
 『ヤマトタケルの日本史 女になった英雄たち』(井上章一 著)中央公論新社
 著者の井上氏は日本建築史を本業としながら、女性論や関西論など幅広いテーマの著書をもつ。本書は日本古代の英雄ヤマトタケルが女装して九州熊襲(くまそ)の川上タケルを暗殺した事績が、後世どのように語り継がれてきたかをあつかう日本文化論。
 ヤマトタケルノミコト(『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記)は皇統譜第12代景行天皇の皇子。父の天皇に命じられて日本各地に巣くう敵対勢力討伐に東奔西走する。いまの静岡県内で火攻めをされ、刀で草を切って向かい火を起こし身を守ったエピソードが特に有名で、その刀は草薙剣(くさなぎのつるぎ)として熱田(あつた)神宮(いまの名古屋市内)に収められ、三種の神器の一つとなっている。
 本書の構成は、第1章「牛若か義経か」、第2章「ヤマトタケル」、第3章「変奏曲」、第4章「スサノオ」、第5章「熱田神は楊貴妃に」、第6章「大江戸美少年伝説」、第7章「大日本帝国の軍人たち」、終章「多様な性と異性装」となっている。
 博識の著者が古今の史料を縦横無尽に駆使しつつ、ヤマトタケルの暗殺行為がどのように描かれてきたかを、それぞれの時代の特性に絡めて論じ進める。
 ヤマトタケルは古くは草薙剣の使い手として語られた。ところが17世紀後半には女装の英雄として見られるようになる。18世紀後半の本居宣長は女装に宗教的な意味を読み込み、近代の学術研究に引き継がれた。この主線と並行して、源義経伝説についての諸相と変遷、唐の日本侵攻を防ぐために熱田神が楊貴妃となって玄宗皇帝を蕩かした話、旧日本軍のなかで行われていた女装による余興の実話などが盛り込まれていて、それぞれに興味をひく。
 著者は言う。「同性愛や異性装を嫌悪する。日本社会がその度合いを強めたのは、欧米にならったせいである。……同性愛をにくむ人たちは、その意味で、けっこう近代的であり西洋的なのである」と。
 著者は中国からの留学生が女装による騙し討ちに共感しないと紹介し、そこに日中両国の英雄観のちがいを見る。しかし中国思想研究者たる私の見解では、この留学生の感性も近代的・西洋的である。中国にも異性装の伝統がある(武田雅哉著『楊貴妃になりたかった男たち』講談社刊)。
 ところで、スサノオヤマタノオロチ成敗や源頼光(よりみつ)の酒呑童子退治は相手に酒を飲ませて酔いつぶれたところを襲っている。宮本武蔵はわざと定刻に遅れて佐々木小次郎をいらいらさせる心理戦をとった。わが国には正々堂々と敵に正面から立ち向かわない英雄が多い。
 これは有史以来ずっと西に超大国と接する地政環境において、絶対まともに戦ってはならないという民族の知恵かもしれない。ゆめゆめこの遺訓を忘れるなかれ。
 いのうえしょういち/1955年京都府生まれ。国際日本文化研究センター所長。専門の建築史・意匠論のほか、日本文化や美人論、関西文化論など、研究分野は多岐にわたる。『つくられた桂離宮神話』、『南蛮幻想』、『京都ぎらい』など著書多数。
 こじまつよし/1962年群馬県生まれ。東京大学文学部教授。著書に『中国思想と宗教の奔流』『義経の東アジア』などがある。
 小島 毅/週刊文春 2024年4月11日号
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 改訂新版 世界大百科事典 「かぶき者」の意味・わかりやすい解説
 かぶき者 (かぶきもの)
 江戸時代前期,江戸その他の都市を舞台に反体制的行動を展開した武士,奉公人などを指す。〈かぶき(傾き)〉という言葉はかたよった異様な風俗や行動をいう。歌舞伎の源流である〈かぶき踊〉と同じ時代相を背景として発生し,ともに異端的なものとして受け取られていた。初期のかぶき者には,没落した在地小領主や,名主(みようしゆ)の家父長制的経営から解放された小農民を主体とする中間(ちゆうげん),小者(こもの)などの武家奉公人が多かった。かぶき者の首領たちは大鳥居逸兵衛,大風嵐之介などの異名をもち,若者を集めて血判の起請文(きしようもん)をとり,もし仲間に災難が起きた時は身命を捨て,たとえ相手が君父であっても〈道理〉に反した場合は容赦せず復讐することを誓っていたというから,かぶき者の行動原理は戦国以来の反権力思想たる下剋上思想にほかならない。しかし幕藩制身分秩序が確立するにつれ,旗本奴(やつこ)と町奴との対立にみられるように,かぶき者の行動や行動原理もしだいに矮小化し風俗化していった。それは幕藩権力による弾圧強化が直接の理由だが,かぶき者が市井から姿を消したのは,5代将軍綱吉のころである。
執筆者:北島 正元
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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⛩20)─5・K─天然昆布は海水温の上昇で海が変わり消滅する。〜No.43 

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 2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「消滅する天然昆布、大阪だし文化の危機 10年前から97%減「海が変わってしまった」 昆布の未来は 産地の異変
 天然真昆布の入荷が乏しいと嘆く「こんぶ土居」店主、土居純一さん=大阪市中央区
 昆布に〝危機〟が迫っている-。昆布店や生産者の間でそんな認識が広がっている。大阪のだし文化を支えてきた北海道産の天然真昆布(まこんぶ)は漁獲量が激減し、ほとんど手に入らない。不足分をまかなう養殖昆布も将来が不安視される。食生活の変化もあいまった「昆布離れ」で、店をたたむ昆布店も相次いでいるという。昆布に何が起こっているのだろうか。
 【グラフでみる】過去10年の真昆布生産量の推移
■ほぼ流通せず
 「天然ものが欲しいといわれても十分用意できず、新規顧客の開拓もできる状態じゃない」
 大阪・空堀商店街の老舗昆布店「こんぶ土居」(大阪市中央区)の4代目、土居純一さん(49)は話す。江戸時代に北前船で運ばれて以降、大阪では真昆布の扱いが主流だ。
 だが、天然真昆布は10年ほど前から生産量が落ち始めた。主要産地の南かやべ漁業協同組合(北海道函館市)によると、令和4年は近年のピーク時(平成26年)の703トンから約97%減の19トン。ほぼ流通はないに等しい状況だ。
 1年養殖の促成品は流通が安定しているが、同店は買いためてきた天然ものと天然ものに品質が近い2年栽培の養殖品でやりくりし、店頭販売や得意先への数量は何とか確保している。伝統の味を伝えるため、引き続き天然ものにこだわるつもりだ。
 ただ最近は2年養殖も生産量が落ちている。昆布の減少と相まって、大阪昆布商工業協同組合の加盟業者はここ6年ほどで2割強減った。土居さんは「事態が好転することを信じて何とか持ちこたえたい」と話す。
■漁獲量は半減
 「海底に草(海藻)がまったくない。小さなウニが大量発生していた」
 南かやべ漁協が立地し、函館市の太平洋岸に広がる南茅部(かやべ)地域。昨年11月ごろ、水中眼鏡で海中をのぞいていた昆布漁師、吉村良一さん(68)は息をのんだ。海底は海藻が消失する「磯焼け」と呼ばれる状態。食害の要因となっているウニの姿が目立った。「7~8年前までは、昆布やいろんな海藻が順番に芽吹いていたんだけどな」
 天然昆布は7月に漁の解禁を迎えるが「今季も厳しい。海が変わってしまった」とため息をつく。
 真昆布、利尻昆布羅臼昆布など国内産昆布の生産量の約9割を占める北海道。道内全体の生産量も、この20年ほどでほぼ半減した。漁業者の高齢化や昆布の減少があげられ、中でも真昆布の減少は際立つ。原因は特定されていないが、海水温の上昇など海洋環境の変化や、ウニの食害などが指摘されている。
 昆布は冷たい海を好み、環境の変化に敏感だ。これまでも気候や水温によって増減を繰り返してきた。吉村さんは、昆布が繁殖する10月中旬ごろの水温の計測を続けている。ここ数年20度を上回っており、以前より3~4度高いという。
 昆布の生態について、北海道大・北方生物圏フィールド科学センターの四ツ倉典滋教授は「わずか1度の海水温の変化で成長が大きく変わり、少しの水流や水質の変化でも昆布の群落は姿を変えてしまう。それほど敏感」と解説する。
 海水温の上昇は、日本海から津軽海峡をへて太平洋などに流れ込む対馬暖流の勢力が強くなった影響とみる。水温が上がるとウニの食欲が増し、食害が進むという。
 気候変動に伴う将来予測も厳しい。北大の研究グループによると、北海道周辺に分布する11種の昆布のいくつかは、温暖化の影響で2090年代までに姿を消す可能性があるという。
■資源確保課題
 北海道の昆布漁業は、古くから天然漁獲で成り立ってきた。現在は養殖が主流になっているものの、天然資源の確保は課題だ。四ツ倉教授は「これからは陸上の農作物のように、耕して種をまき〝害虫駆除〟などをすることが必要」という。気候変動という厳しい状況下だが、取り組めることをやろうという考えだ。
 海底の岩についた雑海藻(雑草)を削り、昆布が着生するスペースを設けて胞子(種)をまく。種まきには、成熟した天然昆布を網に入れて海に沈める方法などがある。
 まいた種が海底に定着する確度をあげようと、四ツ倉教授らはさらに、胞子を高粘度のセルロースと混ぜ、昆布が根づきそうな岩を狙ってまく技術も開発。一部地域で実用化されている。ウニの駆除も必須だ。
 これらの作業で、わずかながら昆布が回復した例もあるという。根本的な解決策が見当たらないなか「地道にやりつづけることが大事」と話す。(北村博子)
 ◇ 
 北海道の昆布 北海道大の四ツ倉典滋教授によると、世界には昆布の仲間が19種あり、そのうち11種は北海道とその周辺にしかないという。
 だしを取る昆布は主に、真昆布▽利尻昆布羅臼昆布▽日高昆布-の4種類。中でも南茅部(白口浜)産真昆布は高級品とされ、松前藩が朝廷などに献じたことから「献上昆布」とも呼ばれていた。
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 3月21日 YAHOO!JAPANニュース オルタナ「「海水温の上昇」に「氷河の後退」、「気温だけではない」気候の非常事態が明らかに
 ①世界気象機関(WMO)が年次報告書「地球の気候の現状2023」を発表した②気温のほか、海水温、氷河や南極の海氷の減少などでも記録を更新した③WMO事務局長は現状を「レッドアラート(非常事態)」と警鐘を鳴らす
2023年は地表温度のほか、海水温の上昇や氷河の後退などでも記録を更新
 世界気象機関(WMO)は3月19日、年次報告書「地球の気候の現状2023」を発表した。2023年の平均気温は、産業革命前の水準を1.45℃上回り、174年の観測史上、過去最高を記録した。海洋の温暖化、氷河の後退、南極の海氷減少なども、これまでの記録を更新し、WMO事務局長は「レッドアラート(非常事態)」と警鐘を鳴らした。(オルタナ副編集長・北村佳代子)
 WMOの報告書によると、2023年は史上最も温暖な年であり、世界の平均地表温度は産業革命前の基準値を1.45℃(不確実性マージンは±0.12℃)、上回った。この10年間は記録的な暖かさとなった。
 また2023年は、温室効果ガスの濃度、地表温度、海洋熱、海面上昇、南極の海氷面積の減少、氷河の後退についての記録も更新した。
 WMOのセレステ・サウロ事務局長は、「WMOは世界に向けて、レッドアラート(非常警報)を鳴らす。2023年に目撃された事象の中でも、前例のないほどの海洋の温暖化、氷河の後退、南極の海氷の減少は、特に懸念すべき要素だ」とコメントした。
 アルゼンチン出身の気象学者で、2024年1月にWMO事務局長に就任したサウロ事務局長は、海洋の温暖化については「ほとんど不可逆的」だと述べ、「元に戻るには数千年かかる可能性がある」との懸念を表明した。「このトレンドは実に憂慮すべきものだ。水は、大気よりも長く熱を保つという特性があるからだ」。
■海面の水位上昇速度は加速
 2023年の海水温は過去65年間で最も高くなった。2023年には90%以上の海が熱波を経験した。
 海洋熱は北大西洋に集中し、2023年後半には平均気温が3℃上昇した。海水温の上昇は、デリケートな海洋生態系に影響を及ぼし、多くの魚種が、より低い海水温を求めて北上している。
 2月には南極の海氷面積(少なくとも15%の氷に覆われた総面積)が過去最低を記録した。前回の過去最低記録から100万平方キロメートル減少しており、その規模はエジプトの面積にほぼ等しい。
 氷河もまた、北米と欧州での極端な融解を背景に、1950年以降で最大の減少幅を記録した。ヨーロッパのアルプスの氷河は極端な融解に見舞われ、スイスの氷河は、過去2年間で残りの体積の約10%を失ったという。
 氷河や氷床の融解に加え、海水の膨張を引き起こす海洋熱の上昇が継続したことで、海面も、過去30年間で年平均3.34ミリメートル上昇した。
 海面は、1993年から2002年までに、年間2.13ミリメートル上昇したが、2014年から2023年までの10年間で見ると、年間4.77ミリメートルの上昇と、上昇幅は2倍超となった。
 *オルタナオンラインでは、温室効果ガスの濃度や、「深刻な食糧不足」に直面する人の増加、2024年の気候の見通しなどについても報じています。
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🌈85)─2─花見の桜は短命な日本固有種ソメイヨシノである。~No.149 

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 国の天然記念物に指定されている「日本三大桜」。
山梨県の山高神代桜  約1800歳
岐阜県根尾谷淡墨桜 約1500歳
福島県三春滝桜   約1000歳
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 FAQ・桜の豆知識 | 公益財団法人日本花の会
 海外からきた桜の品種ってあるの?
 回答
 あります。
 解説
 海外、特にヨーロッパはサクラの育種が行われています。‘オカメ’や‘アーコレード’、‘ピンクパーフェクション’などはその代表品種です。‘アメリカ’からは‘ピンククラウド’という品種が導入されています。これからも増えることでしょう。
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 じゃらんニュース
 日本には現在、600種類以上の桜があるといわれています。分類方法の違いもあって、正確には数え切れないレベルです。
 そんなたくさんの桜も、元をたどれば11種の「基本野生種」から生まれています。自然交配で生まれたものだけで100種以上あり、古くから園芸品種の育成も盛んです。
 もとの基本野生種とは、
 ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザクラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガン(江戸彼岸)、チョウジザクラ(丁字桜)、マメザクラ(豆桜)、タカネザクラ(高嶺桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、クマノザクラ(熊野桜)、カンヒザクラ(寒緋桜)
の11種。
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 2021年3月16日 ウエザーニュース「そのソメイヨシノの樹齢は?
 見極めはつぼみの付き方
 日本の桜の代名詞と言ってもいい存在となったソメイヨシノ。なぜ、こんなにもソメイヨシノが日本中に植えられたのか。
 それは、成長スピードが早いことが要因の一つとなっています。
 ソメイヨシノの樹齢を知る意味
 他の桜に比べて成長スピードが早いソメイヨシノは、お花見の名所を作るのにうってつけの品種です。ただ、成長スピードが早いといえども、ある樹齢に達すると成長は鈍化します。
 植えられた場所の条件によって違いはありますが、おおよそ樹齢30年〜40年で枝や幹の成長がゆっくりになります。
 それでも生き続けますが、その様子は人にたとえると青年期から壮年期、老齢期へと変化していきます。
 ソメイヨシノは寿命が60年とも70年ともいわれますが、動物のようにおおよその寿命があるわけではありませんが、樹齢が50年を超えてくると老木の域に入り、花の咲く時期が若い頃に比べてわずかに早くなる傾向があります。
 その理由は、若い木は枝葉の成長にエネルギーを注ぐ割合が高く、花は二の次になるからです。
 そのため、桜の開花予想をする上では、木(ソメイヨシノ)の年齢を知ることも考慮しないといけません。
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 まいどなニュース
 ソメイヨシノは短命って本当?「いや、それは誤解です」 京都の植物園で古い桜が次々「再生中」 
 堤 冬樹
 多くの人でにぎわいを見せてい今年の桜のシーズン。京都府立植物園京都市左京区)では近年、老齢化したり、災害で倒れたりしたソメイヨシノの再生に力を入れている。同園の専門家は「ソメイヨシノの寿命は短いと思われがちだが、それは誤解です」と強調する。
 樹齢70年ほどとみられるソメイヨシノ。幹の大半は朽ちているが、幹から新たに出た不定根が根付き、枝を伸ばすほど成長している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
樹齢70年ほどとみられるソメイヨシノ。幹の大半は朽ちているが、幹から新たに出た不定根が根付き、枝を伸ばすほど成長している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 同園によると、ソメイヨシノは成長が早く、一斉に華やかに咲くことなどから、戦後、京都市を含め各地で広く植えられた。
 一方で腐朽菌が入って腐りやすく、植栽から50~60年たつと古木化が進行。倒壊の危険性などもあり、伐採を余儀なくされる木は多い。
 だが同園では、幹が朽ちてぼろぼろになったり、空洞になったりしても切らず、再生を試みている。樹木医の中井貞さん(52)は「芽をふいたり、根を伸ばしたりする生命力の強さもソメイヨシノの特徴。幹や枝を更新しながら、同じ個体として長く生き続けられる」と指摘する。
 実際、どう再生させているのだろうか。例えば、冬場の施肥。そばに鴨川が流れる同園の土壌はもともと石が多く、水分や養分が抜けやすいという。その分、油かすや牛ふんをまぜた有機肥料をたっぷり与えている。
 木々の周囲に大量の落ち葉を敷き詰めているのもそう。園内で出た落ち葉で、やがて分解されて土壌の栄養になる。アスファルト舗装された市街地では難しく、広い園ならではの方法だ。植物を堆肥化した土もふんだんに活用している。
 さらに、根を傷めずに圧縮空気で土をほぐす「エアースコップ」による土壌改良を10年ほど前から定期的に続け、発根を促している。
 ソメイヨシノの朽ちた幹をよく見ると、「不定根」と呼ばれる細かな根がたくさん出ているのが分かる。腐った幹を養分にして伸び、細い竹筒や塩ビ管を使って人為的に地面まで誘導することも。しっかりと根付き、数年かけて新たな幹に育った姿も確認できる。
 こうして同園では、戦前からの古木を含めソメイヨシノ約20本が活力を取り戻している。2018年の台風21号で根元から倒れた木からも若々しい枝が伸び、今年も花を咲かせた。
 2018年の台風21号禍で根元から倒れたが、立て起こして、幹から新たな枝が伸びているソメイヨシノ。周囲には落ち葉が敷かれている(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 中井さんは「きちんと手を加えてあげれば、その分応えてくれるのでやりがいがある。ソメイヨシノ本来の生命力を後押しし、来園者に見てもらうことが、広い土地や技術がある植物園の役割と考えている」と話す。
 京都府立植物園で最も古いとされるソメイヨシノ。周辺の地面で土壌改良を施している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 この春、桜の美しい花だけでなく、それを支える幹や根元にも注目してみてはどうだろう。
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 2022年4月5日 ニューズウィーク日本版「満開の桜が見られなくなる? 60年寿命説、地球温暖化──花見に迫る危機とは
 桜の花見
 桜の名所に見られる密集した'染井吉野'は傷みやすい? y-studio-iStock
 <平安時代から続いてきた桜を愛でる春の宴は、'染井吉野'の寿命の問題と気温上昇のために近い将来できなくなるかもしれない>
 コロナ禍の影響で花見の宴会ができなくなってから、3回目の桜の季節になりました。開花を伝える桜前線は3月末までに東京や金沢まで北上し、長野や新潟、東北、北海道を残すところになりました。
 今年の桜は、全国で平年よりも2~4日程度早い開花日(各地の標本木で5~6輪以上の花が開いた状態となった最初の日)でした。ちなみに満開日は、東京では開花のおよそ7日後で、標本木の約80%以上のつぼみが開いた最初の日を指します。
 東京の標本木は靖国神社にあり、2020年と21年は観測史上1、2位となる最も早い開花日でした。今年は昨年よりは6日遅いものの、平年より4日早い開花となりました。
 花見の起源は奈良時代、桜の観賞は平安時代から
花見は、四季の変化に富む日本で春の訪れを愛でる伝統的な行事です。
 起源は、奈良時代の貴族が中国から伝来した梅の花を観賞したことにあると言い伝えられます。かつては、日本に古来からある桜よりも、中国産の珍しい花である梅を愛でて宴を開くことが一般的でした。
 現在の元号「令和」の由来は、日本最古の歌集である『万葉集』であると知られています。巻五には約千三百年前に詠まれた「梅花の歌三十二首」が収められており、序文である「初春の令月にして気淑(よ)く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」から引用されました。この序文は、「梅花の宴」を開いた当時の大宰府長官、大伴旅人が認(したた)めたものです。
 万葉集には桜を詠んだ歌も収録されていますが、桜の花見が始まったのは平安時代と考えられています。『日本後紀』には、嵯峨天皇弘仁3年(812年)に京都の神泉苑で「花宴之節(かえんのせち)」を催したと書かれています。記録に残る最古の「桜の花見」です。
 平安時代中期には、桜の花見はさらに一般的になります。文学作品でも「源氏物語」には宮中で桜を愛でて宴を開く様子が描かれ、「古今和歌集」には桜の名所として吉野が登場します。三万本あると言われる吉野の桜は、ほとんどが日本固有種である野生のヤマザクラです。
 鎌倉時代になると、花見は武士や町人にも広まり、寺社などにも桜が植えられるようになりました。源頼朝室町時代足利将軍家も花見を行った記録がありますが、戦国時代や安土桃山時代になると大々的な花見の宴を開く武将が現れます。特に盛大だったのは、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)に開いた「吉野の花見」です。総勢5千人の参加者には徳川家康前田利家伊達政宗らの武将や茶人、連歌師らが含まれており、吉水院(吉水神社)を本陣として5日間開催されました。
いっぽう、庶民の間でも、桜は古くから特別な花でした。農民たちは桜の開花時期を農作業を始める目安にしたり、咲き方で豊作・凶作を占ったりするなど、生活に根差した樹木として大切に扱ってきました。
 江戸時代になると都市部の町民文化が発展し、花見は桜を愛でる風雅な行事というよりも酒盛りを楽しむ娯楽として広がります。植木職人によって桜の交配や改良も盛んに行われるようになり、江戸時代末期には、エドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせた(種間雑種の)ソメイヨシノが誕生します。
 日本中の'染井吉野'がクローン
 ソメイヨシノは、花とともに赤色の葉をつけるヤマザクラとは異なり、花の時期には葉をつけません。花は大きく、成長スピードは速く、枝が横に大きく広がって見た目が華やかなため、明治時代以降に急速に広まります。現在は、本州の桜の名所に植えられている品種は、ほとんどがソメイヨシノかつ'染井吉野'です。カタカナのソメイヨシノオオシマザクラエドヒガンの種間雑種全体の名称で、漢字の'染井吉野'は日本全国に接ぎ木で広がった特定の栽培品種を指します。つまり、日本中の'染井吉野'は同じ遺伝子構成(クローン)です。
 近年は、「'染井吉野'60年説」などとともに「桜の名所の危機」も話題になることがあります。
 成長が速い'染井吉野'は年輪が疎になりがちで、樹木の強度が低いにもかかわらず横に広がります。風を受ける面積が大きいため台風などで折れやすく、折れたところから腐食してしまうことが多いです。
 さらに、桜の名所作りのために密集して植えられやすいので、樹木1本について本来必要な光、水、養分が得られる面積を与えられなかったり、多くの花見客に根元は踏みつけられて傷を負ったりしがちです。
 しかも、もともと病気に弱い品種にもかかわらず全てがクローンなので、カビが原因の「てんぐ巣病」などが起きると近くの'染井吉野'全体に病気が広がり、一気に枯死するおそれがあります。
 '染井吉野'は樹齢30-40年が樹勢のピークで、50年を超えると幹の内部が腐り、およそ60年で寿命を迎えるという説があります。
 かつては「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言い伝えがあり、枝の切り口からの腐食を防ぐために、桜は剪定しないことが常識でした。けれど、東北屈指の桜の名所である弘前城では、1960年頃から同じバラ科樹木であるリンゴの栽培技術を応用して、積極的に城内の桜を剪定しました。すると、300本以上の樹齢100年を超える'染井吉野'が今も古木が花を咲かせ、樹勢を保つことに成功しました。剪定だけでなく、土の入れ替えや肥料の与え方にも工夫した「弘前方式」は全国に伝わり、寿命を延ばした'染井吉野'も各地にあります。
 いっぽう、樹齢60年近くなった'染井吉野'から、病気に強い後継品種の桜への植え替えをする自治体もあります。
 東京都国立市のさくら通り(全長1.8キロ)には、1960年代に約180本の'染井吉野'が植えられましたが、2010年頃からてんぐ巣病などによって幹が空洞になったり、強風で倒木したりするものが目立ち始めました。市は2013年から、てんぐ巣病になりにくい桜の品種「ジンダイアケボノ」に植え替えを進めました。
 桜の名所づくりを進める公益財団法人「日本花の会」は、これまでに200万本以上の'染井吉野'の苗木を提供してきましたが、最近は病気に強いジンダイアケボノとコマツオトメへの植え替えを推奨しています。
 2100年には、九州から東北までいっせいに開花する?
 桜の名所の危機の原因は、樹木の寿命だけではありません。九州では、すでに地球温暖化による暖冬の影響で、開花が遅れたり満開まで時間がかかったりする年があります。
 桜の花芽(蕾)は前年の夏に作られ、冬の前に成長を止めて休眠状態になります。その後、冬に一定期間の低温(概ね3℃から10℃前後)にさらされると休眠から目覚め(休眠打破)、そこからは気温の上昇とともに成長します。休眠打破のために必要な低温期間が足りないと、開花はかえって遅れます。そのため、2020年以降、九州では3年連続で北部から南部に桜前線が進む逆転現象が起きています。
 さらに近年は、「満開までに時間がかかる」現象もみられるようになりました。満開の定義は標準木の80%の花が一斉に咲いている状態なので、休眠打破がうまく進まないと花芽の生長の個体差が顕著になって、なかなか80%に達しない状況に陥ると考えられています。
 九州大学名誉教授の伊藤久徳氏は、2009年の地球温暖化シナリオを使って2100年までの桜の開花についてシミュレートしました。その結果、日本周辺の平均気温を平均で2~3℃程度高く設定すると、東北地方で桜の開花が今より2〜3週間早まり、九州などでは1〜2週間遅くなる──すなわち、3月末に九州から東北まで、'染井吉野'がいっせいに開花するという計算になりました。
 さらに、種子島や鹿児島の一部では'染井吉野'は開花せず、九州南部や四国南西部、長崎、静岡などでは一本の木で開花がダラダラと続いて満開にならないという結果が出ました。
 2100年に日本人は花見をできるのでしょうか。地球温暖化を軽減し、あるいは桜の休眠打破をもコントロールできるようになって、平安時代から変わらぬ春の宴を開いていることを期待しましょう。
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 2013年1月8日 さくら雑学事典「その2・百花繚乱 桜の種類について
 世界の桜
 桜の自生種は主に東アジアに分布しています。植物学上の分類によれば、中華人民共和国には33種があります。一方、日本には、分類のしかたにもよりますが10種の桜があるに過ぎません。
 東アジアではこの他、ヒマラヤ周辺に3種類の野生種があります。
東アジア以外では、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種、北米に2種あります。
 よく、桜の発祥は日本であるとか、ヒマラヤ桜の多いネパールであるといった説が出ますが、北半球に広く分布しているため、どこが発祥というのははっきり分かってはいません。
 一方、栽培品種がもっとも多いのは日本です。日本には、野生種と栽培品種とを含めて約350種類の桜があります。その数は、新しい種類が発見されたり、交配種が作り出されたりして年々増えています。(名前がきちんと付けられていないものはものすごくたくさんあるはずです。)
 世界でもっとも桜を愛しているのは日本人だと言われることがよくありますが、確かにその通りだと納得する種類の多さですね。
 さて、上記通り北半球に広く分布していますので、日本以外で桜が見られる場所はたくさんあります。
 日本で一番多い桜は?
 それは皆さんの予想通り染井吉野です。
 染井吉野。花付きのよさと、葉が出る前に花が咲くのが特徴。江戸時代後期に売り出され、あっという間に日本各地を覆いました。
 2004年5月8日に、北海道森町 青葉が丘公園で撮影。
 今では、全国の桜の名所のうち約8割が染井吉野を植えていると言われています。
 また、全国に100万本程度あると言われています。
 染井吉野は本州から北海道の南部(道南)まで広く植栽されています。ただし、沖縄と、北海道の広い地域では育ちません。
 染井吉野は、薄いピンク色をしたやや大き目の花が枝にびっしりつきます。花が咲くと他の桜よりも華麗に見えます。この染井吉野オオシマザクラエドヒガンの雑種です。
染井吉野は、江戸時代の末期に染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が売り出したと伝えられています。染井吉野の誕生は謎とされています。
 私は、植木屋(4代目伊藤伊兵衛政武などの説あり)がかけ合わせで作り出したという説が有力なように思っています。(偶然発見したとすれば、オオシマザクラエドヒガンの植生が唯一重なる伊豆半島ということになりますが、江戸時代の伊豆は道が整備されていないため、たとえ染井吉野が誕生していても発見される可能性が低いそうです。)
 ところで、染井吉野奈良県吉野地方とは全く関係がなかったにも関わらず、その植木屋はこの桜を「吉野桜」と名づけて売り出しました。
 植木屋は、桜の名所にちなんだ名前をつけて、たくさん苗を売ろうとしたのかも知れません。言ってみれば、吉野という「ブランド」をちょっと借りたということでしょう。
明治に入って、「吉野桜」という名前のままだと本家吉野のヤマザクラとまぎらわしいということで、改めて「染井吉野」と命名されました。
 さて、染井吉野はなぜ今の日本にたくさん普及したのでしょうか。
 それは、染井吉野がいくつかの長所を持っていたからと考えられます。
 染井吉野は、先に花が咲き、後から葉が開きます。桜の種類によっては花と葉がほぼ同時に開くものもありますが、染井吉野のように花が先のほうが見ばえがするため評判がいいのです。
 また、染井吉野の花は少し大き目で、花付きもよく、見た目が豪華です。
更に、成長が早くて10年も経てば立派な木になり、他の桜に比較すると若いうちから花を付けます。
 これらの長所を持っていたため、染井吉野は明治に入ってから、全国の城跡や公園、学校、道路沿い(そして残念なことですが軍事施設にも)などに植えられ、急速に普及していったのです。
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 2022年4月14日 「桜って・・・知っていますか?
 桜前線が到来し、桜の花びらが満開になっております。
 昨年の春に入社し2度目の桜の季節、今までより少しばかり心に余裕があるようで、現場に出て周りを見渡すと、桜の美しさに目が奪われる今日この頃です。
 皆様はいかがお過ごしでしょうか。さいたま市見沼区の長谷川電気です。
 いつもブログを書くときは、業務的な事を書いてしまうので、心地よい春の日差しを受け、趣旨を変えて業務以外のことを書いてみようと思います。
 日本の花【桜】ですが、公園やお庭など今では身近で誰もが知っている花ですが、どんな花?と調べることは、なかなかないのではないでしょうか。
 サクラはヨーロッパ・西シベリア、日本、中国、米国・カナダなど、主に北半球の温帯に広範囲に自生しています。
 歴史的に日本文化に馴染みの深い植物で、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきました。
 このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノで、鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いていて、もともと英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的ですが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきているそうです。
 そんな日本の花【桜】ですが、もともとは日本になく、中国から来た説があるんですよ。
 1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」。その中に、「桜の原産地は中国で、日本の桜は中国のヒマラヤ山脈から伝来した。
 その時期は唐の時代だった」との記述があるそうです。
 しかし一番馴染みのあるソメイヨシノは、日本の園芸品種で、江戸時代後期に日本固有種のオオシマサクラとエドヒガンを改良した「吉野桜」が誕生したとされています。
 この吉野桜は、現在の東京都豊島区にあった「染井村」で、植木職人の手によって作られたといわれており、奈良県にある吉野の山桜と区別するため、のちに「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったのが、現在のソメイヨシノの始まりとされています。【諸説あり】
 染井村の植木職人「GoodJob」ですね。
 そういえば、「さくら」という名前の由来や語源については多くの説があり、どれも未だに「これが正しい説」という確証はないみたいです。
 ですので、その中から比較的認知度が高いものをいくつかご紹介します。
 ◎古事記日本書紀に登場する「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」が由来とする説。
 富士山の上空から桜の種を蒔いたという逸話があり、「さくや→さくら」に変化したと考えられています。
 ◎桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていたとする説。
 「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったと言われています。
 ◎「咲く」という動詞に「彼ら・彼女ら」など複数を表す接尾語「ら」がついて 「咲く+ら=さくら」になったとする説。
 小さな花が一斉に花開く様子から出た説と言われています。
 ◎「咲麗(さきうら)」とは、読んで字のごとく「花が麗うららかに咲く様子」を表す言葉です。麗らかに咲く花の代表格と考えられていたのかもしれません。
 う~~ん、どれも素敵で捨てがたい由来ですね。
 鮮やかに咲き誇り可憐に散る姿が美しい、そんな姿に日本人は惹かれているのではと感じさせる【桜】、来年も穏やかな気持ちで見ることができる様に、仕事を頑張ろうと思うこの頃です。
 電気工事・高圧工事は埼玉県さいたま市の株式会社長谷川電気へ
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2023.08.25
 2023年8月25日 銘木総研 編集部「特集
 日本人と桜
 満開のソメイヨシノ 写真提供: PIXTA
 日本人の多くが愛して止まない樹木のひとつといえば、春の訪れを告げる「桜」でしょうか。ようやく本格的に楽しめるようになったお花見しかり、もちろん主に愛でられるのはその愛らしくも華やかで、儚い桜の「花」ですが、日本人が何故それほどまでに桜に惹かれるのか、日本人にとって「桜」とは何なのか。あらためて考察してみました。

 目次
 梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
 桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
 桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~

 梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
 梅から桜へ 愛でる花が代わる
 山梨県新倉山浅間公園より桜と富士を望む 写真提供: PIXTA
 平安時代まで、日本人にとって「特別な花」といえば、弥生時代(※)中国から渡来したと言われる『梅』でした。8世紀に中国との交易の中で、薬用の「烏梅(うばい)」(梅干の一種)が輸入された際、梅の種や苗も輸入され、その後日本で栽培され始めたようです。
 いずれにしても舶来ということで、当時はとても高価かつ有用な植物として必然的に都の中に植えて管理していました。山桜が野生であるのに対して、梅は人間の手によって栽培されたのです。 また、実用性だけでなく、春になると他の植物よりも早く花を咲かせる「百花の魁(さきがけ)」である梅は、鶯と組み合わせて春の訪れを告げる花として尊ばれていました。
 『万葉集』では「梅」が「桜」の3倍(119首)の数も歌に詠まれていたように、奈良時代の貴族は梅を好み、鑑賞しており、当時の花見と言えば梅の花が主流だったのです。しかしこれは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたためだとも考えられます。
 例えば、「桜=サクラ」の語源は、天つ神のニニギのミコトと木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の婚姻神話で、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)を合わせて「サクラ」という説。さらに、富士山頂から花の種を蒔き花を咲かせたとされる、「木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)」の「さくや」をとったという説など諸説あります。
 その後、894年の遣唐使廃止と、いわゆる「国風文化」の発展とともに、日本に自生していた『桜』を特に好むようになっていったのだと思われます。
 平安時代に編纂された『古今和歌集』で詠まれた花は、梅が約18首、桜が約70首。『万葉集』とはその数を逆転しました。
 主役交代のひとつのきっかけは、平安「三筆」の一人・嵯峨天皇(786~842年)が牛車で行幸の際、京都・東山の「地主神社」の満開の桜に心を奪われ、あまりの美しさに二度、三度と車を引き返しては見事に咲く花を眺めた(このことから「御車返しの桜」とも呼ばれる)とあります。そして御所の庭の「左近の梅」が桜に植え替えられ、雛飾りでお馴染みの、現在の「左近の桜」「右近の橘」の姿になったのだとか。
 桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
 お花見の始まりは嵯峨天皇から
 歌川広重「浪速名所図会・安井天神山花見」(国立国会図書館蔵)
 平安時代初期の史書日本後紀(にほんこうき)』には、嵯峨天皇弘仁3年2月12日(812年3月28日)に京都の寺院・神泉苑(しんせんえん)にて「花宴の節(かえんのせち)」を催したとあり、これが記録に残る最初の「桜の花見」と考えられています。
 その後、「桜の花見」は貴族の間で流行し、天長8(831)年からは宮中で天皇主催の春の恒例行事として取り入れられたそうです。その様子は平安時代中期の『源氏物語』第八帖、「花宴(はなのえん)」にも描かれています。
 そして、安土桃山時代になると、豊臣秀吉による大がかりな花見が世をにぎわせました。
 文禄3(1594)年の「吉野の花見」は、大坂から千本もの桜を移植した吉野の山に、徳川家康前田利家伊達政宗など有力武将ら五千人を招き、5日間も行ったというかつてない盛大なスケールだったことが記録されています。 花見の習慣が庶民にまで広まったのは、江戸時代のこと。8代将軍徳川吉宗は、浅草や飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励しました。
 さらに吉宗は、5代将軍綱吉の時代に「生類憐みの令」で禁止された「鷹狩」を復活させました。その際、農民たちの収益が上がるようにと、鷹狩の場所に桜を植えさせ、花見客が訪れるよう取り計らったのだとか。
 花見にお弁当やお酒がつきものとなったのもこの頃から。花見は千年以上の歴史を超えて現代に生きる日本文化といえます。
 日本人の精神性と深く結びついた「桜」
 花筏〜桜の花びらが川面いちめんに 写真提供: PIXTA
 世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
 これは平安時代初期に書かれた『伊勢物語』の主人公・在原業平が、桜によって心が乱されることを詠嘆した歌。
 ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
 これは『小倉百人一首』で紀友則が桜の花の盛りの短さを惜しんで詠んだ歌。
 花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふるながめせしまに
 同じく『小倉百人一首』で、美貌で名高い小野小町が衰えゆく容色を桜に重ねて詠んだもの。
 ねがはくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎのもちづきのころ
 これは桜の名所・吉野に通いつめ、桜へ想いを託す歌を数多く残した西行が、死ぬその時まで桜を愛でていたいと切望した歌。
 これほどまでに日本人が桜を好きな理由のひとつに、桜は春の訪れを象徴する花であること。
 四季がはっきりしている日本では、寒さが厳しい我慢の「冬」が終わり、様々な物事が「はじまり」を迎える「春」は待ち遠しく、うきうきと心躍る季節です。
 もうひとつの理由は、日本人特有の滅びの美学というか、「美しくも儚い花」であること。
 何ヶ月も前からずっと、桜の満開を心待ちにしていたにも関わらず、その爛漫と美しい桜は2週間程度で儚く散ってしまいます。
 特に一斉に咲いて一斉に散る「ソメイヨシノ」が主流になると、満開から花吹雪、花絨毯、花筏へと短い間にその姿は移り変わり、その無常さ、名残惜しさゆえに、より深く心惹かれるのでしょう。
 桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~
 日本人は芸術、食と「桜」を貪欲に楽しむ
 関東風桜餅 写真提供: PIXTA
 そんなに愛する桜ですから、日本人は、和歌はもちろん、浮世絵、日本画、洋画、工芸品、唱歌、流行歌から、和菓子やケーキなど食にまで「桜」を素材にした数々のものを生み出して楽しんでいます。
 大正生まれの日本画家、菊池芳文は、桜を消えゆくものの美しさと重ね合わせ、桜の儚い美しさに吉野という土地に刻まれた歴史をにじませた6曲1双の傑作屏風絵、「小雨ふる吉野」(東京国立近代美術館蔵)を描きました。
 海外の作家ですが、日本でも個展が開かれた現代アートの巨匠、イギリスのダミアン・ハーストは「桜とは美と生と死にまつわるものである」と語り、「生と死」、「過剰と脆弱性」という彼のテーマを桜に託した連作「桜=Cherry Blossoms」を発表しています。
 「桜を食べる」ことで言えば、関東風桜餅「長命寺」の元祖は、長命寺の門番・山本新六が、享保2(1717)年、門前に「山本屋」を創業して売り出したのが始まりで、もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったそうです。
 おはぎでお馴染みの道明寺粉で出来た関西風の桜餅「道明寺」は、関東風桜餅の人気にあやかり、大坂・北堀江の土佐屋が天保(1830〜1844)頃に作ったのではないかと言われます。
 本記事は、
 ~日本の名木と伝承を明日に紡ぐ~
 銘木総研の広報誌「木魂ッ子」vol.17
 にも掲載されています!
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